資料624 西山荘の秋(『小学国語読本巻十二』より)




          
西山莊の秋       

 三日ほど降續いた秋雨がからりと晴れて、今日は一だんと冷氣が加り、かすかな寒さをさへ感じる。雨に洗はれた築山のくまざさが、濃い緑の葉に白い筋を見せ、心字の池に枝をさしのべた楓(かへで)は、もう色づき始めてゐる。
 大日本史の草稿(さうかう)に加筆してゐた光圀(みつくに)は、ふと思ひ出したやうに、文箱から一通の書面を取出して静かに讀返した。それは、楠(なん)公の碑(ひ)を建てに行つてゐる家臣からの手紙である。湊(みなと)川の建碑もとゞこほりなくすんだ。忠臣の靈(れい)は慰められ、功績は一だんと明らかになつた。何年前のことであつたらう、自分が江戸の屋敷で史記を讀み、史書の力の偉大なことに感動したのは。それから歴史編纂(へんさん)を思ひ立ち、始めて史局を置いて學者を集めた時の喜び、彰考(しやうかう)館を設け、自ら其の額を書いた時の輝かしい希望、それらが今新な感激となつてよみがへつて來る。かうして大義名分が正され、忠臣・義士の眞心があらはれ、皇國(みくに)の姿が次第に明らかになつて行くのである。
 しばし思にふけつてゐた光圀が、我にかへると突然人聲が聞えて來た。それは、聞きなれた里人の聲である。光圀は思はずほゝ笑んだ。縁傳ひに入口の方へ行くと、そこには青々とした野菜を持つた老人が二人頭を下げてゐる。光圀は喜んで老人たちを請(しやう)じ入れ、野菜の出來や稻作の模樣などを得意になつて語るのを熱心に聞いた。
 老人たちが歸ると、光圀は再び書齋(しよさい)の人となつた。自分が修史に志してからすでに長い月日を過したが、其の業は遲(ち)々として進まぬ。自分の餘命は、いくばくもない。しかし、自分の氣持を知つてくれる子供たちや家臣の者は、後を繼いで必ずこれを成し遂げてくれるであらう。自分はこのまゝ世を去つても、精神は永遠に生きる。尊皇の大義に、すべての人が目覺める時が必ず來るに違ひない。さう思ひながら、光圀はまた朱(しゆ)筆を取つて、史稿の訂正(ていせい)に取りかゝつた。
 暮れやすい秋の日は早くも池の彼方に沒し、老松のあたりにはもう夕やみが迫つてゐた。


1. 上記の本文は、文部省発行の尋常科用『小学国語読本巻十二』(東京書籍株式会社、昭和14年6月2日修正発行、昭和14年6月30日翻刻発行によりました。「第六 西山莊の秋」として掲載されています。
    2. 西山荘(せいざんそう)=水戸藩2代藩主・徳川光圀公
  が藩主の座を退いた後、元禄4年(1691)から元禄
  13年(1700)に没するまでの晩年を過ごした隠居
  所。光圀公はここで『大日本史』の編纂の監修に当
  たった。現在の建物は、文政2年(1819)に再建さ
  れたもの。(常陸太田市の公式ホームページによりまし
   た。)  
   
           



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