資料461  福沢諭吉「痩我慢の説」 


         幕臣であった勝海舟と榎本武揚の幕末・維新期における出所進退について、福沢諭吉
         が疑問を投げかけた文章があります。ここに、福沢の意見と、それに対する勝と榎本の
         二人の答書を掲載します。




         瘠 我 慢 の 説
                                                      
福 沢 諭 吉    

             

立國(りつこく)は私なり公に非ざるなり地球面(ちきうめん)の人類その數億(おく)のみならず山海天然(さんかいてんねん)の境界に隔(へだ)てられて各處に群(ぐん)を成し各處(かくしよ)に相分るゝは止むを得ずと雖も各處におのおの衣食(いしよく)の富源(ふげん)あれば之に依て生活(せいくわつ)を遂(と)ぐ可し又或は各地の固有(こいう)に有餘(いうよ)不足(ふそく)あらんには互に之を交易(かうえき)するも可なり即ち天與の恩惠(おんけい)にして耕(たがや)して食ひ製造(せいざう)して用ひ交易して便利(べんり)を達(たつ)す、人生の所望(しよまう)この外にある可らず何ぞ必ずしも區々(くゝ)たる人爲(じんゐ)の國を分て人爲の境界(きやうかい)を定むることを須(もち)ひんや况んや其國を分て隣國(りんこく)と境界を爭(あらそ)ふに於てをや况んや隣(となり)の不幸を顧(かへり)みずして自から利せんとするに於てをや况んや其國に一個の首領(しゆりやう)を立て之を君として仰(あほ)ぎ之を主として事(つか)へ其君主の爲めに衆人(しゆうじん)の生命財産(せいめいざいさん)を空うするが如きに於てをや况んや一國中(こくちう)に尚ほ幾多の小區域(せうくゐき)を分ち毎區の人民おのおの一個の長者を戴(いたゞい)て之に服從(ふくじう)するのみか常に隣區(りんく)と競爭(きやうさう)して利害を殊(こと)にするに於てをや都(すべ)て是れ人間の私情(しゞやう)に生じたることにして天然(てんねん)の公道(こうだう)に非ずと雖も開闢以來(かいびやくいらい)今日に至るまで世界中の事相(じさう)を觀るに各種(かくしゆ)の人民相分(あひわか)れて一群を成し其一群中に言語文字(げんごもんじ)を共にし、歷史口碑(れきしこうひ)を共にし婚姻(こんいん)相通じ、交際(かうさい)相親しみ、飲食衣服(いんしよくいふく)の物都て其趣(おもむき)を同うして自から苦樂(くらく)を共にする時は復た離散(りさん)すること能はず即ち國を立て又政府(せいふ)を設(まうく)る所以にして既に一國の名(な)を成す時は人民はますます之に固着(こちやく)して自他(じた)の分を明にし他國(たこく)他政府(たせいふ)に對しては恰も痛痒相感(つうやうあひかん)ぜざるが如くなるのみならず陰陽表裏(いんやうへうり)共に自家の利益榮譽(りえきえいよ)を主張して殆んど至らざる所なく其これを主張(しゆちやう)することいよいよ盛(さかん)なる者に附するに忠君愛國(ちうくんあいこく)等の名を以てして國民最上の美德(びとく)と稱するこそ不思議(ふしぎ)なれ故に忠君愛國の文字(もんじ)は哲學流(てつがくりう)に解すれば純乎(じゆんこ)たる人類の私情(しゞやう)なれども今日までの世界(せかい)の事情に於ては之を稱して美德(びとく)と云はざるを得ず即ち哲學(てつがく)の私情は立國(りつこく)の公道(こうだう)にして此公道公德の公認(こうにん)せらるゝは啻(たゞ)に一國に於て然るのみならず其國中に幾多(いくた)の小區域(せうくゐき)ある時は毎區必ず特色(とくしよく)の利害に制(せい)せられ外に對(たい)するの私(わたくし)を以て内の爲めにするの公道と認(みと)めざるはなし例へば西洋各國(せいやうかくこく)相對し日本と支那朝鮮と相接(あひせつ)して互に利害(りがい)を異にするは勿論、日本國中に於て封建(ほうけん)の時代に幕府(ばくふ)を中央に戴て三百藩を分つときは各藩(かくはん)相互に自家(じか)の利害榮辱(りがいえいじよく)を重んじ一毫の微も他に讓(ゆづ)らずして其競爭(きやうさう)の極は他を損(そん)じても自から利(り)せんとしたるが如き事實(じじつ)を見ても之を證(しよう)す可し扨この立國立政府(りつこくりつせいふ)の公道を行はんとするに當り平時(へいじ)に在ては差したる艱難(かんなん)もなしと雖も時勢(じせい)の變遷(へんせん)に從て國の盛衰(せいすゐ)なきを得ず其衰勢に及んでは迚(とて)も自家の地歩(ちほ)を維持するに足らず廢滅(はいめつ)の數(すう)既に明なりと雖も尚ほ萬一の僥倖(げうかう)を期して屈(くつ)することを爲さず實際(じつさい)に力盡(つ)きて然る後に斃(たふ)るゝは是亦人情(にんじやう)の然らしむる所にして其趣を喩(たと)へて云へば父母の大病に回復(くわいふく)の望(のぞみ)なしとは知りながらも實際の臨終(りんじう)に至るまで醫藥(いやく)の手當を怠(おこた)らざるが如し是れも哲學流(てつがくりう)にて云へば等(ひと)しく死する病人(びやうにん)なれば望なき回復を謀(はか)るが爲め徒に病苦(びやうく)を長くするよりもモルヒなど與へて臨終(りんじう)を安樂(あんらく)にするこそ智(ち)なるが如くなれども子と爲りて考ふれば億萬中(おくまんちう)の一を僥倖(げうかう)しても故(ことさ)らに父母の死を促(うな)がすが如きは情に於て忍(しの)びざる所なり左れば自國(じこく)の衰頽(すゐたい)に際し敵(てき)に對して固より勝算(しようさん)なき塲合にても千辛万苦(せんしんばんく)力のあらん限りを盡(つく)しいよいよ勝敗(しようはい)の極に至りて始めて和(わ)を講(かう)ずるか若しくは死(し)を决(けつ)するは立國の公道(こうだう)にして國民が國に報(はう)ずるの義務(ぎむ)と稱す可きものなり即ち俗(ぞく)に云ふ瘠我慢(やせがまん)なれども強弱(きやうじやく)相對して苟も弱者の地位(ちゐ)を保つものは單(たん)に此瘠我慢に依らざるはなし啻に戰爭(せんさう)の勝敗のみに限(かぎ)らず平生の國交際(こくかうさい)に於ても瘠我慢(やせがまん)の一義は决して之を忘(わす)る可らず歐洲にて和蘭(オランダ)白耳義(ベルギ)の如き小國が佛獨(ふつどく)の間に介在(かいざい)して小政府を維持(ゐぢ)するよりも大國に合併(がつぺい)するこそ安樂(あんらく)なる可けれども尚ほ其獨立(どくりつ)を張て動(うご)かざるは小國の瘠我慢にして我慢(がまん)能く國の榮譽(えいよ)を保(たも)つものと云ふ可し我封建(ほうけん)の時代百萬石の大藩(たいはん)に隣して一萬石の大名(だいみやう)あるも大名は即ち大名にして毫(がう)も讓る所なかりしも畢竟(ひつきやう)瘠我慢の然(しか)らしむる所にして又事柄(ことがら)は異なれども天下の政權(せいけん)武門(ぶもん)に歸し帝室(ていしつ)は有れども無(な)きが如くなりしこと何百年この時(とき)に當りて臨時(りんじ)の處分(しよぶん)を謀りたらば公武合體(こうぶがつたい)等種々の便利法(べんりはふ)もありしならんと雖も帝室(ていしつ)にして能く其地位(ちゐ)を守り幾艱難(いくかんなん)の其間にも至尊(しそん)犯す可らざるの一義を貫(つらぬ)き例へば彼の有名(いうめい)なる中山大納言が東下(とうか)したるとき將軍家(しやうぐんけ)を目して吾妻(あづま)の代官と放言(はうげん)したりと云ふが如き當時(たうじ)の時勢より見れば瘠我慢に相違(さうゐ)なしと雖も其瘠我慢こそ帝室(ていしつ)の重(おも)きを成したる由縁(ゆえん)なれ又古來士風(しふう)の美(び)を云へば三河武士の右に出る者はある可らず其人々(ひとびと)に就て品評(ひんぴやう)すれば文に武に智(ち)に勇(ゆう)におのおの長ずる所を殊(こと)にすれども戰國割拠(せんごくかつきよ)の時に當りて德川の旗下(きか)に屬(ぞく)し能く自他の分(ぶん)を明にして二念(ねん)あることなく理にも非にも唯德川家の主公(しゆこう)あるを知て他を見ず如何なる非運(ひうん)に際(さい)して辛苦(しんく)を甞るも曾て落膽(らくたん)することなく家の爲め主公の爲めとあれば必敗必死(ひつぱいひつし)を眼前に見て尚ほ勇進(ゆうしん)するの一事は三河武士全體(ぜんたい)の特色(とくしよく)、德川家の家風(かふう)なるが如し是即ち宗祖(そうそ)家康公(いへやすこう)が小身より起りて四方を經營(けいえい)し遂に天下の大權(たいけん)を掌握(しやうあく)したる所以にして其家の開運(かいうん)は瘠我慢の賜(たまもの)なりと云ふ可し左れば瘠我慢の一主義(しゆぎ)は固より人の私情(しゞやう)に出ることにして冷淡(れいたん)なる數理(すうり)より論ずるときは殆んど兒戯(じぎ)に等しと云はるゝも辯解(べんかい)に辭なきが如くなれども世界古今の實際(じつさい)に於て所謂國家(こくか)なるものを目的(もくてき)に定めて之を維持保存(ゐぢほぞん)せんとする者は此主義に由らざるはなし我封建(ほうけん)の時代に諸藩(しよはん)の相互に競爭(きやうさう)して士氣を養(やしな)ふたるも此主義に由り封建(ほうけん)既に廢して一統(とう)の大日本帝國と爲り更に眼界(がんかい)を廣くして文明世界に獨立(どくりつ)の體面(たいめん)を張らんとするも此主義(しゆぎ)に由らざる可らず故に人間社會の事物(じぶつ)今日の風(ふう)にてあらん限りは外面の體裁(ていさい)に文野の變遷(へんせん)こそある可けれ百千年の後(のち)に至るまでも一片の瘠我慢は立國(りつこく)の大本として之を重(おも)んじいよいよますます之を培養(ばいやう)して其原素の發達(はつたつ)を助くること緊要(きんえう)なる可し即ち國家風敎(ふうけう)の貴き所以にして例へば南宋の時に廟議(びやうぎ)主戰と媾和(こうわ)と二派に分れ主戰論者は大抵皆擯(しりぞ)けられて或は身を殺(ころ)したる者ありしに天下後世の評論(ひやうろん)は媾和者の不義を惡(にく)んで主戰者の孤忠(こちう)を憐まざる者なし事の實際を云へば弱宋(じやくそう)の大事既に去り百戰(せん)必敗(ひつぱい)は固より疑ふ可きにあらず寧ろ耻(はぢ)を忍んで一日も趙氏(ちやうし)の祀を存したるこそ利益(りえき)なるに似たれども後世の國を治(をさむ)る者が經綸(けいりん)を重んじて士氣を養はんとするには媾和論者(こうわろんしや)の姑息を排(はい)して主戰論者の瘠我慢(やせがまん)を取らざる可らず是即ち兩者が今に至るまで臭芳(しうはう)の名を殊(こと)にする所以なる可し
然るに爰に遺憾
(ゐかん)なるは我日本國に於て今を去(さ)ること廿餘年王政維新(わうせいゐしん)の事起りて其際不幸(ふかう)にも此大切なる瘠我慢の一大義を害(がい)したることあり即ち德川家の末路(まつろ)に家臣の一部分(ぶぶん)が早く大事の去るを悟(さと)り敵に向て曾て抵抗(ていかう)を試みず只管(ひたすら)和を講じて自から家を解(と)きたるは日本の經濟(けいざい)に於て一時の利益(りえき)を成したりと雖も數百千年養(やしな)ひ得たる我日本武士の氣風(きふう)を傷ふたるの不利は决(けつ)して少々ならず得(とく)を以て損(そん)を償ふに足らざるものと云ふ可し抑も維新(ゐしん)の事は帝室の名義ありと雖も其實(じつ)は二三の強藩が德川に敵したる者より外ならず此時に當(あた)りて德川家の一類(るゐ)に三河武士の舊風(きうふう)あらんには伏見の敗餘(はいよ)江戸に歸るも更に佐幕(さばく)の諸藩に令して再擧(さいきよ)を謀り再擧三擧遂に成(な)らざれば退て江戸城を守り假令(たと)ひ一日にても家の運命(うんめい)を長くして尚ほ萬一を僥倖(げうかう)しいよいよ策(さく)(つく)るに至りて城を枕(まくら)に討死(うちじに)するのみ即ち前に云へる如く父母(ふぼ)の大病に一日の長命(ちやうめい)を祈るものに異ならず斯(かく)ありてこそ瘠我慢の主義も全きものと云ふ可けれ然るに彼(か)の媾和論者たる勝安房氏の輩(はい)は幕府(ばくふ)の武士用(もち)ふ可らずと云ひ薩長兵(さつちやうへい)の鋒敵(てき)す可らずと云ひ社會の安寧(あんねい)(がい)す可らずと云ひ主公の身の上危しと言ひ或は言(げん)を大にして墻(かき)に鬩(せめ)ぐの禍は外交の策(さく)にあらずなど百方周旋(しうせん)するのみならず時として身(み)を危うすることあるも之を憚(はゞか)らずして和議を説(と)き遂に江戸解城(かいじやう)と爲り德川七十萬石の新封(しんぽう)と爲りて無事に局(きよく)を結びたり實に不可思議(ふかしぎ)千萬なる事相にして當時或る外人の評(ひやう)に凡そ生あるものは其死に垂(なんな)んとして抵抗を試(こゝろ)みざるはなし蠢爾(しゆんじ)たる昆虫が百貫目の鐵槌(てつつゐ)に撃たるゝときにても尚ほ其足を張て抵抗(ていかう)の狀を爲すの常(つね)なるに二百七十年の大政府が二三強藩の兵力(へいりよく)に對して毫も敵對(てきたい)の意なく唯一向(いつかう)に和を講じ哀(あい)を乞うて止(や)まずとは古今世界中に未だ其例(そのれい)を見ずとて竊に冷笑(れいせう)したるも謂(いは)れなきに非ず盖し勝氏輩の所見(しよけん)は内亂の戰爭(せんさう)を以て無上の災害(さいがい)無益の勞費(らうひ)と認め味方に勝算(しようさん)なき限りは速に和(わ)して速に事を收(をさむ)るに若かずとの數理(すうり)を信じたるものより外(ほか)ならず其口に説(と)く所を聞けば主公の安危(あんき)又は外交の利害(りがい)など云ふと雖も其心術(しんじゆつ)の底を叩(たゝい)て之を極(きは)むるときは彼の哲學流の一種(しゆ)にして人事國事(じんじこくじ)に瘠我慢は無益(むえき)なりとて古來日本國の上流社會(じやうりうしやくわい)に最も重んずる所の一大主義を曖昧模糊(あいまいもこ)の間に瞞着(まんちやく)したる者なりと評(ひやう)して之に答ふる辭(ことば)はなかる可し一時の豪氣(がうき)は以て懦夫(だふ)の膽を驚(おどろ)かすに足り一塲の詭言(きげん)は以て少年輩の心を籠絡(ろうらく)するに足ると雖も具眼卓識(ぐがんたくしき)の君子は終に欺(あざむ)く可らず惘(し)ふ可らざるなり左れば當時積弱(せきじやく)の幕府(ばくふ)に勝算なきは我輩も勝氏と共(とも)に之を知ると雖も士風維持(しふうゐぢ)の一方より論ずるときは國家存亡(こくかそんばう)の危急に迫りて勝算の有無(うむ)は言ふ可き限りに非ず况んや必勝(ひつしよう)を算して敗し、必敗(ひつぱい)を期して勝つの事例(じれい)も少なからざるに於てをや然るを勝氏は豫(あらかじ)め必敗を期(き)し其未だ實際(じつさい)に敗れざるに先んじて自ら自家(じか)の大權を投棄(とうき)し只管平和(へいわ)を買はんとて勉(つと)めたる者なれば兵亂(へいらん)の爲めに人を殺(ころ)し財を散(さん)ずるの禍をば輕(かる)くしたりと雖も立國の要素(えうそ)たる瘠我慢の士風(しふう)を傷ふたるの責(せめ)は免かる可らず殺人(さつじん)散財(さんざい)は一時の禍にして士風の維持(ゐぢ)は萬世の要(えう)なり此を典(てん)して彼を買ふ其功罪(こうざい)相償ふや否や容易(ようい)に斷定す可き問題(もんだい)に非ざるなり或は云ふ王政維新(わうせいゐしん)の成敗(せいはい)は内國の事にして云はゞ兄弟朋友(けいていほういう)間の爭ひのみ當時(たうじ)東西相敵したりと雖も其實は敵にして敵に非ず兎に角に幕府(ばくふ)が最後の死力(しりよく)を張(はら)ずして其政府を解(と)きたるは時勢に應(おう)じて好き手際(てぎは)なりとて妙に説(せつ)を作すものあれども一塲の遁辭口實(とんじこうじつ)たるに過ぎず内國の事(こと)にても朋友間の事にても既に事端(じたん)を發するときは敵は即ち敵なり然(しか)るに今その敵に敵するは無益(むえき)なり無謀(むぼう)なり國家の損亡(そんばう)なりとて專ら平和無事に誘導(いうだう)したる其士人を率(ひき)ゐて一朝敵國外患(てきこくぐわいくわん)の至るに當り能く其士氣(しき)を振うて極端(きよくたん)の苦辛に堪(た)へしむるの術ある可きや内に瘠我慢なきものは外に對(たい)しても亦た然らざるを得ず之を筆(ふで)にするも不祥ながら億萬(おくまん)一にも我日本國民が外敵(ぐわいてき)に逢うて時勢(じせい)を見計らひ手際好く自から解散(かいさん)するが如きあらば之を何とか言(い)はん然り而して幕府解散(ばくふかいさん)の始末は内國の事に相違(さうゐ)なしと雖も自から一例(れい)を作りたるものと云ふ可し然りと雖も勝氏も亦人傑(じんけつ)なり當時幕府内部の物論(ぶつろん)を排して旗下の士の激昂(げきかう)を鎭め一身を犠牲(ぎせい)にして政府を解(と)き以て王政維新の成功(せいこう)を易くして之が爲に人の生命(せいめい)を救ひ財産(ざいさん)を安全ならしめたる其功德(くどく)は少からずと云ふ可し此點に就ては我輩も氏の事業(じげふ)を輕々看過(かんくわ)するものにあらざれども獨り怪(あや)しむ可きは氏が維新の朝に曩(さ)きの敵國の士人と竝立(ならびたつ)て得々名利の地位(ちゐ)に居るの一事なり(世に所謂大義名分(たいぎめいぶん)より論ずるときは日本國人は都て帝室(ていしつ)の臣民にして其同胞臣民(どうはうしんみん)の間に敵も味方(みかた)もある可らずと雖も事の實際(じつさい)は决して然らず幕府(ばくふ)の末年に強藩の士人等が事を擧(あ)げて中央政府に敵し其これに敵するの際に帝室(ていしつ)の名義(めいぎ)を奉じ幕政の組織(そしき)を改めて王政の古に復(ふく)したる其擧を名けて王政維新(わうせいゐしん)と稱することなれば帝室をば政治社外(せいぢしやぐわい)の高處に仰(あふ)ぎ奉りて一樣に其恩德(をんとく)に浴しながら下界(げかい)に居て相爭(あひあらそ)ふ者あるときは敵味方の區別(くべつ)なきを得ず事實に掩(おほ)ふ可らざる所のものなればなり故に本文(ほんもん)敵國の語或は不穩(ふをん)なりとて説を作す者もあらんなれども當時(たうじ)の實際より立論(りつろん)すれば敵の字を用ひざる可らず)東洋和漢(とうやうわかん)の舊筆法に從(したが)へば氏の如きは到底(とうてい)終を全うす可き人に非ず漢の高祖(かうそ)が丁公を戮(りく)し淸の康熙帝(かうきてい)が明末の遺臣(ゐしん)を擯斥し日本にては織田信長が武田勝頼の奸臣(かんしん)即ち其主人を織田に賣(う)らんとしたる小山田義國の輩を誅(ちう)し豐臣秀吉が織田信孝の賊臣(ぞくしん)桑田彦右衛門の擧動(きよどう)を悦ばず不忠不義者世の見懲(みこら)しにせよとて之を信孝の墓前(ぼぜん)に磔(はりつけ)にしたるが如き是等の事例は實に枚擧(まいきよ)に遑あらず騷擾(さうぜう)の際に敵味方相對(あひたい)し其敵の中に謀臣ありて平和の説を唱(とな)へ假令ひ貳心(じしん)を抱かざるも味方に利する所あれば其時には之を奇貨(きくわ)として私に其人を厚遇(こうぐう)すれども干戈(かんくわ)既に收りて戰勝の主領(しゆりやう)が社會の秩序(ちつじよ)を重んじ新政府の基礎(きそ)を固くして百年の計を爲すに當りては一國の公道(こうだう)の爲めに私情(しじやう)を去り曩きに奇貨とし重(おも)んじたる彼の敵國の人物(じんぶつ)を目して不臣不忠と唱(とな)へ之を擯斥(ひんせき)して近づけざるのみか時としては殺戮(さつりく)することさへ少なからず誠に無慙(むざん)なる次第なれども自から經世の一法として忍んで之を斷行(だんかう)することなる可し即ち東洋諸國専制流(せんせいりう)の慣手段(くわんしゆだん)にして勝氏の如きも斯る専制治風(せんせいぢふう)の時代に在らば或は同樣(どうやう)の奇禍(きくわ)に罹りて新政府の諸臣を警(いま)しむるの具に供せられたることもあらんなれども幸にして明治政府には専制の君主(くんしゆ)なく政權は維新功臣(ゐしんこうしん)の手に在りて其主義(しゆぎ)とする所都て文明國の顰(ひん)に傚(なら)ひ一切萬事寛大(くわんだい)を主として此敵方の人物を擯斥(ひんせき)せざるのみか一時の奇貨も永日(えいじつ)の正貨(せいくわ)に變化し舊幕府の舊風(きうふう)を脱して新政府の新貴顯(しんきけん)と爲り愉快(ゆくわい)に世を渡りて曾て怪しむ者なきこそ古來未曾有(こらいみぞう)の奇相なれ我輩は此一段に至りて勝氏の私(わたくし)の爲めには甚だ氣の毒なる次第なれども聊か所望(しよまう)の筋なきを得ず其次第は前に云へる如く氏の盡力(じんりよく)を以て穩(おだやか)に舊政府を解き由て以て殺人散財(さつじんさんざい)の禍を免れたる其功は奇にして大なりと雖も一方より觀察(くわんさつ)を下すときは敵味方相對(あひたい)して未だ兵を交(まじ)へず早く自から勝算(しようさん)なきを悟りて謹愼(きんしん)するが如き表面には官軍(くわんぐん)に向て云々の口實(こうじつ)ありと雖も其内實は德川政府が其幕下(ばくか)たる二三の強藩(きやうはん)に敵するの勇氣なく勝敗(しようはい)をも試みずして降參(かうさん)したるものなれば三河武士の精神(せいしん)に背くのみならず我日本國民に固有(こいう)する瘠我慢の大主義を破(やぶ)り以て立國の根本(こんぽん)たる士氣を弛(ゆる)めたるの罪は遁(のが)る可らず一時の兵禍(へいくわ)を免かれしめたると萬世(ばんせい)の士氣を傷つけたると其功罪(こうざい)相償(あひつぐな)ふ可きや天下後世に定論(ていろん)もある可きなれば氏の爲めに謀れば假令(たと)ひ今日の文明流(ぶんめいりう)に從て維新後に幸に身を全うすることを得たるも自から省みて我立國の爲めに至大至重(しだいしちよう)なる上流士人の氣風を害(がい)したるの罪を引き維新前後の吾身の擧動(きよどう)は一時の權道(けんだう)なり權りに和議を講じて圓滑(ゑんかつ)に事を纏(まと)めたるは唯その時の兵禍を恐れて人民を塗炭(とたん)に救はんが爲めのみなれども本來立國の要(えう)は瘠我慢の一義に在り况んや今後敵國外患(てきこくぐわいくわん)の變なきを期す可らざるに於てをや斯る大切の塲合(ばあひ)に臨んでは兵禍(へいくわ)は恐るゝに足らず天下後世國(くに)を立てゝ外に交はらんとする者は努々(ゆめゆめ)吾維新の擧動を學(まな)んで權道に就(つ)く可らず俗に云ふ武士の風上(かざかみ)にも置かれぬとは即ち吾一身の事(こと)なり後世子孫これを再演(さいえん)する勿れとの意を示して斷然(だんぜん)政府の寵遇(ちようぐう)を辭し官爵を棄(す)て利祿を抛(なげう)ち單身去て其跡を隱(かく)すこともあらんには世間の人も始めて其誠(まこと)の在る所を知りて其淸操(せいさう)に服し舊政府放解(はうかい)の始末も眞に氏の功名(こうめい)に歸すると同時に一方には世敎(せいけう)萬分の一を維持(ゐぢ)するに足る可し即ち我輩の所望(しよまう)なれども今その然らずして恰も國家の功臣を以て傲然(がうぜん)自から居るが如き必ずしも窮窟(きうくつ)なる三河武士の筆法(ひつぱふ)を以て彈劾(だんがい)するを須たず世界立國の常情(じやうじやう)に訴へて愧るなきを得ず啻(たゞ)に氏の私の爲めに惜(を)しむのみならず士人社會風敎(しやくわいふうけう)の爲めに深く悲(かなし)む可き所の者なり
又勝氏と同時
(どうじ)に榎本武揚なる人あり是亦序(ついで)ながら一言せざるを得ず此人は幕府(ばくふ)の末年に勝氏と意見(いけん)を異にし飽くまでも德川の政府を維持(ゐぢ)せんとして力を盡(つく)し政府の軍艦(ぐんかん)數艘(すうさう)を率ゐて箱館に脱走(だつそう)し西軍に抗(かう)して奮戰したれども遂に窮して降參(かうさん)したる者なり此時に當り德川政府は伏見の一敗復た戰(たゝか)ふの意なく只管哀(あい)を乞ふのみにして人心既に瓦解(ぐわかい)し其勝算なきは固より明白(めいはく)なる所なれども榎本氏の擧は所謂武士の意氣地(いきぢ)即ち瘠我慢にして其方寸(はうすん)の中には竊に必敗(ひつぱい)を期しながらも武士道の爲に敢て一戰を試(こゝろ)みたることなれば幕臣又諸藩士中(しよはんしちう)の佐幕黨は氏を總督(そうとく)として之に隨從し都て其命令(めいれい)に從て進退を共にし北海の水戰(すゐせん)箱館の籠城(ろうじやう)その决死苦戰の忠勇(ちうゆう)は天晴の振舞(ふるまひ)にして日本魂の風敎上より論(ろん)じて之を勝氏の始末に比すれば年を同うして語る可らず然るに脱走(だつそう)の兵常に利あらずして勢(いきほひ)漸く迫り又如何(いかん)ともす可らざるに至りて總督を始め一部分の人々は最早(もはや)これまでなりと覺悟を改めて敵の軍門(ぐんもん)に降り捕はれて東京に護送(ごそう)せられたるこそ運の拙(つたな)きものなれども成敗(せいはい)は兵家の常にして固より咎(とが)む可きにあらず新政府に於ても其罪(つみ)を惡んで其人を惡(にく)まず死一等を减じて之を放免(はうめん)したるは文明の寛典(くわんてん)と云ふ可し氏の擧動も政府の處分(しよぶん)も共に天下の一美談(びだん)にして間然す可らずと雖も氏が放免の後に更に靑雲(せいうん)の志を起(おこ)し新政府の朝(てう)に立つの一段に至りては我輩の感服(かんぷく)すること能はざる所のものなり敵に降(くだ)りて其敵に仕ふるの事例(じれい)は古來稀有(けう)にあらず殊に政府の新陳變更(しんちんへんかう)するに當りて前政府の士人等が自立の資(し)を失ひ糊口(ここう)の爲めに新政府に職(しよく)を奉ずるが如きは世界古今普通の談(だん)にして毫も怪しむに足らず又その人を非難(ひなん)すべきにあらずと雖も榎本氏の一身は此普通(ふつう)の例を以て掩(おほ)ふ可らざるの事故あるが如し即ち其事故(じこ)とは日本武士の人情(にんじやう)是れなり氏は新政府に出身(しゆつしん)して啻に口を糊(こ)するのみならず累遷立身(るゐせんりつしん)して特派公使に任ぜられ又遂に大臣にまで昇進(しようしん)し靑雲の志達し得て目出度しと雖も顧みて徃事(わうじ)を回想(くわいさう)するときは情に堪へざるものなきを得ず當時决死(けつし)の士を糾合(きうがふ)して北海の一隅に苦戰(くせん)を戰ひ北風競(きそ)はずして遂に降參したるは是非(ぜひ)なき次第なれども脱走の諸士は最初(さいしよ)より氏を首領として之を恃(たの)み氏の爲めに苦戰し氏の爲めに戰死(せんし)したるに首領にして降參(かうさん)とあれば假令ひ同意(どうい)の者あるも不同意の者は恰も見捨(みす)てられたる姿にして其落膽失望(らくたんしつばう)は云ふまでもなく况(ま)して既に戰死したる者に於てをや死者若し靈(れい)あらば必ず地下(ちか)に大不平を鳴(な)らすことならん傅へ聞く箱館(はこだて)の五稜郭開城(かいじやう)の時總督榎本氏より部下に内意(ないい)を傳へて共に降參せんことを勸告(くわんこく)せしに一部分の人は之を聞て大に怒(いか)り元來今回の擧(きよ)は戰勝を期(き)したるに非ず唯武門(ぶもん)の習として一死以て二百五十年の恩(おん)に報るのみ總督若し生を欲せば出でゝ降參(かうさん)せよ我等は我等の武士道に斃(たふ)れんのみとて憤戰(ふんせん)止まらず其中には父子諸共(もろとも)に切死(きりじに)したる人もありしと云ふ烏江水淺騅能逝、一片義心不可東とは徃古漢楚の戰に楚軍振(ふる)はず項羽が走りて烏江の畔(ほとり)に至りしとき或人は尚ほ江を渡(わた)りて再擧の望(のぞみ)なきにあらずとて其死を留(とゞ)めたりしかども羽は之を聽(き)かず初め江東の子弟(してい)八千を率ゐて西し幾回の苦戰に戰沒(せんぼつ)して今は一人の殘る者なし斯る失敗(しつぱい)の後に至り何の面目(めんもく)か復た江東に還(かへ)りて死者の父兄を見んとて自盡(じゞん)したる其時の心情を詩句(しく)に寫(うつ)したるものなり漢楚軍談のむかしと明治の今日とは世態(せいたい)固より同じからず三千年前の項羽を以て今日の榎本氏を責(せむ)るは殆んど無稽(むけい)なるに似たれども萬古不變(ばんこふへん)は人生の心情にして氏が維新(ゐしん)の朝に靑雲(せいうん)の志を遂げて富貴(ふうき)得々(とくとく)たりと雖も時に顧みて箱舘の舊(きう)を思ひ當時隨行部下(ずゐかうぶか)の諸士が戰沒し負傷(ふしやう)したる慘狀より爾來(じらい)家に殘りし父母兄弟が死者の死を悲(かな)しむと共に自身の方向に迷(まよ)うて路傍に彷徨(はうくわう)するの事實を想像(さうざう)し聞見するときは男子の鐵膓(てつちやう)も之が爲めに寸斷せざるを得ず夜雨(やう)(あき)(さむ)うして眠就(な)らず殘燈(ざんとう)明滅(めいめつ)獨り思ふの時には或は死靈生靈(しりやういきりやう)無數の暗鬼を出現して眼中(がんちう)に分明なることもある可し盖し氏の本心(ほんしん)は今日に至るまでも此種の脱走士人を見捨(みす)てたるに非ず其擧を美(び)として其死を憐(あはれ)まざるに非ず今一證を示(しめ)さんに駿州淸見寺内に石碑(せきひ)あり此碑は前年(ぜんねん)幕府の軍艦咸臨丸(かんりんまる)が淸水港に撃(う)たれたるときに戰沒したる春山辨造以下脱走士(だつそうし)の爲めに建てたるものにして碑の背面(はいめん)に食人之食者死人之事の九字を大書して榎本武揚と記し公衆(こうしう)の觀に任して憚(はゞか)る所なきを見れば其心事の大概(たいがい)は窺知るに足る可し即ち氏は曾(かつ)て德川家の食を食む者にして不幸にして自分(じぶん)は德川の事に死するの機會(きくわい)を失ふたれども他人の之に死(し)するものあるを見れば慷慨惆悵(かうがいちうちやう)自から禁ずる能はず欽慕(きんぼ)の餘り遂に右の文字(もんじ)をも石に刻(こく)したることならん既に他人の忠勇を嘉(よ)みするときは同時に自から省(かへり)みて聊か不愉快(ふゆくわい)を感ずるも亦人生の至情(しじやう)に免る可らざる所なれば其心事を推察(すゐさつ)するに時としては目下の富貴(ふうき)に安んじて安樂豪奢(あんらくがうしや)餘念なき折柄(をりから)又時としては舊時の慘狀(さんじやう)を懷うて慙愧(ざんき)の念を催ほし一喜一憂一哀一樂來徃(らいわう)常ならずして身を終るまで圓滿の安心快樂(あんしんくわいらく)はある可らざることならん左れば我輩を以て氏の爲めに謀(はか)るに人の食を食むの故(ゆゑ)を以て必ずしも其人の事に死(し)す可しと勸告(くわんこく)するにはあらざれども人情の一點(てん)より他に對して常に遠慮(ゑんりよ)するところなきを得ず古來の習慣(しうくわん)に從へば凡そ此種の人は遁世出家(とんせいしゆつけ)して死者の菩提(ぼだい)を弔ふの例もあれども今の世間の風潮(ふうてう)にて出家落飾(らくしよく)も不似合とならば唯その身を社會の暗處(あんしよ)に隱して其生活を質素(しつそ)にし一切萬事控目(ひかへめ)にして世間の耳目に觸(ふ)れざるの覺悟こそ本意(ほんい)なれ之を要するに維新の際、脱走の一擧に失敗(しつぱい)したるは氏が政治上(せいぢじやう)の死にして假令ひ其肉體(にくたい)の身は死せざるも最早(もはや)政治上に再生す可らざるものと觀念(くわんねん)して唯一身を愼(つゝし)み一は以て同行戰死者の靈(れい)を弔して又其遺族(ゐぞく)の人々の不幸不平を慰(なぐさ)め又一には凡そ何事に限らず大擧して其首領(しゆりやう)の地位に在る者は成敗(せいばい)共に責に任(にん)じて决して之を遁(のが)る可らず成れば其榮譽(えいよ)を專らにし敗すれば其苦難(くなん)に當るとの主義を明にするは士流社會(しりうしやくわい)の風敎上に大切(たいせつ)なることなる可し即ち是れ我輩が榎本氏の出處(しゆつしよ)に就き所望の一點にして獨(ひと)り氏の一身の爲めのみにあらず國家(こくか)百年の謀(はかりごと)に於て士風消長の爲めに輕々(けいけい)看過(かんくわ)す可らざる所のものなり
以上の立言
(りつげん)は我輩が勝榎本の二氏に向て攻撃(こうげき)を試みたるに非ず謹んで筆鋒(ひつほう)を寛にして苛酷(かこく)の文字を用ひず以て其人の名譽(めいよ)を保護するのみか實際に於ても其智謀忠勇(ちぼうちうゆう)の功名をば飽く迄も認(みとむ)る者なれども凡そ人生の行路(かうろ)に富貴を取れば功名(こうめい)を失ひ、功名を全うせんとするときは富貴(ふうき)を棄てざる可らざるの塲合あり二氏の如きは正しく此局(きよく)に當る者にして勝氏が和議(わぎ)を主張して幕府を解(と)きたるは誠に手際よき智謀(ちぼう)の功名なれども之を解きて主家の廢滅(はいめつ)したる其廢滅の因縁が偶(たまた)ま以て一舊臣の爲めに富貴を得せしむるの方便(はうべん)と爲りたる姿にては假令ひ其富貴(ふうき)は自から求めずして天外より授(さづ)けられたるにもせよ三河武士の末流(まつりう)たる德川一類の身として考(かんが)ふれば折角の功名手柄(こうみやうてがら)も世間の見る所にて光を失(うしな)はざるを得ず榎本氏が主戰論を執(と)りて脱走し遂に力盡(つ)きて降りたるまでは幕臣(ばくしん)の本分に背かず忠勇の功名美(び)なりと雖も降參放免(かうさんはうめん)の後に更に靑雲の志を發(はつ)して新政府の朝に富貴を求め得たるは曩(さき)に其忠勇を共にしたる戰死者(せんししや)負傷者より爾來の流浪者(るらうしや)貧窮者(ひんきうしや)に至るまで都て同擧同行の人々に對して聊か慙愧(ざんき)の情なきを得ず是亦その功名の價(あたひ)を損ずる所のものにして要(えう)するに二氏の富貴こそ其身の功名を空(むなし)うするの媒介(ばいかい)なれば今尚ほ晩(おそ)からず二氏共に斷然世を遁(のが)れて維新以來の非(ひ)を改め以て既得(きとく)の功名を全うせんことを祈(いの)るのみ天下後世に其名を芳(はう)にするも臭(しう)にするも心事の决斷(けつだん)如何に在り力(つと)めざる可らざるなり然りと雖も人心の微弱(びじやく)或は我輩の言に從(したが)ふこと能はざるの事情(じゞやう)もある可し是亦止を得ざる次第なれども兎に角に明治年間(めいぢねんかん)に此文字を記(しる)して二氏を論評(ろんぴやう)したる者ありと云へば亦以て後世士人の風を維持(ゐぢ)することもあらんか拙筆(せつぴつ)亦徒勞(とらう)に非ざるなり

 


 
    福澤先生の手簡

拜啓(はいけい)仕候陳ば過日瘠我慢之説と題(だい)したる草稿(さうかう)一册を呈し候或は御一讀も被成下候哉其節(そのせつ)申上候通り何れ是は時節(じせつ)を見計世に公にする積に候得共尚ほ熟考(じゆくかう)仕候に書中或は事實之間違(まちがひ)は有之間敷(まじく)哉又は立論之旨に付御意見(ごいけん)は有之間敷哉若しこれあらば無御腹藏被仰聞被下度小生の本心(ほんしん)は漫に他を攻撃(こうげき)して樂しむものにあらず唯多年來心に釋然(しやくぜん)たらざるものを記して輿論(よろん)に質(たゞ)し天下後世の爲めにせんとするまでの事なれば當局(たうきよく)の御本人に於て云々の御説もあらば拜承(はいしよう)致し度何卒御漏し奉願候要用まで重て申上候匆々頓首
 二月五日                         諭 吉
   ……………樣
尚以彼の草稿
(さうかう)は極秘(ごくひ)に致置今日に至るまで二三親友(しんいう)の外へは誰れにも見せ不申候是亦乍序申上候也
 

    勝安芳氏の答書

從古當路者(たうろしや)古今一世之人物にあらざれば衆賢(しうけん)之批評に當る者あらず不計も拙老先年之行爲(かうゐ)に於て御議論(ごぎろん)數百言御指摘(ごしてき)實に慙愧(ざんき)に不堪御深志忝存候
行藏
(かうざう)は我に存す毀譽(きよ)は他人の主張我に與(あづか)らず我に關せずと存候各人え御示御座候とも毛頭(まうとう)異存無之候御差越(おんさしこし)之御草稿は拜受いたし度御許容(ごきよよう)可被下候也
 二月六日                         安 芳
  福澤 先生
  拙此程より所勞
(しよらう)平臥中筆を採るに懶(ものう)く亂筆蒙御海容度候
 

    榎本武揚氏の答書

拜復(はいふく)過日御示被下候貴著(きちよ)瘠我慢中事實相違之廉(かど)並に小生之所見もあらば云々との御意(ぎよい)致拜承候昨今別而多忙(たばう)に付いづれ其中愚見(ぐけん)可申述候先は不取敢回音(くわいおん)如此に候也
 二月五日                         武 揚
  福澤 諭吉樣

 



(注) 1.  上記の福沢諭吉「瘠我慢の説」の本文は、慶應義塾大学の〈デジタルで読む福澤諭吉〉所収の福澤先生著『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』(時事新報社、明治34年5月2日発行)によりました。(「痩我慢の説」でも検索できるように、ここに書いておきます。) 
 〈デジタルで読む福澤諭吉〉 → 福澤先生著『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』
2.  平仮名二字の繰り返し符号(「く」を伸ばした形の踊り字)は、平仮名に直してあります。(「おのおの」「ますます」「いよいよ」など。)
    3.  本文中の「天然」・「痛痒」のルビに(てんん)・(つうしやう)とあるのは誤植と見て、それぞれ、(てんん)(つうやう)と改めてあります。
 また、「財産を安全らしめたる其功德」とある部分も「財産を安全らしめたる其功德」と直してあります。
   
    4.  本文中に一部分、読点(、)が出ていますが、これも原文のとおりにしてあります。    
    5.  「瘠我慢の説」の本文の執筆の時期について、〈デジタルで読む福澤諭吉〉の解説に、「明治24年11月27日に脱稿して数通の写本を作り、勝海舟、榎本武揚、木村芥舟、栗本鋤雲、徳川頼倫等に示した外、筐底に秘して余人に示さなかったものであるが、栗本等の手から本書の内容が洩れて、「奥羽日日新聞」に掲載された。その正確な年月日は明かでないが、明治27年前後の頃であったろうと伝えられている」「福沢も秘密が洩れた以上は公けにしてもよかろうと、側近の人々の勧めに従って「時事新報」に発表することを承諾し、明治34年1月1日と3日目とにこれを掲載した。その予告を前年12月の時事新報に掲げると、陸実 (引用者注:陸羯南のこと) 等の政教社がスクープして、その機関誌「日本人」(明治33年12月20日発行)に「奥羽日日新聞」に掲載のままを転載した」とあります。(詳しくは、同解説を参照してください。)
  〈デジタルで読む福澤諭吉〉→「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」解説

 フリー百科事典『ウィキペディア』には、「瘠我慢の説」は「1891年(明治24年)11月27日に脱稿され、1901年(明治34年)1月1日の時事新報紙上に掲載された。さらに、1901年(明治34年)5月に『丁丑公論』と一緒に1冊の本に合本されて時事新報社から出版された」とあります。
      『ウィキペディア』 → 「瘠我慢の説」         
   
    6. 福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)=思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵   
   に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して
   3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾
   を慶応義塾と改名。明六社にも参加。82年(明治15)「時事新報」を創刊。
   独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」
   「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」な
   ど。(1834-1901) 
勝海舟(かつ・かいしゅう)=幕末・明治の政治家。名は義邦。通称、麟太郎。海
   舟は号。安房守であったので安房と称し、のちに安芳と改名。江戸生れ。旗
   本の子。海軍伝習のため長崎に派遣される。咸臨丸を指揮して渡米。帰国
   後、海軍操練所を設立、軍艦奉行となる。幕府側代表として江戸城明渡しの
   任を果たし、維新後、参議・海軍卿・枢密顧問官。伯爵。著「海軍歴史」
   「陸軍歴史」「開国起原」、自伝「氷川清話」など。(1823-1899)
榎本武揚(えのもと・たけあき)=政治家。通称、釜次郎。号、梁川。江戸生れの
   幕臣。長崎の海軍伝習所に学び、オランダに留学、帰国して海軍副総裁。戊
   辰戦争で、函館五稜郭に拠って新政府軍に抗したが間もなく降伏。のち駐露
   公使としてロシアと樺太・千島交換条約を結ぶ。諸大臣を歴任。子爵。
   (1836ー1908)
                    (以上、『広辞苑』第6版による。)
   
     7.   慶應義塾(Keio University)のホームページの「創立者 福沢諭吉」のページに「福沢諭吉の生涯」があり、そこに詳しい「福沢諭吉年譜」があります。
  → 「創立者 福沢諭吉」・「福沢諭吉の生涯」「福澤諭吉年譜」
   
     8.  慶應義塾のホームページの「慶應義塾写真データベース」に、「福澤諭吉」関係の写真が多数あります。    
     9.  国立国会図書館のホームページに「近代日本人の肖像」のページがあり、そこに「福沢諭吉」があり、諭吉の若いときの写真が出ています。また、簡単な経歴と、近代デジタルライブラリー収載の著作等が載っています。    
    10.   慶應義塾図書館のサイトに、
   『FUKUZAWA COLLECTION 〈デジタルで読む福沢諭吉』〉
というページがあり、そこで『學問のすゝめ』『西洋事情』『文明論之概略』『福翁自傳』などを映像で見る(読む)ことができます。
   




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