(注) | 1. |
上記の『栖雲記(一名雨の名残)』保科近悳(ちかのり)(西郷頼母)著の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『沼澤道子君之傳』(高木盛之輔著・保科近悳著、大正2年5月29日・
沼澤七郎発行)によりました。 『国立国会図書館デジタルコレクション』 → 『沼澤道子君之傳』 → 「栖雲記(一名雨の名残)」(19~26/28) |
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2. | 『栖雲記(せいうんき)』が書かれたのは、本文中にあるように、明治29年(1896)9月、その時頼母は66歳(数えで67歳)でした。 | ||||
3. | 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの文字を繰り返すことによって表記してあります(「折々」の場合は「々」を用いました」)。(「うひうひし」「ますます」「折々」「つれづれ」「ふしふし」) | ||||
4. | 本文中に、濁点をつけてない仮名が見受けられますが、これは引用した本文のままにしてあります。 | ||||
5. | 〇西郷頼母(さいごう・たのも)=文久13年(1830)~明治36年(1903)。幕末の会津藩家老。名は、近悳(ちかのり)。通称、頼母(たのも)。栖雲(せいうん)、又は酔月、晩年は八握髯翁(やつかぜんおう)と号した。万延元年(1860)、31歳の時、家督と家老職を継いで藩主松平容保(かたもり)に仕える。文久2年(1862)、藩主の京都守護職就任に反対して解職される。慶応4年(1868)、戊辰戦争のさなか、家老に復職、白河口の戦いを指揮して新政府軍と戦ったが、敗れて帰城、再度恭順を唱えたが容れられず、降伏直前に軍への連絡にかこつけた追放措置とされる命を受けて城を脱出。仙台で榎本武揚の軍に加わって箱館に行き、最後の抵抗を試みた。箱館降伏後は館林藩に幽閉されていたが、のち許され、明治5年(1872)、伊豆で謹申学舎を開く。維新後は保科頼母(ほしな・たのも)と改名。明治8年(1875)、棚倉の都々古別神社宮司に就任。明治13年(1880)、日光東照宮禰宜。明治21年(1888)、若松に帰る。翌年、福島県霊山神社宮司となる。明治29年(1896)9月、『栖雲記』を記す。明治32年(1898)、霊山神社宮司を依願退職し、再び故郷に帰る。明治36年(1903)4月28日、死去。享年73(数えで74)。墓は、会津若松市内の善龍寺にある。 ※ 善龍寺は、戊辰戦争で自刃した会津藩家老・西郷頼母一族の埋葬地であり、寺には頼母が自分の号と並べて妻千重子の名を刻んだ墓(保科八握髯翁墓・室飯沼八重子位)や、八重子の辞世の和歌「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」を刻した歌碑や、碑陰に戊辰戦争で散った233名の会津藩の婦女子の名が刻まれている「奈與竹能碑(なよたけの碑)」などがあります。 → 善龍寺・奈与竹の碑 ※ 晩年の号「八握髯翁」(やつかぜんおう)の「八握」(やつか)とは、「八束」と同じで、「つか」は握った拳(こぶし)の小指から人差指までの幅をいいます。「八握(八束)」とは、束(つか)八つ分ある長さのこと、また、たけの長いこと。つまり、「八握髯翁」とは、ひげの長い老人、という意味です。「長いひげ」のことを言う「八束鬚(やつかひげ)」という言葉もあります。(日本書紀・神代紀上「八束鬚生ひたり」)。(この項は、『広辞苑』によってまとめました。) |
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6. | 『栖雲記』の本文は、堀田節夫著『会津藩老・西郷頼母自叙伝『栖雲記』私注』によれば、次のものに出ている由です。(詳しくは、同書54~56頁を参照してください。) 〇『沼沢道子君之伝』高木盛之輔・保科近一共著(大正2年5月29日発行)(引用者注: 高木盛之輔・保科近一共著とあるのは同書の奥付の記載で、実際の筆者は高木盛之輔と西郷頼母) 〇『史談会速記録』第333輯(大正11年11月18日例会に於て斉藤一馬君の旧会津藩国家老西郷頼母氏維新前後の事蹟に関する談話) 〇『東洋日の出新聞』(大正12年4月6、7、8日、第1面に分割して連載) 〇『会津史談』第1号(昭和6年12月、B6判謄写印刷) 〇『会津戊辰戦争史料集』(宮崎十三八編、新人物往来社・1991年9月刊) 〇保科近一氏所蔵の写本 〇西郷四郎氏による写記 |
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7. |
『会津の歴史』というサイトに「戊辰戦争百話」があり、その第92話に「家老・西郷頼母」があって参考になります。 『会津の歴史』 →「戊辰戦争百話」 → 「第九十二話:家老・西郷頼母」 |
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8. | フリー百科事典『ウィキペディア』
に、「西郷頼母」の項があります。 『ウィキペディア』 → 「西郷頼母」 |
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9. | 『日本歴史 武将人物伝』というサイトに、「西郷頼母~幕末の動乱期に藩主・松平容保を支えた会津藩家老」があります。 | ||||
10. | 『会津藩老・西郷頼母自叙伝『栖雲記』私注』(堀田節夫著、東京書籍・1993年9月30日第1刷発行)には、詳しい注釈・年譜が出ています。(現在、絶版だそうです。2013年6月20日現在) | ||||
11. |
上記の『会津藩老・西郷頼母自叙伝『栖雲記』私注』によって、いくつかの注を引かせていただきます。詳しい注釈は、同書を参照してください。(引用は原文通りではありませんので、文責は当然引用者にあります。) 〇思へば思へば讖をなせしと云つべく……「讖」(シン)は、予言。堀田氏は、「思へば思へば」となっている本があるのは、印刷上の誤植であろうと思う、としておられる。 〇流石におとなひて聞ゆ……「おとなひて」は、おとなびて。 〇ますら武雄……「益荒猛男」で、いさましい男。 〇有鄰に佩はせて……有鄰(ありちか)は、西郷吉十郎有鄰。頼母の長男。明治13年(1880)、東京で死亡。享年24(数え年)。「佩はせて」は、「佩(は)はせて(ハワセテ)」で、帯につり下げて。 〇軽き事の使を命ぜられて……越後方面に従軍していた部将らが帰城しつつあった、その部将への伝言の使いを命じられたこと。 〇守の殿……会津藩主松平容保は、このころ既に家督を養子喜徳にゆずり隠退という形であったはずだから、守城の殿といえば喜徳を指すことになる。この殿の面前で胸がつぶれるほどのことを「仰せしとかや」と敬語で語っているところからすれば、「仰せし」人は容保公となろうか。あるいは側近の重役であったか。「守」を “カミ” と解釈すれば、当然、肥後守容保公となろう。 〇胸つぶれむばかりの事……城を出て行く頼母と吉十郎の二人に刺客が差し向けられたことをいう。 〇嘗自筮得噬嗑……嘗て自ら筮(ぜい)し噬嗑(ぜいこう)を得(う)。筮は、占う。噬嗑は、易の卦で、刑獄罪因の象。つまり、君(容保)と臣(頼母)が、うまく噛み合わないという卦になる。 〇尸素之誹……しそのそしり。尸素とは、尸位素餐の略。その位にありながらその務めを尽さず私利ばかりはかる、という非難。 〇霊山……りょうぜん。福島県伊達市霊山町。山は伊達市と相馬市の境に位置し、標高825メートル。広大な岩山で、国の史跡・名勝、県立公園に指定されている。山頂に慈覚大師の建立した霊山寺がある。霊山神社は、霊山の山頂から2キロばかり離れた山麓にある。明治14年の創建で、祭神は北畠親房とその子顕家・顕信・守親の4公。 |
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12. | 〇戊辰戦争(ぼしんせんそう)=戊辰の役(えき)ともいう。1868(慶応4)年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから1869(明治2)年5月18日の五稜郭の戦いで榎本武揚らが降伏するまでの討幕派と旧幕府軍の戦争。1867年12月9日夜の小御所会議により江戸幕府15代将軍徳川慶喜に辞官・納地が要求され、薩長側の挑発によって鳥羽・伏見の戦いとなり、この緒戦で旧幕府軍は敗れ、中立諸藩も次第に討幕軍側についた。また、この内乱の革命転化を恐れたイギリス公使パークスのあっせんで、諸外国は1月25日局外中立を宣言。関東一帯の百姓一揆高揚の中で討幕軍は4月江戸城を接収。この間、慶喜は恭順の意を表す一方、旧幕府主戦派は上野東叡山での彰義隊の戦い、その他関東各地での抵抗、また、東北地方では閏4月に仙台・米沢藩を中心に奥羽列藩同盟、さらに翌月奥羽越列藩同盟へ発展、会津戦争となったが、9月会津落城の結果降伏。他方、品川から逃れた榎本らの旧幕府海軍は箱館で翌年にかけて最後の抵抗を試みた。この戦争による討幕派の勝利は、新政府絶対主義官僚の地位と見通しを不動のものとし、以後の藩体制の急速な解体、明治天皇制統一国家形成へ決定的役割を果たした。(『角川日本史辞典』第二版、昭和41年初版によりました。一部、表記を改めてあります。) | ||||
13. |
試みに、「八握髯翁傳」を書き下してみます。(お気づきの点を教えていただけると幸いです。) 八 握 髯 翁 傳(やつかぜんをう・でん) 翁、名は近悳(ちかのり)、保科(ほしな)氏。元會津藩の巨室なり。公族を避けて世々西郷と稱す。翁、初め先子・憲彦君の蔭を以て職に就く。憲彦君致仕し、家を襲(おそ)ひ番頭と爲る。尋(つ)いで家老に遷るは、蓋(けだ)し異數なり。幕府の末造、藩主・芳山公、京師を守護す。翁、建言する所有るも、行はれず。移疾、職を辭す。明治元年正月、伏見の役起る。時に世子、會津に在り。翁に令して執事に起す。尋(つ)いで、江戸に之(ゆ)く。 途(みち)に、故(もと)の幕府大隊の歩兵の、營を脱して會津に奔(はし)るに逢ふ。翁、鎭撫して之(これ)に其の將・古屋作左衞門を附す。既に江戸に到り、藩邸を收めて會津に歸り、四境を防禦す。翁、初め猪苗代城に在り。後に白河に向かふ。閏四月廿五日、我が先鋒、大いに敵軍を破る。五月の朔、我が軍敗退す。翁、又建言する所有り。秋に至り、職を罷(や)む。八月廿三日、石筵(いしむしろ)嶺は守れず、出でて水戸兵を率(ひき)ゐて冬坂を守る。翌日、敵軍若松城に迫る。先妣(せんぴ)小森氏、妻飯沼氏、及び二妹五女、邸に火をはなち自盡す。翁、城下に火の起るを望み、馳せて城に入(い)れば、則ち幼兒・有鄰(ありちか)君側に在り。曰(いは)く、「母、兒をして侯公と起居せしむ。出づれば、則ち火起る」と。廿六日、翁、使(つかひ)を奉じて城を出(い)で、命(めい)を致して後、直ちに榎本武揚に仙臺に投ず。開陽艦に搭じて北海道に到る。艦中、會津開城して降るを聞き、復(ふたた)びは軍事に關はらず。、二年五月、敵軍函舘に入(い)る。自(みづか)ら降(かう)を牙營(がえい)に訴ふ。茲(こ)の時、氏を保科に復す。九月、舘林藩に幽せらる。三年二月、免(ゆる)さる。翁、幼きとき輭弱(なんじやく)、衣に勝(た)へざるが如し。壯に及びて頗(すこぶ)る健強、嘗て自(みづか)ら筮(ぜい)して噬嗑(ぜいかふ)を得(う)。先子及び族の近潔も亦、翁筮を爲す。並びに噬嗑に遇ふ。翁の藩公と相(あ)ひ合はざるは、蓋(けだ)し亦、命なるかな。維新後、舊公を輔(たす)け、日光東照の廟に奉祠すと雖(いへど)も、舊恩の萬一(まんいつ)に報ずる能(あた)はず。復た何をか云はんや。有鄰(ありちか)早世し、嗣無し。族の房成の後(のち)をして、宗家を繼いで先祀を奉ぜしむ。嗚呼、翁や治に居て益無し。國は亂に遇ひて、功を奏せず。尸素(しそ)の誹(そしり)を免るる能(あた)はざるなり。明治二十一年第十月、自ら傳を作り、且つ肖像に題して曰(いは)く、「六十僅かに一(いつ)を虧(か)く。邈然(ばくぜん)たる小丈夫、胸中物(もの)の在る無く、只(ただ)此の長鬚(ちやうしゆ)を蓄(たくは)ふ」と。 |