凡圖其急莫急於輿圖而又其難莫難於輿圖焉以其大則體國經野控御攻守之政其細則
讀書考古探勝按蹟之學盖不可一日而缺者矣而山之背向水之迂直吾儕孟浪躬親履其
地猶且轉回數歩之外已茫然失方位况天下之大山海之邈苟非曠懷偉度有領略四海之
量而縝密精細有分折毫釐之明則焉能約畧其梗槩於尺幅上而無差哉長久保玄珠字子
玉常陸赤濱人飽學而富文又好研地理西自肥東至奥躬略能渉其地居常貼圖于歩障置
之座側凡雲遊僧人客啇行旅苟有抵其門必延以飲食與坐障前指問其郷里及所歴山川
城邑道里險夷其或装齎圖記者必請出之証以已所親覩及載籍所記參伍考究積二十餘
年以成此圖余甞試叩以余所熟地界子玉爲説其迂直背向險易沃瘠與風俗之淳漓舟車
之通塞歴々指畫席上皆盡其委曲不繆毫釐也余因益信其他不苟焉子玉長不滿六尺眇
然小丈夫已而其中所藏如此可畏哉
安永乙未三月阿波國儒者讃岐柴邦彦撰
(注) | 1. |
本文は、「改正日本輿地路程全図」の右下に記載してある本文により ました。改行は地図記載の通りにしてあります。 |
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2. |
安永乙未は、安永4年、西暦1775年です。 なお、文中の「」(胸)、「」(亦)の漢字は、島根県立大学の e漢字を利用させていただきました。 |
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3. |
江戸時代の日本地図といえば伊能忠敬の地図を思い浮かべますが、当 時の「伊能図」は国家機密とされ一般には出回らなかったので、世に 広く用いられたのは長久保赤水の「赤水図」でした。幕末の志士吉田 松陰が東北の旅に「赤水図」を用いたかどうかは、はっきりしないよ うですが、松陰は旅の途次、赤水の墓に詣でています。 |
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4. |
長久保赤水顕彰会のホームページがあって、参考になる記事が多く見 られます。 → 長久保赤水顕彰会 |
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5. |
長久保赤水(ながくぼ・せきすい)=江戸中期の地理学者。名は玄珠。 通称、源五兵衛。常陸の人。水戸藩の侍講。地図・地誌の作製に つとめた。著「改正日本輿地路程全図」「地球万国山海輿地全図 説」など。(1717-1801) 柴野栗山(しばの・りつざん)=江戸後期の儒学者。寛政の三博士の 一人。名は邦彦。通称、彦助。高松の人。徳島藩儒。1788年 (天明8)幕府儒者に招かれ、松平定信に寛政異学の禁を建議。 著「栗山文集」「冠服考証」など。(1736ー1807) (以上、『広辞苑』第7版による。) |
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柴野栗山の『栗山文集』と『訓点栗山文集』の巻之二に、「新刻日本 輿地路程全図序」が出ています。 → 国立国会図書館デジタルコレクション →『栗山文集』巻之二 (コマ番号 5~6/32) →『訓点栗山文集』巻之二(コマ番号 27/149) その外に、阿河準三編『註釈増補 栗山文集』があります。 〇『栗山文集』「天保13年桐陰書屋鋟板」山城屋佐兵衛発行。 〇『訓点栗山文集』「天保13年桐陰書屋鋟板」香川県丸亀中 学校蔵版、明治39年11月10日、宮脇仲次郎編纂・発 行。 「訓点」とありますが、つけてあるのは返り点と句点 のみで、読点と送り仮名はついていません。 なお、巻末の「本書の出版に就て」によれば、「訓 点」は、香川県立丸亀中学校教諭・三土幸太郎氏に よるものの由です。(各巻の初めに「三土宣訓点」 とあります。) 〇『註釈増補 栗山文集』阿河(あが)準三編、昭和62年8月 財団法人・ 栗山顕彰会、発行。 |
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7. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、長久保赤水、柴野栗山の項が あります。 フリー百科事典『ウィキペディア』 → 長久保赤水 → 柴野栗山 |