(注) | 1. |
この件について参照した書籍は以下の通りです。 〇岩波文庫『小僧の神様 他十篇』(1928年8月25日第1刷発行、2002年10月16日改版 第1刷発行) 〇講談社版、日本現代文学全集49『志賀直哉集』(昭和35年12月20日発行) 〇『志賀直哉全集』第二巻(岩波書店・昭和48年7月18日発行。全14巻・付別巻) |
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2. | 『広島大学学術情報リポジトリ』に、下岡友加氏の「「城の崎にて」の表現─草稿「いのち」との比較検討を通じて─」があります。 → 下岡友加「「城の崎にて」の表現─草稿「いのち」との比較検討を通じて─」 |
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3. | 『北海道教育大学学術リポジトリ』に、菅原利晃氏の「指示語の学習指導:志賀直哉「城の崎にて」全指示語」と板林正子氏の「『城の崎にて』と草稿「いのち」」があります。ただし、いずれの論文もダウンロードしなければ見られないようです。 → 菅原利晃「指示語の学習指導:志賀直哉「城の崎にて」全指示語」 → 板林正子「『城の崎にて』と草稿「いのち」」 |
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4. | 「城の崎にて」についての論考として、三谷憲正氏の「城の崎にて」試論─<事実>と
<表現>の果てに─が、「e-文藝館=湖(umi)」に出ています。 「e-文藝館=湖(umi)」 → 三谷憲正 「城の崎にて」試論─<事実>と<表現>の果てに─ |
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5. | 国立国会図書館の『近代日本人の肖像』の中に、若き日の志賀直哉の肖像と簡単な紹介が出ています。
『近代日本人の肖像』 → 志賀直哉 |
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6. | フリー百科事典『ウィキペディア』に「志賀直哉」「城の崎にて」の項があります。
フリー百科事典『ウィキペディア』 → 志賀直哉 → 城の崎にて なお、「城の崎にて」で検索すると、さまざまなページが出てきます。 |
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7. | 『昭和のクリップさんのブログ』に、「大正元年頃の東京の国鉄路線図」が出ています。 『昭和のクリップさんのブログ』 → 「大正元年頃の東京の国鉄路線図」 残念ながら現在は見られないようです。(2018年7月1日現在) |
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8. | 「城の崎にて」の草稿「いのち」の冒頭部分を、少し長くなって恐縮ですが、次に引用させていただきます。この部分を実際の「城の崎にて」と比較してみると、かなり書き換えられていることが分かります。 草稿「いのち」の本文は、『志賀直哉全集』第二巻(岩波書店・昭和48年7月18日発行。全14巻・付別巻)に拠りました。(なお、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、ここでは同じ文字を繰り返して表記してあります。「一つ一つ」「ブツリブツリ」「シミジミ」) いのち 昨年の八月十五日の夜、一人の友と芝浦の涼みにいつた歸り、線路のワキを歩いてゐて不注意から自分は山の手線の電車に背後から二間半程ハネ飛ばされた。脊骨をひどく打つた。頭を石に打ちつけて切つた。切口は六分程だつたが、それがザクロのやうに口を開いて、下に骨が見えてゐたといふ事である。其時の事で今も覺えてゐるのは、兎も角自分はヒドイ怪我をしたと思つた事、(自分はこれが死の源因になりはしまいかと思つた。然しその恐怖からおびやかされる程ではなかつた) 自分の不慮の禍に心から驚いて友が心を痛めてゐた事、電車の運轉手が降りて來て何かいふのに自分が、自分の過失だから、少しも差支えないと云つた事、(然しこの事だけは自分の幻しだつた。友は電車は一寸とまつたが、又そのまゝ行つて了つたのが事實だと云つて聞かした。)巡査が、帳面を出して自分の姓名や住所や年や職業を訪(ママ)ねやうとした事、それに對して、自分は巡査を怒りつけた事、知らない若い人が自分を脊負つて線路から往來に連れて來てくれた事、其時自分は此人の名と番地を聽いて置い(ママ)ないと後で禮を云ふ事が出來ないと思つた事(然しそれは訊かずに了つた)其他まだ幾つかあつた。 其時自分は割りに確かだつた。自分の行きたい病院も其所から多分もう歸つたらうと思はれる外科醫に病院に來てゐて貰ふやう電話をかけ(ママ)呉れと友に頼んだ。 病院についてから翌朝までの事は大體夢中だつた。只自分は年寄つた祖母が(ママ)驚かさないやうにと切りと頼んだ事、手術臺の上にねてゐる時、醫者が肋骨を一つ一つ數えた事、それから頭の創を縫はれる時、ブツリブツリとさす針の音を聽きながら皮の下をどう云ふ諷に針をとうして行くかしらと考へた事等を覺えてゐる。 其晩は殆ど夢中だつたが、自分は興奮して夜明まで眠らずに何かいつてゐたさうである。而して「致命(フエタル)な怪我か」と訊いて友に「決してそんな事ではない」と云はれてから急に快活になつたといふ事だ。尚自分は「自分は今どんな仕事をしつゝあるのか」といふ事と「祖母を驚かさないやうにしてくれ」といふ事と、尚二三の事を何遍でも繰返えして、傍にねてゐる友に眠らさなかつたさうだ。何遍聽いても直ぐ忘れて又それを訊くのださうだ。それから「自分は何故こんな所に寢てゐるのだらう」と訊いたりしたさうだ。看護婦がいくら眠らなければイケないと云つても眠らうとしなかつたさうだ。自分は興奮してゐて眠れなかつたらしい。 明方から三時間位眠つたらう。而して又覺めた時からの事はもう自分でもよく覺えてゐる。然し自分は前晩の出來事を思ひ浮べる事が非常に困難だつた。同樣に自分が其時まで一年近かくかゝつてゐる長篇の小説に一體どういふ事を自分は書いてゐたらうとそれがマルデ想ひ出せなかつた。然し氣分は至極麗らかだつた。自分は自分で全然身動きする事が出來なかつたけれども痛みは少しも感じなかつた。脊中に五つ胸に二つ頭に二つ都合九つの氷袋をあてられてゐた。しかしそれを少しも冷めたく感じなかつた。 それにしても自分の怪我は此災難としては不思議な程に最小限で濟んだのである。自分は運が惡ければ電車にひかれる所だつた。二間半も先きに飛ばされたがそれが矢張り線路から二尺と離れない所だつた。尚自分はもう一歩進んだ時に飛ばされたら、鐵橋の石垣の上から(下は人間の歩く路だつたが)逆樣に落ちねばならぬ所だつた。自分は石垣の上で突伏してゐた自分をカスカに覺えてゐる。又若し自分の飛ばされ方がもつと斜左に行つたら、其所には先の尖つた柵があつたといふから、一層の怪我をしたに相違なかつた。尚幸に以上の事がなかつたにしても若し内臓にそれが及ぼし得る危險を聞くとそれ以上恐ろしい事が幾つかあつた。醫者は診察の度に手足に觸つてシビレるやうな氣はしないかと訊ねた。これは後で聽いたが、若し自分のからだに結核菌があると、それが脊髓につく。すると脊ツイ、(ママ)カリエースといふのになつて、手足が全く利かなつて(ママ)了ふのださうだ。 自分の怪我は最小限で濟んだ。自分は後になつて反つて其時の恐しさをシミジミ感じた。而して自分の幸運を感謝した。半月で病院を出た。尚それから半月程通つてゐた。醫者は温泉へ行く事を切りにすゝめた。而してカリエスが一年或は二年后に出る場合もあるから、直つても出來るだけ用心する必要があるといつた。 十月に入つて自分は或る温泉へ行く事にした。其所はかういふ打身などにはいゝ温泉だつた。 (以下、略) (2018年8月3日付記 |