資料587 前田香径「木食観海上人に就て」 



          木食觀海上人に就て
                                              
前 田  香 徑

 「木食上人之研究」特別號第一篇木喰上人略傳中自叙傳註解に「上人が木食戒を受けたのは四十五歳の時、即ち寶暦十二年の事であつた。彼の師であつたと云ふ常陸國の木食觀海上人の事に就てはまだ何事も知られておらぬ」と書かれてある。木食上人が日本廻國の心願をたてゝ遍路の生活を始めてから、我が常陸の國へも幾度か足を踏み入れて居り、安永四年に黑子に百日の參籠を成就せられた事もあるのであるから、その遺作が一つ位は常陸からも發見され可きであらうと、私は常に注意を怠らなかつた處、彼の師であつたと云ふ觀海上人の事を偶然先に知る事が出來たので、此處に私の知り得た點を書いて見ようと思ふ。
 最近私は「見聞録」なる寫本を一册手に入れたが、
此寫本に
 「常陸國水戸城東濱田郷大内山羅漢寺眞言宗開山木食上人觀海寶暦六年之頃草創也」
と書かれてある。之に端緒を得て古書を探ねて見ると『久方見聞録』の中に更に詳しい事が書かれてあるのを發見した。
 「寶暦三年癸酉八月鹽子村巖谷山佛國寺(現住觀海)觀音堂厨方丈共に結構致修覆之處、右末寺同村
 十圓寺(惠笑)密藏院(門海)申し合、御城下に於て五百羅漢建立之大願有之候に付、土地之儀寺社
 方へ願出候處、左の通、先達て吉田大鋸町にて相濟候、然る處土地高く御城中見込候由之故を以又候
 願出、追て坂戸町付にて四町四方七十石之土地御買上永々寺地に被下候被仰渡左之通
             鹽子邑佛國寺現住   觀海
 其院志願有之、近年木食に相成猶其寺數ヶ所之建立等仕候由就夫近國普く致修行候に付歸依之者多く
 施主も夥敷出來候旨仍之、此上相願候は於御領内五百羅漢建立仕、於羅漢堂、永々四郎大般若經轉讀
 仕、上々樣御祈禱仕度候由」(以下略す)
之を見ると觀海上人は最初鹽子佛國寺の住職であつた。この佛國寺は今も荒廢した儘殘つて居るが、栃木と茨城の國境にある山間の一貧寺で弘仁年中弘法大師の開山と稱されて居る。其後天正の頃敎道上人なる名僧が現はれて此寺に留り、寺内の諸堂を修理したが、檀家少くその維持に困つた樣である。觀海上人が此寺の住持となつたのは何時の頃であつたか不明ではあるが、前の文面にある如く寶暦年中水戸城主より高百三十四石餘の土地を賜つて羅漢堂を建立し、以來多くは此羅漢寺に在つた樣に思はれる。木食五行上人が彼の御弟子となり木食戒を受けたのは寶暦十二年(柳氏の研究に依れば)であるから、觀海上人は當時この羅漢寺に居た筈である。なぜならば彼は寶暦十二年に坂戸村溜池に於て農民の爲雨乞の祈禱を執行した事が傳へられて居るからである。此羅漢寺は五行上人が木食戒を受けた年即ち寶暦十二年に炎上して灰燼となり、更に觀海とその弟子達の努力に依つて明和、安永中に再建されたが之も天保十己亥の春、二度の火災に遭つてその總てが灰となつてしまつた。故に何等の記録も殘つて居ないが前の文中御城下とあるは水戸の町を指したもので、その水戸から大洗に至る濱街道、谷田の電車停留塲側に古松一株今も繁茂してその跡を語つて居るのみである。
 「見聞録」に
 寶暦十三年未癸十二月、玉樹山羅漢寺開山敕上人木食觀海遷化
   辞   世
 月毎に 作りし法も雪の空、  又來る春に 花も咲なん
とあるが之に依れば五行上人が木食戒を受けたその翌年、師の觀海上人は此の世を去つた事になるが此處に記された年號は誤りである事が判つた。最近水戸在酒門村菅氏所藏の古書中から新しく正確な記録が發見されたが、夫れは水戸藩主が先代遺德編輯の資料として各寺に命じその寺の史實を提出させたものでしかも原本、各寺の大きな印が立派に捺つて居る。表紙には
  文政十年亥十一月、寺社方
と記されて居るが、羅漢寺の處を見ると
 一、當寺開山木食觀海上人也、出生奥州岩城多賀郡新町木村氏産也。于時鹽子村佛國寺に住而諸堂建
   立後心願に而同村十圓寺と申す高根村太山寺末寺に而寺地有之而已爲法興隆引寺再建御願指上御
   聞濟被下置候
   源良公樣御時代厚思召以當地に新規御除地四丁四方寶暦六年に拜領仰付五百羅漢堂諸堂迄建立仕
   候。明和七年八月迄成就同八年八月入佛供養仕同九年御願之上十圓寺離末罷成此年上京仕御室御
   所御直末相承院室に罷成。被爲任上人。三月十日參内相濟致下國八月朔日登城被仰出候暫永住仕
   候而奉祈御武運長久者也此に及老衰安永四年十二月二十四日歳七拾八才に而遷化仕候外に行狀等
   筆記無之右相分不申候
   御造營等一切無御座候
   右此度
   御先代の御筆跡御編修被仰出候御用に付開山等行狀並御先代御造營等被遊尊慮等有之通書上可申
   旨御達に付則取調前書之通書上申候以上
    文政十亥年   坂戸町付村
              羅漢寺 (印)
               舜 興
とある。これに依つて彼の生國も知る事が出來たが寺社方に提出したものであるから恐らく眞實であらう。
 燒失した羅漢寺はその後三度目の工を起したが、水戸城主烈公の時佛刹破却と云ふ大きな事件が起り、その時人夫百餘名をして一時に之を破壞させてしまつた。斯くして此由緒ある寺も全く癈滅に歸したが、當時その多くの什寶と記録は同村内にある寶藏寺と聖寶院六地藏寺とに分けて寄附された事を知つたので、私は兩寺を訪ねて質して見たが六地藏には何等參考となる可き材料もなかつた。寶藏寺の方は觀海上人が入寂する七ヶ月前、即ち寶暦十三年五月二十一日に炎上して居るのでので夫れ以前の事に就ては何等の記録も殘つて居ないが什物帳には
  故羅漢寺什物當山に寄附
とあつて開山木像一。過去帳一。開山上人位牌一。と記入されて居る。之より見れば觀海上人の木像と位牌が此寺になければならぬ筈であるが、何時の時代に紛失したものか探して見ても見當らぬ。その後元治元年に整理された『什物記』中に
 一、御除寺中三千坪 外に上畑七畝歩分米七斗也。上畑壹反七畝歩分壹石七斗三合也
   右羅漢寺墓所改葬被仰付候に付先住如海代爲墓所地御渡し相成候分也
と記されて居るから觀海上人の墓も時日は明瞭でないが之と共に寶藏寺へ移轉されて居なければならぬ。村の古老を訪ねて聞き漸く上人の墓なるものを同寺内に發見するを得たが、墓碑の字は摩滅されて居て讀む事が出來ない。私をして夫れが上人の墓であると推察せしめるのは、その側に近く羅漢寺二世觀順墓(文政二己卯九月十三日)と、四世法師大空之墓(文政九丙戌六月三日)とがある事である。三世の墓碑は無いが斯く短き期間中に住持の幾度も替つて居るのは火事の爲め燒死した者や病歿した者などが居るからであらう。之等の人達は寶藏寺の過去帳には載つて居ない。羅漢寺から寄附された過去帳を失つて寫す時を得なかつたのであらう。右墓碑の前方に古い石塔が殘つて居てそれには
 變爲八功德池連生承寶蓋駐須地獄破菩提道文。當時開山五百羅漢立末資開眼供養。木食觀海敬白
 寶暦八戊寅七月吉、乃至法界平等利益
の文字を讀む事が出來る。これも羅漢寺から移轉されたものゝ一つである。觀海上人の書かれた般若經を所蔵する家多く、之等を見れば上人が佛國寺に居た年代と羅漢寺に居た年代とを毎核に知る事が出來る。佛國寺時代に金字と黑字の般若經六百軸を淨寫して居るが、夫れには『佛國木食觀海』と記され寛延年間と書き加へられて居るものが多い。
 私は最近酒門村の一農家から『水戸濱田郷大内山羅漢寺五百羅漢佛尊像』の一軸を拾ひ出して來た。觀海輯としてあるが、夫れに依れば水戸侯より高百三十四石の地を酒門村に賜つたのは寶暦五年であつて、此地を賜る迄には上人は弟子の惠笑や門海と共に百方運動した如くに思はれる。觀海上人が羅漢寺建立の願書を水戸侯へ差し出したのは寶暦三年八月であつて、その當時は鹽子邑佛國寺現住としてあるが、建立の爲め東奔西走はして居ても佛國寺現住に相違なかつた。上人の德高き事が世に知れ亘つたのは此時以後であつて上人の晩年であつたに違ひない。『羅漢佛尊像』には
 寶暦五乙亥極月十八日五百羅漢建立拜領之地京都御堂御所御直末羅漢寺
  常陸國水戸城下五百羅漢開山木食觀海印施と書き入れてある。
 尚寶藏寺には紺地金泥の大般若經一巻を藏して居るが、その經文の末尾には
 常陸國水戸鹽子佛國寺十八世木食法印觀海
と記され、その後に『日本之行脚僧慈泉』と稱する者が寛政十二庚申四月初三日に觀海の事を簡単に記して居る。
 觀海上人は前に述べた如く眞言秘密の雨乞祈禱を執行したり、或は集つた建立費を凶作に苦しむ農民などに與へた事もあり、その方法が賣名的であつて一種のトリツクを弄したとも云はれ彼に對する種々の惡評が殘つてゐる。
 寛政二年文公御就藩のとき坂戸羅漢寺の大浮屠、若干の良田を廢して造りたるを見玉ひ當時執政有
 司、斯る無用の造立を止むるに意なく惡僧の請を許し君たる人の不德と爲る。何ぞ之を許したるや
などゝ書いたものもあり又
 或とき奥州へ勸化に行きしに、折節年の暮なりしが、庄官の許に至つて其趣を述て勸化せんとするに
 庄官曰く上人の事は兼て承り及びたる名僧にて、御座は何程も勸化に任せ候へ共當年凶作に依つて公
 納滯り數十人に及び、役人共の扱届かざる故なりとて組頭數人入獄申付られたり。折惡敷時節なれば
 假令ひ寄進致し度志の者も出し難く猶某は村の總つかさなれば上へ對し寄進ヶ間敷事は爲し難く候と
 云ふ、觀海それは難儀なる事也。いか程計りの上納なりやと問ふ。當村大郷にて戸數も多ければ凡百
 金に近く上納不足なれば中々才覺にも及ばずと云ふ。觀海我に勸金集る百金計あり。
 吾羅漢を建立するも衆生を濟度せん爲なり。今有縁無縁の人たりとも指當りたる難儀を救ふは是佛の
 意なればたとへ建立延引すとも可なり用立申さんとて金子を出す。庄官は辞退しけれ共ひらにと申故
 其儀に任せ百金を借受け早速公納せしかば入牢の者悉く免されたり
と『小池氏筆記』なる書にあるが、此事城主の耳に入つて遂に城主からも寄附がありその封内勸化勝手次第と云ふ事になつて、莫大の金が集まつたと記されて居る。而してその文の末尾に
 その勸め方皆此類なれば愚民共大に迷はされ我も我もと寄進せしかば、凡勸化金二萬兩餘にも及び程
 なく堂も建立せしなり。御國に於ても二百石に近き良田を是が爲に癈せらる。大欲は無欲なるが如し
 とも云ふ可き。山師坊なり
と記して居る。之等の上人に對する惡罵は佛法を喜ばざる當時の學者達に依つてなされたものであるが、水戸城主烈公の時、天保年間に至つて藤田吉成等上書し各寺の佛像梵鐘類を收めて巨砲鑄造の料に充てん事を請ふた。烈公是説を得て深く之を是とし寺社奉行に命じて各寺院の濡佛、燈籠、鐘、その外無用の佛具類も取潰させたが、無智なる下役人は木彫佛まで破壞し毎日各所で焚かるゝ佛躰は其數を知らなかつたと云ふ。此佛刹破却は水戸侯の大失敗に歸したが、當時の學者達も佛を目するに左道邪敎を以てし韓退之の佛骨表を讀んで快を呼んだのであるから、前述の如く觀海上人を惡罵する位の事は怪しむに足らぬ。燒き盡された佛躰は誠に惜しい事であつた。今日水戸附近に殘つて居る古き佛躰の多くは當時下役人い賄賂を贈つて取出させ、民家に一時隱したものゝみであつて、若しその頃あつたにしても五行上人の作の如きはその由緒も知らず人の注意もひかなかつた爲めに燒かれてしまつたものであらう。斯くして水戸附近に木食佛なく又私が望みを囑して居た觀海上人の調査を通して五行上人を知らんとする努力は徒勞に終つたのである。けれども私の調査の手が水戸藩外に延びる時、其處には彼の微笑が私を迎へてくれさうに思はれる。(水戸市在谷田假寓にて)

        『木喰上人之研究』第四号(木喰五行研究会、大正14年8月15日発行)による。


  (注) 1. 上記の前田香徑「木食観海上人に就て」は、『木喰上人之研究』第四号(木喰五行研究会、大正14年8月15日発行)に掲載されているものです。    
    2. 〇初めのほうにある太字の「まだ何事も知られておらぬ」の部分は、原文では傍点( 、)が施されている部分ですが、ここではそれを太字にして表記しました。
〇また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、同じ文字を繰り返して表記しました。(我も我もと)
〇誤植と思われるものは正して表記しました。(書いて見やう→書いて見よう ものであろふ→ものであらう 迎へてくれそう→迎へてくれさう
〇文中、初めのほうに「最近水戸在酒門村菅氏所藏の古書中から新しく正確な記録が發見されたが」とありますが、この「菅氏」は原文には「管氏」とあります。これは「菅氏」の誤植であると考えられますので、「菅氏」としました。
また、このすぐ後に出ている「一、當寺開山木食觀海上人也」「于時鹽子村佛國寺に」「寺地有之而已」も、原文には「一、當寺開山本食觀海上人也」「干時鹽子村佛國寺に」「寺地有之而己」となっているのを、それぞれ誤植とみて改めてあります。
この他にもこの羅漢寺の記述の引用部分には誤植があるかもしれません。原文を「文政十年亥十一月 寺社方」という古文書に当たって確認したいのですが、この古文書が現在どこにあるのか不明で、見ることができないでいます。
   
    3. 前田香徑氏が見たという「文政十年亥十一月 寺社方」という古文書を見たいと思い、茨城県立歴史館に保管されている『県史編纂収集史料(写真版)』の中の「水戸市酒門  菅伸生家①~⑪」を見せていただきましたが、その中には入っていないようでした。
その後、茨城大学附属図書館にお願いして、図書館所蔵の「菅文庫」の資料目録を
見せていただきましたが、残念ながらここにも当該資料は見当たりませんでした。(2019年11月25日)
   
    4. 『木喰上人之研究』第四号の「六號雜記」の中に、柳宗悦氏が、
〇此號に未知の人前田香徑氏から研究報告を得た事を嬉しく思ふ。之によつて私が未だ手をつけ得なかつた觀海上人の略傳を知るを得て深く感謝する。
と書いておられます。(『柳宗悦全集』著作篇第七巻、筑摩書房・昭和56年2月5日初版発行による。)
自叙傳註解」に、「上人が木食戒を受けたのは四十五歳の時、即ち寶暦十二年の事であつた。彼の師であつたと云ふ常陸國の木喰觀海上人の事に就ては、まだ何事も知られておらぬ」とあります。(『柳宗悦全集』著作篇第七巻、26頁。「木喰觀海上人」は原文のママ)
   
    5. この前田香徑「木食観海上人に就て」の本文は、茨城県立図書館にお尋ねして山梨県立図書館所蔵のものを紹介していただき、山梨県立図書館から入手したものです。また、「文政十年亥十一月 寺社方」という古文書について、茨城県立歴史館の方にいろいろお世話になりました。関係の皆様に厚く御礼申し上げます。    
    6. 筆者の前田香徑(まえだ・こうきょう)(1893~1968)は、水戸市生まれの郷土史家。本名・徳之助。明治26年(1893)、水戸市清水町(現・本町2丁目)に生まれる。水戸中学から早稲田大学文学部に進学するが、学資の送金を止められて中退。代用教員を経て水戸第14工兵大隊に入隊。除隊後、日本専売局へ入社。中国天津市に出向し、昭和2年(1927)まで中国で生活。帰国後は市内の印刷所に勤めながら水戸市議会議員を3期務める。昭和42年(1967)、勲5等瑞宝章を受章。昭和43年(1968)、没。享年75。著書に『水戸を語る』『明治大正の水戸を行く』『立原翠軒』『茨城富豪盛衰記』『茨城の伝説』『江戸時代の水戸を語る』などがある。<この項は、『水戸の先人たち』(平成22年3月31日、水戸市教育委員会発行)によって記述しました。この項の筆者は前田陽一氏。>    


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