資料493 新埔国民学校の先生のお名前について(職員録から)
新埔国民学校の先生のお名前について (職員録から) |
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戦前の尋常小学校が、昭和16年から国民学校という名前に変更されました。 昭和16年 当時、日本の領土であった台湾の新竹州新埔庄という町に、新埔国民学校という日本人学校がありました。 その新埔国民学校に勤務しておられた先生のお名前が、当時の職員録で判明しましたので、ここに記録しておくことにしました。 ただ、この職員録に出ている先生の数が少ないので、ほかにここに名前の出ていない先生がおられたのではないか、と思うのですが、よく分かりません。 取り敢えず、職員録に出ている先生のお名前を挙げておきます。 ただし、残念ながら昭和18年の職員録は完本ではないために名簿が出ておらず、また昭和20年の名簿は見当たりません。 (2014年8月27日) |
『臺灣總督府及所屬官署 職員錄』(臺灣總督府編)による
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昭和16年7月1日現在 |
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(注) | 1. |
上記の名簿は、ネット上に掲載されている『臺灣總督府職員錄系統』(中央研究院臺灣史研究所)の『臺灣總督府及所屬官署 職員錄』(臺灣總督府編)によりました。 →『臺灣總督府及所屬官署 職員錄』(臺灣總督府編) |
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2. | 新埔国民学校の先生が、ここに名前の挙がっている先生だけだとは思えないのですが、よく分かりません。お分かりの方がおられましたら、ぜひ教えていただきたいと思います。 | ||||
3. | 学級数が[初等科二学級]というのも、何を意味しているのでしょうか。当時は、人数は少なかったものの、1年から6年までの各学年がありました。学校全体の生徒数が2クラス分であった、ということでしょうか。 |