(注) | 1. | 上記の「賀雨詩」は、新釈漢文大系97『白氏文集 一』(岡村繁著、明治書院・平成29年5月20日初版発行)によりました。「賀雨詩」は、『白氏文集』冒頭の詩です。 | |||
2. | 詩中「」「」の漢字は、島根県立大学の “e漢字” を利用させていただきました。 | ||||
3. |
この「賀雨詩」について、新釈漢文大系の本詩についての「解題」に、次のようにあります。 唐の憲宗の元和三年(808)冬から翌四年閏三月まで数か月間、中国最大の穀倉地帯である長江・淮水(わいすい)流域は大旱魃に襲われ、天下は上も下も深刻な恐慌状態に陥っていた。(中略)当時、白居易は、天子の詔勅の作成をつかさどる翰林学士に任ぜられ、あわせて天子への直諫を任務とする左拾遺の官を授けられて、憲宗の側近に侍していた。そこで彼は、被災地の住民を救済し、宮廷の浪費を節約するために、天子に対して(中略)二条の奏請文(中略)を奉呈した。かくて、この白居易の奏請を嘉納した憲宗は、わずかその二日後の閏三月三日己酉、百姓救済のための徳音を天下に降した。(中略)ところが不思議なことに、この徳音が降ってわずか七日後、沛然として三日三晩豪雨が降り続いて、やっと天下の人びとは愁眉を開き、歓呼雀躍した。(中略) この詩は、その待望の雨を慶賀した力作。時に白居易は三十八歳。左拾遺の官に就いてから満一年たった時のことであった。(同書、111~112頁) |
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4. | 同じ新釈漢文大系の「解題」に、「神田喜一郎「読白楽天詩記」(『東方学報』15-3、1946年。『神田喜一郎全集』第二巻、1983年)に詳細な考証があり、また謝思煒「白氏文集 巻第一「賀雨」校注」 (『白居易研究年報』 第三号、2002年、勉誠出版) がある」 とあります。 | ||||
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