資料477 官軍の江戸攻撃中止を求めた徳川慶喜の奏聞状(直筆文による)
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(注) | 1. | 上記の「官軍の江戸攻撃中止を求めた徳川慶喜の奏聞状」の本文は、平成26年2月3日付け茨城新聞に掲載された徳川慶喜自筆の哀訴状の写真によりました。改行は、写真の通りにしてあります。新聞には、「徳川慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状」としてあります。 なお、小文字にしてある助詞の類は、小さく書いてあるのかどうかがはっきりしないものがあり、必ずしも厳密なものではありません。 「其段下々迠エも」の「エ」の仮名は、新聞の写真でははっきりしないのですが、「エ」のように見えるので、取り敢えず、「エ」としておきました。 |
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2. | この慶喜の奏聞状(哀訴状)について、渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』巻七には、「七九二 明治元年二月十二日松平慶永への書翰」として、「○戊辰日記二月十八日の條に、「去ル十二日江城二ノ丸へ、御留守居御呼出ニ而、御目付妻木多宮殿より御渡ニ相成御直書」として之を收む。」という前書きが付いて出ています。 次に、『徳川慶喜公伝』巻七の本文を掲げておきます。 七九二 明治元年二月十二日松平慶永への書翰 〇戊辰日記二月十八日の條に、「去ル十二日江城二ノ丸へ、御留守居御呼出 ニ而、御目付妻木多宮殿より御渡ニ相成御直書」として之を收む。 此度御追討使御差向可被爲在哉之趣遙ニ奉承知誠ニ以驚入奉恐入候次第 御座候右者全臣慶喜一身之不束より生し候儀ニ而天怒ニ觸候段一言之申 上樣モ無御座次第ニ付此上何樣之御沙汰御座候共聊無遺憾奉畏候所存ニ 而東叡山ニ謹慎罷在其段下々江も厚申諭し假令官軍御差向御座候共不敬 之儀等毫末も不為仕心得ニ御座候得共敝國之儀者四方之士民輻輳之土地 ニも御座候得者多人數中ニハ萬一心得違之者無之とも難申右邊より恭順 之意を取失ひ不慮之儀等有之候節者猶更奉恐入候而已ならす億萬之生靈 塗炭之苦を蒙候樣ニ而者實以不忍次第ニ付何卒官軍御差向之儀ハ暫時御 猶豫被成下臣慶喜之一身を被罰無罪之生民塗炭を免れ候樣仕度臣慶喜今 日之懇願此事ニ御座候右之趣厚御諒察被成下前文之次第御聞屆被爲在候 樣涕泣奉歎願候此段御奏聞被成下候樣奉賴候以上 二月 慶 喜 (越 前 松 平 家 文 書) 上記の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『徳川慶喜公伝』巻七(渋沢栄一著、大正8年(1918年)4月1日・龍門社発行)によりました。 『国立国会図書館デジタルコレクション』 → 『徳川慶喜公伝』巻七 193/299 |
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3. | この慶喜の奏聞状(哀訴状)について、茨城新聞の記事に、「1877(明治10)年の西南戦争で明治政府のナンバー2の右大臣だった岩倉具視が使った暗号表や、最後の徳川将軍・慶喜が官軍に江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状など重要文化財級を含む数万点の史料が、江戸―明治の本草漢学塾「山本読書室」跡(京都市下京区)の土蔵に秘蔵されていたことが2日、分かった。松田清京都外大教授(日本洋学史)が約2年半調査し、目録を刊行した。(中略)慶喜の哀訴状は、時代が江戸から明治へとなった1868年、江戸攻撃が8日後に迫った3月7日に官軍に届けられた。「慶喜一身」を罰し「無罪之生民」に苦しみを与えないよう、攻撃中止を求めた内容。当時、回覧のため筆写されたので、内容は知られていたが、直筆は初めて」とあります。 なお、この史料発見のことは、同日午後7時のNHK総合テレビのニュースでも報じられました。 |
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4. | 徳川慶喜(とくがわ・よしのぶ)=徳川第15代将軍(在職1866-1867)。徳川斉昭の7男。初め一橋家を嗣ぎ、後見職として将軍家茂を輔佐、1866年(慶応2)将軍職を継いだが幕末の内憂外患に直面して、翌年遂に大政を奉還。68年鳥羽伏見の戦で敗れ、江戸城を明け渡して水戸に退き、駿府に隠棲。のち公爵。(1837-1913)(『広辞苑』第6版による) | ||||
5. | フリー百科事典『ウィキペディア』に、「徳川慶喜」の項があります。 フリー百科事典『ウィキペディア』 → 「徳川慶喜」 |
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6. | 上記の奏聞状(哀訴状)を、次に普通の表記に直しておきます。(読み方について、お気づきの点を教えていただければ幸いです。)
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