資料580 佐藤春夫「望郷五月歌」



       望 郷 五 月 歌    
                 
佐 藤  春 夫

(ちり)まみれなる街路樹(がいろじゆ)
哀れなる五月(さつき)來にけり
石だたみ都大路(みやこおほぢ)を歩みつつ
戀ひしきや何(な)ぞわが古里(ふるさと)
あさもよし木(き)の國の
牟婁(むろ)の海山(うみやま)
夏みかんたわわに實(みの)
(たちばな)の花さくなべに
とよもして啼くほととぎす
心して、な散らしそかのよき花を
朝霧(あさぎり)か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狹霧(さぎ)らふ
朝雲(あさぐも)か望郷の
わが心こそ
そこにいさよへ
空靑し山靑し海靑し
日はかがやかに
南國(なんごく)の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ
心も輕(かろ)くうれしきに
(わた)の原(はら)見はるかすとて
のぼり行く山邊の徑(みち)
杉檜樟(くす)の芽吹(めぶ)きの
花よりもいみじく匂ひ
かぐはしき木の香(か)(くん)じて
のぼり行く徑(みち)いくまがり
しづかにも昇(のぼ)る煙の
見まがふや香爐の煙
山賤(やまがつ)が吸ひのこしたる
(ひな)ぶりの山の煙草の
椿の葉焦(こ)げて落ちたり
(いにしへ)の帝王たちも通はせし
(を)の上(へ)の徑(みち)は果てを無(な)
ただつれづれに
通ふべききはにあらねば
目を上げてただに望みて
いそのかみふるき昔をしのびつつ
そぞろにも山を降(く)だりぬ
歌まくら塵(ちり)の世をはなれ小島(をじま)
立ち騷ぐ波もや見むと
辿(たど)り行く荒磯(ありそ)石原(いしはら)
丹塗舟(にぬりぶね)影濃きあたり
若者の憩(いこ)へるあらば
海の幸(さち)(いさな)捕る船の話も聞くべかり
且つは聽け
浦の濱木綿(はまゆふ)幾重(いくへ)なす松の下かげ
いざさらば
心ゆく今日のかたみに
荒海の八重(やへ)の潮路(しほぢ)を運ばれて
流れよる千種(ちぐさ)百種(ももぐさ)
貝がらの數を蒐(あつ)めて歌にそへ
贈らばや都の子等に



  (注) 1.  この「望郷五月歌」の本文は、岩波文庫『春夫詩抄』(佐藤春夫著、昭和11年3月30日第1刷発行、昭和38年8月16日第24刷改版発行、昭和41年4月10日第28刷発行)によりました。この詩は「殉情詩集」の「失眠雑詩」に収められています。    
    2.  岩波文庫の『春夫詩抄』は、昭和11年(1936)3月30日に『春夫詩鈔』として出版され、昭和25年(1950)10月10日『増補 春夫詩鈔』(第9刷増補正字旧かな)、昭和38年(1963)8月16日『春夫詩抄』(第24刷補訂正字旧かな)となって現在に至っています。(以上、『岩波文庫総目録』1987年7月16日第1刷発行による。)
 → 岩波文庫『春夫詩抄』
   
    3.  詩のルビは、括弧に入れて示しました。    
    4.  吉田精一著『日本近代詩鑑賞』大正篇(新潮文庫、昭和28年6月5日発行、昭和28年11月30日2刷)にこの詩が取り上げられてあり、そこにこの詩の題名の読み方と詩の成立について、
 「望郷五月歌」はゴグヮツカといふのが正しい。やむを得ざれば「ゴグヮツのウタ」と讀まれても仕方がない、と作者は言つてゐる。文中に「サツキ」があつても「サツキのウタ」とよむべきではない。この作品は春夫詩中の佳作で、作者も好んでゐるらしい。この詩が作られたのは昭和六年五月、最初にのつた單行書は「閑談半日」である。
とあります。(同文庫、226頁)
 なお、『定本佐藤春夫全詩集』(昭和27年、創元社刊)には、詩の題名「望郷五月歌」に「ばうきやうごがつか」と振り仮名が付いています。
また、「閑談半日」は昭和9年(1934)に白水社から出版されたものです。

 関良一 校訂・注釈・解説、近代文学注釈大系『近代詩』(有精堂、昭和38年9月10日発行、昭和39年12月20日再版発行)には、
 「婦人公論」昭和六年六月発表
 『閑談半日』昭和九年七月刊所収
 『春夫詩鈔』昭和十一年三月刊再収

とあります。
 つまり、「望郷五月歌」は、昭和6年(1931)5月に作られ、翌月6月1日発行の『婦人公論』(第16巻第6号)に掲載され、昭和9年(1934)7月5日、白水社から刊行された『閑談半日』に収録され、岩波文庫には昭和11年(1936)3月30日発行の『春夫詩鈔』に入った、ということになります。

 近代文学注釈大系『近代詩』の頭注も大変参考になります。
 この本の補注に、「「即興詩人」とこの詩との関連についても同書(引用者注、吉田精一著『日本近代詩鑑賞』大正篇のこと)を参照」とあります。
   
    5.  吉田精一著『日本近代詩鑑賞』大正篇では、『定本佐藤春夫詩集』を底本とした、とあります。これは『定本佐藤春夫全詩集』が正しいのではないでしょうか。(『定本佐藤春夫全詩集』は、創元社、昭和27年10月20日初版発行。創元選書)
 岩波文庫『春夫詩抄』掲載の詩の本文と『定本佐藤春夫全詩集』の本文との違いは次のようです。
     『定本佐藤春夫全詩集』  岩波文庫『春夫詩抄』
    戀しきや
古郷(ふるさと) 
戀ひしきや      
古里(ふるさと)
    紀の國 (き)の國
    心してな散らしそ(読点なし) 心して、な散らしそ
    心も輕く(ルビなし)  心も輕(かろ)(ルビあり)
    (わだ)の原(はら)   海(わた)の原 (前者は「わだ」と濁っています)
    見逈かさんと  見はるかすとて
    山邊の道  山邊の徑(みち) 
    のぼり行く路 のぼり行く徑(みち)
    登る煙 (のぼ)る煙
    山樵(やまがつ) 山賤(がつ)
    尾の上の道  (を)の上(へ)の徑(みち)
    山を下りぬ  山を降(く)だりぬ
    はなれ小島(こじま) はなれ小島(をじま)
    且つは問へ  且つは聽け
    幾重なすあたり何處(いづく) 幾重(いくへ)なす松の下かげ 
    數を集あつ)めて 數を蒐((あつ)めて
              
   
    6.  吉田精一著『日本近代詩鑑賞』大正篇(新潮文庫)から一部を引かせていただきます。
 以上一篇を通觀して見ると、作者が泣菫の「望郷の歌」のやうに「もし現在故郷にあれば……であらう」といふやうな歌ひ方をせず、今自分が事實故郷にゐるものとして、その感情を直接に叙してゐることが、何としてもこの詩の特色となつてゐる。これはブラウニングの "Home thought from abroad" などと等しい行き方であつて、その爲に感情が生き生きと動き、はつらつとした感じをあたへる。それに何といつても作者の強い郷土愛が中核をなし、ロマンティックな情趣の美しい昂揚がある。萬葉、鐵幹、晶子等の歌を踏まへたのは、衒はんが爲でなく、かくも樣々の人に歌はれてゐることを、お國自慢のあらはれとききとつてほしいと作者は私に語つた。『即興詩人』による聯想も、或は作者が南方イタリヤの美景をわが郷土紀伊に見出したのであらう。(同文庫、236頁)
   
    7.  昭和34年(1959)に建てられた「望郷五月歌」の詩碑(陶板に焼き付けたもの)が、和歌山県新宮市新宮1番地の熊野速玉大社境内にあるそうです。
 詩の冒頭19行が、春夫自筆の変体仮名を交えた筆跡で書かれています。
  望郷五月歌
塵まみれなる街路樹に
哀れなる五月(さつき)来にけり
石だたみ都大路を歩みつつ
恋しきや何(な)ぞわが古郷(ふるさと)
あさもよし紀の国の
牟婁の海山
夏みかんたわわに実り
たちばなの花さくなへに
とよもして啼くほととぎす
心して勿(な)散らしそかのよき花を
朝霧か若かりし日の
わが夢ぞ
そこに狹霧(さぎ)らふ
朝雲か望郷の
わがこころこそ
そこにいさよへ
空靑し山靑し海靑し
日はかがやかに
南国の五月晴(さつきばれ)こそゆたかなれ
    佐藤春夫

(「花さくなへに」の「へ」は清音になっているようです。)

 〇【日本の写真集 デジタル楽しみ村】『南紀州の文学散歩』というホームページで、和歌山県新宮市の熊野速玉大社の境内にあるこの詩の詩碑の写真が見られます。写真をクリックすると拡大写真になります。(ここには、JR紀伊勝浦の駅前にある「秋刀魚の歌」の詩碑の写真も出ています。)
 
【日本の写真集 デジタル楽しみ村】『南紀州の文学散歩』
   
           





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