資料59 「継往開来」(栗田寛博士墓碑銘)




           
繼 往 開 來     

 

故文科大學敎授從四位勳四等文學博士栗田君墓碑銘
              前文科大學敎授從六位内藤正直撰文

大哉我 神州肇國  寶祚與天壤無窮至隆冠絶宇内者蓋  祖宗立極垂訓之所致也稽之古史參之古禮歴歴可徴是所以史之不可不脩禮之不可不講也我栗里先生實以脩史審禮自任畢生竭精於此古史因以明古禮因以存何其功之偉也君諱寛字叔栗通稱利三郎號栗里栗田氏其先信濃人諏訪神裔神氏之後云中遭亂離遷常陸茨城郡六段田邨以農爲業五世祖勝重元禄中轉居水戸城東祖諱惟肖考諱雅文妣中邨氏君其第三子也以天保六年九月庚子生幼而敏慧超倫年十三用意古典夙有復古之志乃著神器説年十七作詩述志有何日貫穿三千歳補 神州典章之虧之句嘗慨然謂人曰吾邦人而不通古典何足以稱學者自是學業日進志在脩史以報 國時豐田天功爲脩史總裁薦君入館年二十七作國造本紀考江戸黑川春邨鈴木重胤等極讃稱之君又有志脩神祇志考究周悉著神祇志料慶應二年有所感著葬禮私考會  宮車晏駕君乃上之當路以供參稽古禮因行明治元年 藩公上意見論封建郡縣利害一用君之議其經世之略可以見二年八月君上書於 藩公請刊大日本史志表以成 歴世未成之業 公乃委以校訂之事初國史紀傳既成志表未備 烈公憂之命天功脩正之未竟而歿至是君專任之拮据校讐四十年如一日十志五表皆完焉 公隨成上之 朝廷所遺國郡志及三表將相踵上程云先是藩廢君拜敎部權大録脩特撰神名牒十年一月遷脩史館掌記亡何辭還十七年再徴元老院考古制度期畢而罷二十三年  車駕幸水戸君上其神祇志料以備   御覧既而敎學大詔降矣君感激不已作勅語述義發揚其義初侍講元田永孚就君問敎道之要君爲作神聖寶訓廣義應之蓋資啓沃云二十五年復拜大學敎授居職八年累進正五位一朝獲疾事聞授文學博士陞高等官一等叙從四位勳四等賜瑞寶章尋卒實明治三十二年一月二十五日也享年六十有五二十八日 勅使臨第賜賻即日護柩還郷三十一日葬於六段田先塋之側四方聞者莫不歎惜焉君娶小澤氏無子養兄龜井直子勤爲嗣君爲人温雅厚重行儀端正言論不苟識見高邁學問淵博所著一百部五百餘卷皆明道經世之書也昔 義公深慨 皇室式微脩國史緝禮典以寓興復之志欲將振起一世 烈公繼述大義未達而薨君深體其遺志加旃遭逢  昭代休明乃大發憤庶幾乎弘至道以賛  聖猷常謂  祖宗開地育民以肇造區夏立極垂訓固與萬國異矣故其論 國體則必原  天祖之訓以建大順正名定分最戒僭越論政事則以尊 祖敬神爲重而厚風俗正民心論道義則以忠孝爲極佐以仁義之敎然後及開智明物之學苟有所長雖遠西異方之言肯不遐棄嘗曰學問之要在知建國大體苟不通之則政治學術皆失其本雖博渉内外旁通古今皆不足爲我用也抑神道即彜倫  帝訓即人極莫有二揆故其所論述必益世道裨治術而已治亂盛衰之故制度典章之詳委曲辯明娓娓數千言粲如示掌又曰尚古以來所祀神祇咸我  至尊及有功群臣即亦臣民之祖先也其德不可誼其恩不可不報故  歴朝秩祀以達民情以固國基是我祀典之所以重非彼邪神姦鬼誣天欺人之類也嘗歎西敎害 國體曰 神州以忠孝建國彼則反之水火不啻其爲深患大禍豈佛老之比乎深憂遠慮率如此要在奉  皇訓而敦敎化原 國體而立治本也其少壯在郷閭國事多難君處其間公正不偏審君子小人自有分辯是一藩之事已不必論列君卒之明年嗣子勤謁余爲墓上之文余於君其交尤親義不可辭乃叙議論行事之略以述其萬一會 前征夷大將軍德川公嘉君之學業益于國家親書繼往開來四字賜之勤等感泣之餘勒而爲碑額又繋銘曰
神聖立極品物咸亨  皇運无疆時止時行 義公緝熈 烈公繼精敬神崇儒明倫正名繼往開來君實畢生發揚振發彌綸八紘
明治三十六年一月二十五日
                      兄 龜井直書丹
                      男   勤立石

                                                  
矢須郁次郎鐫 

 

 

   
  (注) 1.  栗田寛(くりたひろし)博士は、天保6(1835)年生まれ。歴史学者。号は栗里ほか。水戸の人。石河(いしかわ)明善・藤田東湖・会沢正志斎らに学ぶ。彰考館に入り、『大日本史』の志・表の編修にあたる。維新後、教部省・修史館・元老院に出仕。明治11(1878)年、水戸に帰り、修史のかたわら、家塾・輔仁(ほにん)学舎を開いて清水正健(まさたけ)・菊池謙二郎ら多くの門弟を育てた。明治25(1892)年、帝国大学文科大学教授となり国史を教えた。明治32(1899)年、病のため逝去。享年65(満年齢は63)。墓は、水戸市六反田の六地蔵寺にある。編著書に、『神祇志料』『栗里先生雑著』『古風土記逸文考証』『上古職官考』など。中山信名著『新編常陸国誌』の色川三中の訂正本に、大幅な増補・修訂を加えて完成させた。    
    2.  碑額の「繼往開來」の書は、上掲の墓碑銘にある通り、徳川慶喜公の揮毫によるものです。    
    3. 「継往開来」という言葉の出典について
 
『御纂朱子全書』凡例の終わり近くに、「継往開来」という言葉が出ています。これが出典でしょうか。
朱子平生繼往開來盡在闡發經書義蘊及紹明周程張邵之學窮研表章    
  使後人知其統緒之眞而識其津塗之正此其功之大者至於志狀碑誄則或出於應求徇請之篇奏牘文移亦或因於一時一節之事雖忠厚正直之風無在不可想見而比之譚經論學精觕則不侔矣故今所存録詳於此而略於彼
 (「御纂朱子全書凡例」の終わり近くにあります。)
   

 『国立公文書館デジタルアーカイブ』に尊經閣蔵板の『淵鑒齋御纂朱子全書』があり、その「『淵鑒齋御纂朱子全書』」に版本の「御纂朱子全書凡例」が出ていて画像で見ることができます。
 →『国立公文書館デジタルアーカイブ』
  →『淵鑒齋御纂朱子全書』1
    
「御纂朱子全書凡例」(25~26/85)

 この「繼往開來」という言葉が基づいている文章には、朱子の注釈書『中庸章句』序 と、御纂朱子全書』巻五十二「道統一・周子」の二つがあります。
 (1)『中庸章句』序
 「若吾夫子、則雖不得其位、而所以繼往聖開來學、其功反有賢於堯舜者。」(吾が夫子の若(ごと)きは、則ち其の位を得ずと雖も、往聖を繼ぎ來學を開く所以(ゆゑん)の、其の功は反つて堯舜より賢(まさ)る者有り。)
 
この『中庸章句』序の本文及び訓読は、新釈漢文大系2『大学・中庸』(赤塚忠著。明治書院・昭和42年4月25日初版発行、昭和45年10月5日6版発行)所収の「中庸章句序」によりました。
 〇 『中國哲學書電子化計劃』というサイトにも、「中庸章句序」が出ていて、若吾夫子,則雖不得其位,而所以繼往聖、開來學,其功反有賢於堯舜者」という文が見られます。(「3 中庸章句」に出ています。) 
   → 『中國哲學書電子化計劃』
        → 「中庸章句序」     


 (2)『御纂朱子全書』巻五十二・道統一・周子
  相傳之説豈有一言以易此哉顧孟氏既沒而諸儒
 之智不足以及此是以世之學者茫然莫知所適髙
 則放於虚無寂滅之外卑則溺於雜博華靡之中自
 以爲道固如是而莫或知其非也及先生出始發明
 之以傳於程氏而其流遂及於天下天下之學者於
 是始知聖賢之所以相傳之實乃出於此而有以用
 其力焉此先生之敎所以繼往聖開來學而大有功
 於斯世也
隆興府學濂/溪先生祠記
(この文章は、『中國哲學書電子化計劃』というサイトの「御纂朱子全書」巻五十二の「道統一・周子」に拠りました。)
  
 * * * * *
 〇大東文化大学の「百年史編纂のページ」の「題字」のところには「継往開来」の出典を王陽明の『伝習録』としてあります。
「継往開来」
 読み方:けいおうかいらい
 意味:先人の業績を継承し、未来を創造していく(出典:王陽明『伝習録』)
  → 大東文化大学
   → 題字
 
王陽明は中国明代の儒学者。諱は守仁、1472年生まれ、1529年沒。

 
『中國哲學書電子化計劃』の『伝習録』巻上から「継往開来」の部分を引いておきます。
   
文公精神氣魄大、是他早年合下便要繼往開來、
   故一向只就考索著述上用功。
  
『中國哲學書電子化計劃』
   →『王文成公全書』傳習録上 105

 〇『デジタル大辞泉』に、「継往開來(けいおうかいらい)=先人の事業を受け継ぎ、発展させながら未来を切り開くこと」とありますが、出典は示されていません。

 〇 『レファレンス協同データベース』に「「継往開来」という言葉の出典を知りたい」という質問があり、その回答が出ていて参考になります。
 この回答では出典を「朱熹<朱子全書・道統一・周子書>のようです」としていますが、「「周子書」は所蔵ありだが、「継往開来」の部分を確認できず」としてあります(「周子書」に「継往聖開来学」という言葉は出ているが、「継往開来」という言葉そのものは出ていない、という意味だと思われます)。
 ここには、「中国の世界遺産「福建土楼」の「承啓楼」の2番目の門の両脇に「承前啓後盡閲人間春色 繼往開來飽覽世紀風光」の句があることが判明」という記述があり、注目されます。この「繼往開來」はどこから来たものでしょうか。

 →『レファレンス協同データベース』 
  「継往開来」という言葉の出典を知りたい

                      (2024年4月29日追記)
   
    4.  継往開来」という言葉は、上に示したように明代の王陽明(王守仁)に用いられている他に、清代の顧炎武らによっても使われています。
 〇顧炎武「華陰縣朱子祠堂上梁文」
  兩漢而下、雖多保守缺之人、六經所傳、未有繼往開來之哲。
 また、20世紀後半の政治家・鄧小平も、この言葉をたびたび用いているようです。一例を挙げておきます。
 〇鄧小平「建設強大的現代化正規化的革命軍隊」
  当前、我国正処在継往開来的重要歴史時期。
 
(以上は、中国のサイト『問答乎』の「対聯大全」によりました。)
   
5.  「継往開来」(栗田寛博士墓碑銘)本文の表記について
 (1) 実際の碑文(本文)は全24行、最後の銘を除いて1行59字になっています。銘は1行で、闕字4字を除いて48字
(4字句12句)です。
 (「大哉……不可不脩禮」が碑文(本文)の最初の1行、「之不可不講也……栗田氏其」が2行目ということです。) (注)6に、実際の字配りを示してあります。
 (2) 闕字も碑文の通りとしました。1字の闕字と2字の闕字とがあります。
 (3) 漢字は、できるだけ正字を用いましたが、一部、やむを得ず新字体を用いたところがあります。原文が篆書で書かれているため、読み取りにくい文字があります。       
    6.  栗田寛博士墓碑銘の『繼往開來』の解説書としては、照沼好文著「栗田寛博士と『繼往開來』の碑文」(水戸の碑文シリーズ1 水戸史学会・平成14年3月24日発行、錦正社発売) があり、巻頭に、栗田寛博士の肖像写真と、碑文拓本の写真があります。          
    7.  碑文本文の記述にあたっては、上記の「栗田寛博士と『繼往開來』の碑文」を参考にさせていただきました。    
    8.  碑文の実際の字配りを次に示しておきます。    

 

故文科大學敎授從四位勳四等文學博士栗田君墓碑銘
                                       前文科大學敎授從六位内藤正直撰文

大哉我 神州肇國  寶祚與天壤無窮至隆冠絶宇内者蓋  祖宗立極垂訓之所致也稽之古史參之古禮歴歴可徴是所以史之不可不脩禮
之不可不講也我栗里先生實以脩史審禮自任畢生竭精於此古史因以明古禮因以存何其功之偉也君諱寛字叔栗通稱利三郎號栗里栗田氏其
先信濃人諏訪神裔神氏之後云中遭亂離遷常陸茨城郡六段田邨以農爲業五世祖勝重元禄中轉居水戸城東祖諱惟肖考諱雅文妣中邨氏君其
第三子也以天保六年九月庚子生幼而敏慧超倫年十三用意古典夙有復古之志乃著神器説年十七作詩述志有何日貫穿三千歳補 神州典章
之虧之句嘗慨然謂人曰吾邦人而不通古典何足以稱學者自是學業日進志在脩史以報 國時豐田天功爲脩史總裁薦君入館年二十七作國造
本紀考江戸黑川春邨鈴木重胤等極讃稱之君又有志脩神祇志考究周悉著神祇志料慶應二年有所感著葬禮私考會  宮車晏駕君乃上之當
路以供參稽古禮因行明治元年 藩公上意見論封建郡縣利害一用君之議其經世之略可以見二年八月君上書於 藩公請刊大日本史志表以
成 歴世未成之業 公乃委以校訂之事初國史紀傳既成志表未備 烈公憂之命天功脩正之未竟而歿至是君專任之拮据校讐四十年如一日
十志五表皆完焉 公隨成上之 朝廷所遺國郡志及三表將相踵上程云先是藩廢君拜敎部權大録脩特撰神名牒十年一月遷脩史館掌記亡何
辭還十七年再徴元老院考古制度期畢而罷二十三年  車駕幸水戸君上其神祇志料以備   御覧既而敎學大詔降矣君感激不已作勅語述
義發揚其義初侍講元田永孚就君問敎道之要君爲作神聖寶訓廣義應之蓋資啓沃云二十五年復拜大學敎授居職八年累進正五位一朝獲疾事
聞授文學博士陞高等官一等叙從四位勳四等賜瑞寶章尋卒實明治三十二年一月二十五日也享年六十有五二十八日 勅使臨第賜賻即日護
柩還郷三十一日葬於六段田先塋之側四方聞者莫不歎惜焉君娶小澤氏無子養兄龜井直子勤爲嗣君爲人温雅厚重行儀端正言論不苟識見高
邁學問淵博所著一百部五百餘卷皆明道經世之書也昔 義公深慨 皇室式微脩國史緝禮典以寓興復之志欲將振起一世 烈公繼述大義未
達而薨君深體其遺志加旃遭逢  昭代休明乃大發憤庶幾乎弘至道以賛  聖猷常謂  祖宗開地育民以肇造區夏立極垂訓固與萬國異
矣故其論 國體則必原  天祖之訓以建大順正名定分最戒僭越論政事則以尊 祖敬神爲重而厚風俗正民心論道義則以忠孝爲極佐以仁
義之敎然後及開智明物之學苟有所長雖遠西異方之言肯不遐棄嘗曰學問之要在知建國大體苟不通之則政治學術皆失其本雖博渉内外旁通
古今皆不足爲我用也抑神道即彜倫  帝訓即人極莫有二揆故其所論述必益世道裨治術而已治亂盛衰之故制度典章之詳委曲辯明娓娓數
千言粲如示掌又曰尚古以來所祀神祇咸我  至尊及有功群臣即亦臣民之祖先也其德不可誼其恩不可不報故  歴朝秩祀以達民情以固
國基是我祀典之所以重非彼邪神姦鬼誣天欺人之類也嘗歎西敎害 國體曰 神州以忠孝建國彼則反之水火不啻其爲深患大禍豈佛老之比
乎深憂遠慮率如此要在奉  皇訓而敦敎化原 國體而立治本也其少壯在郷閭國事多難君處其間公正不偏審君子小人自有分辯是一藩之
事已不必論列君卒之明年嗣子勤謁余爲墓上之文余於君其交尤親義不可辭乃叙議論行事之略以述其萬一會 前征夷大將軍德川公嘉君之
學業益于國家親書繼往開來四字賜之勤等感泣之餘勒而爲碑額又繋銘曰
神聖立極品物咸亨  皇運无疆時止時行 義公緝熈 烈公繼精敬神崇儒明倫正名繼往開來君實畢生發揚振發彌綸八紘
明治三十六年一月二十五日
                                              兄 龜井直書丹
                                              男   勤立石

                                                     矢須郁次郎鐫
 

 

  9.  栗田寛博士の墓碑銘の撰者・内藤正直は、明治時代の漢学者・歴史家。耻叟は号。常陸国水戸南町に生まれ、水戸藩士・内藤氏を継いだ。弘道館に学び、のち弘道館教授・群馬県中学校校長・東京大学講師・帝国大学文科大学教授等を歴任。文政10年(1827)~明治36年(1903)。 [この項は、『谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツアー』というサイトの「内藤耻叟」のページ、及びフリー百科事典『ウィキペディア』の「内藤耻叟」の項によりました。詳しくは、それぞれのページ・項目を参照してください。]
 
『谷中・桜木・上野公園 路地裏徹底ツアー』
  →「内藤耻叟」                                        
   残念ながら現在は見られないようです。(2017.11.01)

  フリー百科事典『ウィキペディア』「内藤耻叟」の項があります。
   
         
 





            
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