資料50 森鴎外訳『即興詩人』(わが最初の境界)(隧道、ちご) 



           即 興 詩 人           森  鷗 外  訳


 

 

        わが最初の境界(きやうがい)

 

 

 

 


羅馬
(ロオマ)に往(ゆ)きしことある人はピアツツア・バルベリイニを知りたるべし。こは貝殻持てるトリイトンの神の像に造り做(な)したる、美しき噴井[ふんせい]ある、大(おほい)なる広こうぢの名なり。貝殻よりは水湧(わ)き出(い)でてその高さ数尺(すしやく)に及べり。羅馬に往きしことなき人もかの広こうぢのさまをば銅版画にて見つることあらむ。かかる画にはヰア・フエリチエの角なる家の見えぬこそ恨なれ。わがいふ家の石垣よりのぞきたる三条(みすぢ)の樋(ひ)の口は水を吐きて石盤に入らしむ。この家はわがためには尋常[よのつね]ならぬおもしろ味あり。そをいかにといふにわれはこの家にて生れぬ。首(かうべ)を回(めぐら)してわが穉(をさな)かりける程の事をおもへば、目もくるめくばかりいろいろなる記念(かたみ)の多きことよ。我はいづこより語り始めむかと心迷ひて為[せ]むすべを知らず。又我(わが)世の伝奇[ドラマ]の全局を見わたせば、われはいよいよこれを写す手段(てだて)に苦めり。いかなる事をか緊要ならずとして棄て置くべき。いかなる事をか全画図(ぐわと)をおもひ浮べしめむために殊更に数へ挙ぐべき。わがためには面白きことも外人(よそびと)のためには何の興(きよう)もなきものあらむ。われは我世のおほいなる穉物語をありのままに、偽り飾ることなくして語らむとす。されどわれは人の意(こころ)を迎へて自ら喜ぶ性[さが]のここにもまぎれ入らむことを恐る。この性は早くもわが穉(をさな)き時に、畠(はたけ)の中なる雑草の如く萌(も)え出(い)でて、やうやく聖経(きやう)に見えたる芥子[かいし]の如く高く空に向ひて長じ、つひには一株の大木となりて、そが枝の間にわが七情は巣食ひたり。わが最初の記念(かたみ)の一つは既にその芽生[めばえ]を見せたり。おもふにわれは最早(もはや)六つになりし時の事ならむ。われはおのれより穉き子供二三人と向ひなる尖帽僧[カツプチノオ]の寺の前にて遊びき。寺の扉(とびら)には小き真鍮(しんちゆう)の十字架を打ち付けたりき。その処はおほよそ扉の中程にてわれは僅(わづか)に手をさし伸べてこれに達することを得き。母上は我を伴ひてかの扉の前を過ぐるごとに、必ずわれを掻(か)き抱きてかの十字架に接吻せしめ給ひき。あるときわれ又子供と遊びたりしに、甚(はなは)だ穉き一人がいふやう。いかなれば耶蘇(ヤソ)の穉子は一たびもこの群(むれ)に来て、われ等(ら)と共に遊ばざるといひき。われさかしく答ふるやう。むべなり、耶蘇の穉子は十字架にかかりたればといひき。さてわれ等は十字架の下(もと)にゆきぬ。かしこには何物も見えざりしかど、われ等は猶(なほ)母に教へられし如く耶蘇に接吻せむとおもひき。さるを我等が口はかしこに届くべきならねば、我等はかはるがはる抱き上げて接吻せしめき。一人の子のさし上げられて僅に脣(くちびる)を尖(とが)らせたるを、抱いたる子力足らねば落しつ。この時母上通りかかり給へり。この遊(あそび)のさまを見て立ち住(と)まり、指組みあはせて宣[のたま]ふやう。汝(そなた)等はまことの天使なり。さて汝はといひさして、母上はわれに接吻し給ひ、汝はわが天使なりといひ給ひき。
母上は隣家の女子
(をなご)の前にて、わがいかに罪なき子なるかを繰り返して語り給ひぬ。われはこれを聞きしが、この物語はいたくわが心に協(かな)ひたり。わが罪なきことは固(もと)よりこれがために前(さき)には及ばずなりぬ。人の意(こころ)を迎へて自ら喜ぶ性(さが)の種は、この時始めて日光を吸ひ込みたりしなり。造化(ざうくわ)は我におとなしく軟(やはらか)なる心を授けたりき。さるを母上はつねに我がこころのおとなしきを我に告げ、わがまことに持てる長処と母上のわが持てりと思ひ給へる長処とを我にさし示して、小児の罪なさはかの醜き「バジリスコ」の獣(けもの)におなじきをおもひ給はざりき。かれもこれもおのが姿を見るときは死なでかなはぬ者なるを。
(かの)尖帽宗[カツプチヨオ]の寺の僧にフラア・マルチノといへるあり。こは母上の懺悔(ざんげ)を聞く人なりき。かの僧に母上はわがおとなしさを告げ給ひき。祈(いのり)のこころをばわれ知らざりしかど、祈の詞(ことば)をばわれ善(よ)く諳(そらん)じて洩(も)らすことなかりき。僧は我をかはゆきものにおもひて、あるとき我に一枚の図をおくりしことあり。図の中なる聖母[マドンナ]のこぼし給ふおほいなる涙の露は地獄の焰(ほのほ)の上におちかかれり。亡者は争ひてかの露の滴(したた)りおつるを承(う)けむとせり。僧は又一たびわれを伴ひてその僧舎にかへりぬ。当時わが目にとまりしは、方[けた]なる形に作りたる円柱の廊なりき。廊に囲まれたるは小き馬鈴藷圃(ばれいしよばたけ)にて、そこにはいとすぎ(チプレツソオ)の木二株、檸檬[リモネ]の木一株立てりき。開[あ]け放ちたる廊には世を逝(さ)りし僧どもの像をならべ懸(か)けたり。部屋といふ部屋の戸には献身者の伝記より撰び出(いだ)したる画図(ぐわと)を貼(は)り付けたり。当時わがこの図を観(み)し心は、後になりてラフアエロアンドレア・デル・サルトオが作を観る心におなじかりき。
僧はそちは心猛
(たけ)き童(わらは)なり、いで死人(しびと)を見せむといひて、小き戸を開きつ。ここは廊より二三級(だん)低きところなりき。われは延(ひ)かれて級を降(くだ)りて見しに、ここも小き廊にて、四囲悉(ことごと)く髑髏(されかうべ)なりき。髑髏は髑髏と接して壁を成し、壁はその並びざまにて許多(あまた)の小龕[せうがん]に分れたり。おほいなる龕には頭(かうべ)のみならで、胴をも手足をも具(そな)へたる骨あり。こは高位の僧のみまかりたるなり。かかる骨には褐色(かちいろ)の尖帽(せんばう)を被[き]せて、腹に縄を結び、手には一巻(ひとまき)の経文若(もし)くは枯れたる花束を持たせたり。贄卓[にへづくゑ]、花形[はながた]の燭台、そのほかの飾(かざり)をば肩胛[かひがらぼね]、脊椎[せのつちぼね]などにて細工(さいく)したり。人骨の浮彫[うきぼり]あり。これのみならず忌(い)まはしくも、又趣(おもむき)なきはここの拵(こしら)へざまの全体なるべし。僧は祈の詞(ことば)を唱へつつ行くに、われはひたと寄り添ひて従へり。僧は唱へ畢(をは)りていふやう。われも早晩[いつか]ここに眠らむ。その時汝(そち)はわれを見舞ふべきかといふ。われは一語をも出(いだ)すこと能(あた)はずして、僧と僧のめぐりなる気味わるきものとを驚き眙[み]たり。まことに我が如き穉子(をさなご)をかかるところに伴ひ入りしは、いとおろかなる業(わざ)なりき。われはかしこにて見しものに心を動かさるること甚(はなはだ)しかりければ、帰りて僧の小房(こべや)に入りしとき纔(わづか)に生き返りたるやうなりき。この小房の窓には黄金色(こがねいろ)なる柑子[かうじ]のいと美しきありて、殆(ほとん)ど一間(ひとま)の中に垂(た)れむとす。又聖母(マドンナ)の画あり。その姿は天使に担(にな)ひ上げられて日光明(あきらか)なるところに浮び出(い)でたり。下には聖母(マドンナ)の息(いこ)ひたまひし墓穴ありて、ももいろちいろの花これを掩(おほ)ひたり。われはかの柑子(かうじ)を見、この画を見るに及びて、わづかに我にかへりしなり。
この始めて僧房をたづねし時の事は、久しき間わが空想に好
(よ)き材料を与へき。今もかの時の事をおもへば、めづらしくあざやかに目の前に浮び出でむとす。わが当時の心にては、僧といふ者は全(また)く我等(ら)の知りたる常の人とは殊なるやうなりき。かの僧が褐色(かちいろ)の衣(ころも)を着たる死人(しびと)の殆(ほとん)どおのれとおなじさまなると共に棲(す)めること、かの僧があまたの尊き人の上を語り、あまたの不思議の蹟[あと]を話すこと、かの僧の尊さをば我(わが)母のいたく敬ひ給ふことなどを思ひ合(あは)する程に、われも人と生れたる甲斐(かひ)にかかる人にならばやと折々おもふことありき。
母上は未亡人
(びばうじん)なりき。活計[くらし]を立つるには、鍼(はり)仕事して得給ふ銭と、むかし我等が住みたりしおほいなる部屋を人に借して得給ふ価とあるのみなりき。われ等は屋根裏[やねうら]の小部屋に住めり。かのおほいなる部屋に引き移りたるはフエデリゴといふ年少(わか)き画工なりき。フエデリゴは心敏[さと]く世をおもしろく暮らす少年なりき。かれはいともいとも遠きところより来ぬといふ。母上の物語り給ふを聞けば、かれが故郷(ふるさと)にては聖母をも耶蘇(ヤソ)の穉子(をさなご)をも知らずとぞ。その国の名をば璉馬(デネマルク)といへり。当時われは世の中にいろいろの国語ありといふことを解(げ)せねば、画工が我が言ふことを暁[さと]らぬを耳とほきがためならむとおもひ、おなじ詞(ことば)を繰り返して声の限り高くいふに、かれはわれを可笑(をか)しきものにおもひて、をりをり果(このみ)をわれに取らせ、又わがために兵卒、馬、家などの形をゑがきあたへしことあり。われと画工とは幾時も立たぬに中善(なかよ)くなりぬ。われは画工を愛しき。母上もをりをりかれは善き人なりと宣(のたま)ひき。さるほどにわれはとある夕(ゆふべ)母上とフラア・マルチノとの話を聞きしが、これを聞きてよりわがかの技芸家の少年の上をおもふ心あやしく動かされぬ。かの異国人(ことくにびと)は地獄に墜(お)ちて永く浮ぶ瀬あらざるべきかと母上問ひ給ひぬ。そはひとりかの男の上のみにはあらじ。異国人のうちにはかの男の如く悪(あ)しき事をば一たびもせざるもの多し。かの輩[ともがら]は貧き人に逢ふときは物取らせて吝(をし)むことなし。かの輩は債(おひめ)あるときは期(ご)を愆(あやま)たず額をたがへずして払ふなり。然(しか)のみならず、かの輩は吾邦人(わがはうじん)のうちなる多人数の作る如き罪をば作らざるやうにおもはる。母上の問はおほよそ此(かく)の如くなりき。
フラア・マルチノの答へけるやう。さなり。まことにいはるる如き事あり。かの輩のうちには善き人少からず。されどおん身は何故
(なにゆゑ)に然るかを知り給ふか。見給へ。世中(よのなか)をめぐりありく悪魔は、邪宗の人の所詮(しよせん)おのが手に落つべきを知りたるゆゑ、強(し)ひてこれを誘(いざな)はむとすることなし。このゆゑに彼(かの)輩は何の苦もなく善行をなし、罪悪をのがる。善き加特力[カトリコオ]教徒はこれと殊[こと]にて神の愛子[まなご]なり、これを陥(おとしい)れむには悪魔はさまざまの手立(てだて)を用ゐざること能(あた)はず。悪魔はわれ等(ら)を誘ふなり。われ等は弱きものなればその手の中に落つること多し。されど邪宗の人は肉体にも悪魔にも誘はるることなしと答へき。
母上はこれを聞きて復
(ま)た言ふべきこともあらねば、便[びん]なき少年の上をおもひて大息[といき]つき給ひぬ。かたへ聞(ぎき)せしわれは泣き出(いだ)しつ。こはかの人の永く地獄にありて焰(ほのほ)に苦しめられむつらさをおもひければなり。かの人は善(よ)き人なるに、わがために美しき画をかく人なるに。
わが穉
(をさな)きころ、わがためにおほいなる意味ありと覚えし第三の人はペツポのをぢなりき。悪人[あくにん]ペツポといふも西班牙磴[スパニアいしだん]の王といふも皆その人の綽号[あだな]なりき。此(この)王は日ごとに西班牙磴の上に出御(しゆつぎよ)ましましき。(西班牙広こうぢよりモンテ・ピンチヨオの上なる街(ちまた)に登るには高く広き石級(いしだん)あり。この石級は羅馬(ロオマ)の乞児[かたゐ]の集まるところなり。西班牙広こうぢより登るところなればかく名づけられしなり。)ペツポのをぢは生れつき両(りやう)の足痿(な)えたる人なり。当時そを十字に組みて折り敷き居(ゐ)たり。されど穉きときよりの熟錬にて、をぢは両手もて歩くこといと巧(たくみ)なり。其(その)手には革紐(かはひも)を結びて、これに板を掛けたるが、をぢがこの道具にて歩む速さは健かなる脚(あし)もて行く人に劣らず。をぢは日ごとに上にもいへるが如く西班牙磴の上に坐したり。さりとて外(ほか)の乞児の如く憐(あはれみ)を乞ふにもあらず。唯(た)だおのが前を過ぐる人あるごとに、詐[いつはり]ありげに面[おもて]をしかめて「ボン ジヨオルノオ」(我(わが)俗の今日はといふ如し)と呼べり。日は既に入りたる後もその呼ぶ詞(ことば)はかはらざりき。母上はこのをぢを敬ひ給ふことさまでならざりき。あらず。親族[みうち]にかかる人あるをば心のうちに恥(は)ぢ給へり。されど母上はしばしば我に向ひて、そなたのためならば、彼につきあひおくとのたまひき。余所(よそ)の人の此世(このよ)にありて求むるものをば、かの人筐(はこ)の底に蔵(おさ)めて持ちたり。若(も)し臨終に、寺に納めだにせずば、そを譲り受くべき人、わが外(ほか)にはあらぬを、母上は恃(たの)みたまひき。をぢも我に親(したし)むやうなるところありしが、我は其側(そのそば)にあるごとに、まことに喜ばしくおもふこと絶てなかりき。或(あ)る時、我はをぢの振舞(ふるまひ)を見て、心に怖(おそれ)を懐(いだ)きはじめき。こは、をぢの本性(ほんしやう)をも見るに足りぬべき事なりき。例の石級(いしだん)の下に老いたる盲[めくら]の乞児(かたゐ)ありて、往きかふ人の「バヨツコ」(我(わが)二銭許(ばかり)に当る銅貨)一つ投げ入れむを願ひて、薄葉鉄[トルラ]の小筒(こづつ)をさらさらと鳴らし居(ゐ)たり。我(わ)がをぢは、面にやさしげなる色を見せて、帽(ばうし)を揮(ふ)り動しなどすれど、人々その前をばいたづらに過ぎゆきて、かの盲人の何の会釈(ゑしやく)もせざるに、銭を与へき。三人(みたり)かく過ぐるまでは、をぢ傍(かたへ)より見居たりしが、四(よ)人めの客かの盲人に小貨幣二つ三つ与へしとき、をぢは毒蛇の身をひねりて行く如く、石級を下りて、盲の乞児の面を打ちしに、盲の乞児は銭をも杖(つゑ)をも取りおとしつ。ペツポの叫びけるやう。うぬは盗人(ぬすびと)なり。我(わが)銭を窃(ぬす)む奴[やつ]なり。立派に廃人[かたは]といはるべき身にもあらで、ただ目の見えぬを手柄顔(てがらがほ)に、わが口に入らむとする「パン」を奪ふこそ心得られねといひき。われはここまでは聞きつれど、ここまでは見てありつれど、この時買ひに出(い)でたる、一「フオリエツタ」(一勺(しやく))の酒をひさげて、急ぎて家にかへりぬ。
大祭日には、母につきてをぢがり祝
[よろこび]にゆきぬ。その折には苞苴[みやげ]もてゆくことなるが、そはをぢが嗜(たしな)めるおほ房(ふさ)の葡萄(ぶだう)二つ三つか、さらずば砂糖につけたる林檎(りんご)なんどなりき。われはをぢ御[ご]と呼びかけて、その手に接吻しき。をぢはあやしげに笑ひて、われに半「バヨツコ」を与へ、果子(くわし)をな買ひそ、果子は食ひ畢(をは)りたるとき、迹(あと)かたもなくなるものなれど、この銭はいつまでも貯(たくは)へらるるものぞと教へき。
をぢが住めるところは、暗くして見苦しかりき。一間
(ひとま)には窓といふものなく、また一間には壁の上の端に、破硝子[やれガラス]を紙もて補ひたる小窓ありき。臥床[ふしど]の用をもなしたる大箱と、衣(きぬ)を蔵(をさ)むる小桶(こをけ)二つとの外(ほか)には、家具といふものなし。をぢがり往(ゆ)け、といはるるときは、われ必ず泣きぬ。これも無理ならず。母上はをぢにやさしくせよ、と我にをしへながら、我を嚇(おど)さむとおもふときは、必ずをぢを案山子[かかし]に使ひ給ひき。母上の宣[の]たまひけるやう。かく悪劇[いたづら]せば、好(よ)きをぢ御の許(もと)にやるべし。さらば汝(そなた)も磴(いしだん)の上に坐して、をぢと共に袖乞(そでごひ)するならむ、歌をうたひて「バヨツコ」をめぐまるるを待つならむとのたまふ。われはこの詞(ことば)を聞きても、あながち恐るることなかりき。母上は我をいつくしみ給ふこと、目の球にも優(まさ)れるを知りたれば。
向ひの家の壁には、小龕
(せうがん)をしつらひて、それに聖母(マドンナ)の像を据(す)ゑ、その前にはいつも燈(ともしび)を燃やしたり。「アヱ マリア」の鐘鳴るころ、われは近隣の子供と像の前に跪(ひざまづ)きて歌ひき。燈の光ゆらめくときは、聖母(マドンナ)も、いろいろの紐(ひも)、珠(たま)、銀色(しろかねいろ)したる心[しん]の臓などにて飾りたる耶蘇(ヤソ)のをさな子も、共に動きて、我等(ら)が面を見て笑(ゑ)み給ふ如くなりき。われは高く朗なる声して歌ひしに、人々聞きて善(よ)き声なりといひき。或(あ)る時英吉利(イギリス)人の一家族、我(わが)歌を聞きて立ちとまり、歌ひ畢(をは)るを待ちて、長[をさ]らしき人われに銀貨一つ与へき。母に語りしに、そなたが声のめでたさ故、とのたまひき。されどこの詞(ことば)は、その後我祈(いのり)を妨ぐること、いかばかりなりしを知らず。それよりは、聖母の前にて歌ふごとに、聖母の上(うへ)をのみ思ふこと能(あた)はずして、必ず我声の美しきを聞く人やあると思ひ、かく思ひつつも、聖母のわがあだし心を懐(いだ)けるを嫉[にく]み給はむかとあやぶみ、聖母に向ひて罪を謝し、あはれなる子に慈悲(じひ)の眸(め)を垂(た)れ給へと願ひき。
わが余所
(よそ)の子供に出(い)で逢ふは、この夕(ゆふべ)の祈の時のみなりき。わが世は静けかりき。わが自ら作りたる夢の世に心を潜め、仰ぎ臥(ふ)して開きたる窓に向ひ、伊太利(イタリア)の美しき青空を眺め、日の西に傾(かたぶ)くとき、紫の光ある雲の黄金色(こがねいろ)したる地の上に垂れかかりたるをめで、時の遷(うつ)るを知らざることしばしばなりき。ある時は、遠くクヰリナアル(丘の名にて、其上に法皇の宮居(みやゐ)あり)と家々の棟(むね)とを越えて、紅に染まりたる地平線のわたりに、真黒[まくろ]に浮き出でて見ゆる「ピニヨロ」の木々の方(かた)へ、飛び行かばや、と願ひき。我部屋には、この眺(ながめ)ある窓の外(ほか)、中庭に向へる窓ありき。我家の中庭は、隣の家の中庭に並びて、いづれもいと狭(せば)く、上の方(かた)は木の「アルタナ」(物見のやうにしたる屋根)にて鎖(さ)されたり。庭ごとに石にて甃[たた]みたる井(ゐど)ありしが、家々の壁と井との間をば、人ひとり僅(わづか)に通らるるほどなれば、我は上より覗(のぞ)きて、二つの井の内を見るのみなりき。緑なるほうらいしだ(アヂアンツム)生(お)ひ茂りて、深きところは唯(た)だ黒くのみぞ見えたる。俯(ふ)してこれを見るたびに、われは地の底を見おろすやうに覚えて、ここにも怪しき境ありとおもひき。かかるとき、母上は杖(つゑ)の尖(さき)にて窓硝子(ガラス)を浄(きよ)め、なんぢ井に墜(お)ちて溺れだにせずば、この窓に当りたる木々の枝には、汝(なんぢ)が食ふべき果[このみ]おほく熟すべしとのたまひき。

 

        隧道(すゐだう)ちご

 (わが)家に宿りたる画工は、廓外に出づるをり、我を伴ひゆくことありき。画を作る間は、われかれを妨ぐることなかりき。さて作り畢(をは)りたるとき、われ穉(をさな)き物語して慰むるに、かれも今はわが国の詞(ことば)を解[げ]して、面白がりたり。われは既に一たび画工に随ひて、「クリア・ホスチリア」にゆき、昔遊戯(いうぎ)の日まで猛獣を押し込めおきて、つねに無辜(むこ)の俘囚(とりこ)を獅子(しし)、「イエナ」獣なんどの餌(ゑじき)としたりと聞く、かの暗き洞(ほら)の深き処まで入りしことあり。洞の(うち)なる暗き道に、我等(ら)を導きてくぐり入り、燃ゆる松火(まつ)を、絶えず石壁に振り当てたる僧、深き池の水の、鏡の如く明(あきらか)にて、目の前には何もなきやうなれば、その足もとまで湛(たた)へ寄せたるを知らむには、松火(まつ)もて触れ探らではかなはざるほどなる、いづれもわが空想を激したりき。われは怖(おそれ)をば懐(いだ)かざりき。そは危しといふことを知らねばなりけり。
(ちまた)のはつる処に、「コリゼエオ」(大観棚(おほさじき))の頂見えたるとき、われ等(ら)はかの洞(ほら)の方(かた)へゆくにや、と画工に問ひしに、否、あれよりは逈(はるか)に大(おほい)なる洞にゆきて、面白きものを見せ、そなたをも景色と倶(とも)に写すべし、と答へき。葡萄圃(ぶだうばたけ)の間を過ぎ、古(いにしへ)の混堂[ゆや]の址(あと)を囲(かこ)みたる白き石垣に沿ひて、ひたすら進みゆく程に羅馬(ロオマ)の府の外に出(い)でぬ。日はいと烈(はげ)しかりき。緑の枝を手(た)折りて、車の上に挿(さ)し、農夫はその下に眠りたるに、馬は車の片側(かたかは)に弔(つ)り下げたる一束の秣(まぐさ)を食(くら)ひつつ、ひとり徐(しづか)に歩みゆけり。やうやう女神(めがみ)エジエリアの洞にたどり着きて、われ等は朝餐[あさげ]を食[たう]べ、岩間より湧(わ)き出(い)づる泉の水に、葡萄酒混ぜて飲みき。洞の裏(うち)には、天井にも四方(よも)の壁にも、すべて絹、天鵝絨(びろおど)なんどにて張りたらむやうに、緑こまやかなる苔(こけ)(お)ひたり。露けく茂りたる蔦(つた)の、おほいなる洞(どう)門にかかりたるさまは、カラブリア州の谿間(たにま)なる葡萄架(ぶだうだな)を見る心地(ここち)す。洞の前数歩には、その頃いと寂しき一軒の家ありて、「カタコンバ」のうちの一つに造りかけたりき。この家今は潰(つひ)えて断礎をのみぞ留(とど)めたる。「カタコンバ」は人も知りたる如く、羅馬城とこれに接したる村々とを通ずる隧道(すゐだう)なりしが、半(なかば)はおのづから壊(こは)れ、半は盗人(ぬすびと)、ぬけうりする人なんどの隠家(かくれが)となるを厭(いと)ひて、石もて塞(ふさ)がれたるなり。当時猶(なほ)存じたるは、聖セバスチヤノ寺の内なる穹窿(きゆうりゆう)の墓穴よりの入口と、わが言へる一軒家よりの入口とのみなりき。さてわれ等(ら)はかの一軒家のうちなる入口より進み入りしが、おもふに最後に此(この)道を通りたるはわれ等二人なりしなるべし。いかにといふに此入口はわれ等が危き目に逢ひたる後、いまだ幾(いくばく)もあらぬに塞がれて、後には寺の内なる入口のみ残りぬ。かしこには今も僧一人居(を)りて、旅人を導きて穴に入らしむ。
深きところには、軟
(やはらか)なる土に掘りこみたる道にゆきちがひたるあり。その枝の多き、その様の相似たる、おもなる筋を知りたる人も踏み迷ふべきほどなり。われは穉心(をさなごころ)に何ともおもはず。画工はまた予(あらかじ)め其(その)心して、我を伴ひ入りぬ。先づ蠟燭(らふそく)一つ点(とも)し、一(いつ)をば猶衣(きぬ)のかくしの中に貯(たくは)へおき、一巻[ひとまき]の糸の端を入口に結びつけ、さて我(わが)手を引きて進み入りぬ。忽(たちま)ち天井低くなりて、われのみ立ちて歩まるるところあり、忽ち又岐路の出(い)づるところ広がりて方形をなし、見上ぐるばかりなる穹窿をなしたるあり。われ等は中央に小き石卓(いしづくゑ)を据(す)ゑたる円堂を過(よぎ)りぬ。ここは始て基督(キリスト)教に帰依(きえ)したる人々の、異教の民に逐(お)はるるごとに、ひそかに集りて神に仕へまつりしところなりとぞ。フエデリゴはここにて、この壁中に葬られたる法皇十四人、その外(ほか)数千の献身者の事を物語りぬ。われ等は石龕(せきがん)のわれ目に燭火[ともしび]さしつけて、中なる白骨を見き。(ここの墓には何の飾(かざり)もなし。拿破里[ナポリ]に近き聖ヤヌアリウスの「カタコンバ」には聖像をも文字をも彫(ゑ)りつけたるあれど、これも技術上の価あるにあらず。基督(キリスト)教徒の墓には、魚を彫(ゑ)りたり。希臘文(ギリシアぶん)の魚といふ字は「イヒトユス」なれば、暗に「イエソウス、クリストス、テオウ ウイオス、ソオテエル」の文の首字(かしらじ)を集めて語をなしたるなり。此(この)希臘文はここに耶蘇(ヤソ)基督神子(かみのこ)救世者と云ふ。)われ等(ら)はこれより入ること二三歩にして立ち留りぬ。ほぐし来たる糸はここにて尽きたればなり。画工は糸の端を控鈕[ボタン]の孔(あな)に結びて、蠟燭(らふそく)を拾ひ集めたる小石の間に立て、さてそこに蹲(うづくま)りて、隧道(すゐだう)の模様(もやう)を写し始めき。われは傍(かたへ)なる石に踞[こしか]けて合掌(がつしやう)し、上の方(かた)を仰ぎ視(み)ゐたり。燭(しよく)は半ば流れたり。されどさきに貯(たくは)へおきたる新(あらた)なる蠟燭をば、今取り出(いだ)してその側(そば)におきたる上、火打道具さへ帯(お)びたれば、消えなむ折に火を点(とも)すべき用意ありしなり。
われはおそろしき暗黒天地に通ずる幾条
(いくすじ)の道を望みて、心の中にさまざまの奇怪なる事をおもひ居(ゐ)たり。この時われ等が周囲には寂(せき)として何の声も聞えず、唯(た)だ忽(たちま)ち断(た)え忽ち続く、物寂しき岩間(いはま)の雫(しづく)の音を聞くのみなりき。われはかく由[よし]なき妄想(まうざう)を懐(いだ)きてしばしあたりを忘れ居たるに、ふと心づきて画工の方を見やれば、あな訝(いぶ)かし、画工は大息(といき)つきて一つところを馳(は)せめぐりたり。その間かれは頻(しきり)に俯(ふ)して、地上のものを捜し索(もと)むる如し。かれは又火を新なる蠟燭に点じて再びあたりをたづねたり。その気色(けしき)ただならず覚えければ、われも立ちあがりて泣き出しつ。
この時画工は声を励まして、こは何事ぞ、善
(よ)き子なれば、そこに坐[すわ]りゐよ、と云ひしが、又眉(まゆ)を顰(ひそ)めて地を見たり。われは画工の手に取りすがりて、最早(もはや)登りゆくべし、ここには居(を)りたくなし、とむつかりたり。画工は、そちは善(よ)き子なり、画かきてや遣(や)らむ、果子(くわし)をや与へむ、ここに銭(ぜに)もあり、といひつつ、衣(きぬ)のかくしを探して、財布(さいふ)を取り出(いだ)し、中なる銭をば、ことごとく我に与へき。我はこれを受くるとき、画工の手の氷の如く冷(ひややか)になりて、いたく震(ふる)ひたるに心づきぬ。我はいよいよ騒ぎ出し、母を呼びてますます泣きぬ。画工はこの時我(わが)肩を摑(つか)みて、劇(はげ)しくゆすり揺(うご)かし、静にせずば打擲(ちやうちやく)せむ、といひしが、急に手巾(しゆきん)を引き出して、我腕(かひな)を縛りて、しかと其(その)端を取り、さて俯(ふ)してあまたたび我に接吻し、かはゆき子なり、そちも聖母(マドンナ)に願へ、といひき。糸をや失ひ給ひし、と我は叫びぬ。今こそ見出さめ、といひいひ、画工は又地上をかいさぐりぬ。
さる程に、地上なりし蠟燭
(らふそく)は流れ畢(をは)りぬ。手に持ちたる蠟燭も、かなたこなたを捜し索(もと)むる忙(せは)しさに、流るることいよいよ早く、今は手の際(きは)まで燃え来りぬ。画工の周章は大方(おほかた)ならざりき。そも無理ならず。若(も)し糸なくして歩(あゆみ)を運ばば、われ等(ら)は次第に深きところに入りて、遂(つひ)に活路なきに至らむも計られざればなり。画工は再び気を励まして探りしが、こたびも糸を得ざりしかば、力抜けて地上に坐し、我頸(くび)を抱きて大息(といき)つき、あはれなる子よ、とつぶやきぬ。われはこの詞(ことば)を聞きて、最早(もはや)家に還(かへ)られざることぞ、とおもひければ、いたく泣きぬ。画工にあまりに緊(きび)しく抱き寄せられて、我(わ)が縛られたる手はいざり落ちて地に達したり。我は覚えず埃(ほこり)の間に指さし入れしに、例の糸を撮(つま)み得たり。ここにこそ、と我(わが)呼びしに、画工は我手を摻(と)りて、物狂(ものぐる)ほしきまでよろこびぬ。あはれ、われ等(ら)二人の命はこの糸にぞ繋(つな)ぎ留められける。
われ等の再び外に歩み出
(い)でたるときは、日の暖(あたたか)に照りたる、天(そら)の蒼(あを)く晴れたる、木々の梢(こずゑ)のうるはしく緑なる、皆常にも増してよろこばしかりき。フエデリゴは又我に接吻して、衣(きぬ)のかくしより美しき銀(しろかね)のを錶[とけい]を取り出(いだ)し、これをば汝(そち)に取らせむ、といひて与へき。われはあまりの嬉しさに、けふの恐ろしかりし事共、はや悉(ことごと)く忘れ果てたり。されど此(この)事を得忘れ給はざるは、始終の事を聞き給ひし母上なりき。フエデリゴはこれより後、我を伴ひて出づることを許されざりき。フラア・マルチノもいふやう。かの時二人の命を助かりしは、全(また)く聖母(マドンナ)のおほん恵にて、邪宗のフエデリゴが手には授け給はざる糸を、善(よ)き神に仕ふる、やさしき子の手には与へ給ひしなり。されば聖母の恩をば、身を終(を)ふるまで、ゆめ忘るること勿(なか)れといひき。
フラア・マルチノがこの詞
(ことば)と、或(あ)る知人(しるひと)の戯(たはぶれ)に、アントニオはあやしき子なるかな、うみの母をば愛するやうなれど、外(ほか)の女をばことごとく嫌ふと見ゆれば、あれをば、人となりて後(のち)僧にこそすべきなれ、といひしことあるとによりて、母上はわれに出家せしめむとおもひ給ひき。まことに我は奈何(いか)なる故とも知らねど、女といふ女は側(そば)に来(こ)らるるだに厭(いと)はしう覚えき。母上のところに来る婦人は、人の妻ともいはず、処女ともいはず、我が穉(をさな)き詞(ことば)にて、このあやしき好憎の心を語るを聞きて、いとおもしろき事におもひ做(な)し、強(し)ひて我に接吻せむとしたり。就中(なかんづく)マリウチアといふ娘は、この戯(たはぶれ)にて我を泣かすること屢(しばしば)なりき。マリウチアは活潑なる少女(をとめ)なりき。農家の子なれど、裁縫店にて雛形娘(ひながたむすめ)をつとむるゆゑ、華靡[はで]やかなる色の衣(きぬ)をよそひて、幅広き白き麻布もて髪を巻けり。この少女フエデリゴが画の雛形をもつとめ、又母上のところにも遊びに来て、その度(たび)ごとに自らわがいひなづけの妻なりといひ、我を小き夫なりといひて、迫りて接吻せむとしたり。われ諾(うべな)はねば、この少女しばしば武を用ゐき。或(あ)る日われまた脅(おびやか)されて泣き出(いだ)ししに、さては猶(なほ)穉児(をさなご)なりけり、乳房(ちぶさ)(ふく)ませずては、啼(な)き止(や)むまじ、とて我を掻(か)き抱かむとす。われ慌(あわ)てて逃(に)ぐるを、少女はすかさず追ひすがりて、両膝(ひざ)にて我(わが)身をしかと挟(はさ)み、いやがりて振り向かむとする頭(かうべ)を、やうやう胸の方(かた)へ引き寄せたり。われは少女が挿(さ)したる銀(しろかね)の矢を抜きたるに、豊(ゆたか)かなる髪は波打ちて、我身をも、露(あらは)れたる少女が肩をも掩(おほ)はむとす。母上は室(へや)の隅に立ちて、笑(ゑ)みつつマリウチアがなすわざを勧め励まし給へり。この時フエデリゴは戸の片蔭にかくれて、窃(ひそか)に此群(このむれ)をゑがきぬ。われは母上にいふやう。われは生涯(しやうがい)妻といふものをば持たざるべし。われはフラア・マルチノの君のやうなる僧とこそならめといひき。
(ゆふべ)ごとにわが怪しく何の詞(ことば)もなく坐したるを、母上は出家せしむるにたよりよき性(さが)なりとおもひ給ひき。われはかかる時、いつも人となりたる後、金あまた得たらむには、いかなる寺、いかなる城をか建つべき、寺の主(あるじ)、城の主となりなん日には、「カルヂナアレ」の僧の如く、赤き衷甸[ばしや]に乗りて、金色(こんじき)に装(よそ)ひたる僕(しもべ)あまた随へ、そこより出入せんとおもひき。或(あ)るときは又フラア・マルチノに聞きたる、種々(くさぐさ)なる献身者の話によそへて、おのれ献身者とならむをりの事をおもひ、世の人いかにおのれを責むとも、おのれは聖母(マドンナ)のめぐみにて、つゆばかりも苦痛を覚えざるべしとおもひき。殊に願はしく覚えしは、フエデリゴが故郷(ふるさと)にたづねゆきて、かしこなる邪宗の人々をまことの道に帰依(きえ)せしむる事なりき。
母上のいかにフラア・マルチノと謀
(はか)り給ひて、その日とはなりけむ。そはわれ知らでありしに、或(あ)る朝(あした)母上は、我に小き衣(きぬ)を着せ、其(その)上に白衣(しろぎぬ)を打掛け給ひぬ。此(この)白衣は膝(ひざ)のあたりまで届きて、寺に仕ふる児[ちご]の着るものに同じかりき。母上はかく為(し)立てて、我を鏡に向はせ給ひき。我は此日より尖帽宗(カツプチノオ)の寺にゆきてちごとなり、火伴[なかま]の童(わらべ)達と共に、おほいなる弔香炉[つりかうろ]を提(ひさ)げて儀にあづかり、また贄卓(にへづくゑ)の前に出(い)でて賛美歌をうたひき。総(すべ)ての指図をばフラア・マルチノなしつ。われは幾程もあらぬに、小き寺のうちに住み馴(な)れて、贄卓に画(えが)きたる神の使の童の顔を悉く記[おぼ]え、柱の上なるうねりたる模様(もやう)を識(し)り、瞑目(めいもく)したるときも、醜き龍と戦ひたる、美しき聖ミケルを面前に見ることを得るやうになり、鋪床[ゆか]に刻みたる髑髏(されかうべ)の、緑なる蔦(つた)かづらにて編みたる環(わ)を戴(いただ)けるを見てはさまざまの怪しき思(おもひ)をなしき。(聖ミケルが大(おほい)なる翼ある美少年の姿にて、悪鬼の頭(かうべ)を踏みつけ、槍(やり)をその上に加へたるは、名高き画なり。)


 

 

 

 

 

 
  (注) 1.  本文は、ワイド版岩波文庫18・森鷗外訳『アンデルセン即興詩人』上巻(1991年1月24日第1刷発行)によりました。原文は勿論、縦書きです。        
    2.  森鷗外訳『即興詩人』「わが最初の境界」の初出は、『しがらみ草紙』第38号(明治25年11月)。「わが最初の境遇」として掲載されました。
 「隧道、ちご」の初出は、『しがらみ草紙』第40号(明治26年1月)。原文では次章の「美小鬟、即興詩人」と合わせて一章とし、「カタコンベ見学/少年聖歌隊員になる/可愛らしい天使/即興詩人」となっている由です。

 『即興詩人』は、明治34年2月発行の『めさまし草』巻之四十九で完結するまで、全38回にわたって断続的に連載されたということです。
 
    3.  文庫原文の漢字は旧漢字ですが、ここでは概ね常用漢字に改めました。仮名遣いはもとのままです。         
    4.  文の地名には二重傍線が、人名には単傍線が付けてありますが、ここでは二重傍線がうまく表示できないので、地名にも単傍線を付けてあることをお断りしておきます。  
    5.  文中のルビは、( )に入れて示しました。[  ] のルビは原ルビ、( )のルビは、文庫の校訂者(川口朗氏)の振ったルビです。
 原ルビ以外のルビの振り方は、校訂者によってさまざまです。川口氏が文庫巻末の「校訂覚書」で述べておられるように、「結局鷗外の読ませたかったように読みとおすのは不可能」ということになるのでしょう。
 従って、『新日本古典文学大系 明治編25 森鷗外集』(岩波書店・2004年7月29日第1刷発行)に収録してある『即興詩人』(上巻33章のうち10章分と下巻33章のすべてを収録。本文校訂は須田喜代次氏)の読みに、文庫の読みと違う部分があるのは、止むを得ません。
 
    6.  上記文庫本の底本は、昭和29年4月岩波書店発行の『鷗外全集』翻訳篇第14巻の本文です。
 全集の後記によればその本文は、『即興詩人』縮刷版を底本にし、菊版本(初版から第12版まで)、神代種亮校訂本を参照して校訂したものの由です。        
 
    7. 底本の全集の繰り返し符号を、文庫の本文に入れるにあたって改めてありますが、詳しくは文庫巻末の「校訂覚書」を参照してください。  
    8.  森鴎外の『即興詩人』を愛してやまない画家の安野光雅氏が、森鴎外の『即興詩人』が絶版になるのを恐れて同じ本を十組ばかりしまっている、と朝日新聞に書いておられました(平成6(1994)年7月28日夕刊「私の一冊」)。 そこで小生も、岩波文庫の鴎外訳『即興詩人』を2組ほど、しまっておくことにしたのでした。  
    9.  安野光雅氏には、『繪本 即興詩人』(講談社・2002年11月6日第1刷発行)というご著書もあります。  
    10.  『國語問題協議會電網』というサイトに「音讀の頁」があり、そこで『即興詩人』の音読(音読は後藤百合子氏)を聞くことができます。
 → 
「音讀 森鴎外『即興詩人』上巻・下巻」
 なお、ここで樋口一葉の『十三夜』・『大つごもり』の音読を聞くこともできます。

  
残念ながら現在は聞けないようです。(2023.10.13)
 


 
      

      
       


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