資料499 徳川斉昭の藩士・領民への通達(天保9年)




       徳川斉昭の藩士・領民への通達(天保9年)

    天保9年(1838年)、飢饉に際して水戸藩主・徳川斉昭は、藩主としての立場で、藩士・領民に対して次のような通達を発しました。  
       
巳年申年兩度の凶作にて米穀も乏敷候處此氣候にては此上何共難計萬々一今年も凶作に候はゞ國中士民之扶助如何にせむと日夜心思をくるしめ候天地の變災は人の力に及兼候へ共人は萬物の靈と有之候へば上下一致して人事盡候はゞ其心天地に通じ變災も甚敷しきに至らずして止ぬべしたとへ變災やまずとも人力を盡したる上にて上下もろともに飢に及ぶは天命なり君子は民の父母と有之候得ばかりそめにも國中數十萬人の父母と仰がれ候上はいかで子の飢にせまるを見るに忍んやこれによりて今日より七日の間精進潔齋して鹿島靜吉田等へ五穀成就萬民安穩の大願を立候得共日々平常の食を用ひ候ては恐懼之事故へ我等並簾中初一同今日より日々粥を食し上は天の怒をつゝしみ下は民の患を救候心得に候此上何程凶年候ても國中之米穀にて我等の食物には指支無之又粥を用ひ候とて其餘りたる米穀國中の潤にも不相成候得共重役初國中の人我等の心を推察いたし人々心次第に米穀をあまし候はゞ國中に飢餓の民は無之道理なりたとへばこゝに兄弟十人あり一人は富貴にて珍味美食を用ひ二人は相應の勝手にて十分に飲食す二人は平常の食を用ひ其餘の五人は飢て死むとする時初の五人己己の食をわけ十人共に平常より少く粗食を用ひ候はゞ十人の命は全かるべし我等愚なる身にても國中士民の父母になれば國中の士民は相互ひ兄弟同樣思ひ貧しき者は彌儉約して富るものゝ救を受ざる樣に心懸富る者は我獨り富ず一粒つゝもあまして世の中の人の潤ひに相成樣心懸候はゞ國中に飢民は有之間敷候貴賤上下によらず心あらん者は夫々其處々の鎭守氏神へ實意を以て五穀成就の祈誓をこめ一粒づゝも食しあまし一人づゝも人を助けんと志し候樣致度事候
  六月三日                  御 判


  (注) 1.  上記の「徳川斉昭の藩士・領民への通達(天保9年)」は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『水戸藩史料』別記上・巻十によりました。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』 
  →『水戸藩史料』別記上巻十  298~299 / 373

 『水戸藩史料』には、この本文のあとに、「此の箴言は後に郡廳に於て之を剞劂に付し名けて「みかげあふき」といひ徧く國中に頒布したり」という付記があります。   
   
    2.  藤田東湖は『常陸帯』の中で、斉昭の天保飢饉対策を讃えて、「申ノ年酉ノ年世ノ中 飢ヘテ死スル者多キ中ニ我カ水戸ノ領内ノミ一人ノ餓莩(がひょう・飢え死にした人)ナキハ アリ難キ事ナラスヤ」(引用者注:申年は天保7年、酉年は天保8年)と言っているが、実際には天保8年2月末までの藩への届けを総合すると、乞食や奥州その他水戸領内外からの行き倒れも含めて、餓死者は1,351人いたという。しかし、天保8年頃江戸で刷られたらしい「凶作救方」の番付には、西の大関は伊勢の藤堂氏、東は水戸の徳川氏なっていた(江戸時代の相撲番付では、大関が最上位)というから、水戸藩の飢餓対策が行き届いていた点で評判だったことは間違いないという。(瀬谷義彦著『水戸の斉昭』(茨城新聞社(株)・1979年2月5日発行)によって記述しました。同書、120~121頁参照)。

 * 『常陸帯』の引用文についてのお断り
 『水戸の斉昭』には、「申の年、戌の年(戌─いぬ年・天保9年も、水戸領は凶作であった)」とあるのですが、早稲田大学図書館『古典籍総合データベース』所収の『常陸帯』(藤田東湖・撰、綿引泰・校、光霽楼・慶応2年刊)には、「申ノ年酉ノ年」とありましたので、ここではこれによってあります。
  → 『古典籍総合データベース』
  → 『常陸帯』巻二31/48 に出ています。)
   
    3.  徳川斉昭(とくがわ・なりあき)=幕末の水戸藩主。治紀(はるとし)の子。字は子信、号は景山・潜竜閣。藩校弘道館を開設して文武を奨励、鋭意藩政を改革、幕政を補佐したが、将軍継嗣問題で一橋派に属し、井伊大老に忌まれて永蟄居。 諡号(しごう)、烈公。(1800-1860)(『広辞苑』第6版)    
    4.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、徳川斉昭の項があります。
  フリー百科事典『ウィキペディア』
    → 徳川斉昭
   
           
           








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