資料629 最澄「願文」



       願 文      最 澄  

悠悠三界純苦無安也擾々四生唯患不樂也牟尼之日久隱慈尊月未照近於三災之危沒於五濁之深加以風命難保露體易消艸堂雖無樂然老少散曝於白骨土室雖闇迮而貴賤爭宿於魂魄瞻彼省己此理必定仙丸未服遊魂難留命通未得死辰何定生時不作善死日成獄薪難得易移其人身矣難發易忘斯善心焉是以法皇牟尼假大海之針妙高之線喩況人身難得古賢禹王惜一寸之陰半寸之暇歎勸一生空過無因得果無有是處無善免苦無有是處伏尋思己行迹無戒竊受四事之勞愚癡亦成四生之怨是故未曾有因縁經云施者生天受者入獄提韋女人四事之供表末利夫人福貪著利養五衆之果顯石女擔轝罪明哉善惡因果誰有慙人不信此典然則知苦因而不畏苦果釋尊遮闡提得人身徒不作善業聖敎嘖空手於是愚中極愚狂中極狂塵禿有情底下㝡澄上違於諸佛中背於皇法下闕於孝禮謹隨迷狂之心發三二之願以無所得而爲方便爲無上第一義發金剛不壤不退心願我自未得六根相似位以還不出假其一自未得照理心以還不才藝其二自未得具足淨戒以還不預檀主法會其三自未得般若心以還不著世間人事縁務除相似位其四三際中間所修功德獨不受己身普回施有識悉皆令得無上菩提其五伏願解脱之味獨不飲安樂之果獨不證法界衆生同登妙覺法界衆生同服妙味若依此願力至六根相似位若得五神通時必不取自度不證正位不著一切願必所引導今生無作無縁四弘誓願周旋於法界遍入於六道淨佛國土成就衆生盡未來際恒作佛事

 
 原本 比叡山淨土院藏版明和四丁亥年刊本一巻四大師傳


  (注) 1. 本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『伝教大師全集 第一』(天台宗宗典刊行会、明治45年7月4日発行)によりました。
  『国立国会図書館デジタルコレクション』 『伝教大師全集 第一』
   
    2. 初めのほうにある「五濁之深」の「深」は、全集の本文には異体字()が用いられていますが、ここの本文では普通の字体(深)に直してあります。この異体字「㴱」は、『漢字辞典』というサイトからコピーさせていただきました。
   →『漢字辞典』
   
    3. (1)本文中ほどにある「然則知苦因而不畏苦果釋尊遮闡提」が、「然則知善因而不畏苦果釋尊遮闡提」となっている本文があります。どちらが正しいのでしょうか。
(2)本文の終わり近くにある「我自未得六根相似位以還不出假」の「出假」について、天台宗の公式ホームページ『一隅を照らす 天台宗』に、「出仮(しゅっけ)」とは、山から下りて社会に出て僧侶として働くこと」とあります。
(3)この
出仮」については、岩波書店の日本思想大系4『最澄』の補注に、次のようにあります。
「仮を出づ」と訓めば、出塵や出世間の意であって、十住位以上が出塵・出世間であることを確認することを意味する。空門を悟りの第一の立場とする段階から仮観へ転出する意味に解する時は、衆生濟度の利他行は少なくとも六根清浄位に達するまでは軽率に行うべきでないとする決意を表示したものと解せられる。後者の場合は「仮に出づ」と訓む。(同書、436頁)
   
    4. 全集の本文には句点と送り仮名がついていますが、ここではそれをすべて省略してあります。句点をつけた本文(送り仮名なし)は、資料630にあります。
  → 資料630 最澄「願文」(句点つき)
   
    5. 最澄の願文は、東大寺戒壇院で具足戒・三聚淨戒を受けて一人前の僧侶となった19歳の最澄が、比叡山に籠って12年の修行に入ったときに書き記したもの、と言われています。 
この「願文」については、岩波書店の日本思想大系4『最澄』巻末の「解説」(最澄とその思想)に、「三、「願文」をめぐって」があって参考になります(同書、462~471頁)。筆者は校訂者の一人、薗田香融氏。
   
    6. 『東京文化財研究所』のホームページに、「東文研 総合検索」「異体字リスト」のページがあり、そこでも異体字を検索することができます。
  →『東京文化財研究所』 →「東文研 総合検索」「異体字リスト」
   
    7. 次に書き下し文を書いておきます。(全集の返り点・送り仮名やその他の本を参考にして書きました。読み仮名は旧仮名遣いにしましたが、現代仮名遣いにした方が実用的かとも思いました。)

書き下し文
悠悠たる三界(さんがい)は、純(もは)ら苦にして安きことなく、擾々たる四生(ししやう)は、唯だ患ひにして樂しからず。牟尼(むに)の日久しく隱れて、慈尊の月未だ照らさず。三災の危ふきに近づき、五濁(ごぢよく)の深きに沒(しづ)む。しかのみならず、風命(ふうみやう)保ち難く、露體消え易し。艸堂樂しみなしと雖も、然も老少白骨を散じ曝す。土室闇(くら)く迮(せま)しと雖も、貴賤・魂魄を爭ひ宿す。彼を瞻(み)己を省みるに、此の理(ことわり)必定せり。仙丸未だ服せず、遊魂留め難し。命通(みやうつう)未だ得ず、死辰(ししん)何(いつ)とか定めん。生ける時善を作(な)さずんば、死する日獄の薪(たきぎ)と成らん。得難くして移り易きは、其れ人身なり。發(おこ)し難くして忘れ易きは、斯れ善心なり。是(ここ)を以て法皇牟尼は、大海の針・妙高の線(いと)を假りて、人身の得難きを喩況(ゆきやう)す。古賢禹王(うわう)は一寸の陰(とき)・半寸の暇(いとま)を惜しみて、一生の空しく過ぐることを歎勸(たんかん)せり。因無くして果を得るは、是の處(ことわ)り有ること無く、善無くして苦を免るるは、是の處(ことわ)り有ること無し。伏して己が行迹を尋ね思ふに、無戒にして竊かに四事の勞(いたは)りを受け、愚癡にして亦四生の怨と成る。是の故に、『未曾有因縁經』に云はく、施す者は天に生まれ、受くる者は獄に入る、と。提韋(だいゐ)女人の四事の供は、末利夫人(まりぶにん)の福と表れ、貪著利養の五衆の果は、石女擔轝(せきによたんよ)の罪と顯はる。明らかなる哉、善惡の因果。誰(いづく)の有慙(うざん)の人か、此の典(のり)を信ぜざらんや。然れば則ち、苦因を知りて苦果を畏れざるを、釋尊は闡提(せんだい)と遮(しや)したまひ、人身を得て徒(いたづら)に善業を作(な)さざるを、聖敎(しやうげう)に空手と嘖めたまへり。是(ここ)に於て、愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿(ぢんとく)の有情、底下(ていげ)の㝡澄、上(かみ)は諸佛に違(ゐ)し、中(なか)は皇法に背き、下(しも)は孝禮を闕(か)けり。謹んで迷狂の心に隨ひ、三二の願を發す。無所得を以て方便と爲し、無上第一義の爲に金剛不壤(ふゑ)不退(ふたい)の心願を發す。我未だ六根相似の位を得ざるより以還(このか)た、出假(しゆつけ)せじ。其一  未だ理を照らす心を得ざるより以還(このか)た、才藝あらじ。其二  未だ淨戒を具足することを得ざるより以還(このか)た、檀主の法會に預らじ。其三  未だ般若の心を得ざるより以還(このか)た、世間人事の縁務に著せじ。相似の位を除く。其四  三際の中間(ちゆうげん)にて、所修の功德、獨り己が身に受けず。普(あまね)く有識(うしき)に回施(ゑせ)して、悉く皆無上菩提(むじやうぼだい)を得しめん。其五  伏して願はくは、解脱の味(あぢはひ)、獨り飲まず。安樂の果、獨り證せず。法界の衆生と同じく妙覺(めうがく)に登り、法界の衆生と同じく妙味を服せん。若し此の願力に依りて六根相似の位に至り、若し五神通を得ん時、必ず自度を取らず、正位を證せず、一切に著せざらん。願はくは、必ず今生(こんじやう)無作無縁(むさむえん)の四弘誓願(しぐせいぐわん)に引導せられて、周(あまね)く法界を旋り、遍く六道に入り、佛國土を淨め、衆生を成就し、未來際(みらいざい)を盡くすまで恒に佛事を作さんことを。
   





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