資料598 天竺霖異大王の事(『養蚕秘録』より)



         天竺霖異大王の事 (『養蚕秘録』より)


或書云(あるしよにいふ)、むかし天竺舊中國に霖異(りんゐ)大王といへるあり。后を光契(くわうけい)夫人といふ。一人の姫あり。金色姫(こんじきひめ)といふ。后薨じ給ふて後、大王新たに后妃(こううひ)を具し給ふ。此后妬(ねたみ)ふかく、姫をにくみて父大王に讒言(ざんげん)し、姫を獅子吼山(ししくざん)といふ所に捨(すて)させ給ふ。しかるに天の加護にや有(あり)けん、つゝがなくましまして獅子に乘りて中國に帰らせ給ふ。よつて、また鷹群山(ようぐんざん)といふ所へ捨(すて)給ふ。此時多くの鷹ども來り、肉を供(くう)じて姫を育みける。大王の臣下、此よし遙(はるか)に傳へ聞(きき)、密(ひそか)に姫を供奉して都に帰る。后、又姫の帰るを惡(にく)み、海眼山(かいがんざん)といふ嶋へ流し給ふ。此時、漁夫姫を助けてもとの都に送(おくり)ける。后大きに怒(いかつ)て、臣下に命じ御殿の庭を深く堀(ほり)て姫を埋(うづ)め殺させけるに、其後土中より光明赫(かゝ)やきけるをあやしみ大王堀らせ見給ふに、彼(かの)姫いまだ恙(つつが)なくおはせしかば、又桑の木のうつほ船に乘せ蒼海へ流し給ふ。然るに、此船日本常陸國豊良湊(とよらのみなと)へ流寄(ながれよ)る。浦人これを助け介抱しけるに幾程もなく彼姫空しくならせ給ひ、其靈魂化(け)して蚕と成けるとかや。此故に蚕初(はじめ)の居起(ゐおき)を獅子の居起と云、二度目めの居起を鷹の居起、三度めを船の居起、四度めを庭の居起といへるは、彼姫(かのひめ)天竺にて四度の難に遇(あひ)給ひし事をかたどりて、かくぞ名づけし事とぞ。


  (注) 1. 上記の本文は、早稲田大学図書館の古典籍総合データベース所収の『養蚕秘録』によりました。これは、世に「金色姫の伝説」として知られている話です。    
    2. 上記の『養蚕秘録』は、享和3年(1803年)刊の『扶桑國第一産 養蚕秘録』(上垣守國作、西村中和・速水春曉斎 画、江戸書林・須原屋茂兵衛、大阪書林・柏原屋清右衛門、京都書林・須原平左衛門)です。    
    3. 「御殿の庭を深く堀(ほり)て」「大王堀らせ見給ふに」の「堀る」(正しくは「掘る」)の漢字は、原文のままにしてあります。
また、
振り仮名は、必要と思われるものだけ原文によって付けてあります。ただし、「光契(くわうけい)夫人」の「光(くわう)」は、引用者が補いました。
なお、「肉を供(くう)じて」の供の読みは、(くう)でよいのか、読み取りに自信がありません。
   
    4. 「常陸國豊良湊(とよらのみなと)」が現在のどこにあたるのかについて。
(1)茨城県日立市川尻町小貝ヶ浜。
近くに蚕養(こがい)神社や、豊浦小学校、豊浦中学校などがあります。川尻町は、もと多賀郡豊浦町大字川尻でしたが、豊浦町は昭和31年(1956年)、日立市に編入されて豊浦町という名前が消滅しました。
(2)茨城県つくば市神郡(かんごおり)
ここに豊浦と呼ばれた地域があるそうです。そして、蚕影神社があります。
(3)茨城県
神栖市日川(にっかわ)(もと、鹿島郡神栖町日川←鹿島郡豊良浦日向川村)。
ここに、蚕霊神社があります。
「豊良湊」は、果たしてどこを指すのでしょうか。
   
    5. 『日本伝承大鑑』というホームページの「蚕影神社」の項に、「養蚕秘録 享和2年(1802年)刊。全3巻。蚕の飼育から製糸に至るまで、養蚕に関する技術や知識を図解した実用書。後年シーボルトがオランダに持ち帰り、ヨーロッパの養蚕技術向上のために利用している」とあります。    
           





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