資料475 汶村「藪医者ノ解」(『風俗文選』所収)



            
    藪醫者ノ解          汶 村

世に藪(やぶ)醫者と號するは。本(もと)名醫の稱にして。今いふ下手(へた)の上にはあらず。いづれの御ン時にか。何がしかの良醫。但(たん)州養父(やぶ)といふ所に隱れて。治療をほどこし。死を起(おこ)し生に回(かへ)すものすくなからず。されば其風をしたひ。其業を習ふ輩。津々浦々にはびこり。やぶとだにいへば。病家も信をまし。藥力も飛がごとし。それより物替(かはり)(ほし)移つて。今は長助も長庵となり。勘太夫は勘益となる。當時の藪達を見るに。先(まづ)門口に底拔(そこぬけ)の駕(かご)乘物をつるし。竹格子(がうし)に賣藥の看板をかけて。文字の紺靑も。半(なかば)は兀(はげ)たり。たまさかの藥取を賴みて。藥店(やくてん)にはしらせ。物申(ものまう)は暖簾(のれん)の内に答ヘて。女房の顔をつゝむ。町役には牢舎(ろうしや)を療じ。藥代にめでゝは。河原者にのます。牛膝(ごしつ)には牛の膝(ひざ)を尋ね。鶴虱(くわくしつ)は鶴(つる)のしらみをさがす。藥のみも次第にかれて。胃の氣よわり。元氣衰(おとろ)へて。果は何がし村の道場の明(あき)をまつ。我カ俳諧の道をもてこれを押(おせ)ば。師説もいまだとほからざるに。其手筋を失ひながら。宗匠めくをみるに。今はやらるゝ紗綾(さや)ちりめんの。乘物の中もおぼつかなく。緋衣木蘭色(ひえもくらんしき)のさとりの拂子(ほつす)も。心許(もと)なけれど佛法には藥毒の氣遣(きづかひ)なければ。其分なるべし。たゞ藪醫者のやぶはらに。又出(で)る竹の子も。藪とならむこそうるさけれ。


  (注) 1.  上記の「汶村「藪医者ノ解」(『風俗文選』所収)」は、岩波文庫『風俗文選』(伊藤松宇・ 校訂、昭和3年10月15日発行)によりました。「藪医者ノ解」は、「巻之四 解類」にあります(83頁)。
 なお、『小さな資料室』の目次の「汶村」の「汶」の漢字は、島根県立大学の “e漢字” を利用させていただきました。(どういうわけか、目次では、IMEパッドの「汶」の漢字が「?」になってしまうのです。)           
   
    2.  底本については、岩波文庫『風俗文選』の巻頭の「例言」に、「今本書を校訂するに方り流布本を底本とし、流布本に無きものは本朝文選本及異本本朝文選本に依り之を補ひ其異同を掲ぐることゝした」とあります。
 また、仮名遣いについては、「仮名遣は万葉仮名を平仮名に改めたる外、すべて原書の通りに校訂した」とあります。
   
    3.  巻頭の「作者列伝」に、「汶村者、江州龜城之武士也ナリ。松井氏。字師薑。號ス2九華亭ト1。蕉門之達士也ナリ。甞ス2書畫ヲ1。繪トス2五老井ヲ1」とあります。    
    4.  本文中の「津々浦々」の「々」は、文庫では、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号が使われています。    
    5.   〇風俗文選(ふうぞくもんぜん)=俳文集。森川許六編。10巻9冊。「本朝文選」と題して1706年(宝永3)刊、翌年「風俗文選」と改題。芭蕉以下蕉門俳人の俳文を集め、作者列伝を添える。                            
 〇森川許六(もりかわ・きょりく)=江戸中期の俳人。蕉門十哲の一人。彦根藩士。名は百仲。別号、五老井・菊阿仏など。画技にもすぐれた。編著「韻塞(いんふたぎ)」「篇突(へんつぎ)」「本朝文選」など。(1656~1715)(以上、『広辞苑』第6版による)
   
    6.   次に、普通の表記に改めた本文を示しておきます。

    藪醫者の解                汶 村 
 世に藪醫者(やぶいしや)と號するは、もと名醫の稱にして、今いふ下手(へた)の上にはあらず。いづれの御時(おほんとき)にか、何がしかの良醫、但州(たんしう)養父(やぶ)といふ所に隱れて治療をほどこし、死を起(おこ)し生に回(かへ)すものすくなからず。されば其の風をしたひ、其の業を習ふ輩、津々浦々にはびこり、やぶとだにいへば、病家も信をまし、藥力も飛がごとし。それより物替(かは)り星移つて、今は長助も長庵となり、勘太夫は勘益となる。當時の藪達を見るに、先(ま)づ門口に底拔(そこぬ)けの駕(かご)乘物をつるし、竹格子(がうし)に賣藥の看板をかけて、文字の紺靑(こんじやう)も、半ばは兀(は)げたり。たまさかの藥取りを賴みて藥店(やくてん)にはしらせ、物申(ものまう)は暖簾(のれん)の内に答ヘて、女房の顔をつゝむ。町役には牢舎(ろうしや)を療じ、藥代にめでゝは、河原者にのます。牛膝(ごしつ)には牛の膝(ひざ)を尋ね、鶴虱(くわくしつ)は鶴のしらみをさがす。藥のみも次第にかれて、胃の氣よわり、元氣衰へて、果ては何がし村の道場の明(あ)きをまつ。我が俳諧の道をもてこれを押せば、師説もいまだとほからざるに、其の手筋を失ひながら、宗匠めくをみるに、今はやらるゝ紗綾(さや)ちりめんの、乘物の中もおぼつかなく、緋衣木蘭色(ひえもくらんじき)のさとりの拂子(ほつす)も心許(こころもと)なけれど、佛法には藥毒の氣遣ひなければ、其の分なるべし。たゞ藪醫者のやぶはらに又出(で)る竹の子も、藪とならむこそうるさけれ。
   
    7.  中公新書ラクレの1冊に、『ぷらり日本全国「語源遺産」の旅』(わぐりたかし著、中央公論新社・2013年3月10日初版発行)があって、参考になります。
 → 『ぷらり日本全国「語源遺産」の旅』

 
2013年12月27日(金)のNHKのラジオ第一放送「すっぴんインタビュー」で、著者の放送作家・語源ハンターのわぐりたかしさんがゲスト出演されて、この本についてお話しになっていました。その中でこの「藪医者解」にも触れられていたので、ここに資料の一つとして入れることにしたのでした。
   
    8.  『語源由来辞典』に、「やぶ医者」の項がありますが、上の説は出ていません。
『語源由来辞典』
   → 
「やぶ医者」
   
    9.  フリー百科事典『ウィキペディア』にも、「藪医者」の項がありますが、上の説について次のように出ています。

 松尾芭蕉の弟子だった森川許六が編んだ『風俗文選』では、本来は但馬国の養父(やぶ、現在兵庫県養父市)に住んでいた「名医」を指す言葉であったが、どんな病人でも治療し、薬の効果も大きかったため評判は広く伝わり、多くの医者の卵が弟子となり、次第に「自分は養父医者の弟子だ」などと、騙る医者が相次いだため信用が失墜し逆の意味になった、とする説を紹介している。ただし、この説は学問的には支持されていない。


 
フリー百科事典『ウィキペディア』
      → 
「藪医者」
   
    10.  養父市のホームページに、「「藪医者」の語源は、養父の名医⁈」という記事があり、大変参考になります。(このことは、「ながさわさん」の『四次元ことばブログ』に教えていただきました。)

 養父市 

  →「やぶ医者」の語源は、養父の名医
   







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