『枕草子』の「殿などのおはしまさで後」の段の後半に出ているなぞなぞの話を掲げました。 ここでは、できるだけ陽明文庫蔵本のもとのままの形で本文を示すことを試みています。 |
(注) | 1. |
上記の「「天に張り弓」(『枕草子』のなぞなぞ。陽明文庫蔵本)」の本文は、新日本古典文学大系『枕草子』(渡辺実・校注、岩波書店・1991年1月18日第1刷発行) によりました。
凡例に、「底本には、陽明文庫蔵本を用い」た、とあります。 |
|||
2. |
上記の本文は、できるだけ元の陽明文庫蔵本の本文に近づけるようにました。ただし、陽明文庫蔵本の原本を見たわけではないので、果たしてどの程度原本に近いかは分かりません。
なぜ、こうした本文を作成したのかというと、この文章は面白い話であるにもかかわらず、内容から見て分かりにくいところがあり、また最後の部分に意味の取りにくいところがあるために、一般に敬遠されているように感じられるからです。 この文章を清少納言がどういう気持ちで書いたのかを、 あらためて考えてみるための参考として、この本文を作成したわけです。 |
||||
3. | 本文の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、上の文字を繰り返して表記してあります(「りやうりやうしかり」「人々」「なそなそ」)。
また、歴史的仮名遣いと異なる仮名は、そのまま表記してあります(「を(お)のれ」「くちお(を)しく」「を(お)しはかる」「ようゐ(い)」「けう(きよう)」「あひ(い)きやう」)。 なお、最後のところに「これはわすれたることかは」とある「かは」は、底本をはじめ三巻本系統の本には「か」を欠いていて、「これはわすれたることは」となっているそうです。日本古典文学大系の校異に、「〇かは─は(底・三本ホボ)。かは (能本)」とあり、新日本古典文学大系の脚注に、「能因本により補う」とあります。 また、日本古典文学大系の頭注には、「たゝみなしりたることゝかや」の末尾が能因本には「事にや」となっている、とあります。 |
||||
4. | 「殿などのおはしまさで後」の段は、日本古典全書『枕草子』(田中重太郎校註、朝日新聞社・昭和22年6月25日初版発行、昭和31年5月15日第6版発行)で138段、岩波の日本古典文学大系本では143段、同じく岩波の新日本古典文学大系本では136段になっています。 | ||||
5. | 「わらはにをしへられしこと」とあるのは、清少納言が道隆の没後、彼女が同僚の女房たちから道長方に内通していると噂され、里に下がって不快な日々を送っていたときに、中宮定子から、山吹の花びらただ一重を包んだ文(ふみ)が届けられ、そこには、「いはで思ふぞ」とだけ書いてあった。清少納言がこの歌の上の句を忘れていて、「口元まで出かかっているのに言い出せないのは、どうしてなのかしら」と言うのを聞いた、前に座っていた童女が、「『下ゆく水』と申します」と言った、ということを指しています。「心には下行く水のわきかへりいはで思ふぞいふにまされる」(古今六帖・五)。 | ||||
6. | 「天にはりゆみ(天に張り弓)」について、日本古典全書本の頭注に、「弓張月。弦月。これを三日月と解くことは小児でも知っているやさしい謎である」、日本古典文学大系本の頭注に、「上弦または下弦の月をいう。最も初歩の謎」、 新日本古典文学大系本の脚注に、「弓張月、つまり上弦下弦の月を心(解答)とする謎で、最も平凡なもの」とあります。 | ||||
7. |
本文の終わり近くの「さ思ひつべし」を、日本古典全書本と新日本古典文学大系本では、女房の言葉と見ていますが、日本古典文学大系本では、これを地の文として読んでいます。
〇日本古典全書本:御前(おまへ)なるかぎり、女房「さ思ひつべし。くちをしういらへけむ。こなたの人のここちうち聞きはじめけむ、いかがにくかりけむ」なんど笑ふ。 〇日本古典文学大系本:御前(おまへ)なる限(かぎ)り、さ思ひつべし。「くちをしういらへけん」「こなたの人の心地、うち聞きはじめけむ、いかがにくかりけむ」なんどわらふ。 〇新日本古典文学大系本:おまへなるかぎり、「さ思(おもひ)つべし」「くちお(を)しういらへけん」「こなたの人の心ち、うち聞きはじめけむ、いかゞにくかりけん」なんど笑ふ。 |
||||
8. |
終わり近くにある「これは忘れたることかは」について、日本古典全書の頭注に次のようにあります。 「このお話の右の一番は、「天に張り弓」の解を忘れてゐたのではない。自分は「いは でぞ思ふ」の上の句を忘れたのだが。 底本をはじめ三巻本系統本には「かは」の「か」がない。その本文によると、以下終まで、この話は、「自分が忘れたことはみな人が知つてゐることだ」といはれる例であらうか、などの意となるが、しばらく本文を改めて通説にしたがつた。しかし、「ただみな……」への接続は未だ穏当でない。」 日本古典文学大系本の頭注には、「この例は私の場合のように忘れて失敗したのではない、ただ誰も知っているので油断したためと思われるが」とあります。 新日本古典文学大系本の脚注には、「「これは」以下、中宮の話に対する「おまへなるかぎり」の女房たちの反応を見ての思いであろう。でもこのお話は忘れた失敗談ではなくて、皆知っての失敗談だと私には思えるけれど、の意。女房たちにはわだかまりを捨て切れず同調できない気持の反映、と思われる」とあります。 |
||||
9. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、枕草子の項があります。 フリー百科事典『ウィキペディア』→ 枕草子 |