筑波郡 東茨城郡 南河内郡 西毛野河 北筑波岳 |
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(注) | 1. | 本文は、日本古典文学大系2『風土記』(秋本吉郎 校注、岩波書店・昭和33年4月5日第1刷発行、昭和39年2月25日第5刷発行)によりました。 | |||||||||||
2. | 本文の2行割注の部分は、文字を小さくして1行にして記しました。 | ||||||||||||
3. | 古典文学大系の本文に見られる分かち書きは、ここでは無視し、本文についている返り点は、これを省略しました。 | ||||||||||||
4. |
本文の底本については「解説」に、加賀前田家所蔵の一本を松下見林が転写したものと考えられる松下見林自筆本(元禄6年書写)が大東急記念文庫に現存している、それを底本にした、とあります。 本文は、この底本に菊池成章(延宝5年書写)系の彰考館所蔵本(延宝の奥書に宝暦8年の伊勢貞丈の奥書がある。今次の戦災に焼失した由)の「二本を比校しておよそ加賀本の姿を明らかにし得る」としています。そして、「本書では更に群書類従本と家蔵本(引用者注:古典大系の校注者・秋本吉郎氏所蔵本)とを併せ記し、近世校訂以前の姿を復原し得るようにし、近世唯一の校訂板本である西野宣明の訂正常陸国風土記(天保十年刊)の本文が殆どそのままに踏襲せられている現況を打破するに努めた」とあります。 また、「原文は校訂したものを掲げた。校訂に関する注は、アラビヤ数字の番号を附けて、五ヶ国風土記は脚注に、逸文は頭注に記した」とあります。 |
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5. |
上記の「校訂に関する注」のうち、いくつかを挙げておきます。 〇筑簞命……「簞」は、底本・彰考館本に「簟」(テン、竹席の意)とあるのを、「簞」(タン、はこ)の訓によってハの仮名に用いたとする。 〇神祖尊……諸本「祖神尊」。下文により「神祖尊」とする。(下に「神祖尊」と出て来るので、それによった、の意。) 〇請欲遇宿……「遇」は、底本・彰考館本などは「過」。文意により「遇」の誤りとする。遇は寓(やどり)の通用と認める。 〇亦請客止……「客止」は、諸本「容止」。文意により「客止」の誤りとする。 〇昇降岟屹……「岟」は、諸本「決」。文意により「岟」の誤りとする。 〇飲食齎……「」は、底本・群書類従本など「」。彰考館本「」は、「賷」の略体。共に「齎」の俗字。「賚」に作るのは不可。 〇阿須波……「阿」は、底本・群書類従本・家蔵本は「河」。彰考館本・訂正常陸風土記により「阿」とする。武田訓は、「阿波須」(逢はず)として訓む。 (古典大系の頭注には、「あすばけむ」は「アソビ(遊) ケムの訛音か」とあります。) 〇伊保利……「」は、諸本「尼」。訂正常陸風土記により「」とする。 〇最後の「東茨城郡」の前……群書類従本・訂正常陸風土記は「已下略之」の4字を記すが、底本・彰考館本・家蔵本は「已廾」の2字があるのみ。しばらく衍字と見て削る。あるいは「已上」の誤りか。 |
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6. |
本文の訓み下し文を日本古典文学大系2『風土記』から引用させていただきます。(「訓み下し文は、奈良朝の諸文献・日本紀私記・日本書紀古訓などに訓例のあるものにより、必ずしも旧訓に従わない。原漢文のまま音読すべきかと思われる箇所も努めて訓読する方針に従った」と凡例にあります。) 筑波(つくは)の郡(こほり) 東(ひむがし)は茨城(うばらき)の郡、南は河内(かふち)の郡、西は毛野河(けぬがは)、北は筑波岳(つくはやま)なり。 古老(ふるおきな)のいへらく、筑波(つくは)の縣(あがた)は、古(いにしへ)、紀(き)の國と謂(い)ひき。美万貴(みまき)の天皇(すめらみこと)のみ世、采女臣(うねめのおみ)の友屬(ともがら)、筑簞命(つくはのみこと)を紀(き)の國の國造(くにのみやつこ)に遣(つか)はしき。時に、筑簞命いひしく、「身(わ)が名をば國に着(つ)けて、後(のち)の代に流傳(つた)へしめむと欲(おも)ふ」といひて、即ち、本(もと)の號(な)を改めて、更に筑波と稱(い)ふといへり。風俗(くにぶり)の説(ことば)に、握飯(にぎりいひ)筑波(つくは)の國といふ。(以下(しも)は略(はぶ)く) 古老(ふるおきな)のいへらく、昔、神祖(みおや)の尊(みこと)、諸神(もろがみ)たちのみ處(もと)に巡(めぐ)り行(い)でまして、駿河(するが)の國福慈(ふじ)の岳(やま)に到りまし、卒(つひ)に日暮(ひぐれ)に遇(あ)ひて、遇宿(やどり)を請欲(こ)ひたまひき。此の時、福慈の神答へけらく、「新粟(わせ)の初甞(にひなへ)して、家内(やぬち)諱忌(ものいみ)せり。今日(けふ)の間(ほど)は、冀(ねが)はくは許し堪(あ)へじ」とまをしき。是(ここ)に、神祖(みおや)の尊(みこと)、恨み泣きて詈告(の)りたまひけらく、「即ち汝(いまし)が親ぞ。何(な)ぞ宿(やど)さまく欲(ほ)りせぬ。汝(いまし)が居(す)める山は、生涯(いき)の極(きは)み、冬も夏も雪ふり霜おきて、冷寒(さむさ)重襲(しき)り、人民(ひと)登らず、飲食(をしもの)な奠(まつ)りそ」とのりたまひき。更に、筑波(つくは)の岳(やま)に登りまして、亦(また)客止(やどり)を請(こ)ひたまひき。此の時、筑波の神答へけらく、「今夜(こよひ)は新粟甞(にひなへ)すれども、敢(あ)へて尊旨(みこと)に奉(つかへまつ)らずはあらじ」とまをしき。爰(ここ)に、飲食(をしもの)を設(ま)けて、敬(ゐや)び拜(をろが)み祗(つつし)み承(つかへまつ)りき。是(ここ)に、神祖(みおや)の尊、歡然(よろこ)びて謌(うた)ひたまひしく、
それ筑波岳(つくはやま)は、高く雲に秀(ひい)で、最頂(いただき)は西の峯(みね)崢(さか)しく嶸(たか)く、雄(を)の神と謂(い)ひて登臨(のぼ)らしめず。唯(ただ)、東(ひむがし)の峯は四方(よも)磐石(いはほ)にして、昇(のぼ)り降(くだ)りは岟(けは)しく屹(そばだ)てるも、其の側(かたはら)に泉(いづみ)流れて冬も夏も絶えず。坂より東(ひむがし)の諸國(くにぐに)の男女(をとこをみな)、春の花の開(ひら)くる時、秋の葉の黄(もみ)づる節(をり)、相携(たづさ)ひ駢闐(つらな)り、飲食(をしもの)を齎(もちき)て、騎(うま)にも歩(かち)にも登臨(のぼ)り、遊樂(たの)しみ栖遲(あそ)ぶ。其(そ)の唱(うた)にいはく、
郡(こほり)の西十里(さと)に騰波(とば)の江(あふみ)あり。長さ二千九百歩(あし)、廣さ一千五百歩(あし)なり。東は筑波(つくは)の郡(こほり)、南は毛野河(けぬがは)、西と北とは竝(とも)に新治(にひばり)の郡(こほり)、艮(うしとら)のかたは白壁(しらかべ)の郡(こほり)なり。 |
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7. | ・・ の漢字は、島根県立大学の “e漢字” を利用させていただきました。 | ||||||||||||
8. | 国立国会図書館デジタルコレクションで、幾つかの『常陸風土記』を見ることができます。 『国立国会図書館デジタルコレクション』 →『常陸風土記』西野宣明・校、天保10年(1839)刊、和泉屋金右衛門 題簽書名:常陸風土記 見返し題:訂正常陸國風土記(見返しに「「天保己亥仲夏刊于水戸聽松軒とある。) 奥付に、「水府御藏版 頒行書林 江戸横山三丁目 和泉屋金右衛門」 → 『常陸豊後肥前風土記』(写本)伴信友・輯校。 → 『常陸國風土記』(写本) 題名:(表紙)常陸國風土記 (巻頭書名)常陸風土記 → 『常陸風土記』(写本)[天保10年刊と合綴]小宮山氏尚存図書 |
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9. | 『ジャパンナレッジ』のサンプル記事に、国史大辞典の「常陸国風土記」の項が出ています。 『ジャパンナレッジ』のサンプル記事 →『国史大辞典』の「常陸国風土記」 |
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10. | フリー百科事典『ウイキペディア』に、「常陸国風土記」の項があります。
フリー百科事典『ウイキペディア』 → 「常陸国風土記」 |
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