資料56 謡曲『桜川』(観世流) 



       謡曲『桜川』(観世流)
                       世阿弥元清


登場人物
   ワキヅレ(人商人<ひとあきびと>)
   シテ(母)
   ワキヅレ(里人<さとびと>)
   子方(桜子<さくらご>)
   ワキ(磯部寺の住僧)
   ワキヅレ(従僧)二人
   後ジテ(母・狂女)
             


            第  一  場

         一
 「かやうに候(そおろお)者は、東国方(とおごくがた)の人商人(ひとあきびと)にて候(そおろお)。われ久しく都に候ひしが、この度(たび)は筑紫日向(つくしひうが)に罷(まか)り下りて候。また昨日(きのお)の暮ほどに幼き人を買ひ取りて候。かの人申され候は、この文(ふみ)と身の代(しろ)とを、桜の馬場の西にて桜子(さくらご)の母(はわ)と尋ねて、確かに届けよと仰せ候ほどに、唯今桜子の母(はわ)の方(かた)へと急ぎ候。
 このあたりにてありげに候。まづまづ案内(あんない)を申さばやと存じ候。

         二
 「いかに案内申し候(そおろお)。桜子(さくらご)の母(はわ)のわたり候か。
 シテ「誰(たれ)にてわたり候ぞ。
 「さん候(ぞおろお)桜子の御方(おんかた)より御文(おんふみ)の候。またこの代物(しろもの)を確かに届け申せと仰せ候ほどに、これまで持ちて参りて候。かまへて確かに届け申すにて候。
 シテ「あら思ひよらずや。まづまづ文(ふみ)を見(み)うずるにて候。さてもさてもこの年月(としつき)の御有様(おんなりさま)、見るもあまりの悲しさに、
 人商人(ひとあきびと)に身を売りて、東(あづま)の方(かた)へ下り候。
 のうその子は売るまじき子にて候ものを。や、あら悲しや。はや今の人も行(ゆ)き方(がた)知らずなりて候(そおろお)はいかに。
 これを出離(しゆツり)の縁として、御様(おんさま)をも変へ給ふべし。唯(ただ)返す返すも御名残(おんなごり)こそ惜しう候へ。
  名残(なごり)惜しくは何しにか添はで母(はわ)には別るらん。
ひとり伏屋(ふせや)の草の戸の、ひとり伏屋の草の戸の、明かし暮らして憂き時も子を見ればこそ慰むに、さりとてはわが頼む、神も木華開耶姫(このはなさくやひめ)の、御氏子(おんぬぢこ)なるものを桜子とめてたび給へ。さなきだに住みうかれたる古里(ふるさと)の、今は何にか明暮(あけくれ)を、堪へて住むべき身ならねば、わが子の行方(ゆくえ)尋ねんと、泣く泣く迷ひ出でて行(ゆ)く泣く泣く迷ひ出でて行く。                               
                                       (中入)

            第  二  場

         一
 ワキツレ(次第)頃待ち得たる桜狩頃待ち得たる桜狩山路(やまぢ)の春に急がん。
 ワキ「これは常陸の国磯辺寺(いそべでら)の住僧(ぢうそお)にて候。又これにわたり候幼き人は、いづくとも知らず愚僧を頼む由仰せ候ほどに、師弟の契約(けいやく)をなし申して候。又このあたりに桜川とて花の名所の候。今を盛りの由申し候ほどに、幼き人を伴ひ、唯今桜川へと急ぎ候。
 ワキツレ「筑波山(つくばやま)、このもかのもの花盛り、このもかのもの花盛り、雲の林の蔭(かげ)茂き、緑の空もうつろふや松の葉色も春めきて、嵐も浮かむ花の波、桜川にも着きにけり、桜川にも着きにけり。

         二
 里人「いかに申し候。何とて遅く御出(おんに)で候ぞ待ち申して候。
 ワキ「さん候(ぞおろお)皆々御供(おんとも)申し候ほどに、さて遅(おそ)なはりて候。あら見事や候(ぞおろお)。花は今を盛りと見えて候。
 里人「なかなかのこと花は今が盛りにて候。又ここに面白き事の候。女物狂  (をんなものぐるい)の候が、美しき抄(すく)ひ網を持ちて、桜川に流るる花をすくひ候が、けしからず面白う(おもしろお)狂ひ候。これに暫く御座候ひて、この物狂を幼き人にも見せまゐらせられ候へ。
 ワキ「さらばその物狂を此方(こなた)へ召され候へ。
 里人「心得申し候。
 やあやあかの物狂に、いつもの如く抄ひ網を持ちて、此方(こなた)へ来(きた)れと申し候へ。

         三
 後ジテ「いかにあれなる道行人(みちゆきびと)、桜川には花の散り候か。
  なに散りがたになりたるとや。悲しやなさなきだに、行(ゆ)く事やすき春の水の、流るる花をや誘ふ<さそお>らん。
  花散れる水のまにまにとめ来れば、山にも春はなくなりにけりと聞く時は、少しなりとも休らはば、花にや疎(うと)く雪の色。
  桜花。
                ──シテのカケリ
 シテ「桜花、散りにし風の名残(なごり)には、
  水なき空に、波ぞ立つ。
 シテ「思ひも深き花の雪、
  散るは涙の、川やらん。
 シテ「(サシ)これに出(い)でたる物狂の、故郷(こきよお)は筑紫日向(つくしひうが)の者、さも思ひ子(ご)を失ひて、思ひ乱るる心筑紫(こころづくし)の、海山越えて箱崎の、波立ち出でて須磨の浦、又は駿河の海過ぎて常陸とかやまで下り来ぬ。げにや親子の道ならずは、遙けき旅を、如何(いか)にせん。
  ここにまた名に流れたる桜川とて、さも面白き名所あり。
  別れし子の名も桜子(さくらご)なれば、形見といひ折柄(をりから)といひ、名もなつかしき桜川に、
 地 散り浮く花の雪を汲みて、みづから花衣(はなごろも)の春の形見残さん。花鳥(はなとり)の、立ち別れつつ親と子の、立ち別れつつ親と子の、行方も知らで天(あま)ざかる、鄙(ひな)の長路(ながぢ)に衰へば、たとひ逢ふ<おお>とも親と子の面(おも)忘れせばいかならん。うたてや暫しこそ、冬ごもりして見えずとも、今は春べなるものをわが子の花はなど咲かぬわが子の花はなど咲かぬ。
 
           四
 ワキ「この物狂の事にてありげに候。立ち寄りて尋ねばやと思ひ候。
 いかにこれなる狂女、おことの国里(くにさと)はいづくの人ぞ。
 シテ「これは遙かの筑紫の者にて候。 
 ワキ「それは何とてかやうに狂乱(きよおらん)とはなりたるぞ。
 シテ「さん候(ぞおろお)ただ一人ある忘れ形見(がたみ)の緑子(みどりこ)に生きて離れて候ほどに思ひが乱れて候。
 ワキ「あら痛はしや候(ぞおろお)。また見申せば美しきすくひ網を持ち、流るる花をすくひ、あまつさへ渇仰(かつごお)の気色(けしき)見え給ひて候は、何と申したる事にて候ぞ。
 シテ「さん候(ぞおろお)わが古里の御神(おんがみ)をば、木華開耶姫(このはなさく やひめ)と申して、御神体は桜木にて御入(おんに)り候。されば別れしわが子もその御氏子(をんぬぢこ)なれば、桜子(さくらご)と名づけ育てしかば、
 神の御名(おんな)も開耶姫(さくやひめ)、尋ぬる子の名も桜子にて、又この川も桜川の、名もなつかしき、花のちりを、あだにもせじと思ふなり。
 ワキ「謂(い)はれを聞けば面白や。げに何事も縁は<えんな>ありけり。さばかり遠き筑紫より、この東路(あづまぢ)の桜川まで、下り給ふも縁よ<えんによ>のう<のお>。
 シテ「まづこの川の名に負ふこと、遠きにつきての名誉あり。かの貫之が歌は如何(いか)に。
 ワキ「げにげに昔の貫之も、遙けき花の都より、
 シテ「未(いま)だ見もせぬ常陸の国に、
 ワキ「名も桜川、
 シテ「ありと聞きて、
  常よりも、春べになれば桜川、春べになれば桜川、波の花こそ間(ま)なく寄すらめと詠みたれば花の雪も貫之も古き名のみ残る世の、桜川、瀬々(せぜ)の白波繁ければ、霞うながす、信太(しだ)の浮島の浮かめ浮かめ水の花げに面白き河瀬(かわせ)かなげに面白き河瀬かな。

         五
 ワキ「いかに申し候。この物狂は面白う狂ふと仰せ候(そおろお)が、今日は何とて狂ひ候はぬぞ。
 里人「さん候(ぞおろお)狂はするやうが候、桜川に花の散ると申し候へば狂ひ候ほどに、狂はせて御目(おんめ)にかけう<かきよお>ずるにて候。
 ワキ「急いで御狂(おんくる)はせ候へ。
 里人「心得申し候。
  あら笑止や。俄かに山嵐(やまおろし)のして桜川に花の散り候よ。
 シテ「よしなき事を夕山風の、奥なる花を誘ふ<さそお>ごさめれ。流れぬ先に花すくはん。
 ワキ「げにげに見れば山嵐(やまおろし)の、木々の梢に吹き落ちて、
 シテ「花の水嵩(みかさ)は白妙の、
 ワキ「波かと見れば上(うえ)より散る。
 シテ「桜か、
 ワキ「雪か、
 シテ「波か、
 ワキ「花かと、
 シテ「浮き立つ雲の、
 ワキ「川風に、
 地(次第)散ればぞ波も桜川、散ればぞ波も桜川、流るる花をすくはん。
 シテ「花の下(もと)に、帰らん事を忘れ水の、  
 地 雪を受けたる、花の袖。
       ──シテのイロエ。
 
            六  
 シテ(クリ)それ水流(すゐりう)花落ちて春、とこしなへにあり。
  月すさましく風高(たこ)うして鶴帰らず。
 シテ(サシ)岸花(がんくわ)紅(くれなゐ)に水を照らし、洞樹(とおじゆ)緑に風を含む。
  山花(さんくわ)開けて錦に似たり、澗水(かんすゐ)たたへて藍(あゐ)の如し。
 シテ「面白や思はずここに浮かれ来て、
  名もなつかしみ桜川の、一樹(いちじゆ)の蔭(かげ)一河(いちが)の流れ、汲みて知る名も所からあひにあひなば、桜子の、これまた他生(たしよお)の縁なるべし。
 (クセ)げにや年を経て、花の鏡となる水は、散りかかるをや、曇るといふらん。まこと散りぬれば、後(のち)は芥(あくた)になる花と、思ひ知る身もさていかに。われも夢なるを花のみと見るぞはかなき。されば梢より、あだに散りぬる花なれば、落ちても水のあはれとはいさ白波の花にのみ、馴れしも今はさきだたぬ悔(くい)の八千度(やちたび)百千鳥(ももちどり)、花に馴れ行(ゆ)くあだし身は、はかなき程に羨まれて、霞をあはれみ露をかなしめる心なり。
 シテ「さるにても、名にのみ聞きて遙々と、
  思ひわたりし桜川の、波かけて常陸帯(ひたちおび)の、かごとばかりに散る花を、あだになさじと水をせき雪をたたへて浮波の、花の柵(しがらみ)かけまくも、かたじけなしやこれとても、木華開耶姫の御神木の花なれば、風もよぎて吹き水も影を濁すなと、袂をひたし裳裾(もすそ)をしをらかして、花によるべの、水せきとめて桜川になさうよ。

         七
 シテ「あたら桜の、
  あたら桜の、とがは散るぞ恨みなる。花も憂(う)し風もつらし、散ればぞ誘ふ<さそお>、
 シテ「誘へばぞ散る花かづら。
  かけてのみ詠(なが)めしは、
 シテ「なほ青柳(あをやぎ)の糸桜。
  霞の間(ま)には、 
 シテ「樺桜(かばざくら)。
  雲と見しは、
 シテ「三吉野の、
  三吉野の、三吉野の、川淀(かわよど)瀧(たき)つ波の、花をすくはば若(も)し、国栖魚(くずいを)やかからまし。または桜魚(さくらいを)と、聞くもなつかしや。いづれも白妙の、花も桜も、雪も波も皆(みな)がらに、すくひ集め持ちたれども、これは木々の花まことは、わが尋ぬる、桜子(さくらご)ぞ恋しきわが桜子ぞ恋しき。

          八
 地(ロンギ) いかにやいかに狂人(きよおじん)の、言(こと)の葉(は)聞けば不思議やな。もしも筑紫の人やらん。
 シテ「今までは、誰(たれ)ともいさや不知火(しらぬい)の、筑紫人(つくしびと)かとのたまふは何(なに)のお為に問ひ給ふ。
  何をか今は包むべき。親子の契り朽ちもせぬ、花桜子ぞ御覧ぜよ。
 シテ「桜子と、桜子と、聞けば夢かと見も分かずいづれわが子なるらん。
  三年(みとせ)の日数(ひかず)程古(ふ)りて、別れも遠き親と子の、
 シテ「もとの姿は変れども、
  さすが見馴れし面(おも)だてを、
 シテ「よくよく見れば、
  桜子の、花の顔(かお)ばせの、こは子なりけり鶯の、あふ<おお>時も鳴く音(ね)こそ嬉しき涙なりけれ。
  かくて伴ひ立ち帰り、かくて伴ひ立ち帰り、母(はわ)をも助け様(さま)変へて、仏果(ぶツくわ)の縁となりにけり。二世(にせ)安楽の縁深き、親子の道ぞありがたき親子の道ぞありがたき。                                            (留拍子)



  (注) 1. 上記の「謡曲『桜川』(観世流)」の本文は、『解註 謡曲全集』巻三(野上豊一郎編・中央公論社、昭和59年11月25日初版発行)によりました。    
    2.  上記の『解註 謡曲全集』の謡曲『桜川』の本文は、ルビが総ルビになっていますが、ここでは主なものだけを残して、他は省略しました。    
    3. 上記の本文では、「皆皆」「瀬瀬」「木木」などは、繰り返し符号を用いずに表記されていますが、ここでは「皆々」「瀬々」「木々」のように、繰り返し符号を用いて表記しました。    
    4.  「四」に出てくる紀貫之の歌「常よりも春べになれば桜川波の花こそ間なく寄すらめ」について。

(1) 東洋文庫452『八代集1』(全4巻・奥村恒哉校注、平凡社・1986年1月24日初版第1刷発行)の「後撰和歌集」巻第三に、
      桜川といふ所ありときゝて        貫之
 107 つねよりも春へになれはさくら川なみの花こそまなくよすらめ
と出ています。
東洋文庫の『八代集』の底本は、凡例に、「国立国会図書館蔵(榊原芳野旧蔵本)『八代集』(全16冊、正保4年刊)を底本とし、宮内庁書陵部蔵『八代集』(全8冊、室町中期写)、及び北村季吟『八代集抄』(抄本)をも参照した。」とあります。
この底本は、中世の末以来近世を通じ、さらに明治・大正・昭和の初期まで流布本として通用した木版本だということです。

(2) 新日本古典文学大系6『後撰和歌集』巻三・春下(片桐洋一校注、岩波書店・1990年4月20日第1刷発行)には、
      さくら河といふ所ありと聞きて     つらゆき  
 107 常よりも春べになればさくら河花の浪こそ間なく寄すらめ             
と、第4句が「波の花こそ」ではなく、「花の浪こそ」として出ています。
新日本古典文学大系『後撰和歌集』の底本は、藤原定家天福2年書写本を江戸時代に透写した国立歴史民俗博物館蔵<高松宮旧蔵>本の由です。(ただし、底本の表記は、「さくら河といふ所ありときゝて つらゆき  常よりも春へになれはさくら河花の浪こそまなくよすらめ」です。)

本来、「花の浪」であったものが、いつのころからか「波の花」として伝えられるようになったものと思われます。それにしても、新日本古典文学大系『後撰和歌集』のこの歌の注釈に、「波の花こそ」という句の形について一言も触れられていないのは、どうしたことでしょうか。

※1 京都大学貴重資料デジタルアーカイブで、定家本『後撰和歌集』が画像が見られます。ここでも、「花の浪」となっています。
   →  京都大学貴重資料デジタルアーカイブ    
     →  定家本『後撰和歌集』
※2 國學院大學デジタルライブラリーで、飛鳥井雅俊筆の『後撰和歌集』(室町後期の写本)が見られます。ここも、「花の浪」となっています。
 『國學院大學デジタルライブラリー』  
    → 飛鳥井雅俊筆『後撰和歌集』
   
    5.  また、謡曲『桜川』のふるさと、桜川市磯部(旧・岩瀬町磯部)の桜川磯部稲村神社境内には上の歌の碑がありますが、その歌碑には、「いつよりも春べになればさくら河波の花こそまなくよすらめ」と、初句が「いつよりも」となっており、第4句は東洋文庫の『八代集』や謡曲『桜川』と同じく「波の花こそ」となっています。  
室伏勇著『写真で綴る文化史シリーズⅠ茨城の文学碑』(暁印書館、昭和54年1月20日初版発行・昭和56年11月20日再版発行)によれば、この歌碑の左手に別に「桜川碑陰記」があり、それによると、歌碑は天保14(1843)年の建立、書は笠間藩の学者加藤桜老の揮毫によるもの、また、碑陰記の撰文は加藤桜老、揮毫は笠間藩の少監物兼書博士の加茂保誠の由です。
   
    6.  『解註 謡曲全集』及び『謡曲大観』第2巻(明治書院・昭和5年12月5日発行、昭和58年10月10日影印版再版発行)の本文(同じく観世流)では、寺の名前が「磯辺寺」とありますが、新潮日本古典集成 『謡曲集 中』(伊藤正義校注、昭和61年3月10日発行・平成元年9月10日二刷。底本は、光悦謡本の特製本(鴻山文庫本)に拠り、上製本(同上)を対校して補正した、と凡例にあります。)には、「磯部寺」となっています。     
    7.  ここで、 『解註 謡曲全集』の本文と新潮日本古典集成 『謡曲集 中』の本文との主な異同を見ておきます。

      『解註 謡曲全集』←→ 『謡曲集 中』(新潮日本古典集成)
第一場
 [一] この文と身の代とを  ←→  この文と身の代を(「身の代とを」の「と」の有無)
 [二] 桜子の御方より御文の候  ←→  桜子のおん方より文の候(「御文」の「御」の有無)
   この代物を確かに届け申せと  ←→  この代物を届け申せと (「確かに」の有無)
     かまへて  ←→  構ひて (「へ」と「ひ」)
   確かに届け申すにて候 ←→  確かに渡し申すにて候 (「届け」と「渡し」) 
   東の方へ下り候  ←→  東の方に下り候 (「へ」と「に」)
          御氏子(おんぬぢこ)  ←→  おん氏子(ヌジゴ) (「こ」と「ゴ」の清濁)

第二場
 [一]   磯辺寺  ←→  磯部寺 (「辺」と「部」)
   師弟の契約をなし申して候  ←→  師弟の契約を申して候 (「なし」の有無)
    幼き人を伴ひ  ←→  幼き人を伴ひ申し (「申し」の有無)
 [二]  花は今を盛りと見えて候  ←→  今を盛りと見えて候 (「花は」の有無)
   いつもの如く抄ひ網を  ←→  いつもの掬ひ網を (「如く」の有無)
 [四]   いづくの人ぞ  ←→  いづくの者ぞ (「人」と「者」)
   渇仰の気色見え給ひて候は  ←→ 渇仰の気色見え給ふは(「給ひて候は」と「給ふは」)
  わが子もその御(おん)氏子(ぬぢこ)なれば 
             ←→ わが子もおん氏子(ヌジゴ)なれば (「その」の有無と、「こ」と「ゴ」)
    遠きにつきての名誉あり  ←→  遠きにつきて名誉あり (「の」の有無)
 [五]    浮き立つ雲の  ←→  浮き立つ波の (「雲」と「波」)
 [七]  かけてのみ詠(なが)めしは ←→  かけてのみ眺(ナガ)めしは (「詠」と「眺」)
   
    8.  次に、 『解註 謡曲全集』の本文と、『謡曲大観』第2巻の本文との異同を見ておきます。
          
      『解註 謡曲全集』  ←→ 『謡曲大観』
第一場
 [二] のうその子は売るまじき子  ←→ なうその子は売るまじき子 (「のう」と「なう」)
第二場
 [四]   御氏子(おんぬぢこ)  ←→  御氏子(おんぬぢご) (「こ」と「ご」の清濁)
  <ただし、『謡曲大観』の第一場 [二] は御氏子(おんぬぢこ)となっています。>
   
    9.  桜川市磯部(旧・岩瀬町磯部)の桜川磯部稲村神社の参道とその右斜面に植えられている桜は、古来、磯部百色桜(いそべももいろざくら)として知られてきた桜だそうです。
 桜は、東北産の白山桜(しろやまざくら)とその変種で、学術上貴重な珍種銘木が多いということですが、古木が枯れたあとに、ソメイヨシノや山桜が補植されているようです。
 この一帯は、「桜川(サクラ)」の名称で、大正13(1924)年、「名勝」として国の文化財指定を受けました。また、桜は「桜川のサクラ」として、昭和49(1974)年7月16日、国の天然記念物の指定を受けています。
   
    10.  磯部稲村神社に伝わる『花見噺』(桜児物語)が、『磯部稲村神社と謡曲桜川』(磯部祐親著、1975年刊)に掲載されています。
 伝承によれば、室町時代の永享10年(1438年)、将軍足利義教の時代に、磯部神社 の宮司・祐行が、時の関東管領・足利持氏に「花見物語」を献上、それが将軍足利義教の目にとまり、義教がそれをもとに世阿弥元清に謡曲『桜川』を作らせた、とされているそうです。
 上記の本には、「室町期、将軍足利義教永享十年時の関東管領足利持氏に、磯部大明神神主祐行花見物語りを献上、持氏観世阿弥元清をして桜川を作さしむ」とあります(同書、67 頁)。
 この記述については、足利持氏は関東管領ではなく、鎌倉公方であること、永享10年(1438年)当時、世阿弥は佐渡に流されていたこと、などから、いろいろ問題があるようです。
   
    11. 桜川は、桜川市山口(旧・岩瀬町山口)の鏡ヶ池に源を発し、磯部を西流、筑波山の南麓を南流、土浦を経て霞ヶ浦に注いでいます。    
    12. 「櫻川磯部稲村神社」のホームページがあって参考になりますので、ぜひご覧ください。 残念ながら現在は見られないようです。(2016年9月30日)
〇Facebook に「櫻川磯部稲村神社」が入っています。(2017年10月28日現在)
「桜川市観光協会」のホームページに、「櫻川磯部稲村神社」の紹介が出ています。
〇 「謡曲の舞台 桜川磯部稲村神社を訪れる」というページがあって、参考になります。  
 『宇田川さんちのホームページ』
  → 「謡曲の舞台 桜川磯部稲村神社を訪れる」
            (2019年4月24日付記)
   
    13.  白洲正子さんに「桜川匂ひ」という文章があります。(初出は『芸術新潮』1977年8月号、後に『道』(新潮社、1979年11月発行)、『行雲抄』(世界文化社、1999年11月1日 初版第1刷発行)に収められました。その中から、少し引用させていただきます。

 本殿のまわりも、大木の桜で埋まっているが、中にひときわ目に立つこまやかな花があった。どの花よりも色が濃く、みっしり咲いた枝を重たげに垂れて、時折思い出したようにはらはらと散っている。その姿は桜子のなまめいた容姿と、花に狂う狂女の面影を彷彿とさせるようであった。
 宮司さんにうかがうと、この花の名を「桜川匂ひ」といい、木花開耶比売の御神体になっている。が、育てるのが大そうむつかしい品種で、本殿のわきにある神木のほかには、邸内の若木が一本遺っているにすぎない。今、復活させるのに一所懸命になっているのです、といわれた。
 桜は繊細な植物である。名木であるほど放っておいたのでは育たない。根尾の「淡墨桜」も、飛騨の「臥龍(がりょう)の桜」も、桜にとりつかれた人間が、一心に世話をしたから遺ったのである。『桜川』の狂女ならずとも、桜には人を狂わせるものがあるらしい。(『行雲抄』117~118頁)

   
    14. 『国立国会図書館デジタルコレクション』に収録されている『観世流改訂謡本百二十番集』第7巻の中に「桜川」があり、その詞章を画像で見ることができます。(13~27 / 119)
『観世流改訂謡本百二十番集』 第7巻は、訂正者:丸岡桂、観世流改訂本刊行会・大正15年11月5日発行です。
   
    15. 桜川(さくらがわ)=1.茨城県中部、栃木県境にある市。桜川の上・中流域に位置し、サクラの名所として知られる。南部の真壁町はもと城下町。人口4万8千。2.能。世阿弥作の狂女物。日向の少年桜子は貧窮のため人買いに身を売る。その母は物狂いとなるが、常陸の桜川で子にめぐりあう。3.地歌・筝曲。京風手事物。光崎検校作曲。2の詞章を借り、桜川の美しさをたたえる。
謡曲(ようきょく)=能楽の詞章。また、その詞章をうたうこと。能の謠(うたい)。(以上、『広辞苑』第6版による。)
   
    16.  世界文化社発行の『家庭画報』2011年4月号に、特集「桜川の桜へ 幻の桜源郷を訪ねて」が載っています。(2012年5月17日付記)    
    17.  『常陽藝文』1987年3月号(通巻46号・常陽藝文センター発行)に、藝文風土記「謡曲「桜川」の舞台─岩瀬町磯部とその周辺」が出ています。    
    18. 『国立国会図書館デジタルコレクション』 で、三好学著『桜花図譜』上巻下巻(芸艸堂、大正10年5月15日発行)を見ることができます。この本は、世に桜川の桜を紹介した貴重な資料とされています。    
    19.  国立国会図書館の『歴史的音源』の中に、宝生流能楽師・松本長(まつもと・ながし)氏による謡曲「桜川」の1節が収められていて聞くことができます。これは昭和10年に発売されたコロムビアレコードによるものです。
 国立国会図書館『歴史的音源』→ 謡曲「桜川」(上)
   → 謡曲「桜川」(下)

(上)は、第二場「六」の終わりの部分、「さるにても、名にのみ聞きて遥々と、思ひわたりし桜川の、波かけて常陸帯の、かごとばかりに散る花を、………木華開耶姫の御神木の花なれば、風もそよぎて吹き水も影を濁すなと、袂をひたし裳裾をしをらかして、花によるべの、水せきとめて桜川になさうよ」の部分が。
(下)は、前からの続き、第二場「七」の「あたら桜の、あたら桜の、とがは散るぞ恨みなる。花も憂し風もつらし、散ればぞ誘ふ、誘へばぞ散る花かづら。………いづれもいづれも白妙の、花も桜も、雪も波も皆(みな)がらに、すくひ集め持ちたれども、これは木々の花まことは、わが尋ぬる、桜子ぞ恋しきわが桜子ぞ恋しき。」の部分が謡われています。

 なお、ここの「音源紹介」に、椙山女学園大学教授・飯塚恵理人氏の「レコードによる謡曲の普及と東京一極集中へ」という解説記事があり、そこで飯塚氏は、
  (前略)謡を吹き込んだレコードも鑑賞して楽しむためのものではなく、その謡の稽古に励む素人弟子がこれを聴いて不明なところの参考にするためのものであった。明治後期に広く販売されるようになった謡曲レコードは、まだラジオのない時代、東京在住の名人の声を地方の人々に届けた。レコードによって謡曲師匠があまりいない地域や稽古場が少ない地域へも能楽が普及していくと同時に、これで稽古した人々がレコードに吹き込まれた東京の名人、多くは流儀の家元の謡い方に合わせて謡い、またそれを教えるようになった。(後略)
と書いておられます。(詳しくは「音源紹介」を参照のこと。)
   
    20.  YouTubeにもこの同じレコードが出ていて、ここでも「桜川」の同じ部分を聞くことができます。
  YouTube → 謡曲「桜川」(松本長)
   
           





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