資料47 芥川龍之介「蜜柑」 

       


          
蜜 柑      芥 川  龍 之 介 

 

  或曇つた冬の日暮である。私(わたくし)は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下して、ぼんやり発車の笛を待つてゐた。とうに電燈のついた客車の中には、珍らしく私の外に一人も乗客はゐなかつた。外を覗くと、うす暗いプラットフォオムにも、今日は珍しく見送りの人影さへ跡を絶つて、唯、檻に入れられた小犬が一匹、時々悲しさうに、吠え立ててゐた。これらはその時の私の心もちと、不思議な位似つかはしい景色だつた。私の頭の中には云ひやうのない疲労と倦怠とが、まるで雪曇りの空のやうなどんよりした影を落してゐた。私は外套のポッケットへぢつと両手をつつこんだ儘、そこにはいつてゐる夕刊を出して見ようと云ふ元気さへ起らなかつた。
 が、やがて発車の笛が鳴つた。私はかすかな心の寛(くつろ)ぎを感じながら、後(うしろ)の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさりを始めるのを待つともなく待ちかまへてゐた。所がそれよりも先にけたたましい日和下駄の音が、改札口の方から聞え出したと思ふと、間もなく車掌の何か云ひ罵る声と共に、私の乗つてゐる二等室の戸ががらりと開いて、十三四の小娘が一人、慌しく中へはいつて来た。と同時に一つづしりと揺れて、徐に汽車は動き出した。一本づつ眼をくぎつて行くプラットフォオムの柱、置き忘れたやうな運水車(うんすゐしや)、それから車内の誰かに祝儀の礼を云つてゐる赤帽──さう云ふすべては、窓へ吹きつける煤煙の中に、未練がましく後(うしろ)へ倒れて行つた。私は漸くほつとした心もちになつて、巻煙草に火をつけながら、始めて懶(ものう)い睚
(まぶた)をあげて、前の席に腰を下してゐた小娘の顔を一瞥した。
 それは油気のない髪をひつつめの銀杏返しに結つて、横(よこ)なでの痕のある皹(ひゞ)だらけの両頰を気持の悪い程赤く火照(ほて)らせた、如何にも田舎者らしい娘だつた。しかも垢じみた萌黄色(もえぎいろ)の毛糸の襟巻がだらりと垂れ下つた膝(ひざ)の上には、大きな風呂敷包みがあつた。その又包みを抱いた霜焼けの手の中には、三等の赤切符が大事さうにしつかり握られてゐた。私はこの小娘の下品な顔だちを好まなかつた。それから彼女の服装が不潔なのもやはり不快だつた。最後にその二等と三等との区別さへも弁(わきま)へない愚鈍な心が腹立たしかつた。だから巻煙草に火をつけた私は、一つにはこの小娘の存在を忘れたいと云ふ心もちもあつて、今度はポッケットの夕刊を漫然と膝の上へひろげて見た。すると其時夕刊の紙面に落ちてゐた外光(ぐわいくわう)が、突然電燈の光に変つて、刷の悪い何欄かの活字が意外な位鮮に私の目の前へ浮んで来た。云ふまでもなく汽車は今、横須賀線に多い隧道(トンネル)の最初のそれへはいつたのである。
 しかしその電燈の光に照らされた夕刊の紙面を見渡しても、やはり私の憂欝を慰むべく、世間は余りに平凡な出来事ばかりで持ち切つてゐた。講和問題、新婦新郎、瀆職事件、死亡広告──私は隧道へはいつた一瞬間、汽車の走つてゐる方向が逆(ぎやく)になつたやうな錯覚を感じながら、それらの索漠(さくばく)とした記事から記事へ殆機械的に眼を通(とほ)した。が、その間も勿論あの小娘が、恰も卑俗な現実を人間にしたやうな面持(おもも)ちで、私の前に坐つてゐる事を絶えず意識せずにはゐられなかつた。この隧道の中の汽車と、この田舎者の小娘と、さうして又この平凡な記事に埋つてゐる夕刊と、──これが象徴でなくて何であらう。不可解な、下等な、退屈な人生の象徴でなくて何であらう。私は一切がくだらなくなつて、読みかけた夕刊を抛(ほふ)り出すと、又窓枠に頭を靠(もた)せながら、死んだやうに眼をつぶつて、うつらうつらし始めた。
 それから幾分か過ぎた後であつた。ふと何かに脅されたやうな心もちがして、思はずあたりを見まはすと、何時の間にか例の小娘が、向(むか)う側(がは)から席を私の隣へ移して、頻に窓を開けようとしてゐる。が、重い硝子戸は中々思ふやうにあがらないらしい。あの皹(ひゞ)だらけの頰は愈赤くなつて、時々鼻洟(はな)をすすりこむ音が、小さな息の切れる声と一しよに、せはしなく耳へはいつて来る。これは勿論私にも、幾分ながら同情を惹くに足るものには相違なかつた。しかし汽車が今将(まさ)に隧道(トンネル)の口へさしかゝらうとしてゐる事は、暮色(ぼしよく)の中(なか)に枯草(かれくさ)ばかり明い両側の山腹が、間近く窓側(まどがは)に迫つて来たのでも、すぐに合点(がてん)の行く事であつた。にも関らずこの小娘は、わざわざしめてある窓の戸を下さうとする、──その理由が私には呑みこめなかつた。いや、それが私には、単にこの小娘の気まぐれだとしか考へられなかつた。だから私は腹の底に依然(いぜん)として険しい感情を蓄(たくは)へながら、あの霜焼けの手が硝子戸を擡げようとして悪戦苦闘する容子を、まるでそれが永久に成功しない事でも祈るやうな冷酷な眼で眺めてゐた。すると間もなく凄(すさま)じい音をはためかせて、汽車が隧道(トンネル)へなだれこむと同時に、小娘の開(あ)けようとした硝子戸は、とうとうばたりと下へ落ちた。さうしてその四角な穴の中から、煤(すゝ)を溶(とか)したやうなどす黒い空気が、俄に息苦(いきぐる)しい煙になつて、濛々と車内へ漲り出した。元来咽喉を害してゐた私は、手巾(ハンケチ)を顔に当てる暇さへなく、この煙を満面に浴びせられたおかげで、殆息もつけない程咳(せ)きこまなければならなかつた。が、小娘は私に頓着する気色(けしき)も見えず、窓から外へ首をのばして、闇を吹く風に銀杏返しの鬢(びん)の毛を戦(そよ)がせながら、ぢつと汽車の進む方向を見やつてゐる。その姿を煤煙と電燈の光との中に眺めた時、もう窓の外が見る見る明くなつて、そこから土の匂や枯草の匂や水の匂が冷(ひやゝ)かに流れこんで来なかつたなら、漸咳きやんだ私は、この見知らない小娘を頭(あたま)ごなしに叱りつけてでも、又元の通り窓の戸をしめさせたのに相違なかつたのである。
 しかし汽車はその時分には、もう安々(やすやす)と隧道(トンネル)を辷りぬけて、枯草の山と山の間に挟まれた、或貧しい町はづれの踏切りに通りかかつてゐた。踏切りの近くには、いづれも見すぼらしい藁屋根や瓦屋根がごみごみと狭苦しく建てこんで、踏切り番が振るのであらう、唯一旒のうす白い旗が懶(ものう)げに暮色(ぼしよく)を揺つてゐた。やつと隧道を出たと思ふ──その時その蕭索(しやうさく)とした踏切りの柵の向うに、私は頰の赤い三人の男の子が、目白押(めじろお)しに並んで立つてゐるのを見た。彼等は皆、この曇天に押しすくめられたかと思ふ程、揃つて背(せい)が低かつた。さうして又この町はづれの陰惨(いんさん)たる風物と同じやうな色の着物を着てゐた。それが汽車の通るのを仰ぎ見ながら、一斉(せい)に手を挙げるが早いか、いたいけな喉(のど)を高く反(そ)らせて、何とも意味の分らない喊声(かんせい)を一生懸命に迸らせた。するとその瞬間である。窓から半身(はんしん)を乗り出してゐた例の娘が、あの霜焼けの手をつとのばして、勢よく左右に振つたと思ふと、忽ち心を躍らすばかり暖な日の色に染まつてゐる蜜柑が凡そ五つ六つ、汽車を見送つた子供たちの上へばらばらと空から降つて来た。私は思はず息を呑んだ。さうして刹那に一切を了解した。小娘は、恐らくはこれから奉公先へ赴かうとしてゐる小娘は、その懐(ふところ)に蔵(ざう)してゐた幾顆の蜜柑を窓から投げて、わざわざ踏切りまで見送りに来た弟たちの労に報(むく)いたのである。 
 
暮色を帯びた町はづれの踏切りと、小鳥のやうに声を挙げた三人の子供たちと、さうしてその上に乱落(らんらく)する鮮な蜜柑(みかん)の色と──すべては汽車の窓の外に、瞬く暇もなく通り過ぎた。が、私の心の上には、切(せつ)ない程はつきりと、この光景が焼きつけられた。さうしてそこから、或得体(えたい)の知れない朗(ほがらか)な心もちが湧き上つて来るのを意識した。私は昂然(かうぜん)と頭を挙げて、まるで別人を見るやうにあの小娘を注視した。小娘は何時かもう私の前の席に返つて、相不変皹(ひゞ)だらけの頰を萌黄色(もえぎいろ)の毛糸の襟巻に埋めながら、大きな風呂敷包みを抱(かゝ)へた手に、しつかりと三等切符を握つてゐる。……………………
 私はこの時始めて、云ひやうのない疲労と倦怠とを、さうして又不可解な、下等な、退屈な人生を僅に忘れる事が出来たのである。
                           ──八年四月作──

 

 

 

 


  (注) 1.   本文は、岩波書店の『芥川龍之介全集』第三巻(1977年10月24日第1刷発行・ 1982年7月20日第2刷発行)によりました。    
    2.  漢字は、常用漢字のあるものは常用漢字に改めました。    
    3.  上記全集の後記によれば、「蜜柑」は、大正8年(1919)5月1日発行の雑誌『新潮』第30巻第5号に「私の出遇つた事」の総題で「一、蜜柑」として掲載され(「二」は「沼地」)、のち『影燈籠』『地獄変』『沙羅の花』『芥川龍之介全集』に収められました。
 全集の本文は『影燈籠』を底本として、初出以下と校合した、とあります。(初出を書き改めてある箇所は、次の5か所の由です。「腰を下してゐる小娘」「黒い空気」「或新しい町はづれの踏切り」「薄暮を揺つてゐた。」「(八・四・三)」)
   
    4.  本文中のルビは、括弧 ( )をつけて示しましたが、「安々(やすやす)」のルビの、繰り返し部分の「やす」は、全集では「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号になっています。    
           
           

   


     
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