資料529 魯迅「藤野先生」(原稿による原文)

 

    魯迅の「藤野先生」を、原稿の写真によって、できるだけ原稿通りに翻字したいと試みましたが、鮮明な写真がないためと知識の不足とによって、読み取りの誤りが多いと思います。お気づきの点を教えていただければ幸いです。 
 
       


           藤 野 先 生     魯 迅

 東京也無非是這樣。上野的櫻花爛熳的時節, 望去確也像緋紅的輕雲, 但花下也缺不了成羣結隊的「清國留學生」的速成班, 頭頂上盤着大辮子, 頂得學生制帽的頂上高高聳起, 形成一坐富士山。也有解散辮子, 盤得平的, 除下帽來, 油光可鑑, 宛如小姑娘的髮髻一般, 還要將脖子扭幾扭。實在標緻極了。
 中國留學生會館的門房裏有幾本書買, 有時還直得去一轉, 倘在上午, 裏面的幾間洋房裏倒也還可以坐坐的。但到傍晩, 有一間的地板便常不免要咚咚咚地響得震天, 兼以滿房煙塵斗亂, 問問精通時事的人, 答道, 「那是在學跳舞。」
 到別的地方去看看, 如何呢?
 我就往仙台醫學專門學校去。從東京出發, 不久便到一處驛站, 寫道:日暮裏。不知怎地, 我到現在還記得這名目;其次却只記得水戸了, 這是的遺民朱舜水先生客死的地方。仙台是一個市鎭, 並不大, 冬天冷得利害, 還沒有中國的學生。
 大概是物以希爲貴罷。北京的白菜運往浙江, 便用紅頭繩繋住菜根, 倒掛在水果店頭, 尊爲「菜」;福建野生着的蘆薈, 一到北京就請進温室, 且美其名曰「龍舌蘭」。我到仙台也頗受了這樣的優待, 不但學校不收學費, 幾個職員還爲我的食宿操心。我先是住在監獄旁邊一個客店裏的, 初冬已經頗冷, 蚊子却還多, 後來用被盖了全身, 用衣服包了頭臉, 只留兩個鼻孔出氣。在這呼吸不息的地方, 蚊子竟無從插嘴, 居然睡安穩了。飯食也不壞。但一位先生却以爲這客店也包辦囚人的飯食, 我住在那里不相宜, 幾次三番, 幾次三番地説。我雖然覺得客店兼辦囚人的飯食和我不相干, 然而好意難却, 也只得別尋相宜的住處了。于是搬到別一家, 離監獄也很遠, 可惜毎天總要喝難以下咽的芋梗湯。
 從此就看見許多陌生的先生, 聽到許多新鮮的講義。解剖學是兩個敎授分任的。最初是骨學。其時進來的是一個黑瘠的先生, 八字鬚, 戴着眼鏡, 挾着一疊大大小小的書。一將書放在講臺上, 便用了緩慢而很有頓挫的聲調, 向學生紹介自己道:
 「我就是叫作藤野嚴九郎的……。」
 後面有幾個人笑起來了。他接着便講述解剖學在日本發達的歴史, 那些大大小小的書, 便是從最初到現今關于這一門學問的著作。起初有幾本是線裝的;還有飜刻中國譯本的, 他們的飜譯和研究新的醫學, 並不比中國早。
 那坐在後面發笑的是上學年不及格的留級學生, 在校已經一年, 掌故頗爲熟悉的了。他們便給新生講演毎個敎授的歴史。這藤野先生, 據説是穿衣服太模胡了, 有時竟會忘記帶領結;冬天是一件舊外套, 寒顫顫的, 有一回上火車去, 致使管車的疑心他是扒手,叫車裏的客人大家小心些。
 他們的話大概是眞的, 我就親見他有一次上講堂沒有帶領結。
 過了一星期, 大約是星期六, 他使助手來叫我了。到得研究室, 見他坐在人骨和許多單獨的頭骨中間, ──他其時正在研究着頭骨, 後來有一篇論文在本校的雜志上發表出來。
 「我的講義、你能抄下來麼?」他問。
 「可以抄一点。」
 「拿來我看!」
 我交出所抄的講義去, 他收下了, 第二三天便還我, 並且説, 此後毎一星期要送給他看一回。我拿下來打開看時, 很謇了一驚, 同時也感到一種不安和感激。原來我的講義已經從頭到末, 都用紅筆添改過了, 不但増加了許多脱漏的地方, 連文法的錯誤, 也都一一訂正。這樣一直繼續到敎完了他所擔任的功課:骨學, 血管學, 神經學。
 可惜我那時太不用功, 有時也很任性。還記得有一回藤野先生將我叫到他的研究室裏去, 飜出我那講義上的一個圖來, 是下臂的血管, 指着, 向我和藹的説道──
 「你看, 你將這條血管移了一點位置了。──自然, 這樣一移, 的確比較的好看些, 然而解剖圖不是美術, 實物是那麼樣的, 我們沒法改換他。現在我給你改好了, 以後你要全照着黑板上那樣的畫。」
 但是我還不服氣, 口頭答應着, 心裏却想道──
 「圖還是我畫的不錯;至于實在的情形, 我心裏自然記得的。」
 學年試驗完畢之後, 我便到東京玩了一夏天, 秋初再回學校, 成績早已發表了, 同學一百餘人之中, 我在中間, 不過是沒有落第。這回藤野先生所擔任的功課, 是解剖實習和局部解剖學。
 解剖實習了大概一星期, 他又叫我去了, 很高興地, 仍用了極有抑揚的聲調對我説道──
 「我因爲聽説中國人是很敬重鬼的, 所以很擔心, 怕你不肯解剖屍體。現在總算放心了, 沒有這回事。」
 但他也偶有使我很爲難的時候。他聽説中國的女人是裹腳的, 但不知道詳細, 所以要問我怎樣裹法, 足骨變成怎樣的畸形, 還歎息道, 「總要看一看纔知道。究竟是怎麼一回事呢?」
 有一天, 本級的學生會幹事到我寓裏來了, 要借我的講義看。我檢出來交給他們, 却只飜檢了一通, 並沒有帶走。但他們一走, 郵差就送到一封很厚的信, 拆開看時, 第一句是──
 「你改悔罷!」
 這是新約上的句子罷, 但經託爾斯泰新近引用過的。其時正値 戰爭, 託老先生便寫了一封給俄國日本的皇帝的信, 開首便是這一句。日本報紙上很斥責他的不遜, 愛國青年也憤然, 然而暗地裏却早受了他的影響了。其次的話, 大意是説上年解剖學試驗的題目, 是藤野先生在講義上做了記號, 我豫先知道的, 所以能有這樣的成績。末尾是匿名。
 我這纔回憶到前幾天的一件事。因爲要開同級會, 幹事便在黑板上寫廣告, 末一句是「請全數到會勿漏爲要」, 而且在「漏」字旁邊加了一個圏。我當時雖然覺到圏得可笑, 此外却毫不介意, 這回纔悟出那字也在譏刺我了, 猶言我得了敎員漏洩出來的題目。
 我便將這事告知了藤野先生;有幾個和我熟識的同學也很不平, 一同去詰責幹事託辭檢査的無禮, 並且要求他們將檢査的結果, 發表出來。終于這流言消滅了, 幹事却又竭力運動, 要收回那一封匿名信去。結末是我便將這託爾斯泰式的信退還了他們。
 中國是弱國, 所以中國人當然是低能兒, 分數在六十分以上, 便不是自己的能力了:也無怪他們疑惑。但我接着便有參觀鎗斃中國人的命運了。第二年添敎黴菌學, 細菌的形狀是全用電影來顯示的, 一段落已完而還沒有到下課的時刻, 便影幾片時事的片子, 自然都是日本戰勝俄國的情形。但偏有中國人夾在裏邊:給俄國人做偵探, 被日本軍捕獲, 要槍斃了, 圍着看的也是一羣中國人;在講堂裏的還有一個我。
 「萬歳!」他們都拍掌歡呼起來。
 這種歡呼, 是毎看一片都有的, 但在我, 這一聲却特別聽得刺耳。此後回到中國來, 我看見那些閒看槍斃犯人的人們, 也何嘗不酒醉似的喝采, ──嗚呼, 無法可想!但在那時那地, 我的意見却變化了。
 到第二學年的終結, 我便去尋藤野先生, 告訴他我將不學醫學, 並且離開這仙臺。他的臉色彷彿有些悲哀, 似乎想説話, 但竟沒有説。
 「我想去學生物學, 先生敎給我的學問, 也還有用的。」其實我並沒有決意要學生物學, 因爲看得他有些凄然, 便説了一個慰安他的謊話。 
 「爲醫學而敎的解剖學之類, 怕于生物學也沒有什麼大幫助。」他歎息説。      
 將走的前幾天, 他叫我到他家裏去, 交給我一張照相, 後面寫着兩個字道:「惜別」, 還説希望將我的也送他。但我這時適値沒有照相了;他便叮囑我將來照了寄給他, 並且時時通信告訴他此後的狀況。
 我離開仙臺之後, 就多年沒有照過相, 又因爲狀況也無聊, 説起來無非使他失望, 便連信也怕敢寫了。經過的年月一多, 話更無從説起, 所以雖然有時想寫信, 却又難以下筆, 這樣的一直到現在, 竟沒有寄過一封信和一張照片。從他那一面看起來, 是一去之後, 杳無消息了。
 但不知怎地, 我總還時時記起他, 在我所認爲我師的之中, 他是最使我感激, 給我鼓勵的一個。有時我常常想:他的對于我的熱心的希望, 不倦的敎誨, 小而言之, 是爲中國, 就是希望中國有新的醫學;大而言之, 是爲學術, 就是希望新的醫學傳到中國去。他的性格, 在我的眼裏和心裏是偉大的, 雖然他的姓名並不爲許多人所知道。
 他所改正的講義, 我曾經訂成三厚本, 收藏着的, 將作爲永久的紀念。不幸七年前遷居的時候, 中塗毀壞了一口書箱, 失去半箱書, 恰巧這講義也遺失在内了。責成運送局去找尋, 寂無回信。只有他的照相至今還掛在我北京寓居的東牆上, 書桌對面。毎當夜間疲倦, 正想偸懶時, 仰面在燈光中瞥見他黑痩的面貌, 似乎正要説出抑揚頓挫的話來, 便使我忽又良心發現, 而且増加勇氣了, 于是點上一枝煙, 再繼續寫些爲「正人君子」之流所深惡痛疾的文字。        (十月十二日。)                                             


  (注) 1.  上記の魯迅「藤野先生」(原稿による原文)は、原稿の写真によって翻字を行い、『華語網』ほかのサイトに掲載してある本文を参考にして掲載しました。
 → 『華語網』「藤野先生 原文」
 なお、文中の「咚咚咚」の文字は、『華語網』のサイトからコピーさせていただいたことをお断りしておきます。            
   
2.  原稿の写真は、『魯迅と仙台 東北大学留学百周年』(東北大学出版会、2004年10月1日第1刷発行、2005年8月30日改訂版第1刷発行)に掲載されているもの、及び『今日も日暮里富士見坂』というサイトの「魯迅と日暮里(1)プロローグ」に掲載されている第1頁目を利用させていただきました。
 原稿の右傍線の部分は、ここでは下線で表してあります。        
    3.  よく読み取れないところがあるので、翻字が正確でないところが多いと思いますので、お気づきの個所を教えていただければ幸いです。    
    4.  魯迅が仙台に留学していたのは、1904年(明治37年)9月から1906年(明治39年)3月までの約1年半で、「藤野先生」が書かれたのは、留学後20年ほど経った1926年(大正15年)10月12日のことです。    
    5.  東北大学史料館 魯迅記念展示室「魯迅と東北大学─歴史のなかの魯留学生─」というサイトに、「魯迅の仙台留学」というページがあります。
 東北大学史料館 魯迅記念展示室
 「魯迅と東北大学─歴史のなかの魯留学生─」
  → 「魯迅の仙台留学」
                                                  
   
    6.  福井県あわら市にある『あわら市観光協会』の公式ホームページ『北陸あわら』に、「藤野厳九郎記念館」の紹介が出ています。
 『北陸あわら』
  → 「藤野厳九郎記念館」
   
    7.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、魯迅、藤野厳九郎の項があります。
 『ウィキペディア』
  → 「魯迅」
     → 「藤野厳九郎」 
   
    8.  『ようこそ日・中文学翻訳館へ』というサイトに、横田勤訳の「藤野先生」があります。
 『ようこそ日・中文学翻訳館へ』
  → 横田勤訳「藤野先生」
   
    9.  『日本中国友好協会 宮城県連』のホームページがあり、その中の『魯迅研究』に「魯迅と仙台留学」があり、そこの「魯迅を語る」の中に藤野先生の「謹んで周樹人樣を憶ふ」(『文学研究』(昭和12年3月号掲載)が出ています。
 『日本中国友好協会 宮城県連』
   → 『魯迅研究』
   → 「魯迅と仙台留学」
  →  「魯迅を語る」
    (6 謹んで周樹人樣を憶ふ)
      
   
    10.  太平洋戦争直後の昭和20年(1945)9月5日に初版が発行された医学生魯迅と藤野先生を扱った太宰治の小説「惜別」が、青空文庫に入っています。
 青空文庫の「惜別」の底本はちくま文庫『太宰治全集 7』(1989(平成元)年3月28日第1刷発行)で、底本の親本は『筑摩全集類聚版 太宰治全集』(1975(昭和50)年6月~1976(昭和51)年6月)となっています。

 青空文庫
 →太宰治「惜別」

 この太宰治の小説「惜別」について、筑摩書房の『太宰治全集 第七巻』(昭和33年4月25日発行)の後記に、
 「惜別」 内閣情報局と文学報国会の依嘱を受けて書き下ろした長篇だが、「しかし、両者からの話が無くても、私は、いつかは書いてみたいと思つて、その材料を集め、その構想を久しく案じてゐた小説である。」と作者は初版本の「あとがき」で言っている。昭和19年12月に仙台に赴き魯迅の仙台在留当時のことを調査したうえ執筆にかかり、二十年二月に完成、同年九月、朝日新聞社より刊行した。戦後、二十二年四月、講談社より改訂再刊さる。本全集の校訂は初版本に拠り、再刊本を参照した。再刊に際して改訂された箇所は極めて多く、四百字詰原稿紙にして三十枚以上の分量が削除されている。即ち、
として、削除された箇所が示されています。更に、再刊本において直された語句と加筆された語句が示されています。

 なお、初版本の「あとがき」は青空文庫の「惜別」にも付いていて読むことができます。
 また、青空文庫に太宰治の「「惜別」の意図」という文章も収められています。
  →「惜別」の意図」太宰治
   
    11.  国立国会図書館デジタルコレクションに、筑摩書房・昭和37年9月5日発行の『定本 太宰治全集 第七巻』が出ていて、その巻末の解説で、奥野健男が「惜別」について次のように書いています。
 国立国会図書館デジタルコレクション
 → 筑摩書房版『定本 太宰治全集 第七巻』(昭和37年9月5日発行)
  →「惜別」
  →「惜別」の解説

 魯迅の「藤野先生」という小品から触発された小説であるが、太宰治と魯迅という組み合せは、現代文学の交接点として文学史的にも興味津々たるものであるが、太平洋戦争下の言論統制時代に書かれたという時代的制約のため、太宰が自由に魯迅に迫り得なかったうらみがある。竹内好氏など太宰ファンであり魯迅研究家である人々が、「惜別」に対してだけは厳しく否定的評価を下しているのも、肯けないことはない。けれどぼくなどは当時この作品を読み、あの時代に太宰がいわば危険思想の持主である魯迅の思想をここまで紹介した勇気にむしろ敬服した。いや魯迅の考え方の紹介というより、中国革命の時敢えて文芸の道を志した魯迅の生き方に共感し、太宰自身の心情を若き魯迅に託して表現したと言うべきであろう。(以下、略)

 
詳しくは定本全集巻末の解説をご覧ください。

 奥野健男氏の解説に「竹内好氏など太宰ファンであり魯迅研究家である人々が、「惜別」に対してだけは厳しく否定的評価を下している」とありますが、竹内氏はかなり厳しく「惜別」を否定しています。それはなぜなのでしょうか。いろいろな人がこれについて書いています。ネット上にも「惜別」について書かれた論文がいくつか出ています。そのうちの一つとして、日本ペンクラブ電子文藝館に出ているものを挙げておきます。
 日本ペンクラブ電子文藝館
 →「惜別」前後─太宰治と魯迅─(尾崎秀樹)

 また、『竹内好を記録する会』というホームページに「竹内好と太宰治」のページがあり参考になります。
 『竹内好を記録する会』
  →「竹内好と太宰治」
   
    12 .  『青空文庫』に、井上紅梅の訳による魯迅の作品(「阿Q正伝」「狂人日記」「故郷」その他)が入っています。
 『青空文庫』
  → 「魯迅」
   






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