資料477 官軍の江戸攻撃中止を求めた徳川慶喜の奏聞状(直筆文による)

 

         

  

 官軍の江戸攻撃中止を求めた徳川慶喜の奏聞状 (直筆文による)             

此度
御征討使御差向可被為 在哉
趣遥奉承知誠以驚入奉
恐入候次第御座候右者
慶喜一身不束より候儀
天怒
觸候段一言申上樣無御座次第ニ付此上何樣
御沙汰御座候共聊無遺憾奉畏候所存
而東叡山謹慎罷在
其段下々迠
エも厚申諭仮令
官軍御差向御座候共不敬
儀等毫末不為仕心得御座候得
敝邑
儀者四方士民輻輳土地ニも御座候得多人數中ニ者萬一心得
者無之共難申右邊より恭順取失ひ不慮儀等有之候節猶更
奉恐入候而已
なら須億萬生靈塗炭苦を蒙候樣ニ而者實以不忍次第
付何卒
官軍御差向
暫時
御猶豫被成下
慶喜一身を被罸無罪生民塗炭候樣仕度慶喜
今日
懇願此事御座候右趣厚
御諒察被成下前文
次第
御聞届被為 在候樣涕泣奉歎願候此段御
奏聞被成下候樣奉頼候以上

 二月
                     
徳 川 慶 喜
                                              (花押)


 

 

 
  (注) 1.  上記の「官軍の江戸攻撃中止を求めた徳川慶喜の奏聞状」の本文は、平成26年2月3日付け茨城新聞に掲載された徳川慶喜自筆の哀訴状の写真によりました。改行は、写真の通りにしてあります。新聞には、「徳川慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状」としてあります。
 なお、小文字にしてある助詞の類は、小さく書いてあるのかどうかがはっきりしないものがあり、必ずしも厳密なものではありません。
 「其段下々迠エも」の「エ」の仮名は、新聞の写真でははっきりしないのですが、「エ」のように見えるので、取り敢えず、「エ」としておきました。     
 
    2.  この慶喜の奏聞状(哀訴状)について、渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』巻七には、「七九二 明治元年二月十二日松平慶永への書翰」として、「○戊辰日記二月十八日の條に、「去ル十二日江城二ノ丸へ、御留守居御呼出ニ而、御目付妻木多宮殿より御渡ニ相成御直書」として之を收む。」という前書きが付いて出ています。
 次に、『徳川慶喜公伝』巻七の本文を掲げておきます。

  七九二  明治元年二月十二日松平慶永への書翰
  〇戊辰日記二月十八日の條に、「去ル十二日江城二ノ丸へ、御留守居御呼出
   ニ而、御目付妻木多宮殿より御渡ニ相成御直書」として之を收む。
此度御追討使御差向可被爲在哉之趣遙ニ奉承知誠ニ以驚入奉恐入候次第
御座候右者全臣慶喜一身之不束より生し候儀ニ而天怒ニ觸候段一言之申
上樣モ無御座次第ニ付此上何樣之御沙汰御座候共聊無遺憾奉畏候所存ニ
而東叡山ニ謹慎罷在其段下々江も厚申諭し假令官軍御差向御座候共不敬
之儀等毫末も不為仕心得ニ御座候得共敝國之儀者四方之士民輻輳之土地
ニも御座候得者多人數中ニハ萬一心得違之者無之とも難申右邊より恭順
之意を取失ひ不慮之儀等有之候節者猶更奉恐入候而已ならす億萬之生靈
塗炭之苦を蒙候樣ニ而者實以不忍次第ニ付何卒官軍御差向之儀ハ暫時御
猶豫被成下臣慶喜之一身を被罰無罪之生民塗炭を免れ候樣仕度臣慶喜今
日之懇願此事ニ御座候右之趣厚御諒察被成下前文之次第御聞屆被爲在候
樣涕泣奉歎願候此段御奏聞被成下候樣奉賴候以上
  二月                慶  喜
                    
(越 前 松 平 家 文 書)

 
上記の本文は
『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『徳川慶喜公伝』巻七(渋沢栄一著、大正8年(1918年)4月1日・龍門社発行)によりました。
 
『国立国会図書館デジタルコレクション』
   → 
『徳川慶喜公伝』巻七  193/299
 
    3.  この慶喜の奏聞状(哀訴状)について、茨城新聞の記事に、「1877(明治10)年の西南戦争で明治政府のナンバー2の右大臣だった岩倉具視が使った暗号表や、最後の徳川将軍・慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状など重要文化財級を含む数万点の史料が、江戸―明治の本草漢学塾「山本読書室」跡(京都市下京区)の土蔵に秘蔵されていたことが2日、分かった。松田清京都外大教授(日本洋学史)が約2年半調査し、目録を刊行した。(中略)慶喜の哀訴状は、時代が江戸から明治へとなった1868年、江戸攻撃が8日後に迫った3月7日に官軍に届けられた。「慶喜一身」を罰し「無罪之生民」に苦しみを与えないよう、攻撃中止を求めた内容。当時、回覧のため筆写されたので、内容は知られていたが、直筆は初めて」とあります。
 なお、この史料発見のことは、同日午後7時のNHK総合テレビのニュースでも報じられました。      
 
    4.  徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)=徳川第15代将軍(在職1866-1867)。徳川斉昭の7男。初め一橋家を嗣ぎ、後見職として将軍家茂を輔佐、1866年(慶応2)将軍職を継いだが幕末の内憂外患に直面して、翌年遂に大政を奉還。68年鳥羽伏見の戦で敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き、駿府に隠棲。のち公爵。(1837-1913)(『広辞苑』第6版による)  
    5.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「徳川慶喜」の項があります。
  フリー百科事典『ウィキペディア』 
      → 
「徳川慶喜」
       
 
    6.  上記の奏聞状(哀訴状)を、次に普通の表記に直しておきます。(読み方について、お気づきの点を教えていただければ幸いです。)

此の度(たび)、御征討使御差し向け在らせらるべくやの趣、遥かに承知奉り、誠に以て驚き入り恐れ入り奉り候ふ次第に御座候ふ。右は慶喜一身の不束(ふつつか)より生じ候ふ儀にて、天怒(てんど)に觸れ候ふ段、一言(いちごん)の申し上げやうも御座無き次第に付き、此の上何樣(いかやう)の御沙汰御座候ふとも、聊(いささか)遺憾無く畏(かしこま)り奉り候ふ所存にて、東叡山に謹慎罷(まか)り在り、其の段下々迠えも厚く申し諭(さと)し、仮令(たと)ひ官軍御差し向け御座候ふとも、不敬の儀等毫末も仕(つかまつ)らせざる心得に御座候得ども、敝邑(へいいふ)の儀は四方の士民輻輳の土地にも御座候へば、多人數中には萬一心得違ひの者之(こ)れ無しとも申し難く、右邊より恭順の意を取り失ひ不慮の儀等之(こ)れ有り候ふ節は、猶ほ更恐れ入り奉り候ふのみならず、億萬の生靈塗炭の苦を蒙り候ふやうにては、實(まこと)に以て忍びざる次第に付き、何卒(なにとぞ)、官軍御差し向けの儀は暫時(ざんじ)御猶豫成し下され、慶喜一身を罸せられ、無罪の生民塗炭を免れ候ふやう仕(つかまつ)り度(た)く、慶喜今日(こんにち)の懇願此の事に御座候ふ。右の趣厚く御諒察成し下され、前文の次第御聞き届け在らせられ候ふやう涕泣歎願奉り候ふ。此の段、御奏聞成し下され候ふやう、頼み奉り候ふ。以上

 二月
                        
徳 川 慶 喜
                                                (花押)


 
         

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