資料554 「一旦有緩急」(『史記』袁盎鼂錯列伝第四十一より)


              一旦有緩急   『史記』袁盎鼂錯列伝第四十一より                

呉楚已破。上更以元王子平陸侯禮爲楚王、袁盎爲楚相。嘗上書有所言、不用袁盎病免、居家。與閭里浮沈、相隨行鬭雞走狗。雒陽劇孟嘗過袁盎、盎善待之。安陵富人有謂盎曰、吾聞、劇孟博徒。將軍何自通之。盎曰、劇孟雖博徒、然母死、客送葬、車千餘乘。此亦有過人者。且緩急人所有。夫一旦有急叩門、不以親爲解、不以存亡爲辭、天下所望者、獨季心劇孟耳。今公常從數騎、一旦有緩急、寧足恃乎。罵富人、弗與通。諸公聞之、皆多袁盎。

呉楚已に破る。上(しやう)更(あらた)めて元王の子平陸侯禮を以て楚王と爲し、袁盎(ゑんあう)を楚の相と爲す。嘗て上書して言ふ所有るも、用ひられず。袁盎病みて免ぜられ、家に居(を)る。閭里(りより)と浮沈し、相(あひ)隨行して鬭雞(とうけい)走狗す。雒陽(らくやう)の劇孟(げきまう)嘗て袁盎に過(よぎ)るに、盎善く之を待つ。安陵の富人(ふうじん)、盎に謂ふ有りて曰く、吾聞く、劇孟は博徒(ばくと)なりと。將軍何ぞ自(みづか)ら之と通ずる、と。盎曰く、劇孟は博徒なりと雖(いへど)も、然(しか)れども母死するや、客の葬を送(おく)るもの、車(くるま)千餘乘なり。此れ亦た人に過ぐる者有ればなり。且つ緩急は人の有る所なり。夫(そ)れ一旦急有りて門を叩くに、親を以て解と爲さず、存亡を以て辭と爲さず、天下の望む所の者は、獨(ひと)り季心(きしん)・劇孟のみ。今、公常に數騎を從ふも、一旦緩急有らば、寧(なん)ぞ恃(たの)むに足らんや、と。富人を罵(ののし)り、與(とも)に通ぜず。諸公之を聞き、皆袁盎を多(た)とす。


  (注) 1.  上記の「一旦有緩急」(『史記』袁盎鼂錯列伝第四十一より)の本文は、新釈漢文大系91の『史記 十一(列伝四)』(青木五郎著、明治書院・平成16年6月30日初 版発行)によりました。 漢の文帝・景帝時代の朝臣、袁盎(えんおう)と鼂錯(ちょうそ)の二人の列伝です。
 なお、「一旦有緩急」という見出しは引用者が仮につけたものです。     
   
    2.  上記の本文は、新釈漢文大系の本文から返り点を省略して掲げてあります。新釈漢文大系には、返り点のついた本文、書き下し文のほかに、「通釈」 「語釈」「余説」があります。     
    3.  「有緩急」の読み方について
 上の書き下し文には「今、公常に數騎を從ふも、一旦緩急有らば、寧(なん)ぞ恃(たの)むに足らんや、と。」とありますが、この本の「且緩急人所有」の「緩急」の「語釈」には、 〇緩急 もともと「緩」は平穏無事、「急」は危急災厄をいうが、「急」に重点れがおかれた偏義辞として用いられることが多い。後文の「一旦緩急有れば、寧んぞ恃むに足らんや」は、その例 とあります。
 書き下し文に「一旦緩急有らば」とあり語釈に「一旦緩急有れば」とあるので、著者の青木氏が「一旦有緩急、寧足恃乎」の「有緩急」を、「緩急有らば」と読んでおられるのか、「緩急有れば」と読んでおられるのか、ちょっと曖昧です。
 手元の『廣漢和辭典』には、「緩急」のところに、「〔史記、袁盎傳〕一
旦有ラバ緩急、寧ランムニ乎。」とあり、ここでは「緩急有らば」と読んでいます。
 また、『國譯漢文大成』(経子史部第15巻)でも、「緩急有らば」と訓読しています。
 
   
    4.   教育勅語の「一旦緩急アレハ」について
 教育勅語に「一旦緩急アレハ」とあることが話題になりますが、これに対しては、仮定条件を示すところだから「緩急あらば」とするのが文法的には正しい、という意見と、(陽関三畳で知られる詩でも、「西の方陽関を出づれば故人なからん」と読んでいるように、)漢文訓読としては特に仮定条件と確定条件とを区別しない慣習があったから、漢文訓読調の勅語はこれで問題ない、とする意見とがあるようです。
 なお、これについては、フリー百科事典『ウキペディア』の「教育ニ関スル勅語」の項に「文法誤用説」という項目があり、次のように書かれています。
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フリー百科事典『ウキペディア』「教育ニ関スル勅語」の項

  文法誤用説
 教育勅語に文法の誤用があるという説がある。すなわち、原文「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」部分の「アレバ」は、条件節を導くための仮定条件でなくてはならず、和文の古典文法では「未然形+バ」、つまり「アラバ」が正しく、「アレバ」は誤用である、とする説である。
 1910年代に中学生だった大宅壮一が国語の授業中に教育勅語の誤用説を主張したところ教師に諭された、と後に回想している。
 なお、塚本邦雄も歌集『黄金律』114ページで「「アレバ」は「アラバ」の誤りなれば」として「秋風が鬱の顚頂かすめたり「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」」の歌がある。
 高島俊男は「文法のまちがいである」とした上で、「ただしこれは元田永孚の無学無知によるもの、とばかりも言い切れない。江戸時代以来、漢文先生は、国文法には一向に無頓着で、─そもそも彼らには漢文に対する敬意はあるが日本語に対する敬意はないから当然のこととして無頓着であったのだ─」と述べ、元田が前述の漢文訓読の慣行に従ったもの、とする見解を示している。
   
           
           



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