資料527 夏目漱石「点頭録」



          點 頭 録                
                 
夏目漱石

 
      また正月が來た
  
 また正月が來た。振り返ると過去が丸で夢のやうに見える。何時の間に斯う年齡(とし)を取つたものか不思議な位である。
 此感じをもう少し強めると、過去は夢としてさへ存在しなくなる。全くの無になつてしまふ。實際近頃の私は時々たゞの無として自分の過去を觀ずる事がしばしばある。いつぞや上野へ展覽會を見に行つた時、公園の森の下を歩きながら、自分は 或目的をもつて先刻(さつき)から足を運ばせてゐるにも拘はらず、未だ曾て一寸も動いてゐないのだと考へたりした。是は耄碌の結果ではない。宅(うち)を出て、電車に乘つて、山下で降りて、それから靴で大地の上をしかと踏んだといふ記憶を慥かに有(も)つた上の感じなのである。自分は其時終日行いて未だ曾て行かずといふ句が何處かにあるやうな氣がした。さうして其句の意味は斯ういふ心持を表現したものではなからうかとさへ思つた。
 これをもつと六づかしい哲學的な言葉で云ふと、畢竟ずるに過去は一の假象に過ぎないといふ事にもなる。金剛經にある過去心は不可得なりといふ意義にも通ずるかも知れない。さうして當來の念々は悉く刹那の現在からすぐ過去に流れ込むものであるから、又瞬刻の現在から何等の段落なしに未來を生み出すものであるから、過去に就て云ひ得べき事は現在に就ても言ひ得べき道理であり、また未來に就いても下し得べき理窟であるとすると、一生は終に夢よりも不確實なものになつてしまはなければならない。
  斯ういふ見地から我といふものを解釋したら、いくら正月が來ても、自分は決して年齡(とし)を取る筈がないのである。年齡を取るやうに見えるのは、全く暦と鏡の仕業で、其暦も鏡も實は無に等しいのである。
 驚くべき事は、これと同時に、現在の我が天地を蔽ひ盡して儼存してゐるといふ確實な事實である。一擧手一投足の末に至る迄此「我」が認識しつゝ絶えず過去へ繰越してゐるといふ動かしがたい眞境である。だから其處に眼を付けて自分の後 を振り返ると、過去は夢所(どころ)ではない。炳乎として明らかに刻下の我を照しつゝある探照燈のやうなものである。從つて正月が來るたびに、自分は矢張り世間並に年齡を取つて老い朽ちて行かなければならなくなる。
 生活に對する此二つの見方が、同時にしかも矛盾なしに兩存して、普通にいふ所の論理を超越してゐる異樣な現象に就いて、自分は今何も説明する積はない。又解剖する手腕も有たない。たゞ年頭に際して、自分は此一體二樣の見解を抱いて、わが全生活を、大正五年の潮流に任せる覺悟をした迄である。
  若し無に即して云へば、自分は今度の春を迎へる必要も何もない。否明治の始めから生れないのと同じやうなものである。然し有になづんで云へば、多病な身體が 又一年生き延びるにつけて、自分の爲すべき事はそれ丈量に於て増すのみならず、質に於ても幾分か改良されないとも限らない。從つて天が自分に又一年の壽命を借して呉れた事は、平常から時間の缺乏を感じてゐる自分に取つては、何の位の幸福になるか分らない。自分は出來る丈餘命のあらん限りを最善に利用したいと心掛けてゐる。
  趙州(でうしう)和尚といふ有名な唐の坊さんは、趙州古佛晩年發心と人に云はれた丈あつて、六十一になつてから初めて道に志した奇特な心懸の人である。七歳の童兒なりとも、我に勝るものには我れ即ち彼に問はん、百歳の老翁なりとも我に及ばざる者には我れ即ち佗を敎へんと云つて、南泉といふ禪坊さんの所へ行つて二十年間倦まずに修業を繼續したのだから、卒業した時にはもう八十になつてしまつたのである。夫から趙州の觀音院に移つて、始めて人を得度し出した。さうして百二十の高齡に至る迄化導を專らにした。
 壽命は自分の極めるものでないから、固より豫測は出來ない。自分は多病だけれども、趙州の初發心の時よりもまだ十年も若い。たとひ百二十迄生きないにしても、力の續く間、努力すればまだ少しは何か出來る樣に思ふ。それで私は天壽の許す限り趙州の顰にならつて奮勵する心組でゐる。古佛と云はれた人の眞似も長命も、無論自分の分でないかも知れないけれども、羸弱なら羸弱なりに、現にわが眼前に開展する月日に對して、あらゆる意味に於ての感謝の意を致して、自己の天分の有り丈を盡さうと思ふのである。自分は點頭録の最初に是丈の事を云つて置かないと氣が濟まなくなつた。


      軍 國 主 義

       一
 今度の歐洲戰爭が爆發した當時、自分は或人から突然質問を掛けられた。
 「何んな影響が出て來るでせう」
 「左樣」
 自分は實際考へる暇を有たなかつた。けれども答へなければならなかつた。
 「何んな影響が出て來るか、來て見なければ無論解りませんけれども、何しろ吾々が是はと驚ろくやうな目覺ましい結果は豫期しにくいやうに思ひます。元來事 の起りが宗敎にも道義にも乃至一般人類に共通な深い根柢を有した思想なり感情なり欲求なりに動かされたものでない以上、何方が勝つた所で、善が榮えるといふ譯 でもなし、又何方が負けたにした所で、眞が勢を失ふといふ事にもならず、美が輝を減ずるといふ羽目にも陷る危險はないぢやありませんか」
 自分はさう云ひ切つて仕舞つた。さうして戰爭の展開する場面が非常に廣い割に、又それに要する破壞的動力が凄じい位猛烈な割に、案外落付いてゐられるのは、全く此見解が知らず知らず胸の裡にあるからだらうと、私かに自分で自分を判斷した。
 實際此戰爭から人間の信仰に革命を引き起すやうな結果は出て來やうとも思はれない。又從來の倫理觀を一變するやうな段落が生じやうとも考へられない。これが爲に美醜の標準に狂ひが出やうとは猶更懸念できない。何(ど)の方面から見ても、吾々の精神生活が急劇な變化を受けて、所謂文明なるものゝ本流に、強い角度の方向轉換が行はれる虞はないのである。
 戰爭と名のつくものゝ多くは古來から大抵斯んなものかも知れないが、ことに今度の戰爭は、其仕懸の空前に大袈裟な丈に、やゝともすると深みの足りない裏面を對照として却て思ひ出させる丈である。自分は常にあの彈丸とあの硝藥とあの毒瓦斯とそれからあの肉團と鮮血とが、我々人類の未來の運命に、何の位の貢獻をしてゐるのだらうかと考へる。さうして或る時は氣の毒になる。或る時は悲しくなる。又或る時は馬鹿々々しくなる。最後に折々は滑稽さへ感ずる場合もあるといふ殘酷な事實を自白せざるを得ない。左樣した立場から眺めると、如何に凄じい光景でも、如何に腥ぐさい舞臺でも、それに相應した内面的背景を具へて居ないといふ點に於て、又それに比例した強硬な脊髓を有して居ないといふ意味に於て、淺薄な活動寫眞だの輕浮なセンセーシヨナル小説だのと擇ぶ所がないやうな氣になる。たとひ殺傷に參加する人々(にんにん)個々(こゝ)の頭上には、千差萬別の悲劇が錯綜紛糾して、時々刻々に彼等の運命を變化しつゝあらうとも、それは當座限りの影響に過ない。永久に吾人一般の内面生活を變色させるやうな強い結果は何處からも生れて來ない。とすると、今度の戰爭は有史以來特筆大書すべき深刻な事實であると共に、まことに根の張らない見掛倒しの空々しい事實なのである。

       二             
 然しもう少し低い見地に立つて、もつと手近な所を眺めると、此戰爭の當然將來に齎すべき結果は、いくらでも吾々の視線の中に這入つて來なければならない。政治上にせよ、經濟上にせよ、向後解決されべき諸問題は何の位彼等の前に横はつてゐるか分らないと云つても好い位である。
 其中で事件の當初から最も自分の興味を惹いたもの、又現に惹きつゝあるものは、軍國主義の未來といふ問題に外ならなかつた。人道の爲の爭ひとも、信仰の爲の鬪ひとも、又意義ある文明の爲の衝突とも見做す事の出來ない此砲火の響を、自分はたゞ軍國主義の發現として考へるより外に翻譯の仕樣がなかつたからである。歐洲大亂といふ複雜極まる混亂した現象を、斯う鷲攫に纏めて觀察した時、自分は始めて此戰爭に或意味を附着する事が出來た。さうして重に其意味からばかり勝敗の成行を眺めるやうになつた。從つて個人としての同情や反感を度外に置くと、獨 逸だの佛蘭西だの英吉利だのといふ國名は、自分に取つてもう重要な言葉でも何でもなくなつて仕舞つた。自分は軍國主義を標榜する獨逸が、何の位の程度に於て聯合國を打ち破り得るか、又何れ程根強くそれらに抵抗し得るかを興味に充ちた眼で見詰めるよりは、遙かにより鋭い神經を働かせつゝ、獨逸に因つて代表された軍國主義が、多年英佛に於て培養された個人の自由を破壞し去るだらうかを觀望してゐるのである。國土や領域や羅甸民族やチユートン人種や凡て具象的な事項は、今の自分に左した問題になつてゐない。
 獨逸は當初の豫期に反して頗る強い。聯合軍に對して是程持ち應へやうとは誰しも思つてゐなかつた位に強い。すると勝負の上に於て、所謂軍國主義なるものゝ價値は、もう大分世界各國に認められたと云はなければならない。さうして向後獨逸が成功を收めれば收める程、此價値は漸々高まる丈である。英吉利のやうに個人の自由を重んずる國が、強制徴兵案を議會に提出するのみならず、それが百五對四百三の大多數を以て第一讀會を通過したのを見ても、其消息はよく窺はれるだらう。   
 かつてギツシングの書いたものを讀んだら、小さいうち學校で體操を強ひられるのが、非常の苦痛と不快を彼に與へたといふ事が精しく述べてあつた末に、もしわが英國で本人の意志に逆つて迄も徴兵を強制するやうになつたと假定したら、自分は何んな心持になるだらう、さういふ事實は萬々起る筈はないのだけれども、たゞ想像して見てさへ堪へられないと附け加へてあつた。ギツシングのやうな獨居を好む人は特別だと云ふかも知れないが、英國人の自由を愛する念と云つたら、殆ど第二の天性として一般に行き渡つてゐるのだから、強制徴兵に對する嫌惡の情は、誰しもギツシングに讓らないと見ても間違はないのである。其英國で無理にも國民を兵籍に入れやうとするのには至大の困難があると思はなければならない。其困難を冒して新しい議案が持ち出され、又其議案が過半の多數に因つて通過されたとすると、現に非常な變化が英國民の頭の中に起りつゝある證據になる。さうして此變化は既に獨逸が眞向に振り翳してゐる軍國主義の勝利と見るより外に仕方がない。戰爭がまだ片付かないうちに、英國は精神的にもう獨逸に負けたと評しても好い位のものである。

       三              
 開戰の劈頭から首都巴里を脅かされやうとした佛蘭西人の腦裏には英國民より遙 に深く此軍國主義の影響が刻み付けられたに違ない。たゞでさへ何うして獨逸に復讎してやらうかと考へ續けに考へて來た彼等が、愈となると、却て其獨逸の爲に領土の一部分を蹂躪されるばかりか、政廳さへ遠い所へ移さなければならなくなつたのは、彼等に取つて甚だ痛ましい事實である。其事實を眼前に見た彼等の精神に、一種の強い感銘が起るのも亦必然の結果と云はなければなるまい。飛行船から投下された爆彈以外に、まだ寸土も敵兵に踏まれてゐない英國に比較すると、此精神的打撃は更に幾倍の深刻さを加へてゐると見るのが正に妥當の見解である。
 不幸にして強制徴兵案の樣に自分の想像を事實の上で直接確めて呉れる程の鮮やかな現象が、佛蘭西ではまだ起つてゐないから、自分は自分の臆説をさう手際よく實際に證明する譯に行かない。けれども戰爭の經過につれて、彼等の公表する思想なり言説なりに現れて來る變化を迹付ければ、自分の考への大して正鵠を失つてゐない事丈は略慥なやうに思はれる。此間或雜誌で「力」といふ觀念に就て獨佛兩者を比較したパラントといふ人の文章を讀んだ時、自分は益其感を深くした。
 彼は「力」といふ考への中に、獨逸人の混入した不純な概念を列擧した末、佛蘭西のそれも矢張り變に歪んでしまつたといふ事を下の樣に説いてゐる。
 『佛蘭西では科學的に所謂「力」といふものが正義權利の觀念と衝突した。ルーテル式獨逸式ではないが、ルソー式、トルストイ式、四海同胞式、平和式、平等式、人道式なる此觀念のために本來の「力」といふ考へがつい曲げられて、不德不仁の屬性を帶びるやうになつてしまつた。そこで正義と人道と平和の爲に此「力」といふものを輕蔑し且否定しなければならなくなつた。さうして美と正義を一致させ、美と調和を一致させる美學を建設した。奮鬪も差別も自然の法則であるといふ事を忘れた。美其物も一種の「力」であり、又「力」の發現であるといふ事を忘れた。正義其物も本來の意味から云へば平衡を得た「力」に過ぎないといふ事を忘れた。「力」の方が原始的で、正義の方は却て轉來的であるといふ事も忘れた。斯んな僻見に比べるとニーチエの方が何の位尤もであつたか分らない。……そこで吾々は何うしても「力」といふ觀念をこゝで一新する必要がある。さうして本當の意味でもう一度それを評價の階段中に入れ易へなければならない。自然の法則を現すといふ點に於て「力」は科學的なものである。勝利を冀ふ人間の精神を現すといふ點に於て「力」は高尚なものである。吾々はもう權利と「力」とを對立させる事を已めなければ行(い)けない。權利がなくつて負けるのはまだしもだが、權利がある上に負けるのは二重の敗北である。最大の損害である。無上の不幸である』     
 冗漫と難澁とを恐れて、わざと大意丈を抄譯した此一節を讀んで見ても、相手の軍國主義が何んな風に佛蘭西の思想界の一部に食ひ入りつゝあるかが解るだらう。

       四                 
 すると戰爭のまだ落着しないうちから、年來獨逸によつて標榜された軍國的精神なるものは既に敵國を動かし始めたのである。遠い東の果に住んでゐる吾々の視聽を刺戟する位強く彼等の心を動かし始めたのである。さうして此影響はたとひ今度の戰爭が片付いても、容易に彼等の腦裏から拭ひ去る事が出來ないのである。單に過去の經驗を痛切に記憶すべく餘儀なくされた結果として拭ひ去る事が出來ないばかりでなく、未來に對する配慮からしても到底此影響を超越する譯には行かないのである。
 待對世界の凡てのものが悉く條件つきで其存在を許されてゐる以上、向後に囘復されべき歐洲の平和にも、亦絶對の權威が伴つてゐない事だけは誰の眼にも明かである。然し彼等が其平和の必要條件として、それとは全く兩立しがたい腕力の二字を常に念頭に置くべく強ひられるに至つては、彼等と雖も今更ながら天のアイロニーに驚かざるを得まい。現代に所謂列強の平和とはつまり腕力の平均に外ならないといふ平凡な理窟を彼等は又新しく天から敎へられたのである。土俵の眞中で四つに組んで動かない力士は、外觀上至極平和さうに見える。今迄彼等の享有した平和も、實はそれ程に高價で、又それ程に苦痛性を帶びてゐたのである。しかも彼等は相撲取のやうにそれを自覺してゐなかつたために突然罰せられた。換言すれば生存上腕力の必要を向後當分の間忘れる事の出來ないやうに遣付けられた。軍國主義が今迄彼等に及ぼした、又是から先彼等に及ぼすべき影響は決して淺いものではない。又短いものではなからう。
 普魯西人は文明の敵だと叫んで見たり、獨逸人が傍にゐると食つた物が消化(こな)れないで困ると云つたりしたニーチエは、偉大なる「力」の主張者であつた。不思議にも彼の力説した議論の一面を、彼の最も忌み惡んだ獨逸人が、今政治的に又國際的に、實行してゐるのである。さうして成效してゐるのである。軍國主義の精神には一時的以上の眞理が何處かに伏在してゐると認めても差支ないかも知れない。
 然し自分の軍國主義に對する興味は、此處迄觀察して來ると其處で消えてしまはなければならない。自分はこれ以上同じ問題に就いて考へる必要を認めない。又手數も厭はしい氣がする。自分はもつと高い場所に上りたくなる。もつと廣い眼界から人間を眺めたくなる。さうして今獨逸を縱横に且獰猛に活躍させてゐる此軍國主義なるものを、もつと遠距離から、もつと小さく觀察したい。
 將來に於ける人間の生存上赤裸々なる腕力の發現が、大仕掛の準備、即ち戰爭といふ形式を以て世の中に起るとすれば、それを解釋するものは、腕力の發現そのものが目的で人間が戰爭をするのであるとするか、又は目的は他にあるが、それを遂行する手段として已を得ず戰爭に訴へたのだとしなければならない。然し戰爭其物が面白くつて戰爭をしたものが昔からあるだらうか。ナポレオンの樣な此方面の天才ですら、夜打朝懸、軍さの懸引に興味は有つてゐたかも知れないが、たゞ戰ひたいから戰つたのだとは受け取れない。たとひ露骨な腕力沙汰が個人の本能だとしても、相手を殺したり傷けたりしない程度に於て其本能を滿足させるのが人情である。一日に何千何萬といふ人命を賭にして此本能に飽滿の悦樂を與へるのが戰爭であるとは、誰しも云ひ得まい。すると戰爭は戰爭の爲の戰爭ではなくつて、他に何等かの目的がなくてはならない、畢竟ずるに一の手段に過ぎないといふ事に歸着してしまふ。
 何れの方面から見ても手段は目的以下のものである。目的よりも低級なものである。人間の目的が平和にあらうとも、藝術にあらうとも、信仰にあらうとも、知識にあらうとも、それを今批判する餘裕はないが、とにかく戰爭が手段である以上、人間の目的でない以上、それに成效の實力を付與する軍國主義なるものも亦決して活力評價表の上に於て、決して上位を占むべきものでない事は明かである。
 自分は獨逸によつて今日迄鼓吹された軍國的精神が、其敵國たる英佛に多大の影響を與へた事を優に認めると同時に、此時代錯誤的精神が、自由と平和を愛する彼等に斯く多大の影響を與へた事を悲しむものである。


      トライチケ

       一      
 歐洲戰爭が起つてから、獨乙の學者思想家の言論を實際的に解釋するものが續々出て來た。
 最初英吉利の雜誌にはニーチエといふ名前が頻りに見えた。ニーチエは今度の事件が起る十年も前、既に英語に翻譯されてゐる。英吉利の思想界にあつて別に新らしい名前でもない。然し彼等は其名前に特別な新らしい意味を着けた。さうして彼の思想を此大戰爭の影響者である如くに言ひ出した。是は誰の眼にも映る程屢繰り 返された。基督の道德は奴隷の道德であると罵つたのは正にニーチエであると同時に、ビスマークを憎みトライチケを侮つたのもニーチエであるとすると、彼が斯ういふ解釋を受けて滿足するかどうかは疑問である。本人の思はく如何は別問題として、彼の唱道した超人主義の哲學が、此際獨乙に取つて、何れ程役に立つてゐるかも遠方に生れた自分には殆んど見當が付かない。
 佛蘭西の一批評家は「所謂獨乙的發展」といふ題目の下に、ヘーゲルとビスマークとヰリアム二世の名を列擧した。彼はヘーゲルの樣な純粹の哲學者を軍人政治家と結び付ける許りか、其思想が彼等軍人政治家の實行に深い關係を有してゐるのだといふ事を説明しやうと試みた。彼の云ふ所によると、普魯西の軍國主義はヘーゲルの觀念論の結果に外ならんといふのである。──元來獨乙のアイヂアリズムは觀念の科學であつて、其觀念なるものが又大いに感情的分子を含んでゐる。文字の示現通り單なる冥想や思索でなくつて、場合が許すならば、何時でも實行的に變化するのみならず、時としては侵略的にさへなりかねない程毒々しいものである。アイヂアリズムが論議の援助を受けて、主觀客觀の一致を發見したが最後、こゝに外界と内界の墻壁を破壞して、凡てを吸收し盡さなければ已まない事になる。アイヂアリズムから思ひも寄らない物質主義が現はれてくる。是は最初から無關心で出立しない哲學として、陷るべき當然の結果である。
 此批評家の云ふ事が、果して眞相の解釋であるか何うか、是も自分には分らない。唯遠くにゐて、其土地の空氣を呼吸しない所爲か、斯ういふ説明は自分から見て何うも切實でないやうな氣がする。奇拔な事は突飛な位奇拔とは思ふが、それがため却つて成程と首肯しがたくなる位なものである。
 例を擧げればまだ澤山あるが、さう一々も覺えてゐないから、まづ此位にして置いて、自分は一寸斯ういふ現象に就いてこゝに插話的ながら考へて見たいと思ふ事がある。
 英佛の評論家は現在の戰爭を單に當面の事實としてばかり眺めてゐないのみならず、又それを政治上の問題としてばかり考へてゐないのみならず、其背後に必ず或思想家なり學者なりの言説を大いなる因子として數へたがつてゐる傾向に見える。實際歐洲の思想家や學者はそれ程實社會を動かしてゐるのだらうか。
 自分は日露戰爭が、我日本の生んだ大哲學者の影響を蒙つて發現したとは決して思はない。日淸戰爭も其通りである。戰爭はとにかく、其他の小事件にせよ、我日本に起つた歴史的事實の背景に、思想家の思想を基點として据ゑ得るものは殆んどないやうに思ふ。現代の日本に在つて政治は飽く迄も政治である。思想は又何所迄も思想である。二つのものは同じ社會にあつて、てんでんばらばらに孤立してゐる。さうして相互の間に何等の理解も交渉もない。たまに兩者の連鎖を見出すかと思ふと、それは發賣禁止の形式に於て起る抑壓的なものばかりである。山陽の日本外史が維新の大業に醱酵分となつて交り込んだのは、例外中の例外で、しかもそれは明治大正以前の事實に過ぎない。日本の思想家が貧弱なのだらうか。日本の政治家の眼界が狹いのだらうか。又は西洋の批評家の解釋に誇張が多過ぎるのだらうか。自分は三つとも否定する譯に行くまいと思ふ。さうして其内で西洋の批評家の誇張が一番少ないやうに思ふ。

       二         
 もしトライチケの名がニーチエやヘーゲルと同じ意味に於て此戰爭の引合に出るならば、自分は少なくとも是丈の事を頭のうちに入れて置く方が便利だと考へる。さうすれば大した困難と誤解なしに、現下獨乙に於る彼の地位が、比較的明瞭に想像され得るからである。
 ニーチエやヘーゲルは此事件後に復活した名前ではない。只在來の名前に英佛人が新らしい意義を付けた丈である。疾うから知れてゐる彼等の内容を、一種の刺戟に充ちた異樣の眼で、特別に眺めた丈である。トライチケも復活した名でないかも知れない。けれども前者と違つて、此際新らしい解釋を受ける必要のない名である。今迄のトライチケを今迄通りに見てゐれば、視線の角度を改める必要も手數も要らないで、すぐ彼と今度の戰爭との關係が解るのである。彼の説はニーチエ程高踏的でなかつた。孤峯頂上から下界へ向つて命令するが如き態度で、詩のやうな哲學、又哲學のやうな詩を絶叫しはしなかつた。無論ヘーゲル程神秘の雲のうちに隱れて辨證の稻妻を雙手に弄する人ではなかつた。彼は最初から確實に地上を歩いてゐた。のみならず彼の眼界は狹い獨乙によつて東西南北共に仕切られてゐた。從つて今更新らしく彼を翻譯する必要もなければ又しやうとした所で其餘地もないのである。たゞ當時の彼を當時の儘引き延ばして、今の戰爭に連續させさへすれば、それで兩者の關係は可なり判然するのである。自分はわざと兩者の關係と云つた。實は彼が今次の大戰爭に及ぼした影響と云ひたいのであるが、それはニーチエやヘーゲルの場合と同じく、影響の程度からいつて、自分には能く解らないから、仕方なしにさういふ言葉 遣 ひを遠慮した。しかも其上に前述べた通り、彼我國情の差違竝びに批評家の誇張などを念頭に置いて、是からトライチケを一瞥しやうとするのである。
 千八百三十四年ドレスデンに生れた彼は、父が軍籍に在つた關係から云つても、母が士官の娘であつた因縁から見ても、兵士たるべき運命を有つて生れたと同じ事であつた。小供の時、疱瘡に罹つたのと、それに引き續いて耳の病氣に冒されたので、幸か不幸か、彼は彼の既定の行路を全然見捨てなければならなくなつた。
 然し十四位から彼の父に送る手紙の中には、もう政治上の意見などがちらほら散見し始めたさうである。さうして十六になるかならない内に、彼はいつの間にか熱烈なる獨乙統一論者になつて仕舞つた。無論普魯西を盟主としなければならないといふのが、彼の當初からの主張であつた。彼がライプチツヒに遊學した頃、敎授の講義は碌に聽きもせず、手當り次第に一人ぼつちの亂讀を恣まにした時ですら、書物から得る凡ての知識は、みな此普魯西中心の國家といふ大理想を構成する爲に利用されたのである。
 彼はマキアヹルを讀んだ。正義だらうが道德だらうが、國家の爲ならば、何時犠牲に供しても差支ないものだといふ信念を抱くやうになつた。専政だらうが壓制だらうが、苟も國家の統一を維持し、又國家の威力を増進する以上は、いくら何う用ひても構はないものだといふ決論に到着した。さうして其意見を彼の父に書いて遣つた。是は彼がゲツチンゲンで修業してゐる頃で、年齒(とし)にすると二十二三の時の事である。

       三                 
 東西南北どちらの方角を眺めても、彼の眼に映ずるものは悉く獨乙の敵であつた。彼は魯西亞を輕蔑した。年來獨乙の統一に反對する墺地利も、彼の憎惡を免かれなかつた。ミルトンとシエクスピヤを嘆美しながらも、それらの詩人を有する英吉利は、彼から見ると獨乙の發展に妨害ある一種の邪魔物に過ぎなかつた。彼は到底一戰爭しなければ濟まないと考へた。さうして其戰爭から眞に強固にして健全な獨乙が生れて來るといふ事を信じて疑はなかつた。
 多數の聽講生を有する彼は、此目的をもつて大學で普國史を講じ出した。ごたごたした小邦はみんな取り潰してしまはなければならないといふ彼の本意は、此一事でも窺はれた。彼は自ら小邦に生れた事を忘れた。彼の父に對する義理も忘れた。彼は父に向つて云つた。
 「親子の情合のために自分の信念を枉げる事は、私には何うしても出來ません」
 彼は此言葉と共にライプチツヒを去つた。再び招かれて其所で演説を試みた時、彼は獨乙統一のために、燄のやうな熱烈の言辭を二萬の聽衆の上に浴せ掛けた。無邪氣な彼等は呆然として驚ろいた。
 所へビスマークが現はれた。さうしてビスマークは彼の要する理想の人物であつた。ビスマークの時めく普魯西政府は猶の事統一の中心にならねばならなかつた。彼の所謂「國家」とならねばならなかつた。「第一に自由、夫から統一」といふ叫び声を無意味なものとして聞き流した彼は、「第一に國家の權利、夫から國家」といふ旗幟を無遠慮に押し立てた。さうして其國家は即ち普魯西である、他の小邦は幾多の犠牲を甘んじても、此中央政府の意志と命令に從はなければならないといふのが彼の意見であつた。
 「國家の實質とも見傚し得べき「力」を有たない小邦が、何で國家を代表する事が出來よう」
 彼は斯ういつて、多くの小邦を睥睨した。其内には彼の故郷のサクソニーも無論含まれてゐた。
 千八百六十七年ビスマークの力によつて成就された北獨乙の聯合は、此意味から見て、彼の理想をある程度迄現實にしたものに違なかつた。其結果として凡てに課せられたる義務兵役と、其義務兵役から生ずる驚ろくべき多くの軍隊とは、支配權を有する普魯西に取つて大いなる力であつた。それを獨乙勢力の増進に必要な條件、即ち西方發展策に應用したのが即ち普佛戰爭なのである。
 彼の敎授を受けた多くの學生は其時從軍した。彼等の一人が熱烈な告別の辭を述べた時、「どんな犠牲を拂つても勝て」と云つた彼は、忽ちヒーローとして靑年から目されるやうになつた。彼は固より獨乙の勝利を信じて疑はなかつたのである。さうして不思議の沈默に陷つたかと思ふと、彼は負けた佛蘭西に課すべき條件の項目を其間に調べ出した。彼はアルサス、ローレンの歴史を研究した末、此二州は元々獨乙のものであつたのだから、戰勝後は當然舊主の手に歸るべきものだといふ説を發表した。

       四             
 獨乙は勝つた。獨乙帝國は成立した。彼が十年の間夢に迄見た希望は遂に達せられた。
 「統一の星は上つた。其途を妨ぐるものは災を蒙れ」
 是が彼の言葉であつた。此光輝ある時期に際會しながら、猶且つ厭世哲学を説くハルトマンの如きは畢竟ずるに一種の精神病者に過ぎないと彼は斷言した。其癖意志の肯定は國家として第一の義務であると主張する彼は、ハルトマンによつて復活されたる意志の哲學、即ち宇宙實在の中心點を意志の上に置く哲學によつて大いに動かされたのである。彼は實社界を至極手荒いものに考へた。仁義博愛は口に云ふべくして政治上に行ふべきものでないと信じた。斯くして彼はあらゆる人道的及び自由主義の運動に反對したのである。……
 自分はトライチケの影響で今度の歐洲戰爭が起つたとは云はない。彼の生時にあつてすら、彼はビスマークの顧問でもなければ又助言者でもなかつた。彼の主張とビスマークの實行とは寧ろ偶然に一致したのだらう。たとひ彼が鐵血宰相の謳歌者であつたにした所で、謳歌されるビスマークの方では、夫程彼の言論に動かされてゐなかつたかも知れない。それにも拘はらず結果から云へば、彼はビスマークの政治上で斷行した事を、彼の學説と言論によつて一々裏書したと云つても差支ないのである。さうして今日の獨乙が、社會主義者其他の反抗に關せず、當時の方針を基 儘繼續して、其極今度の大亂を引き起したとすれば、思想家としてトライチケの獨乙に對する立場も亦自然明瞭になつた譯である。
 是丈の關係を明かにすると、自分の癖として、又根本問題に立ち返つて、質問が起したくなる。
 「トライチケの鼓吹した軍國主義、國家主義は畢竟獨乙統一の爲ではないか。其統一は四圍の壓迫を防ぐためではないか。既に統一が成立し、帝國が成立し、侵略の虞なくして獨乙が優に存在し得た曉には撤囘すべき性質のものではないか。もし永久に此主義で押し通すとならば、論理上此主義其物に價値がなくてはならない。さうして其價値によつて此主義の存在が保證されなければならない。そんな價値が果して何處から出て來るだらうか」
 個人の場合でも唯喧嘩に強いのは自慢にならない。徒らに他(ひと)を傷(あや)める丈である。國と國とも同じ事で、單に勝つ見込があるからと云つて、妄りに干戈を動かされては近所が迷惑する丈である。文明を破壞する以外に何の效果もない。勝つたものは勝つた後で、其損害を償ふ以上の貢獻を、大きな文明に對してしなければならない筈である。少なくとも其心掛がなくてはならない筈である。自分は今の獨乙にそれ丈の事を仕終せる精神と實力があるか何うかを危ぶまざるを得ないのである。
 するとトライチケの主張は獨乙統一前には生存上有效でもあり必要でもあり合理的でもあつて、今の獨乙には無效で不必要で不合理なものかも知れないといふ事に歸着する。
 然しながら彼は云つた。──
 「ヰリアム帝は獨乙に祖國を與へたるのみならず、より平衡を得たる又より合理的なる支配の下に文明世界を置いた。全世界を健全にするは獨乙の事業なりと云つた詩人ガイベルの言葉は今に實現せられるだらう」
 して見るとトライチケは、獨乙が全歐のみならず、全世界を征服する迄、此軍國主義國家主義で押し通す積だつたかも知れない。然しながら、我々人類が悉く獨乙に征服された時、我々は其報酬として獨乙から果して何を給與されるのだらう。獨乙もトライチケもまづ其所から説明してかゝらなければならない。
                 大正五、一、一 二一『東京朝日新聞』


(注) 1.  本文は、岩波書店版『漱石全集』第11巻、評論 雜篇(昭和41年10月224日発行)によりました。                     
    2.  文中の仮名遣い、漢字はできるだけ元のままにしました。ただし、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの仮名や漢字を繰り返して表記しました(「しばしば」「知らず知らず」など)。また、漢字も、正確に旧漢字になっていないものもあります(録、返、強、情、など)。            
    3.  この「點頭録」については、全集巻末の小宮豊隆の解説に、
 
 『點頭録』は、『また正月が來た』といふ序曲を以つて始まり、『軍國主義』四囘、『トライチケ』四囘、合計九囘、それも元日に一囘出て、十日・十二日・十三日・十四日と四囘續き、それから十七日・十九日・二十日・二十一日と又四囘續いただけで、中絶されてしまつた。是は「リヨマチで腕が痛みますつゞけて机に凴る事が出來ません」(大正四年十二月二十五日、山本松之助宛の書簡)だの、「左の肩より腕へかけて鈍痛はげしく」「兎に角醫者の手に合はず困り入候現に原稿などをかくのが非常の苦痛と努力に候」(大正五年一月十九日、松山忠二郎宛の書簡)だのと漱石が言つてゐるやうに、漱石は腕が痛んで、思ふやうに原稿を書く事が出來なかつたからである。もつとも是が糖尿病から來る痛みで、リヨマチから來るのでなかつた事は、後になつてから分かつたが、然し漱石はその痛みに堪へかね、且は中村是公の勸誘もあつて、到頭原稿を書く事は一時斷念し、一月二十八日に、湯河原へ轉地しなければならなかつた。

とあります。
          
   
    4.  「點頭録」は、青空文庫にも入っていて読むことができますが、この資料室にも入れておきたいと思って、手持ちの全集の本文を入れました。青空文庫の本文とここの本文の違いは、青空文庫の本文の漢字は常用漢字になっていますが、ここの本文はできるだけ旧漢字にしてあることと、依拠した全集の違い(青空文庫の本文は、1995年(平成7年)初版の『漱石全集』第16巻のもの)で、章だての体裁が違うことなどです。(本文にも、ごく一部違いがあります。)
  → 青空文庫
    → 「点頭録」
   
    5.  東北大学附属図書館のホームページに、「夏目漱石文庫」があります。     
    6.  上記の 「夏目漱石文庫」には、「漱石文庫データベース」があります。    
    7.  同じ東北大学附属図書館のホームページには、夏目漱石旧蔵書(東北大学「漱石文庫」を含む)について言及している文献を収集したもので、該当部分の記事を抜粋して収録した「漱石文庫関係文献目録」もあります。    
    8.  「ウェブ上の夏目漱石」という、漱石関連の情報を集めたページがあります。    
9.  ロンドン漱石記念館は、2016年9月末で一時休館していたそうですが、2018年夏に再オープンするそうです。
 『小林恭子の英国メディア・ウオッチ』というブログに、ロンドン漱石記念館の紹介記事があって、参考になります。
 『小林恭子の英国メディア・ウオッチ』
  → ロンドン漱石記念館(2016年9月26日の記事) 

 ロンドン漱石記念館が2019年5月8日に再開したということを報じた2019年5月9日の『朝日新聞デジタル』の記事があります。(2023年8月9日確認)
 → ロンドン漱石記念館がロンドンで再開 天皇陛下の記帳など公開
     
10.  『ぶらり重兵衛の歴史探訪2』というサイトの「会ってみたいな、この人に」(銅像巡り・銅像との出会い)に、新宿区早稲田南町の漱石公園(漱石山房跡)にある「夏目漱石の胸像」の写真や、漱石誕生の地の紹介などがあります。
           








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