資料615 蕃痧病の手当並治方

    


 

蕃痧病の手当幷治方
近來外國の船類渡來するにより是迄 日本に無之「コレラ、モルヒユス」一名亜細亜(アジヤ)霍乱 といふ病追々 日本國中に傳染(ウツリ)々々老少男女の差別なく此病煩ひて急死するもの數百萬人に及べり是まて 日本國中に無之病なれば其名もしらす俗に「コロリ」病といふ良醫良藥無之片田舎にては其手當もなく見殺にする事なれは右病によろしき方を記して萬民の助とするものなり
第一大酒大食膏味の食を用る事あしく輕き物を内ばに食し稼穡を勵み逸居(ヒマニオラス)をせす筋骨をつかひ早く食物のこなるゝ樣に心懸へし 胡瓜(キウリ) 西瓜(スイクワ) 李(スモヽ) 杏子(アンス) 桃(モヽ) 柿(カキ) すべてこなれ難きものを忌
右病をふせぐには
豫防方(マヘカタニフセグ) 冷水一盃 上酢一匕 砂糖一匕 
右をよくまぜ毎朝用ゆれは必す病をうけず 

又方 住居を清淨に掃除し 杜松子 生*硝 砂糖 右三味を合せて折々燒べし 〇又方 丁子龍腦の類を少しつゝ口にふくみ度々嗽する時は傳染する事なし 〇又方 五苓散へ呉茱萸を加へ日々一服つゝ用ゆるもよし 〇又方 桂枝 縮砂 肉豆蔲 右三味各等分燒酒へひたしとくりへ入置七日へて少しつ日々用ゆれは邪氣を受ず 〇又方 常に麝香或は雞冠石を懷中してよし 〇又方 雄黄 白木 菖蒲各十銭 白芷 虎頭骨各三銭 雌黄 皂莢 竜骨各四銭 鬼臼 蕪荑各五銭  右十味極細末となし〇是種に丸し絹袋に入男は左女は右の肌に付る萬一毒に中る心地すれは大人は三一小児は四一白湯にて用ゆべし又朝夕一粒つゝ家の中にて燒てよし
萬一此病を受吐瀉あり筋つまる時は早く胡麻油を煖め目口の邊をよけて惣身へぬり付戸を閉風にあたらぬ樣にして汗をとれは愈るなり但し胸腹と背すちへ第一に塗るべし 又温石にても塩温石にても腹腰のあたりを度々あたゝめ灸を臍の上下幷に臍からみへすへ芥子をとき紙へ付手のひら足の土ふまずふくらはきへ張置べし 甚しき症には臍の中へ艾を大にし灸すべし塩灸味噌灸韮(ニラ)灸いつれもよし臍からみの灸前方にすへれは尤もよし 〇又 燒酒一二合の中へ樟腦一二匁を入れあたゝめ木綿のきれにひたし腹幷に手足へ靜かにすり込へし 〇又 芥子粉 温飩粉 右等分あつき醋にてかたくねり木綿切にのばし腹と手足へ張べし但間に合ざる時はあつき湯にて芥子粉ばかりぬりてもよし 〇又 桂枝 益智 乾姜右細末等分に合せ二三分つゝ時々さゆにて用ゆへし 〇又 桂枝 白木 人參各大 乾姜 甘草 
右常の如く煎し用ゆへし
右の外藥方色々ありといへとも其症によつて小異あるゆゑ餘は醫に就て問へし
                  水府 醫学館 印 印
 


    「生*硝」の*は、稲の禾の代わりに石が来ている字。
    「焔」の字と同じか。

 

 


 

 

 

 

  (注)  1. 上記の本文は、『京都大学貴重資料デジタルアーカイブ』所収(富士
       川文庫)の「蕃痧病の手当幷治方」により、小宮山南梁の『南梁年録』
       三十七所収の本文(『茨城縣史料』幕末編Ⅱに収められている本文、
       同書、290~291頁)を参考にして記述しました。
        「蕃痧病の手当幷治方」(こうさびょうのてあてならびになおしかた)と
       いう刷り物は、安政年間に流行したコレラ病の対策として、水府医学館
       (弘道館の医学館)が安政6年(1859)に刊行し、水戸領内に頒布され
       ました。
         『南梁年録』には、この本文の後に、「右ハ老公御草案被遊候ニ有
       之候由」とあります。即ち、この刷り物は斉昭公の草稿によったものだ
       というわけです。
           → 『京都大学貴重資料デジタルアーカイブ』
               → 
「蕃痧病の手当幷治方」
      
2. 
初めの方にある「日本國中に傳染(ウツリ)々々老少男女の差別なく」
        
の部分は、「日本國中に傳染(ウツリ) し老少男女の差別なく」かとも思わ
        れますが、「傳染(ウツリ)
」の次が「し」ではなく、平仮名の「く」を長くし
        た繰り返し符号
のように見えるので、『南梁年録』の読みにしたがって
        「傳染(ウツリ)々々」としてあります。
         又、中程にある「生*硝」の*は、稲の禾の代わりに石が来てい
        る字です。「生焔硝」ということでしょうか。
      3.   2行に分かち書きされている割注は、文字を小さくして、1行のま
        ま記載してあります。

      4.  「蕃痧病の手当幷治方」について『水戸市史』中巻(三)には、「そ
        の内容は当時医学界で参考とされた、京都の医家新宮凉民氏ら
        の「コレラ病論」(安政五年刊)などのコレラの専門書によった点が
        多く認められるから、決して独創的なものではない。しかしこの医
        学館のコレラ予防の刷り物も、実は斉昭の草稿によったものであ
        るという」とあります。(同書、1189頁)
       5. 徳川斉昭(とくがわ・なりあき)=幕末の水戸藩主。治紀(はるとし)
             の子。字は子信、号は景山・潜竜閣。藩校弘道館を開設
             して文武を奨励、鋭意藩政を改革、幕政を補佐したが、
             将軍継嗣問題で一橋派に属し、井伊大老に忌まれて永
             蟄居。 諡号(しごう)、烈公。(1800-1860)(『広辞苑』第6版)
       6. 朝日新聞 2021年2月17日の「天声人語」に、
         
 「幕末、コレラが猛威をふるった際、斉昭は〈万人の助〉にした
         いと手引書を作って領民に配った。〈日本国中、老少男女の区
         別なく感染する。良医や良薬のない片田舎では患者は治療も
         されない〉と憂い、自ら草稿の筆をとった。 / 勧めたのは、こま
         めなうがい、屋内の掃除。大酒や大食、油ものを避け、筋骨を
         よく動かすこと。〈薬石の粉末を絹の袋に入れて男性は左半身
         に、女性は右半身に帯びるべし〉など怪しい記述もあるが、書き
         ぶりはあくまで懇切だ」
        
として、この「蕃痧病の手当幷治方」を紹介しています。また、
        
   「「ほとんど知られていませんが、斉昭は研鑽を忘れた医学界
         を批判し、医学知識を熱心に吸収しました」。藩校だった「弘道館」
         の主任研究員小圷のり子さんは話す。
国際情勢のみならず感染
         症の動向にも人一倍敏感だったという」
        ともあります。
         この「斉昭は研鑽を忘れた医学界を批判し」たということについ
        ては、斉昭の「医弊説」を参照してください。
         → 資料617 医弊説(景山・徳川斉昭、篆書医弊説による)
       7. フリー百科事典『ウィキペディア』に、徳川斉昭の項があります。
            フリー百科事典『ウィキペディア』 → 徳川斉昭
   


    
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