資料546 『碧巌録』第43則 


 

 

     碧 巖 録   第四十三則

垂示云定乾坤句萬世共遵擒虎兕機千聖莫辨直下更無纎翳全機隨處齊彰要明向上鉗鎚須是作家爐韛且道從上來還有恁麼家風也無試擧看
【本則】擧僧問洞山寒暑到來如何廻避
不是這箇時節劈頭劈面在山云何不向無寒暑處去天下人尋不得藏身露影蕭何賣卻假銀城僧云如何是無寒暑處山賺殺一船人隨他轉也一鈎便上山云寒時寒殺闍黎熱時熱殺闍黎眞不掩僞曲不藏直臨崖看虎兕特地一場愁掀翻大海踢倒須彌且道洞山
在什麼處
【評唱】黄龍新和尚拈云洞山袖頭打領腋下剜襟爭奈這僧不甘如今有箇出來問黄龍且道如何支遣良久云安禪不必須山水滅卻心頭火自凉諸人且道洞山圏繢在什麼處若明辨得始知洞山下五位囘互正偏接人不妨奇特到這向上境界方能如此不消安排自然恰好所以道正中偏三更初夜月明前莫怪相逢不相識隱隱猶懷舊日嫌偏中正失曉老婆逢古鏡分明覿面更無眞休更迷頭還認影正中來無中有路出塵埃但能不觸當今諱也勝前朝斷舌才偏中至兩刄交鋒不須避好手還同火裏蓮宛然自有衝天氣兼中到不落有無誰敢和人人盡欲出常流折合還歸炭裏坐浮山遠録公以此公案爲五位之格若會得一則餘者自然易會巖頭道如水上葫蘆子相似捺著便轉殊不消絲毫氣力曾有僧問洞山文殊普賢來參時如何山云趕向水牯牛群裏去僧云和尚入地獄如箭山云全得佗力洞山道何不向無寒暑處去此是偏中正僧云如何是無寒暑處山云寒時寒殺闍黎熱時熱殺闍黎此是正中偏雖正卻偏雖偏卻圓曹洞録中備載子細若是臨濟下無許多事這般公案直下便會有者道大好無寒暑有什麼巴鼻古人道若向劔刄上走則快若向情識上見則遲不見僧問翠微如何是祖師西來意微云待無人來向儞道遂入園中行僧云此間無人請和尚道微指竹云這一竿竹得恁麼長那一竿竹得恁麼短其僧忽然大悟又曹山問僧恁麼熱向什麼處廻避僧云鑊湯爐炭裏廻避山云鑊湯爐炭裏如何廻避僧云衆苦不能到看他家裏人自然會他家裏人説話雪竇用他家裏事頌出
【頌】垂手還同萬仭崖不是作家誰能辨得何處不圓融正勑既行諸侯避道正偏何必在安排若是安排
何處有今日作麼生兩頭不渉風行草偃水到渠成琉璃古殿照明月圓陀陀地切忌認影且莫當頭忍俊韓獹空上階不是這回蹉過了也逐塊作什麼打云儞與這僧同參龍都切通作盧
【評唱】曹洞下有出世不出世有垂手不垂手若不出世目視雲霄若出世便灰頭土面目視雲霄即是萬仭峯頭灰頭土面即是垂手邊事有時灰頭土面即在萬仭峯頭有時萬仭峯頭即是灰頭土面其實入鄽垂手與孤峯獨立一般歸源了性與差別智無異切忌作兩橛會所以道垂手還同萬仭崖直是無儞湊泊處正偏何必在安排若到用時自然如此不在安排也此頌洞山答處後面道琉璃古殿照明月忍俊韓獹空上階此正頌這僧逐言語走洞下有此石女木馬無底籃夜明珠死蛇等十八般大綱只明正位如月照琉璃古殿似有圓影洞山答道何不向無寒暑處去其僧一似韓獹逐塊連忙上階捉其月影相似又問如何是無寒暑處山云寒時寒殺闍黎熱時熱殺闍黎如韓獹逐塊
走到階上又卻不見月影韓獹乃出戰國策云韓氏之獹駿狗也中山之兎狡兎也是其獹方能尋其兎雪竇引以喩這僧也只如諸人還識洞山爲人處麼良久云討甚兎子

 

 


  (注) 1.  上記の『碧巌録』第43則の本文は、『國譯禪學大成』第1巻(二松堂書店、昭和4年2月8日発行)所収の『佛果圜悟禪師碧巖録』によりました。この碧巌録は、国立国会図書館デジタルコレションに収めてあるものです。ただし、本文につけてある返り点は、これを省略しました。また、小字になっているところ(「不是這箇時節……」など)は、原文では二行の分かち書きになっている部分です。
 国立国会図書館デジタルコレクション 
  → 『國譯禪學大成』第1巻『佛果圜悟禪師碧巌録』
  (第43則の原文は200~201/211に、国訳部分は121~124/211にあります。)
        
   
    2.  『碧巌録』第43則の「評唱」に出ている「滅卻心頭火自凉」(滅却心頭火自涼)は、臨済宗の高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)が死に臨んで唱えた言葉として知られています。
  快川紹喜(かいせんじょうき)=?~1582(天正10年)戦国時代の禅僧。諡号大通智勝国師、本姓土岐。美濃の人。はじめ妙心寺に住み、のち美濃の崇福寺、次いで武田信玄の請いにより甲斐恵林寺に移る。武田勝頼滅亡の時、六角承禎をかくまったかどで織田信長に寺を焼かれ、火中に死んだという。「心頭を滅却すれば火もおのずから涼し」とは「碧巌録」の評唱の語であるが、その時紹喜が唱えたとされている。
(『角川日本史辞典第二版』による。) 
   
    3.  安禪不必須山水 滅卻心頭火自凉」」(安禅不必須山水 滅却心頭火自涼)という句は、晩唐の詩人・杜荀鶴の次の詩によったものです。(この詩は『全唐詩』巻693に収められています。)

  
  夏日題悟空上人院  杜荀鶴   
   三伏閉門披一衲               
   兼無松竹蔭房廊
             
   安禅不必須山川
             
   滅得心中火自涼       
      

   夏日 悟空上人の院に題す  杜荀鶴
  三伏 門を閉ざして一衲
(いちなふ)(はお)
  兼ねて松竹の房廊を蔭
(おほ)ふ無し
  安禅 必ずしも山川を
(もち)ゐず
  心中を滅し得て 火自
(おのづか)ら涼し

 なお、結句を「滅却心頭火亦涼」とするものがありますが、その形の詩がどこに出ているのか、はっきりしません。『全唐詩』には、「滅得心中火自涼」という形で出ています。
   
    4.  『新明解国語辞典』第三版には、
 心頭(しんとう)=心(の中)。「怒り─に発する〔=むらむらと、激しくおこる〕」
   ──を滅却すれば、火もまた涼し  どんな火の熱さでも、精神集中によって無いものと思うことが出来れば、苦しさを感じなくなるものだ。〔「心頭、火を滅却すれば、また涼し」の誤読といわれる〕

とあり、「心頭を滅却すれば、火もまた涼し」は、「心頭、火を滅却すれば、また涼し」の 誤読だという説が紹介されています。
   
    5.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「快川紹喜」「杜荀鶴」「碧巌録」の項があります。 
 フリー百科事典『ウィキペディア』
   → 快川紹喜
   → 杜荀鶴
   → 碧巌録
   
    6.  〇碧巌録(へきがんろく)=仏書。宋の圜悟克勤(えんごこくごん)が、雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)の選んだ百則の頌古(じゅこ)に垂示・評唱・著語(じゃくご)を加えたもの。10巻。臨済宗で重視される。詳しくは「仏果圜悟禅師碧巌録」。碧巌集。  
 〇心頭(しんとう)=心の中。念頭。「怒
(いかり)─に発す」
  ─を滅却すれば火もまた涼し(織田勢に武田が攻め滅ぼされた時、禅僧快川が、火をかけられた甲斐の恵林寺山門上で、端座焼死しようとする際に発した偈
(げ)と伝える。また、唐の杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」の詩中に同意の句がある)無念無想の境地に至れば火さえ涼しく感じられる。どんな苦難に遇っても、心の持ちようで苦痛を感じないでいられる、の意。(以上、『広辞苑』第6版による。)
   
    7.  『詩詞世界』というサイトに、杜荀鶴の「夏日題悟空上人院」の解説があります。
 『詩詞世界』
  → 杜荀鶴「夏日題悟空上人院」
   


      
          

       

          

         
            
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