(注) | 1. | 上記の前田香徑「木食観海上人に就て」は、『木喰上人之研究』第四号(木喰五行研究会、大正14年8月15日発行)に掲載されているものです。 | |||
2. |
〇初めのほうにある太字の「まだ何事も知られておらぬ」の部分は、原文では傍点(
、)が施されている部分ですが、ここではそれを太字にして表記しました。 〇また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ文字を繰り返して表記しました。(我も我もと) 〇誤植と思われるものは正して表記しました。(書いて見やう→書いて見よう ものであろふ→ものであらう 迎へてくれそう→迎へてくれさう 〇文中、初めのほうに「最近水戸在酒門村菅氏所藏の古書中から新しく正確な記録が發見されたが」とありますが、この「菅氏」は原文には「管氏」とあります。これは「菅氏」の誤植であると考えられますので、「菅氏」としました。 また、このすぐ後に出ている「一、當寺開山木食觀海上人也」「于時鹽子村佛國寺に」「寺地有之而已」も、原文には「一、當寺開山本食觀海上人也」「干時鹽子村佛國寺に」「寺地有之而己」となっているのを、それぞれ誤植とみて改めてあります。 この他にもこの羅漢寺の記述の引用部分には誤植があるかもしれません。原文を「文政十年亥十一月 寺社方」という古文書に当たって確認したいのですが、この古文書が現在どこにあるのか不明で、見ることができないでいます。 |
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3. |
前田香徑氏が見たという「文政十年亥十一月 寺社方」という古文書を見たいと思い、茨城県立歴史館に保管されている『県史編纂収集史料(写真版)』の中の「水戸市酒門
菅伸生家①~⑪」を見せていただきましたが、その中には入っていないようでした。 その後、茨城大学附属図書館にお願いして、図書館所蔵の「菅文庫」の資料目録を見せていただきましたが、残念ながらここにも当該資料は見当たりませんでした。(2019年11月25日) |
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4. | 『木喰上人之研究』第四号の「六號雜記」の中に、柳宗悦氏が、 〇此號に未知の人前田香徑氏から研究報告を得た事を嬉しく思ふ。之によつて私が未だ手をつけ得なかつた觀海上人の略傳を知るを得て深く感謝する。 と書いておられます。(『柳宗悦全集』著作篇第七巻、筑摩書房・昭和56年2月5日初版発行による。) 「自叙傳註解」に、「上人が木食戒を受けたのは四十五歳の時、即ち寶暦十二年の事であつた。彼の師であつたと云ふ常陸國の木喰觀海上人の事に就ては、まだ何事も知られておらぬ」とあります。(『柳宗悦全集』著作篇第七巻、26頁。「木喰觀海上人」は原文のママ) |
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5. | この前田香徑「木食観海上人に就て」の本文は、茨城県立図書館にお尋ねして山梨県立図書館所蔵のものを紹介していただき、山梨県立図書館から入手したものです。また、「文政十年亥十一月 寺社方」という古文書について、茨城県立歴史館の方にいろいろお世話になりました。関係の皆様に厚く御礼申し上げます。 | ||||
6. | 筆者の前田香徑(まえだ・こうきょう)(1893~1968)は、水戸市生まれの郷土史家。本名・徳之助。明治26年(1893)、水戸市清水町(現・本町2丁目)に生まれる。水戸中学から早稲田大学文学部に進学するが、学資の送金を止められて中退。代用教員を経て水戸第14工兵大隊に入隊。除隊後、日本専売局へ入社。中国天津市に出向し、昭和2年(1927)まで中国で生活。帰国後は市内の印刷所に勤めながら水戸市議会議員を3期務める。昭和42年(1967)、勲5等瑞宝章を受章。昭和43年(1968)、没。享年75。著書に『水戸を語る』『明治大正の水戸を行く』『立原翠軒』『茨城富豪盛衰記』『茨城の伝説』『江戸時代の水戸を語る』などがある。<この項は、『水戸の先人たち』(平成22年3月31日、水戸市教育委員会発行)によって記述しました。この項の筆者は前田陽一氏。> |