●學生華嚴の瀧に投ず(那珂博士の甥) 學者として又愛輪家として有名なる文學博士(はかせ)那珂通世氏の甥なる小石川區新諏訪町五番地藤村操(十八)と云ふは第一高等學校の一年生にて有望の青年なるが性質温良深く哲理の研究を好みて熱心の餘り不可能の原理攻究に煩悶し終に一種の厭世家となり去二十一日學校の制服制帽を着せしまゝ家出して行方不明となりしに家人は那珂博士を始め人々に相談して捜索中翌二十二日一通の書面到達し日光町旅店小西屋内(うち)操とあり宇宙の眞理發見の爲め云ふべからざる悲觀に陷り厭世に沈みて死を決したる不孝の罪を許されたしとの意味なりしより一同驚き
俄に博士等は日光へ出張したり是より先き操は死を決して家を出で上野より汽車に乘り二十一日午後三時日光驛着にて小西別館に投宿したるが操は初めより死を決したることなれば座敷は綺麗な處にして呉れと頼み室中に於ては幾通となく書狀を認(したた)め風呂に案内しても力なき答をなし居りて寢(しん)に就きしが翌廿二日の朝に到り携帶せし財布中より華嚴瀧迄の旅費を取り自餘の金錢は下婢等(ら)に與へ案内者は要らぬ先年來て道の勝手も分(わか)り居(を)るからとて單身出立し前夜認めたる書狀をば往(ゆ)きながらポストに投込み神橋(しんけう)先より腕車(くるま)に乘りて途中羊羹五本を買ひしも僕は要らぬからとて皆車夫に與へ馬返しにて車を降り華嚴瀧に向ひたり偖(さて)東京にては操の手紙に膽(きも)を潰し直(たゞち)に日光警察署及び小西別館に打電して取押へ方を頼みたるが此時既に遲けれど時を移さず警察署にては中宮祠(ちうぐうし)地方の各旅館に電話を以て捜査方を頼む抔(など)一方(ひとかた)ならぬ混雜を極め居たる處に東京より叔父親族皆來り捜索人夫を雇ひ數名(すめい)の巡査と共に現塲(げんじやう)に出張して探査せしに瀧坪の絶頂なる大楢木(おほならのき)の半面を削りて自己の姓名と左の所感一章を記し止(とゞ)めたり
巖頭之感
悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。ホレーショの哲學竟(つ
ひ)に何等のオーソリテーを價するものぞ。萬有の眞相は唯一言(げん)にして悉(つく)す、曰く
「不可解」。我この恨を懷(いだい)て煩悶終に死を決す。既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不
安あるなし。始めて知る大(だい)なる悲觀は大(だい)なる美觀に一致するを。
楢(なら)の木の側(そば)には洋傘(やうさん)と筆硯(ふですゞり)及びナイフ一個ありて身は正(まさ)しく此瀧壺に投じたるものと思はれ憐れむべし俊秀温良の一青年が最期は茲(こゝ)に明瞭となりぬ博士は勿論他の人々も暫し暗涙に咽(むせ)び居たるも斯(か)くてあるべきならねば直(たゞち)に死體の捜査に着手したれど今以て行方不明の由偖(さて)操は那珂博士の實兄藤村彬(ひん)の子にて父は四年前(ぜん)病死し未亡人(びばうじん)晴子(四十七)は現に東京女子職業學校の敎授たり而(しか)して操は長男にてニ男朗(十七)三男藎(すゝむ)(十三)長女京子(十一)等(とう)兄弟三人あり家庭は常に春の如く中にも操は母に孝に兄弟に厚く決死の前夜まで家にありて兄弟と談笑し少しも平素と異らざりしとは亦以て其決心を知るべく返すがへすも惜(をし)むべき青年なり茲(こゝ)に挿入せしは操が中學校の肖像なり
注
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1. |
上記の記事は、朝日新聞社広報部から頂いた明治36年5月27日の「東京朝日新聞」(第6051号)のコピーによりました。 初めに記したように、記事には大部分の漢字に振り仮名が振ってありますが、ここでは主なものだけに読みをつけて、大部分は省略してあります。 |
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2. |
記事中に出て来る「巌頭之感」は、文言が正しくありません。以下にそれを正しておきます。 オーソリテー → オーソリチィー 我この恨を懷て煩悶 → 我この恨を懷いて煩悶 終に死を決す → 終に死を決するに至る 唯一言にして悉す → 唯だ一言にして悉す 大なる美觀に一致するを → 大なる樂觀に一致するを |
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3. | 資料2 藤村操の「巌頭之感」があります。藤村操については、こちらを参照してください。 | ||||
4. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、藤村操の項があります。 フリー百科事典『ウィキペディア』 → 藤村操 |