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(注) |
1. |
栗田寛(くりたひろし)博士は、天保6(1835)年生まれ。歴史学者。号は栗里ほか。水戸の人。石河(いしかわ)明善・藤田東湖・会沢正志斎らに学ぶ。彰考館に入り、『大日本史』の志・表の編修にあたる。維新後、教部省・修史館・元老院に出仕。明治11(1878)年、水戸に帰り、修史のかたわら、家塾・輔仁(ほにん)学舎を開いて清水正健(まさたけ)・菊池謙二郎ら多くの門弟を育てた。明治25(1892)年、帝国大学文科大学教授となり国史を教えた。明治32(1899)年、病のため逝去。享年65(満年齢は63)。墓は、水戸市六反田の六地蔵寺にある。編著書に、『神祇志料』『栗里先生雑著』『古風土記逸文考証』『上古職官考』など。中山信名著『新編常陸国誌』の色川三中の訂正本に、大幅な増補・修訂を加えて完成させた。 |
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2. |
碑額の「繼往開來」の書は、上掲の墓碑銘にある通り、徳川慶喜公の揮毫によるものです。
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3. |
「継往開来」という言葉の出典について
『御纂朱子全書』の凡例の終わり近くに、「継往開来」という言葉が出ています。これが出典でしょうか。
一 |
朱子平生繼往開來盡在闡發經書義蘊及紹明周程張邵之學窮研表章 |
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使後人知其統緒之眞而識其津塗之正此其功之大者至於志狀碑誄則或出於應求徇請之篇奏牘文移亦或因於一時一節之事雖忠厚正直之風無在不可想見而比之譚經論學精觕則不侔矣故今所存録詳於此而略於彼
(「御纂朱子全書凡例」の終わり近くにあります。) |
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『国立公文書館デジタルアーカイブ』に尊經閣蔵板の『淵鑒齋御纂朱子全書』があり、その「『淵鑒齋御纂朱子全書』1」に版本の「御纂朱子全書凡例」が出ていて画像で見ることができます。
→『国立公文書館デジタルアーカイブ』
→『淵鑒齋御纂朱子全書』1 「御纂朱子全書凡例」(25~26/85)
この「繼往開來」という言葉が基づいている文章には、朱子の注釈書『中庸章句』序 と、『御纂朱子全書』巻五十二「道統一・周子」の二つがあります。
(1)『中庸章句』序 「若吾夫子、則雖不得其位、而所以繼往聖開來學、其功反有賢於堯舜者。」(吾が夫子の若(ごと)きは、則ち其の位を得ずと雖も、往聖を繼ぎ來學を開く所以(ゆゑん)の、其の功は反つて堯舜より賢(まさ)る者有り。)
この『中庸章句』序の本文及び訓読は、新釈漢文大系2『大学・中庸』(赤塚忠著。明治書院・昭和42年4月25日初版発行、昭和45年10月5日6版発行)所収の「中庸章句序」によりました。
〇 『中國哲學書電子化計劃』というサイトにも、「中庸章句序」が出ていて、「若吾夫子,則雖不得其位,而所以繼往聖、開來學,其功反有賢於堯舜者」という文が見られます。(「3
中庸章句」に出ています。) →
『中國哲學書電子化計劃』
→ 「中庸章句序」
(2)『御纂朱子全書』巻五十二・道統一・周子
相傳之説豈有一言以易此哉顧孟氏既沒而諸儒 之智不足以及此是以世之學者茫然莫知所適髙
則放於虚無寂滅之外卑則溺於雜博華靡之中自 以爲道固如是而莫或知其非也及先生出始發明
之以傳於程氏而其流遂及於天下天下之學者於 是始知聖賢之所以相傳之實乃出於此而有以用
其力焉此先生之敎所以繼往聖開來學而大有功 於斯世也
隆興府學濂/溪先生祠記 (この文章は、『中國哲學書電子化計劃』というサイトの「御纂朱子全書」巻五十二の「道統一・周子」に拠りました。)
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〇大東文化大学の「百年史編纂のページ」の「題字」のところには、「継往開来」の出典を王陽明の『伝習録』としてあります。
「継往開来」 読み方:けいおうかいらい 意味:先人の業績を継承し、未来を創造していく(出典:王陽明『伝習録』)
→ 大東文化大学 → 題字
王陽明は中国明代の儒学者。諱は守仁、1472年生まれ、1529年沒。
『中國哲學書電子化計劃』の『伝習録』巻上から「継往開来」の部分を引いておきます。
文公精神氣魄大、是他早年合下便要繼往開來、 故一向只就考索著述上用功。
→
『中國哲學書電子化計劃』 →『王文成公全書』傳習録上 105
〇『デジタル大辞泉』に、「継往開來(けいおうかいらい)=先人の事業を受け継ぎ、発展させながら未来を切り開くこと」とありますが、出典は示されていません。
〇
『レファレンス協同データベース』に「「継往開来」という言葉の出典を知りたい」という質問があり、その回答が出ていて参考になります。
この回答では出典を「朱熹<朱子全書・道統一・周子書>のようです」としていますが、「「周子書」は所蔵ありだが、「継往開来」の部分を確認できず」としてあります(「周子書」に「継往聖開来学」という言葉は出ているが、「継往開来」という言葉そのものは出ていない、という意味だと思われます)。
ここには、「中国の世界遺産「福建土楼」の「承啓楼」の2番目の門の両脇に「承前啓後盡閲人間春色 繼往開來飽覽世紀風光」の句があることが判明」という記述があり、注目されます。この「繼往開來」はどこから来たものでしょうか。
→『レファレンス協同データベース』
「継往開来」という言葉の出典を知りたい
(2024年4月29日追記) |
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4. |
「継往開来」という言葉は、上に示したように明代の王陽明(王守仁)に用いられている他に、清代の顧炎武らによっても使われています。
〇顧炎武「華陰縣朱子祠堂上梁文」 兩漢而下、雖多保守缺之人、六經所傳、未有繼往開來之哲。
また、20世紀後半の政治家・鄧小平も、この言葉をたびたび用いているようです。一例を挙げておきます。
〇鄧小平「建設強大的現代化正規化的革命軍隊」 当前、我国正処在継往開来的重要歴史時期。 (以上は、中国のサイト『問答乎』の「対聯大全」によりました。) |
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5. |
「継往開来」(栗田寛博士墓碑銘)本文の表記について
(1) 実際の碑文(本文)は全24行、最後の銘を除いて1行59字になっています。銘は1行で、闕字4字を除いて48字(4字句12句)です。
(「大哉……不可不脩禮」が碑文(本文)の最初の1行、「之不可不講也……栗田氏其」が2行目ということです。) (注)6に、実際の字配りを示してあります。
(2) 闕字も碑文の通りとしました。1字の闕字と2字の闕字とがあります。
(3) 漢字は、できるだけ正字を用いましたが、一部、やむを得ず新字体を用いたところがあります。原文が篆書で書かれているため、読み取りにくい文字があります。
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6. |
栗田寛博士墓碑銘の『繼往開來』の解説書としては、照沼好文著「栗田寛博士と『繼往開來』の碑文」(水戸の碑文シリーズ1 水戸史学会・平成14年3月24日発行、錦正社発売)
があり、巻頭に、栗田寛博士の肖像写真と、碑文拓本の写真があります。
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7. |
碑文本文の記述にあたっては、上記の「栗田寛博士と『繼往開來』の碑文」を参考にさせていただきました。 |
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8. |
碑文の実際の字配りを次に示しておきます。 |
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