資料561 常陸国風土記「筑波郡」




          
常陸國風土記 筑波郡     
  

 

     

 

 

筑波郡 東茨城郡 南河内郡

 

 

      西毛野河 北筑波岳

 

 

 

 

 

古老曰筑波之縣古謂紀國美万貴天皇之世遣采女臣友屬筑簞命於紀國之國造時筑簞命云欲令身名者着國後代流傳即改本號更稱筑波者風俗説云握飯筑波之國(以下略之)
古老曰昔神祖尊巡行諸神之處到駿河國福慈岳卒遇日暮請欲遇宿此時福慈神答曰新粟初甞家内諱忌今日之間冀許不堪於是神祖尊恨泣詈告曰即汝親何不欲宿汝所居山生涯之極冬夏雪霜冷寒重襲人民不登飲食勿奠
者更登筑波岳亦請客止此時筑波神答曰今夜雖新粟甞不敢不奉尊旨爰設飲食敬拜祗承於是神祖尊歡然謌曰愛乎我胤巍乎神宮天地竝齊日月共同人民集賀飲食富豐代代無絶日日彌榮千秋萬歳遊樂不窮者是以福慈岳常雪不得登臨其
筑波岳往集歌舞飲喫至于今不絶也(以下略之)
夫筑波岳高秀于雲最頂西峯崢嶸謂之雄神不令登臨但東峯四方磐石昇降岟屹其側流泉冬夏不絶自坂已東諸國男女春花開時秋葉黄節相携駢闐飲食齎騎歩登臨遊樂栖遲其唱曰 都久波尼爾阿波牟等伊比志古波多賀己等岐氣波加彌尼阿須波氣牟也 都久波尼爾伊保利都麻奈志爾和我尼牟欲呂波波夜母阿氣奴賀母也
詠歌甚多不勝載車俗諺云筑波峯之會不得娉財兒女不爲矣
郡西十里在騰波江長二千九百歩廣一千五百歩東筑波郡南毛野河西北竝新治郡艮白壁郡

 

 

   (注)  1.本文は、日本古典文学大系2『風土記』(秋本吉郎 校注、岩波書店・昭和
         33年4月5日第1刷発行、昭和39年2月25日第5刷発行)によりました。
        2.本文の2行割注の部分は、文字を小さくして1行にして記しました。
        3.古典文学大系の本文に見られる分かち書きは、ここでは無視し、本文につ
         いている返り点は、これを省略しました。

        4. 本文の底本については「解説」に、加賀前田家所蔵の一本を松下見林が
         転写したものと考えられる松下見林自筆本
(元禄6年書写)が大東急記念文庫
         に現存している、それを底本にした、とあります。
          本文は、この底本に菊池成章
(延宝5年書写)系の彰考館所蔵本(延宝の奥書に
             宝暦8年の伊勢貞丈の奥書がある。今次の戦災に焼失した由)
の「二本を比校しておよそ
         加賀本の姿を明らかにし得る」としています。そして、「本書では更に群書
         類従本と家蔵本
(引用者注:古典大系の校注者・秋本吉郎氏所蔵本)とを併せ記し、近
         世校訂以前の姿を復原し得るようにし、近世唯一の校訂板本である西野
         宣明の訂正常陸国風土記(天保十年刊)の本文が殆どそのままに踏襲せられ
         ている現況を打破するに努めた」とあります。 
          また、「原文は校訂したものを掲げた。校訂に関する注は、アラビヤ数字
         の番号を附けて、五ヶ国風土記は
脚注に、逸文は頭注に記した」とありま
         す。
        5. 上記の「校訂に関する注」のうち、いくつかを挙げておきます。
           筑簞命……「簞」は、底本・彰考館本に「簟」
(テン、竹席の意)とあるのを、
                 「簞」(タン、はこ)の訓によってハの仮名に用いたとする。
           神祖尊……諸本「祖神尊」。下文により「神祖尊」とする
。(下に「神祖尊」
                 と出て来るので、それによった、の意。)
           
請欲遇宿……「遇」は、底本・彰考館本などは「過」。文意により「遇」の
                 誤りとする。遇は寓(やどり)の通用と認める。
           亦請客止……「客止」は、諸本「容止」。文意により「客止」の誤りとする。
              昇降岟屹……「岟」は、諸本「決」。文意により「岟」の誤りとする。
            飲食齎
……「」は、底本・群書類従本など「」。彰考館本「」は、
                                         
 「賷」の略体。共に「齎」の俗字。「賚」に作るのは不可。
           阿須波……「阿」は、底本・群書類従本・家蔵本は「河」。彰考館本・訂正
                 常陸風土記により「阿」とする。武田訓は、「阿波須」(逢はず)
                 として訓む。 (古典大系の頭注には、「あすばけむ」は「アソビ(遊)
                    ケムの訛音か」とあります。)
           伊保利……「
」は、諸本「尼」。訂正常陸風土記により「」とする。
           最後の「東茨城郡」の前……群書類従本・訂正常陸風土記は「已下略
                之」の4字を記すが、底本・
彰考館本・家蔵本は「已廾」の2字が
                あるのみ。しばらく衍字と見て削る。あるいは「已上」の誤りか。

           6. 本文の訓み下し文を日本古典文学大系2『風土記』から引用させていた
         だきます。
          
訓み下し文は、奈良朝の諸文献・日本紀私記・日本書紀古訓などに訓例のある
              ものにより、必ずしも旧訓に従わない。原漢文のまま音読すべきかと思われる箇
                               所も努めて訓読する方針に従った」と凡例にあります。)  
  
        
 筑波(つくは)の郡(こほり) (ひむがし)は茨城(うばらき)の郡、南は河内(かふち)の郡、
                       
西は毛野河(けぬがは)北は筑波岳(つくはやま)なり。

     古老(ふるおきな)のいへらく、筑波(つくは)の縣(あがた)は、古(いにしへ)、紀(き)
       
の國と謂(い)ひき。美万貴(みまき)の天皇(すめらみこと)のみ世、采女臣(うねめの
       おみ)
の友屬(ともがら)、筑簞命(つくはのみこと)を紀(き)の國の國造(くにのみやつこ)
       
に遣(つか)はしき。時に、筑簞命いひしく、「身(わ)が名をば國に着(つ)けて、
     後
(のち)の代に流傳(つた)へしめむと欲(おも)ふ」といひて、即ち、本(もと)
     號
(な)を改めて、更に筑波と稱(い)ふといへり。風俗(くにぶり)の説(ことば)に、
       握飯
(にぎりいひ)筑波(つくは)の國といふ。(以下(しも)は略(はぶ)く)
     古老(ふるおきな)のいへらく、昔、神祖(みおや)の尊(みこと)、諸神(もろがみ)たち
     のみ處
(もと)に巡(めぐ)り行(い)でまして、駿河(するが)の國福慈(ふじ)の岳(やま)
       
に到りまし、卒(つひ)に日暮(ひぐれ)に遇(あ)ひて、遇宿(やどり)請欲(こ)
     たまひき。此の時、福慈の神答へけらく、「新粟
(わせ)の初甞(にひなへ)して、
     家内
(やぬち)諱忌(ものいみ)せり。今日(けふ)の間(ほど)は、冀(ねが)はくは許し
     堪
(あ)へじ」とまをしき。是(ここ)に、神祖(みおや)の尊(みこと)、恨み泣きて
     
詈告(の)りたまひけらく、「即ち汝(いまし)が親ぞ。何(な)ぞ宿(やど)さまく
     欲
(ほ)りせぬ。汝(いまし)が居(す)める山は、生涯(いき)の極(きは)み、冬も
     夏も雪ふり霜おきて、
冷寒(さむさ)重襲(しき)り、人民(ひと)登らず、飲食
     
(をしもの)な奠(まつ)りそ」とのりたまひき。
更に、筑波(つくは)の岳(やま)
     登りまして、亦
(また)客止(やどり)を請(こ)ひたまひき。此の時、筑波の神答
     へけらく、「今夜(こよひ)は新粟甞
(にひなへ)すれども、敢(あ)へて尊旨(みこと)
       
に奉(つかへまつ)らずはあらじ」とまをしき。爰(ここ)に、飲食(をしもの)を設
     
(ま)けて、敬(ゐや)び拜(をろが)み祗(つつし)み承(つかへまつ)りき。是(ここ)に、
     神祖
(みおや)の尊、歡然(よろこ)びて謌(うた)ひたまひしく、
       愛
(は)しきかも我(あ)が胤(すゑ) 巍(たか)きかも神宮(かむつみや)
       天地
(あめつち)と竝齊(ひと)しく 日月(ひつき)と共同(とも)
       人民
(たみぐさ)(つど)ひ賀(ほ)ぎ 飲食(みけみき)富豐(ゆたけ)
       代々に絶ゆることなく 日
(ひ)に日(け)に彌榮(いやさか)
       千秋
(ちあき)萬歳(よろづよ)に 遊樂(たのしみ)(つき)
     とのりたまひき。是
(ここ)をもちて、福慈(ふじ)の岳(やま)は、常に雪ふりて
     登臨
(のぼ)ることを得ず。其(そ)筑波(つくは)の岳(やま)は、往集(ゆきつど)
       
ひて歌ひ舞ひ飲(さけの)み喫(ものくら)ふこと、今に至るまで絶えざるなり。
     
(以下(しも)は略(はぶ)く)
     それ筑波岳
(つくはやま)は、高く雲に秀(ひい)で、最頂(いただき)は西の峯(みね)
       
(さか)しく嶸(たか)く、雄(を)の神と謂(い)ひて登臨(のぼ)らしめず。唯
     
(ただ)、東(ひむがし)の峯は四方(よも)磐石(いはほ)にして、昇(のぼ)り降(くだ)
       
りは岟(けは)しく屹(そばだ)てるも、其の側(かたはら)に泉(いづみ)流れて冬も
     夏も絶えず。坂より東
(ひむがし)の諸國(くにぐに)の男女(をとこをみな)、春の花
     の開(ひら)くる時、秋の葉の黄
(もみ)づる節(をり)相携(たづさ)ひ駢闐(つらな)
       
り、飲食(をしもの)を齎(もちき)て、騎(うま)にも歩(かち)にも登臨(のぼ)り、
     遊樂
(たの)しみ栖遲(あそ)ぶ。其(そ)の唱(うた)にいはく、
       筑波嶺
(つくはね)に 逢はむと
       いひし子は 誰
(た)が言(こと)聞けば
       神嶺
(かみね) あすばけむ。

       筑波嶺
(つくはね)に 廬(いほ)りて
       妻なしに 我(わ)が寢む夜
(よ)ろは
       早
(は)やも 明けぬかも。
     詠
(うた)へる歌甚(いと)多くして載車(のす)るに勝(た)へず。俗(くにひと)
     諺
(ことわざ)にいはく、筑波峯(つくはね)の會(つどひ)に娉(つまどひ)の財(たから)
       
を得ざれば、兒女(むすめ)とせずといへり。
     郡(こほり)の西十里(さと)に騰波(とば)の江(あふみ)あり。長さ二千九百歩(あし)
     廣さ一千五百歩
(あし)なり。東は筑波(つくは)の郡(こほり)、南は毛野河(けぬがは)
     西と北とは竝
(とも)に新治(にひばり)の郡(こほり)、艮(うしとら)のかたは白壁
       (しらかべ)
の郡(こほり)なり。

        7.   の漢字は、島根県立大学の“e漢字”を利用させていただきまし
         た。
        8. 国立国会図書館デジタルコレクションで、幾つかの『常陸風土記』を見ること
         ができます。  
            
国立国会図書館デジタルコレクション       
            → 
『常陸風土記』西野宣明・校、天保10年(1839)刊、和泉屋金右衛門
               題簽書名:常陸風土記
               見返し題:訂正常陸國風土記(見返しに「「天保己亥仲夏刊于水戸
                     聽松軒とある。)
               奥付に、「水府御藏版 頒行書林 江戸横山三丁目 和泉屋金右衛門」
               袋に、「(上・横書き)天保己亥新鐫 (右・縦書き)松宇西野先生校點
                 (中央・縦書き)常陸風土記  (左・縦書き)水府書林 東壁樓發兌」
            → 
『常陸豊後肥前風土記』(写本)伴信友・輯校。
            → 
『常陸國風土記』(写本) 題名:(表紙)常陸國風土記
                                   (巻頭書名)常陸風土記
            → 
『常陸風土記』(写本)[天保10年刊と合綴]小宮山氏尚存図書
        9. 『ジャパンナレッジ』に、国史大辞典の「常陸国風土記」の項が出ています。
            
『ジャパンナレッジ』 → 国史大辞典』の「常陸国風土記」
        10. フリー百科事典『ウイキペディア』に、「常陸国風土記」の項があります。 
             フリー百科事典『ウイキペディア』 → 「常陸国風土記」 
         

   


                 
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