主君や父、夫などが殺された場合に、臣下や近親の者などが、恨みを
晴らすためにその相手を殺す敵討が、江戸時代には多く行われていま
した。
しかし、明治6年(1873年)、明治政府は太政官布告第37号で、復讐
(敵討)を禁止する旨、布告しました。
個人が相手に復讐するのでなく、公権がその役割を代行しようとする制
度に変更したわけです。
果たして今日の裁判制度が、恨みを晴らしたいという個人の気持ちを満足
させる働きを十分になし得ているかどうかを考える資料の一つとして、
明治政府が布告したその「復讐ヲ厳禁ス(敵討禁止令・太政官布告第37号)
を次に示します。
(注) | 1. |
本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『法令全書 明治 六年』(内閣官報局、明治22年5月15日出版)によりました。 『国立国会図書館デジタルコレクション』→『法令全書 明治六年』 |
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2. |
敵討(かたきうち)=(1)主君・近親・朋友などの仇(あだ)を討ち果たすこと。 江戸時代に最も多かった。仇討。復讐(ふくしゅう)。(2)転じて 一般 に、恥辱をすすぐことをもいう。「このあいだの―だ」 (『広辞苑』第6版による。) 敵討(かたきうち)=「あだうち」ともいう。主君や親兄弟を殺した者に復讐す ること。古代より行われ、中世までは親兄弟の復讐、近世にはいっ て主君の復讐が出てきた。鎌倉時代の曾我祐成・時致兄弟の敵討 は有名。江戸時代には一般に私闘は厳禁されたが、封建的道徳と 武士道的観念から敵討は黙認・奨励された。赤穂義士の復讐はそ の代表的事件である。はじめは武士関係が多かったが、のちには 農・工・商人の敵討が多くみられるようになる。1873(明治6) 国法の整備に伴い禁止された。(『角川日本史辞典』第2版による。) |
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3. |
「仇討ち禁止令(復讐禁止令)」というページが、『たむたむ(太夢・多夢) ホームページにようこそ』というサイトにあって、参考になります。 → 『たむたむ(太夢・多夢)ホームページにようこそ』 → 「仇討ち禁止令(復讐禁止令)」 お断り: 『たむたむ(太夢・多夢) ホームページにようこそ』というページ は見つからなくなったので、リンクをはずしました。(2020年6月12日) |
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4. |
語句の注をつけておきます。 固=もとより。 擅殺(せんさつ)=ほしいままに殺す。勝手気儘に殺す。 加之=しかのみならず。 挾ミ=さしはさみ。 搆害=こうがい。いいがかりを作って害する。 至親(ししん)=親・兄弟など、いちばん自分に近い親族。肉親。 泥ミ=なずみ。「なずむ」は、こだわる意。 |
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5. |
読みやすく書き直しておきます。 人を殺すは国家の大禁にして、人を殺す者を罰するは政府の公権に 候ふところ、古来より、父兄の為に讐(あだ)を復するを以て子弟の 義務となすの風習あり。右は至情止むを得ざるに出づると雖(いへど) も、畢竟(ひつきやう)私憤を以て大禁を破り、私義を以て公権を犯す 者にして、固(もと)より擅殺(せんさつ)の罪を免れず。加之(しかのみ ならず)、甚しきに至りては、其の事の故誤を問はず、其の理の当否 を顧みず、復讐の名義を挾(さしはさ)み、濫(みだ)りに相(あひ)搆 害(こうがい)するの弊(へい)往々之(こ)れ有り。甚だ以て相(あひ) 済まざる事に候。之(これ)に依りて、復讐厳禁仰せ出だされ候ふ 条、今後不幸至親を害せらるる者之れ有るに於ては、事実を詳(つ まびら)かにし、速(すみ)やかに其の筋へ訴へ出づべく候。若(も) し其の儀無く旧習に泥(なづ)み擅殺するに於ては、相当の罪料に 処すべく候ふ条、心得違ひ之れ無きやう致すべき事。 |
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