天保9年(1838年)、飢饉に際して水戸藩主・徳川斉昭は、藩主としての立場で、藩士・領民に対して次のような通達を発しました。 | |||
(注) | 1. |
上記の「徳川斉昭の藩士・領民への通達(天保9年)」は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『水戸藩史料』別記上・巻十によりました。 『国立国会図書館デジタルコレクション』 →『水戸藩史料』別記上・巻十 298~299 / 373 『水戸藩史料』には、この本文のあとに、「此の箴言は後に郡廳に於て之を剞劂に付し名けて「みかげあふき」といひ徧く國中に頒布したり」という付記があります。 |
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2. |
藤田東湖は『常陸帯』の中で、斉昭の天保飢饉対策を讃えて、「申ノ年酉ノ年世ノ中
飢ヘテ死スル者多キ中ニ我カ水戸ノ領内ノミ一人ノ餓莩(がひょう・飢え死にした人)ナキハ
アリ難キ事ナラスヤ」(引用者注:申年は天保7年、酉年は天保8年)と言っているが、実際には天保8年2月末までの藩への届けを総合すると、乞食や奥州その他水戸領内外からの行き倒れも含めて、餓死者は1,351人いたという。しかし、天保8年頃江戸で刷られたらしい「凶作救方」の番付には、西の大関は伊勢の藤堂氏、東は水戸の徳川氏なっていた(江戸時代の相撲番付では、大関が最上位)というから、水戸藩の飢餓対策が行き届いていた点で評判だったことは間違いないという。(瀬谷義彦著『水戸の斉昭』(茨城新聞社(株)・1979年2月5日発行)によって記述しました。同書、120~121頁参照)。 * 『常陸帯』の引用文についてのお断り 『水戸の斉昭』には、「申の年、戌の年(戌─いぬ年・天保9年も、水戸領は凶作であった)」とあるのですが、早稲田大学図書館『古典籍総合データベース』所収の『常陸帯』(藤田東湖・撰、綿引泰・校、光霽楼・慶応2年刊)には、「申ノ年酉ノ年」とありましたので、ここではこれによってあります。 → 『古典籍総合データベース』 → 『常陸帯』(巻二31/48 に出ています。) |
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3. | 徳川斉昭(とくがわ・なりあき)=幕末の水戸藩主。治紀(はるとし)の子。字は子信、号は景山・潜竜閣。藩校弘道館を開設して文武を奨励、鋭意藩政を改革、幕政を補佐したが、将軍継嗣問題で一橋派に属し、井伊大老に忌まれて永蟄居。 諡号(しごう)、烈公。(1800-1860)(『広辞苑』第6版) | ||||
4. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、徳川斉昭の項があります。 フリー百科事典『ウィキペディア』 → 徳川斉昭 |
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