資料538 「城の崎にて」の作者の電車事故について 



      「城の崎にて」の作者の電車事故について


   志賀直哉の短編「城の崎にて」の冒頭に、

 「山の手線の電車に跳飛ばされて怪我をした、その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出掛けた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者にいわれた。二、三年で出なければ後は心配はいらない、とにかく要心は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上、我慢出来たら五週間位いたいものだと考えて来た。 」

とあります。この少し後に、

 「自分はよく怪我の事を考えた。一つ間違えば、今頃は青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。」

ともあります。そして、最後のところに、

 「自分は偶然に死ななかった。蠑螈(いもり)は偶然に死んだ。」

と書いてあります。

 この事故について少し調べてみました。

    * * * * *

 岩波文庫『小僧の神様 他十篇』の巻末の「志賀直哉略年譜」に、

「1913(大正2)年 30歳
8月、山の手線の電車にはねられ重傷を負い、10月、養生のため城崎温泉に赴く。」

と出ています。ここに「重傷」とあります。かなりの怪我だったようです。
 また、作者の「創作餘談」に、

 「餘談になるが、此小説(引用者注:「出来事」のこと)を書き上げ、其晩里見弴と芝浦へ涼みに行き、素人相撲を見て帰途(かへり)、鐵道線路の側を歩いてゐて、どうした事か私は省線電車に後からはね飛ばされ、甚(ひど)い怪我をした。東京病院に暫く入院し、危(あやふ)い所を助かつた。電車で助かる事を書き上げた日に自分も電車で怪我をし、しかも幸に一生を得た。此偶然を面白く感じた。此怪我の後の氣持を書いたのが「城の崎にて」である。それから此時の經驗は「或る男、其姉の死」の中に書き入れてある。」

とあります。

 以上で大体のことは分かりますが、岩波文庫『小僧の神様 他十篇』巻末の解説に、紅野敏郎氏が、「城の崎にて」の草稿「いのち」を引いて解説しておられますので、これを引かせていただきます。

 「城の崎にて」の草稿「いのち」が残っていて、この草稿と「城の崎にて」と比べてみると、その描写、生と死についての認識の深度には大いなる差異が見られる。その草稿は松屋製原稿用紙で十三枚。冒頭は「昨年の八月十五日の夜、一人の友と芝浦の涼みにいつた帰り、線路のワキを歩いてゐて不注意から自分は山の手線の電車に背後から二間半程ハネ飛ばされた。脊骨をひどく打つた。頭を石に打ちつけて切つた。切口は六分程だつたが、それがザクロのやうに口を開いて、下に骨が見えてゐたといふ事である」と書かれている。志賀の「年譜」でいえば、「大正二年」の項にある「八月十五日、「出来事」脱稿。夜、里見弴と散歩に出、山の手線の電車にはねられて重傷を負い、芝区愛宕下の東京病院に入院。二十七日、退院」にあたる。(同文庫、223頁)

  以上をまとめると、

 直哉は大正2年8月15日夜、友人里見弴と芝浦へ涼みに出かけ、素人相撲を見ての帰り、線路のわきを歩いていて省線電車(現在の山の手線の電車)に後ろからはねられ、6~7メートルほど飛ばされた。背骨を強く打ち、頭を石に打ちつけて切った。切り口は2センチ弱ほどだったが、ザクロのように口を開いて、下に骨が見える重傷だった。しかし、芝区の東京病院に入院し、幸い2週間ほどで退院できた。

ということになるようです。

    * * * * *

 なお、同文庫の「あとがき」に、

 「城の崎にて」(大正六年四月)事実ありのままの小説で、鼠の死、蜂の死、いもりの死、皆その時数日間に実際目撃した事だった。そしてそれから受けた感じは素直にかつ正直に書けたつもりである。いわゆる心境小説というものでも余裕から生れた心境ではなかった。

とあります。

  「城の崎にて」の草稿「いのち」は、『志賀直哉全集 補巻四(草稿二・回覧雑誌)』(岩波書店 2002年1月7日発行)に収録されているそうです。
 これより前に出た『志賀直哉全集』(岩波書店 昭和48年7月18日発行。全14巻・付別巻)には、第二巻 小説二 に収録されています。

 なお、作者の「創作餘談」に「此時の經驗は「或る男、其姉の死」の中に書き入れてある」とありますが、小説「或る男、其姉の死」では、主人公芳三は「或る男」の腹違いの弟で、兄の「或る男」芳行が作者直哉のモデルで怪我をしたことになっています。
 ピクニックに行って焚き木を集める係になった芳行が、高い木に登って枯れ枝を取っていたときに、降りて来る途中で三間ほどの高さから石ころのある所へ仰向けに落ちて、頭と背中を打って大怪我をしたということになっています。


  (注) 1.  この件について参照した書籍は以下の通りです。
 〇岩波文庫『小僧の神様 他十篇』(1928年8月25日第1刷発行、2002年10月16日改版 第1刷発行)
 〇講談社版、日本現代文学全集49『志賀直哉集』(昭和35年12月20日発行)
 〇『志賀直哉全集』第二巻(岩波書店・昭和48年7月18日発行。全14巻・付別巻)                
   
    2.   『広島大学学術情報リポジトリ』に、下岡友加氏の「「城の崎にて」の表現─草稿「いのち」との比較検討を通じて─」があります。
  → 下岡友加「「城の崎にて」の表現─草稿「いのち」との比較検討を通じて─」
   
    3.  『北海道教育大学学術リポジトリ』に、菅原利晃氏の「指示語の学習指導:志賀直哉「城の崎にて」全指示語」と板林正子氏の「『城の崎にて』と草稿「いのち」」があります。ただし、いずれの論文もダウンロードしなければ見られないようです。
 → 菅原利晃「指示語の学習指導:志賀直哉「城の崎にて」全指示語」
 → 板林正子「『城の崎にて』と草稿「いのち」」
   
    4.   「城の崎にて」についての論考として、三谷憲正氏の「城の崎にて」試論─<事実>と <表現>の果てに─が、「e-文藝館=湖(umi)」に出ています。
 「e-文藝館=湖(umi)」
 → 三谷憲正 「城の崎にて」試論─<事実>と<表現>の果てに─
   
    5.   国立国会図書館の『近代日本人の肖像』の中に、若き日の志賀直哉の肖像と簡単な紹介が出ています。
 『近代日本人の肖像』
   → 志賀直哉
   
    6.   フリー百科事典『ウィキペディア』に「志賀直哉」「城の崎にて」の項があります。
  フリー百科事典『ウィキペディア』
   → 志賀直哉
   → 城の崎にて
 なお、「城の崎にて」で検索すると、さまざまなページが出てきます。
   
    7.   『昭和のクリップさんのブログ』に、「大正元年頃の東京の国鉄路線図」が出ています。
  『昭和のクリップさんのブログ』
   → 「大正元年頃の東京の国鉄路線図」
 残念ながら現在は見られないようです。(2018年7月1日現在)
   
    8.   「城の崎にて」の草稿「いのち」の冒頭部分を、少し長くなって恐縮ですが、次に引用させていただきます。この部分を実際の「城の崎にて」と比較してみると、かなり書き換えられていることが分かります。
 草稿「いのち」の本文は、『志賀直哉全集』第二巻(岩波書店・昭和48年7月18日発行。全14巻・付別巻)に拠りました。(なお、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、ここでは同じ文字を繰り返して表記してあります。「一つ一つ」「ブツリブツリ」「シミジミ」)
    いのち
 昨年の八月十五日の夜、一人の友と芝浦の涼みにいつた歸り、線路のワキを歩いてゐて不注意から自分は山の手線の電車に背後から二間半程ハネ飛ばされた。脊骨をひどく打つた。頭を石に打ちつけて切つた。切口は六分程だつたが、それがザクロのやうに口を開いて、下に骨が見えてゐたといふ事である。其時の事で今も覺えてゐるのは、兎も角自分はヒドイ怪我をしたと思つた事、(自分はこれが死の源因になりはしまいかと思つた。然しその恐怖からおびやかされる程ではなかつた) 自分の不慮の禍に心から驚いて友が心を痛めてゐた事、電車の運轉手が降りて來て何かいふのに自分が、自分の過失だから、少しも差支えないと云つた事、(然しこの事だけは自分の幻しだつた。友は電車は一寸とまつたが、又そのまゝ行つて了つたのが事實だと云つて聞かした。)巡査が、帳面を出して自分の姓名や住所や年や職業を訪(ママ)ねやうとした事、それに對して、自分は巡査を怒りつけた事、知らない若い人が自分を脊負つて線路から往來に連れて來てくれた事、其時自分は此人の名と番地を聽いて置い(ママ)ないと後で禮を云ふ事が出來ないと思つた事(然しそれは訊かずに了つた)其他まだ幾つかあつた。
 其時自分は割りに確かだつた。自分の行きたい病院も其所から多分もう歸つたらうと思はれる外科醫に病院に來てゐて貰ふやう電話をかけ(ママ)呉れと友に頼んだ。
 病院についてから翌朝までの事は大體夢中だつた。只自分は年寄つた祖母が(ママ)驚かさないやうにと切りと頼んだ事、手術臺の上にねてゐる時、醫者が肋骨を一つ一つ數えた事、それから頭の創を縫はれる時、ブツリブツリとさす針の音を聽きながら皮の下をどう云ふ諷に針をとうして行くかしらと考へた事等を覺えてゐる。
 其晩は殆ど夢中だつたが、自分は興奮して夜明まで眠らずに何かいつてゐたさうである。而して「致命(フエタル)な怪我か」と訊いて友に「決してそんな事ではない」と云はれてから急に快活になつたといふ事だ。尚自分は「自分は今どんな仕事をしつゝあるのか」といふ事と「祖母を驚かさないやうにしてくれ」といふ事と、尚二三の事を何遍でも繰返えして、傍にねてゐる友に眠らさなかつたさうだ。何遍聽いても直ぐ忘れて又それを訊くのださうだ。それから「自分は何故こんな所に寢てゐるのだらう」と訊いたりしたさうだ。看護婦がいくら眠らなければイケないと云つても眠らうとしなかつたさうだ。自分は興奮してゐて眠れなかつたらしい。
 明方から三時間位眠つたらう。而して又覺めた時からの事はもう自分でもよく覺えてゐる。然し自分は前晩の出來事を思ひ浮べる事が非常に困難だつた。同樣に自分が其時まで一年近かくかゝつてゐる長篇の小説に一體どういふ事を自分は書いてゐたらうとそれがマルデ想ひ出せなかつた。然し氣分は至極麗らかだつた。自分は自分で全然身動きする事が出來なかつたけれども痛みは少しも感じなかつた。脊中に五つ胸に二つ頭に二つ都合九つの氷袋をあてられてゐた。しかしそれを少しも冷めたく感じなかつた。
 それにしても自分の怪我は此災難としては不思議な程に最小限で濟んだのである。自分は運が惡ければ電車にひかれる所だつた。二間半も先きに飛ばされたがそれが矢張り線路から二尺と離れない所だつた。尚自分はもう一歩進んだ時に飛ばされたら、鐵橋の石垣の上から(下は人間の歩く路だつたが)逆樣に落ちねばならぬ所だつた。自分は石垣の上で突伏してゐた自分をカスカに覺えてゐる。又若し自分の飛ばされ方がもつと斜左に行つたら、其所には先の尖つた柵があつたといふから、一層の怪我をしたに相違なかつた。尚幸に以上の事がなかつたにしても若し内臓にそれが及ぼし得る危險を聞くとそれ以上恐ろしい事が幾つかあつた。醫者は診察の度に手足に觸つてシビレるやうな氣はしないかと訊ねた。これは後で聽いたが、若し自分のからだに結核菌があると、それが脊髓につく。すると脊ツイ、(ママ)カリエースといふのになつて、手足が全く利かなつて(ママ)了ふのださうだ。
 自分の怪我は最小限で濟んだ。自分は後になつて反つて其時の恐しさをシミジミ感じた。而して自分の幸運を感謝した。半月で病院を出た。尚それから半月程通つてゐた。醫者は温泉へ行く事を切りにすゝめた。而してカリエスが一年或は二年后に出る場合もあるから、直つても出來るだけ用心する必要があるといつた。
 十月に入つて自分は或る温泉へ行く事にした。其所はかういふ打身などにはいゝ温泉だつた。 (以下、略) (2018年8月3日付記
   








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