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立國(りつこく)は私なり公に非ざるなり地球面(ちきうめん)の人類その數億(おく)のみならず山海天然(さんかいてんねん)の境界に隔(へだ)てられて各處に群(ぐん)を成し各處(かくしよ)に相分るゝは止むを得ずと雖も各處におのおの衣食(いしよく)の富源(ふげん)あれば之に依て生活(せいくわつ)を遂(と)ぐ可し又或は各地の固有(こいう)に有餘(いうよ)不足(ふそく)あらんには互に之を交易(かうえき)するも可なり即ち天與の恩惠(おんけい)にして耕(たがや)して食ひ製造(せいざう)して用ひ交易して便利(べんり)を達(たつ)す、人生の所望(しよまう)この外にある可らず何ぞ必ずしも區々(くゝ)たる人爲(じんゐ)の國を分て人爲の境界(きやうかい)を定むることを須(もち)ひんや况んや其國を分て隣國(りんこく)と境界を爭(あらそ)ふに於てをや况んや隣(となり)の不幸を顧(かへり)みずして自から利せんとするに於てをや况んや其國に一個の首領(しゆりやう)を立て之を君として仰(あほ)ぎ之を主として事(つか)へ其君主の爲めに衆人(しゆうじん)の生命財産(せいめいざいさん)を空うするが如きに於てをや况んや一國中(こくちう)に尚ほ幾多の小區域(せうくゐき)を分ち毎區の人民おのおの一個の長者を戴(いたゞい)て之に服從(ふくじう)するのみか常に隣區(りんく)と競爭(きやうさう)して利害を殊(こと)にするに於てをや都(すべ)て是れ人間の私情(しゞやう)に生じたることにして天然(てんねん)の公道(こうだう)に非ずと雖も開闢以來(かいびやくいらい)今日に至るまで世界中の事相(じさう)を觀るに各種(かくしゆ)の人民相分(あひわか)れて一群を成し其一群中に言語文字(げんごもんじ)を共にし、歷史口碑(れきしこうひ)を共にし婚姻(こんいん)相通じ、交際(かうさい)相親しみ、飲食衣服(いんしよくいふく)の物都て其趣(おもむき)を同うして自から苦樂(くらく)を共にする時は復た離散(りさん)すること能はず即ち國を立て又政府(せいふ)を設(まうく)る所以にして既に一國の名(な)を成す時は人民はますます之に固着(こちやく)して自他(じた)の分を明にし他國(たこく)他政府(たせいふ)に對しては恰も痛痒相感(つうやうあひかん)ぜざるが如くなるのみならず陰陽表裏(いんやうへうり)共に自家の利益榮譽(りえきえいよ)を主張して殆んど至らざる所なく其これを主張(しゆちやう)することいよいよ盛(さかん)なる者に附するに忠君愛國(ちうくんあいこく)等の名を以てして國民最上の美德(びとく)と稱するこそ不思議(ふしぎ)なれ故に忠君愛國の文字(もんじ)は哲學流(てつがくりう)に解すれば純乎(じゆんこ)たる人類の私情(しゞやう)なれども今日までの世界(せかい)の事情に於ては之を稱して美德(びとく)と云はざるを得ず即ち哲學(てつがく)の私情は立國(りつこく)の公道(こうだう)にして此公道公德の公認(こうにん)せらるゝは啻(たゞ)に一國に於て然るのみならず其國中に幾多(いくた)の小區域(せうくゐき)ある時は毎區必ず特色(とくしよく)の利害に制(せい)せられ外に對(たい)するの私(わたくし)を以て内の爲めにするの公道と認(みと)めざるはなし例へば西洋各國(せいやうかくこく)相對し日本と支那朝鮮と相接(あひせつ)して互に利害(りがい)を異にするは勿論、日本國中に於て封建(ほうけん)の時代に幕府(ばくふ)を中央に戴て三百藩を分つときは各藩(かくはん)相互に自家(じか)の利害榮辱(りがいえいじよく)を重んじ一毫の微も他に讓(ゆづ)らずして其競爭(きやうさう)の極は他を損(そん)じても自から利(り)せんとしたるが如き事實(じじつ)を見ても之を證(しよう)す可し扨この立國立政府(りつこくりつせいふ)の公道を行はんとするに當り平時(へいじ)に在ては差したる艱難(かんなん)もなしと雖も時勢(じせい)の變遷(へんせん)に從て國の盛衰(せいすゐ)なきを得ず其衰勢に及んでは迚(とて)も自家の地歩(ちほ)を維持するに足らず廢滅(はいめつ)の數(すう)既に明なりと雖も尚ほ萬一の僥倖(げうかう)を期して屈(くつ)することを爲さず實際(じつさい)に力盡(つ)きて然る後に斃(たふ)るゝは是亦人情(にんじやう)の然らしむる所にして其趣を喩(たと)へて云へば父母の大病に回復(くわいふく)の望(のぞみ)なしとは知りながらも實際の臨終(りんじう)に至るまで醫藥(いやく)の手當を怠(おこた)らざるが如し是れも哲學流(てつがくりう)にて云へば等(ひと)しく死する病人(びやうにん)なれば望なき回復を謀(はか)るが爲め徒に病苦(びやうく)を長くするよりもモルヒ子など與へて臨終(りんじう)を安樂(あんらく)にするこそ智(ち)なるが如くなれども子と爲りて考ふれば億萬中(おくまんちう)の一を僥倖(げうかう)しても故(ことさ)らに父母の死を促(うな)がすが如きは情に於て忍(しの)びざる所なり左れば自國(じこく)の衰頽(すゐたい)に際し敵(てき)に對して固より勝算(しようさん)なき塲合にても千辛万苦(せんしんばんく)力のあらん限りを盡(つく)しいよいよ勝敗(しようはい)の極に至りて始めて和(わ)を講(かう)ずるか若しくは死(し)を决(けつ)するは立國の公道(こうだう)にして國民が國に報(はう)ずるの義務(ぎむ)と稱す可きものなり即ち俗(ぞく)に云ふ瘠我慢(やせがまん)なれども強弱(きやうじやく)相對して苟も弱者の地位(ちゐ)を保つものは單(たん)に此瘠我慢に依らざるはなし啻に戰爭(せんさう)の勝敗のみに限(かぎ)らず平生の國交際(こくかうさい)に於ても瘠我慢(やせがまん)の一義は决して之を忘(わす)る可らず歐洲にて和蘭(オランダ)白耳義(ベルギ)の如き小國が佛獨(ふつどく)の間に介在(かいざい)して小政府を維持(ゐぢ)するよりも大國に合併(がつぺい)するこそ安樂(あんらく)なる可けれども尚ほ其獨立(どくりつ)を張て動(うご)かざるは小國の瘠我慢にして我慢(がまん)能く國の榮譽(えいよ)を保(たも)つものと云ふ可し我封建(ほうけん)の時代百萬石の大藩(たいはん)に隣して一萬石の大名(だいみやう)あるも大名は即ち大名にして毫(がう)も讓る所なかりしも畢竟(ひつきやう)瘠我慢の然(しか)らしむる所にして又事柄(ことがら)は異なれども天下の政權(せいけん)武門(ぶもん)に歸し帝室(ていしつ)は有れども無(な)きが如くなりしこと何百年この時(とき)に當りて臨時(りんじ)の處分(しよぶん)を謀りたらば公武合體(こうぶがつたい)等種々の便利法(べんりはふ)もありしならんと雖も帝室(ていしつ)にして能く其地位(ちゐ)を守り幾艱難(いくかんなん)の其間にも至尊(しそん)犯す可らざるの一義を貫(つらぬ)き例へば彼の有名(いうめい)なる中山大納言が東下(とうか)したるとき將軍家(しやうぐんけ)を目して吾妻(あづま)の代官と放言(はうげん)したりと云ふが如き當時(たうじ)の時勢より見れば瘠我慢に相違(さうゐ)なしと雖も其瘠我慢こそ帝室(ていしつ)の重(おも)きを成したる由縁(ゆえん)なれ又古來士風(しふう)の美(び)を云へば三河武士の右に出る者はある可らず其人々(ひとびと)に就て品評(ひんぴやう)すれば文に武に智(ち)に勇(ゆう)におのおの長ずる所を殊(こと)にすれども戰國割拠(せんごくかつきよ)の時に當りて德川の旗下(きか)に屬(ぞく)し能く自他の分(ぶん)を明にして二念(ねん)あることなく理にも非にも唯德川家の主公(しゆこう)あるを知て他を見ず如何なる非運(ひうん)に際(さい)して辛苦(しんく)を甞るも曾て落膽(らくたん)することなく家の爲め主公の爲めとあれば必敗必死(ひつぱいひつし)を眼前に見て尚ほ勇進(ゆうしん)するの一事は三河武士全體(ぜんたい)の特色(とくしよく)、德川家の家風(かふう)なるが如し是即ち宗祖(そうそ)家康公(いへやすこう)が小身より起りて四方を經營(けいえい)し遂に天下の大權(たいけん)を掌握(しやうあく)したる所以にして其家の開運(かいうん)は瘠我慢の賜(たまもの)なりと云ふ可し左れば瘠我慢の一主義(しゆぎ)は固より人の私情(しゞやう)に出ることにして冷淡(れいたん)なる數理(すうり)より論ずるときは殆んど兒戯(じぎ)に等しと云はるゝも辯解(べんかい)に辭なきが如くなれども世界古今の實際(じつさい)に於て所謂國家(こくか)なるものを目的(もくてき)に定めて之を維持保存(ゐぢほぞん)せんとする者は此主義に由らざるはなし我封建(ほうけん)の時代に諸藩(しよはん)の相互に競爭(きやうさう)して士氣を養(やしな)ふたるも此主義に由り封建(ほうけん)既に廢して一統(とう)の大日本帝國と爲り更に眼界(がんかい)を廣くして文明世界に獨立(どくりつ)の體面(たいめん)を張らんとするも此主義(しゆぎ)に由らざる可らず故に人間社會の事物(じぶつ)今日の風(ふう)にてあらん限りは外面の體裁(ていさい)に文野の變遷(へんせん)こそある可けれ百千年の後(のち)に至るまでも一片の瘠我慢は立國(りつこく)の大本として之を重(おも)んじいよいよますます之を培養(ばいやう)して其原素の發達(はつたつ)を助くること緊要(きんえう)なる可し即ち國家風敎(ふうけう)の貴き所以にして例へば南宋の時に廟議(びやうぎ)主戰と媾和(こうわ)と二派に分れ主戰論者は大抵皆擯(しりぞ)けられて或は身を殺(ころ)したる者ありしに天下後世の評論(ひやうろん)は媾和者の不義を惡(にく)んで主戰者の孤忠(こちう)を憐まざる者なし事の實際を云へば弱宋(じやくそう)の大事既に去り百戰(せん)必敗(ひつぱい)は固より疑ふ可きにあらず寧ろ耻(はぢ)を忍んで一日も趙氏(ちやうし)の祀を存したるこそ利益(りえき)なるに似たれども後世の國を治(をさむ)る者が經綸(けいりん)を重んじて士氣を養はんとするには媾和論者(こうわろんしや)の姑息を排(はい)して主戰論者の瘠我慢(やせがまん)を取らざる可らず是即ち兩者が今に至るまで臭芳(しうはう)の名を殊(こと)にする所以なる可し
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(注) | 1. |
上記の福沢諭吉「瘠我慢の説」の本文は、慶應義塾大学の〈デジタルで読む福澤諭吉〉所収の福澤先生著『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』(時事新報社、明治34年5月2日発行)によりました。(「痩我慢の説」でも検索できるように、ここに書いておきます。) 〈デジタルで読む福澤諭吉〉 → 福澤先生著『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』 |
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2. | 平仮名二字の繰り返し符号(「く」を伸ばした形の踊り字)は、平仮名に直してあります。(「おのおの」「ますます」「いよいよ」など。) | ||||
3. | 本文中の「天然」・「痛痒」のルビに(てんぜん)・(つうしやう)とあるのは誤植と見て、それぞれ、(てんねん)(つうやう)と改めてあります。 また、「財産を安全さらしめたる其功德」とある部分も「財産を安全ならしめたる其功德」と直してあります。 |
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4. | 本文中に一部分、読点(、)が出ていますが、これも原文のとおりにしてあります。 | ||||
5. |
「瘠我慢の説」の本文の執筆の時期について、〈デジタルで読む福澤諭吉〉の解説に、「明治24年11月27日に脱稿して数通の写本を作り、勝海舟、榎本武揚、木村芥舟、栗本鋤雲、徳川頼倫等に示した外、筐底に秘して余人に示さなかったものであるが、栗本等の手から本書の内容が洩れて、「奥羽日日新聞」に掲載された。その正確な年月日は明かでないが、明治27年前後の頃であったろうと伝えられている」「福沢も秘密が洩れた以上は公けにしてもよかろうと、側近の人々の勧めに従って「時事新報」に発表することを承諾し、明治34年1月1日と3日目とにこれを掲載した。その予告を前年12月の時事新報に掲げると、陸実
(引用者注:陸羯南のこと)
等の政教社がスクープして、その機関誌「日本人」(明治33年12月20日発行)に「奥羽日日新聞」に掲載のままを転載した」とあります。(詳しくは、同解説を参照してください。) 〈デジタルで読む福澤諭吉〉→「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」解説 フリー百科事典『ウィキペディア』には、「瘠我慢の説」は「1891年(明治24年)11月27日に脱稿され、1901年(明治34年)1月1日の時事新報紙上に掲載された。さらに、1901年(明治34年)5月に『丁丑公論』と一緒に1冊の本に合本されて時事新報社から出版された」とあります。 『ウィキペディア』 → 「瘠我慢の説」 |
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6. |
福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)=思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方洪庵 に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行して 3回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動、1868年(慶応4)塾 を慶応義塾と改名。明六社にも参加。82年(明治15)「時事新報」を創刊。 独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」 「世界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」な ど。(1834-1901) 勝海舟(かつ・かいしゅう)=幕末・明治の政治家。名は義邦。通称、麟太郎。海 舟は号。安房守であったので安房と称し、のちに安芳と改名。江戸生れ。旗 本の子。海軍伝習のため長崎に派遣される。咸臨丸を指揮して渡米。帰国 後、海軍操練所を設立、軍艦奉行となる。幕府側代表として江戸城明渡しの 任を果たし、維新後、参議・海軍卿・枢密顧問官。伯爵。著「海軍歴史」 「陸軍歴史」「開国起原」、自伝「氷川清話」など。(1823-1899) 榎本武揚(えのもと・たけあき)=政治家。通称、釜次郎。号、梁川。江戸生れの 幕臣。長崎の海軍伝習所に学び、オランダに留学、帰国して海軍副総裁。戊 辰戦争で、函館五稜郭に拠って新政府軍に抗したが間もなく降伏。のち駐露 公使としてロシアと樺太・千島交換条約を結ぶ。諸大臣を歴任。子爵。 (1836ー1908) (以上、『広辞苑』第6版による。) |
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7. |
慶應義塾(Keio University)のホームページの「創立者
福沢諭吉」のページに「福沢諭吉の生涯」があり、そこに詳しい「福沢諭吉年譜」があります。 → 「創立者 福沢諭吉」・「福沢諭吉の生涯」「福澤諭吉年譜」 |
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8. | 慶應義塾のホームページの「慶應義塾写真データベース」に、「福澤諭吉」関係の写真が多数あります。 | ||||
9. | 国立国会図書館のホームページに「近代日本人の肖像」のページがあり、そこに「福沢諭吉」があり、諭吉の若いときの写真が出ています。また、簡単な経歴と、近代デジタルライブラリー収載の著作等が載っています。 | ||||
10. |
慶應義塾図書館のサイトに、 『FUKUZAWA COLLECTION 〈デジタルで読む福沢諭吉』〉 というページがあり、そこで『學問のすゝめ』『西洋事情』『文明論之概略』『福翁自傳』などを映像で見る(読む)ことができます。 |