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小野崎氏は中世の常陸国で佐竹氏の宿老や守護代の重職を勤めた名族で |
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(注) | 1. | 上記の「小野崎城址」碑 は、碑面の上部に、左から右に「小野崎城址」と大きく題字が書いてあります。 | |||
2. |
「小野崎城址」碑の碑文の改行は、碑面の通りにしてあります。 |
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3. |
碑文中に「通胤は父祖の地を去り友部に築城して移住した」とある「友部」は、現在の日立市十王町友部 (旧・多賀郡十王町友部) のことです。 |
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4. | 昭和60年(1985年)8月26日付の「いはらき」新聞によれば、この「小野崎城址」碑は、昭和60年8月25日に建立されたそうです。このことを碑の写真とともに報じた記事「小野崎城址の碑建立 常陸太田 城主の子孫ら協力」を引用させていただきます。 常陸太田市瑞竜町の市立瑞竜中校門近くにこのほど、「小野崎城址(し)」の碑が建立され、25日関係者の手で除幕式が行われた。 碑は黒みかげ石で高さ2.2㍍、幅1㍍、厚さ25㌢。台座を含めると全高約2.7㍍。小野崎城主の傍系である愛知県名古屋市東区、椙山女学園大教授、小野崎博通さん(57)が中心になり親族ら182人が費用を出し合い建立した。 小野崎城は平安時代の久安年間 (1145-1150年)につくられたといわれている 館(やかた)で、約二百年間続いたといわれているが、現在は瑞竜中敷地となっており、 形跡はない。 なお、碑の裏面には、「昭和六十年八月吉日 小野崎城址碑期成会 建立」として、会員182名の名前が刻まれています。(碑の裏面のことは、常陸太田市教育委員会文化課の山口憲一様に教えていただきました。記して謝意を表します。) |
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5. |
『余湖くんのホームページ』に、「常陸太田市 小野崎城・今宮館・八百岐館・小野館・大堀(常陸太田市瑞龍町)」のページがあって、参考になります。 →『余湖くんのホームページ』 →「常陸太田市 小野崎城・今宮館・八百岐館・小野館・大堀(常陸太田市瑞龍町) このホームページから、「小野崎城址」碑の写真を転載させていただきます。 ![]() |
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6. |
『北緯36度付近の中世城郭』というサイトに、「瑞竜城砦群」というページがあり、そこに小野崎城についての詳しい解説があります。 このサイトのことは、上記の『余湖くんのホームページ』様に教えていただきました。 記して謝意を表します。 → 『北緯36度付近の中世城郭』 → (トップページの下方の)「関東地方の城」 →「●常陸太田市の城」の「瑞竜城砦群(小野崎城、今宮館、小野館、八百岐館)」 → 「瑞竜城砦群(常陸太田市瑞竜町)」 |
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7. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「小野崎氏」の項があります。 フリー百科事典『ウィキペディア』→「小野崎氏」 |