資料478 流人の話(『翁草』巻117「雑話」より)



        流人の話  (『翁草』巻百十七「雜話」より)

流人を大阪へ渡さるに、髙瀬より船にて、町奉行の同心之を守護して下る事なり、凡流人は前にも記す如く、賊の類は希にして、多くは親妻子もてる平人の辜に遇るなり、罪科决して島へ遣はさるゝ節、牢屋敷に於て、親戚の者を出呼し引合せて、暇乞をさせらるゝ定法なり、故に親戚長別して舊里を出る道途なれば、己がどち、船中にて夜と倶に越方行末の事を悔て愁涙悲嘆して、かきくどくを、守護の同心終夜聞につけ、哀傷起り、心を痛ましむる事なるに、或時一人の流人、公命を承ると否、世に嬉しげに、船へ乘てもいさゝか愁へる色不見、守護の同心是を見て、卑賤の者ながらよく覺悟せりと感心して、船中にて彼者に對して稱嘆するに、彼云く常に僅の營に、渇々粥を啜りて、露命をつなぎしに、此御吟味に逢候てより、久々在牢の内、結構なる御養ひを戴き、いたづらに遊び暮し冥加なき上に、剩此度鳥目二百文を下され  流人に鳥目二百銅づゝ賜事古來より定例なり て、島へ遣はさる事、如何なる果報にて如此なりや、是迄二百文の錢をかため持たる事、生涯に覺え申さず、加程過分の元手有之候へば、たとへ鬼有る島なりとも、一つ身の凌ぎはいか樣にも出來可申候、素より妻子親類とてもなく、苦しき世をわたり兼候へば、都に名殘は更になく候とて、悦ぶ事限りなし、此者西陣髙機の空引に傭れありきし者なるが、其罪蹟は、兄弟の者、同く其日を過し兼ね、貧困に迫りて自害をしかゝり、死兼居けるを、此者見付て、迚も助かるまじき體なれば、苦痛をさせんよりはと、手傳ひて殺しぬる其科に仍り、島へ遣はさるゝなりけらし、其所行もとも惡心なく、下愚の者の辨へなき仕業なる事、吟味の上にて、明白なりしまゝ死罪一等を宥められし物なりとぞ、彼守護の同心の物語なり、
  
 * 「流人に鳥目二百銅づゝ賜事古來より定例なり」の部分は、小さく2行に書かれている割注の部分です。


  (注) 1.  上記の「流人の話(『翁草』巻117「雑話」より)」の本文は、国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』所収の『校訂 翁草 第十二』によりました。 この『校訂 翁草 第十二』は、神澤貞幹・編、五車樓書店・明治38,39年発行のものです。「流人の話」は、『翁草』巻百十七の「雜話」に入っています。発行年は、『校訂 翁草』首巻の奥付に明治39年5月27日発行、『校訂 翁草』巻二十の奥付に明治38年12月31日発行とあります。他の巻には奥付がついていないようです。
 『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『校訂 翁草 第十二』「流人の話」は、画像で見ることができます。
  『国立国会図書館デジタルコレクション』
   → 『校訂 翁草 第十二』32-33/89)         
   
       〇翁草(おきなぐさ)=随筆。神沢杜口 かんざわとこう(1710-1795)著。初めの100巻は1772年(安永一)成立、後に100巻を追加。1905年(明治38)刊。鎌倉~江戸時代の伝説・奇事・異聞を諸書から抜書きし、著者の見聞を記録。(『広辞苑』第7版による。)    
    2.  この「流人の話」は、森鷗外がこれを元に「高瀬舟」を書いたことで知られています。鷗外に自作解説「高瀬舟縁起」があります。    
    3.   「高瀬舟」「高瀬舟縁起」は、青空文庫で読むことができます。
 『青空文庫』
   →「高瀬舟」(旧字・旧仮名) 
   →「高瀬舟」(新字・新仮名)
   →「高瀬舟縁起」(旧字・旧仮名)
   →「高瀬舟縁起」(新字・新仮名)      
   
    4.  本文中に、「いたづらに遊び暮し冥加なき上に」とありますが、この「冥加なし(冥加なき)」は、「なし」が意味を失い、「冥加なり」を強めた言い方に転じて、「冥加に余る」「ありがたい」の意味、と辞書にあります(『広辞苑』第6版)。          
    5.   〇高瀬舟(たかせぶね)=森鷗外の短編小説。1916年(大正5年)「中央公論」に発表。弟殺しの罪で遠島に処せられ、高瀬舟を舟で下る喜助の心情を叙して、知足の境地や安楽死の問題などに触れた作品。
 〇高瀬舟(たかせぶね)=古代から近世まで広く各地の河川で用いられた、舳(へさき)が高く上がり底が平らな小型の箱型運送船。近世、利根川水系で用いられた高瀬舟のみは大形で別格。(以上、『広辞苑』第6版による。)
   
    6.   『千葉大学人文研究』第35号(2006年3月発行)に、滝藤満義教授の「「高瀬舟」―語り手のスタンス」という論文が掲載されています。
 → 滝藤満義「「高瀬舟」─語り手のスタンス」(pdf ファイルです。)      
   
    7.   『北海道教育大学学術リポジトリ』に、西原千博教授の「『高瀬舟』試解─相対的、あるいは相対化─」(『札幌国語研究』第17号:北海道教育大学国語国文学会、2012年発行 所収)という論文が掲載されています。
 → 西原千博「『高瀬舟』試解─相対的、あるいは相対化─」
   
    8.  『共立女子短期大学看護学科紀要』第6号(2011年)に、齋藤美喜・齋藤勝氏の「「高瀬舟」の現代的解釈(1)─文学・法学・看護の視点から安楽死の検討─」という論文が掲載されています。
 齋藤美喜・齋藤勝「「高瀬舟」の現代的解釈(1)─文学・法学・看護の視点から安楽死の検討─」を検索して、pdfファイルをダウンロードしてから見ます。
   
    9.   日本ペンクラブの『電子文藝館』に、磯貝勝太郎氏の「歴史小説の種本(たねほん)」が出ています。
 『日本ペンクラブ』『電子文藝館』「歴史小説の種本(たねほん)                            
   
    10.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「森鷗外」「高瀬舟」の項があります。
 フリー百科事典『ウィキペディア』
    →「森鴎外」
    →「高瀬舟」(小説)
   
    11.   次に、上の本文を自分なりに読みやすく書き直してみます(句点を用い、読点を適当に補ったりしていますお気づきの点を教えていただければ幸いです。〕

  流人の話(『翁草』巻百十七「雜話」より)
流人(るにん)を大阪へ渡さるに、高瀬より船にて、町奉行(まちぶぎやう)の同心これを守護して下(くだ)る事なり。凡(およ)そ流人は前にも記す如く、賊の類(たぐひ)は希(まれ)にして、多くは親妻子もてる平人(へいにん)の辜(つみ)に遇へるなり。罪科(ざいくわ)決して島へ遣はさるる節、牢屋敷に於(おい)て、親戚の者を出呼(すいこ)し引き合せて、暇乞(いとまご)ひをさせらるる定法(ぢやうはふ)なり。故に親戚長別して舊里(ふるさと)を出づる道途(かどで)なれば、己(おの)がどち、船中にて夜と倶(とも)に越方行末(こしかたゆくすゑ)の事を悔いて愁涙(しうるい)悲嘆して、かきくどくを、守護の同心終夜聞くにつけ、哀傷(あいしやう)起こり、心を痛ましむる事なるに、或る時一人の流人、公命を承ると、否(いな)、世に嬉しげに、船へ乘りてもいささか愁へる色見えず。守護の同心是(これ)を見て、卑賤の者ながらよく覺悟せりと感心して、船中にて彼(か)の者に對して稱嘆(しようたん)するに、彼云はく、「常に僅(わづ)かの營みに、渇々(かつがつ)(かゆ)を啜(すす)りて、露命をつなぎしに、此の御吟味(ごぎんみ)に逢ひ候うてより、久々(ひさびさ)在牢の内、結構なる御養ひを戴(いただ)き、いたづらに遊び暮し冥加(みやうが)なき上に、剩(あまつさ)へ此の度(たび)鳥目(てうもく)二百文を下され 流人に鳥目二百銅づゝ賜はる事、古來より定例(じやうれい)なり て、島へ遣はさる事、如何(いか)なる果報にて此(か)くの如くなりや。是(こ)れ迄二百文の錢をかため持たる事、生涯に覺え申さず。加程(かほど)過分の元手(もとで)(こ)れ有り候へば、たとへ鬼有る島なりとも、一つ身の凌ぎはいか樣(やう)にも出來申すべく候ふ。素(もと)より妻子親類とてもなく、苦しき世をわたり兼ね候へば、都に名殘は更になく候ふ」とて、悦ぶ事限りなし、此の者、西陣髙機(たかはた)の空引(そらびき)に傭(やと)はれありきし者なるが、其の罪蹟(ざいせき)は、兄弟の者、同じく其の日を過ごし兼ね、貧困に迫りて自害をしかかり、死に兼ね居(ゐ)けるを、此の者見付けて、迚(とて)も助かるまじき體(てい)なれば、苦痛をさせんよりはと、手傳ひて殺しぬる其の科(とが)に仍(よ)り、島へ遣はさるるなりけらし。其の所行(しよぎやう)もとも惡心なく、下愚(かぐ)の者の辨(わきま)へなき仕業(しわざ)なる事、吟味の上にて、明白なりしまま死罪一等を宥(なだ)められしものなりとぞ。彼(か)の守護の同心の物語なり。

 * 疑問点
 (1)「公命を承ると、否(いな)、」と、「承ると」の次に読点を付けましたが、これでよろしいか。
 (2)「此の御吟味(ごぎんみ)に逢ひ候うてより、」の「候うてより」は、「候ひてより」としたほうがよろしいか。
 (3)「其の所行(しよぎやう)もとも惡心なく、」の「もとも」は、「もともと」とあるべきところなのか、「最も」の意なのか。                                  
               (2014年2月27日)
   





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