抑泰澄和尚者。本名越大德神融禪師。俗姓三神氏。越前國麻生津三神安角二男也。母伊野氏。夢取白玉水晶入懷中乃妊
矣。月滿産生時六月雪降下厚一寸。只産上庭薗隣地素雪皚々碧水凛々。此乃天淳名原瀛眞人天武天皇飛鳥淨御原宮御宇白鳳十一年
壬午歳六月十一日誕生
矣。五六歳之比鎭唯以泥土作佛像。以草木建堂塔。不交幼兒之儻。無陟憒閙之門。雖万遊亂舞於通衢。雖百戯叨歌於閭巷。未曾競出。唯以華水合掌常爲遊晏
矣。高天原廣野姫持統天皇藤原宮御宇七年
壬辰歳入唐歸朝聖人道昭和尚北陸道修行時。來宿安角蓬屋。其時和尚十一歳小童也。道昭視此小童顯現圓光。頂有天盖。道昭唯獨自見。余不見
矣。道昭和尚驚恠敎父母曰。汝子是神童也。特加崇敬可守養。非凡庸。不可輕蔑。父母蒙其敎誡。特尊重所抗育也。同廣野姫持統天皇御宇大長元年
壬辰和尚生年十一歳也。自夢坐八葉蓮花上。傍有高僧。乃告言。汝今知否。吾乃汝本師。住所在西方。汝所坐蓮花乃聖觀音所持蓮花也。汝以比丘形。可施十一面利生大光普照德。勿退菩提心。語未畢。忽然而失。雖然。不語父母。何况他人乎。從同年冬季。此神童夜々他行。父安角恠思。竊以嫡男神童舎兄三神安方。令尋趂其行跡之所。越知峯坂本金堂岩屋内入畢。即礼拜數百遍。其聲唱南無十一面觀世音神變不思議者。乃出岩屋攀登越知峯
矣。舎兄安方依爲深更。坂本止宿。夜明皈父宅啓此由。來及脱履。彼神童歸來。如此奇異連々不絶。至于後年者。偏栖彼嶺久修練行自落鬢髪。乃爲比丘形。以藤皮苔衣蔽膚。以松葉花汁助命。生得智解忽發。布字月輪在心。自然覺悟暗催入我々入無外。六時礼讃累年不退。三昧坐禪積日无倦。修驗漸秀。乃爲世寶。况功早越爲國師
矣。文武天皇御在位大寶二年
壬刁歳和尚生年廿一歳也。綸言忽降。以越大德爲鎭護國家法師。勅使伴安麿也。然和尚只獨勤行累日觀念送時之所。遙從能登嶋小沙弥一人來現。和尚含
感歎言。宿縁今既來。爲供給走仕日來。所相待也。乃與飛鉢齊器等令守護
矣。和尚不論晝夜。不云風雪。長時行道禮讃。凡非人力之所爲。龍天之勝根也。小沙弥如影寸分不離。依風寒叵堪。常臥雪底伺和尚容間名曰臥行者。客僧曰。勸勵進趣謂行。臥乃懈怠也。何名行者。小沙弥乍臥擧首答曰。行有二種。一身行。二心行也。客僧所責身行。沙弥所積心行也。八苦風寒叵堪。常臥罪障雪底。伺大日遍照光用。本覺曼荼羅菩提心冥薫
阿字空門觀惠相應。念々佛道増進。豈非心行者進趣義哉。客僧聞之感歎伏膺。本謂一文不通小沙弥。今知八藏深達大行人
矣。小沙弥常相値西海行船。以飛鉢乞請粮米。進供和尚。然間元明天皇御在位和銅五年
壬子和尚生年卅一歳也。從出羽
□※1境米運船浮行。小沙弥以飛鉢乞粮米。彼船頭神部淸定曰。此米乃官庫税稻。分員數有限。然爲有智高行聖人。何貪凡俗哉。即淸定鉢投海中。鉢即越知峯飛還。彼積船所俵米幷櫓楷。如鴈越知峯飛連。淸定爲寄特想之所。俄惡風吹來。限淸定之船不及往還。爰淸定大驚上陸地。尋米櫓行方到越知峯。向和尚謝其咎。和尚宣。非吾所爲。小沙弥之忿行也。乃相向小沙弥謝其咎所。小沙弥曰。供進一俵。其餘早可入船也。淸定曰。從此峯爭可運入之乎。和尚曰。小比丘可入之。不可愁
矣。淸定調船於海中。相待件俵櫓處。如前飛連積船如元。淸定見佛德不思議。歸依特深。發心决定。米運進官納及于解纜時。不皈本國。偏承事和尚。日夜不相離。晝採菓拾薪。夜以身爲床爲莚。日々夜々。辛苦艱勞。敢无退轉。名曰淸定行者。和尚常語客侶曰。小比丘心行者。淸定身行者也。曩劫縁不杇。今來走仕
云々矣。其後爲有情結縁。坂本一之王子建立而和尚安置不動明王之形像。是則能燒三毒之色質也。彼明王之御名聞輩忽流轉生死苦滅
矣。見我身者即身成佛誓不空者也。前河水潔流。先浴彼流雪罪障之垢穢令參詣。可仰歸依神德。漸木目谷云坂登休所有。其傍有瀧水。名号水呑。和尚以獨鈷岩尾摧破洋水湛。則独古水云。是不思議之名水也。暫此流呑畢。心中淸令參詣无障
云々。中居号虚空藏岩屋。一之有幽谷。福德圓滿智惠虚空藏功德尤深。爲所願成就安此尊。是無始無終之尊。斷迷開悟。來世必放金色光。令遂成佛之御誓願也。何輩三光之德不戴乎。明星天子是處空藏菩薩應祚也。尤可信敬者也。又名直峯在靈社。軍茶利明王也。此明王者除障加護之尊容也。彼御手引而觀音淨土令到之御誓。爲退鬼邪類御本尊也。就中不動堂者山上安穩靜謐爲。和尚安置生身不動明王靈像。是无相法身之體。飜邪歸正之要術。無如于此明王。憑哉。降魔除障之統領。國家潜衞之尊容也。持金剛索繩。爲令縳四魔軍賊。轉五智利劒。惡業煩惱怨敵爲摧伏也。誠斷惑證理基。然以此本尊第一之爲神秘。非口决相承者。爭輙可知給哉。何况他人乎。加之太已賁者号都率内院。爲結界之地。布諸佛菩薩種字。其際表九品蓮臺。一向淸淨靈地異他。南者山嶽峨々疑花山削成。西者巨海漫々湛福智圓滿之洋。弥陁本誓願海有便。巖松高聳。山嵐妄想夢破。法性覺月朗而眞如之智水潔流。浪洗塵埃穢身覺
矣。一度參詣輩。道中而无始之罪障消滅。隨願力得生淨刹者也。然而當山者日本第二行者泰澄和尚最初之草創而靈驗無雙之廟社也。一度攀此峯者。即生越三途八難嶮路。秘術到觀音淨土補陁落山者也。然刻彫弥陁觀音三尊。安置三峯給。夫權現當山垂跡御坐以來。國家崇敬。貴賤運皈依渇仰歩如稻麻竹葦。奉低頭擧手。去僧俗並甍。道俗連袖繼踵。利生掲焉也。其後和尚時々見白山高嶺爲末世衆生利益。彼雪嶺欲奉行顯靈驗折節。持給劒擲。此劒落着所我必趂登思食處。彼白山嶺落留。至于今劒岩屋云在之。于時靈龜二年和尚白山舟岡邊於妙法石室。觀念到誠。咒遍積功。喚天扣地。摧骨屠肝祈白山靈驗忽現夢中。貴女乘白馬於平岩上。見和尚告曰。我住舟岡遊西河深淵。汝今令結界莊嚴哉。言未訖早隱。急和尚臨安久濤。向瀧水砌。揚大音聲禮拜念誦。吾心月輪阿字空門八葉白蓮素光之中速垂靈質。爰酬祈念。先夢中貴女以天衣瓔珞餝身。色相莊嚴。巍々從紫雲中透出告曰。我靈感時至矣。于時元正天皇御在位養老元年
丁巳四月一日。和尚生年卅六歳也。貴女告曰。吾住林淵。示和光同塵跡。爲濟度濁穢不淨輩
矣。然此地爲中居。上護上皇。下撫下民。大德諦聽。是日本秋津洲本是神國也。國常立尊
木神乃神代㝡初國主也。國狹槌尊
火神豐斟渟尊
土神已上三代者陽神也。乹道獨化所以此純陽神也。渥土瓊尊
男神金神娑土瓊尊
女神是也大戸之道神
男神水神大戸間邊尊
女神是也面足尊
男神也自是尊五行精一躰具足之間相始顯仍面足書也惶根尊
女神是也伊弉諾尊
男神伊弉册尊
女神是也此一代二神時。於根國何無底國
矣。自天浮橋上。天榊鉾差下。蒼溟捜給。其鉾滴堅一嶋成。即今淡路國是也。其後大八島作給。此中有大山。号白山。即觀音淨土補陁落山是也。地神五代者天照皇太神
伊弉□※2尊御子也正哉吾勝々速日天忍穗耳尊
此二神マデハ天ニ棲給テ不降天照太神御子也天津彦々火瓊々杵尊
天忍穗耳尊太子也自此神代底國御降云々治天下此一万八千五百四十二年也彦火々出見尊
彦々火瓊々杵尊御子也御母木花開耶姫大山祇神娘也治天下六十三万七千八百九十二年也彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
彦火々出見尊太子也御母豐玉姫也海童第二ノ娘也治天下八十三万六千四十二年也已上治天下十七億九十万二千四百八十二年也此山是森々瑞木。離々異草。尺天寸地。皆我王子眷属所居。一万眷属垂跡。十万金剛童子遍吉祥施德。五万八千采女堅罕振威。如斯凡普天率土之有生、非生皆所産。悉垂哀愍。我將伊弉珊尊眞身爲天照太神玉母。彼天嶺神代往昔爲神務國城。流法人者爲本地刹土。汝我欲拜本地眞身志妙也。我本地在天嶺禪頂。趂流尋源往而可拜。速隱畢。同年六月十八日蒙貴女語。攀登白山禪頂。住轉法輪岩室。向緑池祈念加持。一心不乱。猛利強盛。三密凝印觀。五相調身心。咒遍滿口。念力徹骨。尓時從池中示九頭龍王形。和尚振首責曰。此是方便。示現。非本地眞身。乃又十一面觀自在尊慈悲玉躰忽現
矣。妙相遮眼。光明耀身。爰和尚悲喜滿胸。感涙洗面。稽首歸命頂礼佛足乃白言。於舟岡邊拜垂跡靈躰。於雪山之頂礼本地眞身。宿善有限。仰慕像末衆生必拔濟利益。尓時觀世音搖金冠瞬慈眼乃領納。未及再拜妙躰早隱貴哉。妙哉。歡喜涙幾乎。乃亦和尚侄左岳澗向孤峯。値一宰官人。手握金箭。肩係銀弓。含咲語言。往古我是伊弉珊尊神務輔佐行事貫首。名曰小白山。別山大行事。大德今當礼。即現聖觀音。速隱畢。亦攀
右孤峯。値一奇服老翁。神彩甚鮮。乃語曰。往昔我是伊弉珊尊神務靜謐啓跋輔弼。名曰太已賁。蓋今現西刹主本有躰。速隱畢。爰和尚天奏俄昇。元正勅命忽降。麓白山神殿新建。國家崇敬異于他。雪山頂顯佛躰。到供養恭敬。貴賤運歩登臨。結縁在茲。於戯本地垂跡悲願。現當二世濟度。我願既滿足。歡喜合掌。和尚猶住斯山。難行苦行而窺山形。峻巖高々切利雲可摑手。幽谷深々風際底可履足。日出脚下。月廻半山。四節名花開一時。海岸六銖薫自備。三冬宿雪積長年。刹土九重粧潔。一向淸淨拂土无疑。世擧尚之。猶從同年一千日間。久修練行。或對颯々飛瀧。火生三昧炎顯。或向渺々行雲。攝取來迎光現。是則和尚應觀念。寄特于今不絶。而臥行者淸定行者隨順片時不相離也。同養老六年
壬戌和尚生年四十一歳也。七月、八月。兩月間氷高天皇御不豫兩月内天下有驗行者其員不知參内曾无驗。尚以御不豫。天皇宣。朕聞越大德者神驗掲焉行者。乃依勅宣。和尚參内
矣。走仕弟子唯獨臥行者也。和尚及日哺暗時告臥行者曰。獨鈷在越知峯室。可採來在。臥行者不廻時採來独古。其日内黄昏進上和尚。雲上、宮中。三公。九卿。上下諸人各合額皆曰寄特也。和尚日内遣採。寔非凡慮。臥行者不違時持來神力不思議也
云々。和尚乃近錦帳。結智拳印。誦阿毘羅吽欠。觀法界躰性三昧。念阿々暗惡々五大尊。唱忿怒明咒。以独古奉加持
矣。其間臥行者
跰淸凉殿庇下。皃如老猿。行住不靜。見人偸開靨。爰若少雲客參候不知子細。擧聲嘲之。臥行者起忿意。押動所寄懸柱。禁中殿閣併動搖如大地震。上下大驚。東西馳散。主上靈邪乃振出。和尚以獨古擬叡身。靈氣早鎭。御惱平複如本
矣。世人云。多是臥行者振力
云々。本地垂跡靈驗從此弥顯。和尚高行殊以鼓動。天皇歸依爲護持僧。授以禪師位。諱号神融禪師
矣。其後勝寶感神聖武天皇御在位神龜二年
乙丑和尚年四十四歳也。其年七月行基菩薩參詣白山。和尚相牙微咲如年來同朋。悦喜滿胸。不知手舞足踏。菩薩問本地垂跡由來。上件種々答現瑞。菩薩聞之良久拱感心。乃言。禪師諱号神融。元正天皇勅喚誠有所以哉。又俗姓三神氏。根本三聖垂迹由來也。又禪師嬰童時夢者乃禪師嚶噫。已身具足。无始本有。本覺曼荼羅界會衆内薫外顯也。此夢玄也。妙也。可歸。可仰。難解難思也。同聖武天皇御宇天平八年
丙子和尚生年五十五也。尋遇入唐皈朝求法師玄肪和尚。將來經論五千餘巻解紐披閲。礼拜讃歎。特授以十一面經
矣。同九年
丁丑和尚生年五十六也。其年疱瘡流行。都城公卿以下万姓沒死不可稱計。和尚依勅宣修十一面法。日數不幾。疱瘡漸不流行。終以止畢。天皇皈依詔授大和尚位。諱号泰證。然和尚奏曰。改證字一成澄字。爲慕亡父安角舊名訪其後世菩提世。天皇聞之。感涙千行。其後号泰澄和尚
矣。和尚頭上時々現金光。人見而恠乃告。人不見時良久。或有宿病者食和尚鉢飯。其所苦患莫不痊。凡駈鬼使神。落飛鳥。止走獸。神力不思議也。和尚與本地眞身常語左右有言。但凡人不能聞之。如斯高行。仙骨累年焉。孝謙天皇御在位天平寶字二年
戊戌和尚生年七十七歳也。爲自行出離蟄居于越知山大谷仙崛。其山爲躰。靑岳如三鈷、乃表三密瑜伽行則。廣地似八葉。盖顯八供諸尊居遊。凝眼仰峯。本覺月朗矣。崎耳臨谷。秘法水潔焉。草木非常草木。理智曼荼羅林交枝。碧巖非常碧岩。種子三摩耶苔添色。應知此峯本是和尚難行古峯。此谷乃亦和尚入定新谷。比之聖跡。可謂妙絶
矣。高野姫重祚稱德天皇御在位神護景雲元年
丁未和尚生年八十六也。其年三重木塔百万基。長六尺表六道。依勅宣天下花夷結縁造立。其内和尚勸進造立一万基。附勅使吉備大臣。此年二月下旬經奏門。和尚狀曰。今以三月中旬欲交九品上衆。再會期西方。願勿留東隅。爰天皇傾首再拜言。此是越知山大權現書跡。特高安置不可聊尓。可悲苦海縁盡忽歸本土
矣。和尚如言。同年三月十八日結跏趺坐。結大日定印安然入定。遷化春秋八十六也。頭放神光。山谷悉金地。空雨蓮花。靈瑞甚多
矣。爲末代謝德入遺骨於石唐櫃。爲將來結縁安大谷寺大師房。凡厥在世。滅後不思議德行。異相。權化等不遑毛擧。異説不同首尾非一。然今天德元年
丁巳三月廿四日勘風土舊規記。依門跡首老。淨藏貴所、面授言談。門徒小僧大谷精舎寺院神興聖人等粗記操行以備後代亀鏡焉。淨藏貴所者德行抽群。修驗高名。善相公八男玄昭律師入室也。又安然瀉瓶門人大惠悉曇之弟子也。言談皆口實不信否。末代惡世之嚴重勝利偏在此神德。此言尊哉。今現見朝野。遠近參詣如竹葦。惣而本地禪頂慈悲喜捨誓願无怠。何况垂迹靈塲邪正拔濟方便日新。後々將來弥以其靈貺叵思議焉。
泰澄和尚傳記
終。
〇
或人云。此傳記者以淨藏貴所口筆。神興聖人註記
矣。淨藏貴所善宰相淸行八男也。依彼家風雜筆得其骨也
云々。神興聖人者大谷精舎寺院之佛法興隆根本行人也
云々。自泰澄和尚御入定神護景雲元年丁未歳。至于村上天皇御在位淨藏貴所在生天德元年丁巳歳。百九十一箇年也。今案和尚俗姓三神氏。淸定行者俗姓神部氏也。和尚御入定神護景雲元年。傳筆者神興聖人。皆置神字。當知感神化道因縁歟。又案和尚母伊野氏。乃伊野領主權現地也。方知泰澄和尚者越知權現本地十一面觀音普門示現聲聞形也
而已。
〇
抑和尚傳記雖所々相替本々區々。此本者一条院御宇於寛弘年中。仰勅從官庫申降處之本也。然於正本爲當社御貴寶。深入凾神殿畢。恐々。於寫本者爲將來亀鏡。撰器用之輩可相傳。努々他家勿及窺見。况輙誰見聞焉。於神道者。輕翫則蒙冥罰。秘敬則預利生。是眼前勝理也。全勿外見
矣。
于時元和五年極月下旬書寫之畢。
大谷寺
□※3□※4
〇
私云。山門於密嚴院書之。
山王七社内。客人權現白山妙理權現也。始而相應和尚値神勅曰。吾久雖住于此所无知者。今聖人視。即神託曰。破有法王。出現之峯。爲助行化。來爲客人。又曰。无住所與吾社有。和尚曰言。奉仰神感示御在所。于時六月中旬之比。雪三尺計俄降布一段四方之間。今客人社之所是也。雪長岩社右方在。即歡喜天也。
※1 …… 段+辶。
※2 …… 言+册。
※3 ……
(丅の下に耳)の右に(聰-耳)。
※4 ……
水の下に原と書いてあるように見える字。
注記:
(1)本文中の「」「」の漢字は、島根県立大学の「e漢字」を利用させていただきました。
(2)終り近くにある「深入凾神殿畢」「于時元和五年極月下旬書寫之畢」の「畢」は、 原文は「己+(下に)十」の字になっています。
(3)小字・二行の分かち書きになっている部分は、ここでは小字・1行書きにしてあります。
|
(注) |
1. |
本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『越知神社文書』(山田秋甫編、越知保存会・大正9年10月25日発行)によりました。この附録に「泰澄和尚伝記」が掲載されています。
文中の「矣」は、少し小さい字になっています。
「泰澄和尚伝記」の巻末に、「或人云。此伝記者以浄蔵貴所口筆。神興聖人註記矣」、「于時元和五年極月下旬書写之畢」とあります。(「畢」は、原文は「己+十」の字)
『国立国会図書館デジタルコレクション』
→ 『越知神社文書』
→ 「泰澄和尚伝記」(63~69/79)
国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』は、平成28年5月31日を以て終了し、6月1日から『国立国会図書館デジタルコレクション』と統合されました。
|
|
|
|
|
2. |
『福井県史』通史編1の第七章第三節の「泰澄の伝記について」に、次のようにあります。
白山信仰の開創者として、奈良時代に活躍したとされる泰澄については、諸本に種々の伝記が残されている。そのうち最古の成立とされ、泰澄の行状について最も具体的な内容の知られるのは、『泰澄和尚伝記』である。この奥書によれば、天徳元年(957)のころ、三善清行の子で、白山で修行した経歴を有する天台宗の僧浄蔵の口授した内容を、その門人で大谷寺の寺院仏法興隆の根本の人とされる神興が筆記したものとされている。正中二年(1325)という最も古い書写の年紀を有するのが金沢文庫本の『泰澄和尚伝記』(『資料編』一)で、このほか同系統の写本として、大永年間(1521~28)ころの書写と考えられる勝山市白山神社所蔵の平泉寺本、南北朝期ころの書写といわれる石川県尾口村の密谷氏所蔵の尾添本、貞享二年(1685)書写の水戸彰考館本、明治以降に書写された石川県鶴来町の白山比咩神社蔵本などがある。このほか元和五年(1619)書写の奥書をもつ朝日町の越知神社所蔵本が二種類伝わっている。また、泰澄や白山のことが掲載されている史料としては、平安後期に成立した『大日本国法華験記』や『本朝神仙伝』、鎌倉末期に成立した虎関師錬による仏教史書『元亨釈書』、江戸期の『本朝高僧伝』などが存在する。
|
|
|
|
|
3. |
泰澄(たいちょう)=奈良時代、加賀白山開創者と伝える山岳修行者。越前の人。通称、越(こし)の大徳。(682?-767?)(『広辞苑』第6版による。)
|
|
|
|
|
4. |
『越知山泰澄塾』(おちさんたいちょうじゅく)というサイトがあって、参考になります。
→ 『越知山泰澄塾』
→ 「白山信仰と泰澄大師」 |
|
|
|
|
5. |
福井県越前町にある『織田文化歴史館 デジタル博物館』というサイトに、泰澄和尚について「1.泰澄和尚とは」以下、「2.泰澄和尚は実在したのか? 3.『泰澄和尚伝記』はいくつあるのか? 4.……」などがあって参考になります。 |
|
|
|
|
6. |
「白山比咩神社」(しらやまひめじんじゃ)というサイトがあって、参考になります。
『白山比咩神社』→
泰澄 |
|
|
|
|
7. |
フリー百科事典『ウィキぺディア』に、書きかけの項目ですが、「泰澄」の項があります。
フリー百科事典『ウィキぺディア』→「泰澄」
|
|
|
トップページへ