資料460 『栖雲記(一名雨の名残)』保科近悳(西郷頼母)著





        栖 雲 記 一名雨の名殘
              
著者 保 科 近 悳  前稱西郷頼母 
         


若人と思ひし人も追々うせて、ひとり殘さるゝ心ちぞするげにや行く川の流れ絶えずしてしかも本の水にあらず、よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとゞまる事なし、世の中にある人と住家と又此の如しとは、加茂長明が方丈記にしるせし詞也、其書はしも人品も時世の樣も、よく分りていと面白きふみなり、其佛門に入しは文中に自ら都にいでゝは乞食なれることを耻づといへども、かへりてこゝに居るときは、他の俗塵に着することを、あはれふとあるは、流石に耻しと思ひし事も有しにや、これも時世の風なれば咎むるにたらぬ事にこそ、いさゝか其樣に倣ふとにはあらねど、己が七十年に近き經歷の誌をこゝにものしぬ、さておのれは文政十三年閏三月を以て生れ、其年天保と改元有しとぞ、弘化嘉永安政萬延文久元治慶應となりて、天變地妖も幾度となく多かりき、世の人は太平に馴て危ぶむけしきもなかりしに、父君の常に戒められて、汝が一生の中には軍もあるべきぞ、ゆめ油斷すなとぞのたまひし、思へは思へば讖をなせしと云つべく、いともかしこし舊藩の例門地ある老職の子とて、十四歳の時初けさん給はり、若冠を越て近習の司になり、家を繼て家老となりしは三十三歳の時なり、此時中老に進め、奉行とて郡村市民を治め官庫の會計を司どる職にと、選擧せし人有けるを老職にはせられしとか、故殿の京都守護は國力の及ばぬ事とて、北條仲時時益の故事など引、初めより異見ありしも用ゐられず、其頃都へ登る折、
 みすゝかる信濃の秋の月も見つ慰め果し我心哉
又かへるさの道にて
 何事をなすの旅ちと人とはゞ末しら雲の奧と答へよ
 いつか又波によりこん竹芝の浦わの沖のあまの捨舟
遂に職を辭し、若松の東北なる舟石の山下長原村に栖雲亭を營み、罪なくて配所の月を咏め居たりしが、明治元年正月伏見の戰有し時、俄に職を復され、同年の夏白河の軍敗れてより、方面の隔絶せし故奇を以て白坂を突の策を建議してやまず、秋に至り職をやめられ、やがて敵よせ來て八月廿三日己が出陣中に、母君をはじめやから空しくなりぬるは、膓もたゆる計りなり、こはかねて自殺の覺悟なりければ此頃打よりて或は先きつ年かくれ給ひし、北の方の御かたみに賜はりし衣をとり出、又は幼なき子がおのれと肌着の襟袖付るなど、いと甲斐々々しかりき、母君の、秋霜飛兮金風冷、白雲去兮月輪高とは、父君のいまぞかりし程家宴の唱和に聯句をせし折の句を改めて絶命辭にし給ひしと、覺ゆる、老成
めきて夫人の句と聞えずいともかしこし、御歳は五十八歳にておはしましき、妻の千重子は三十四歳なりしが、なよ竹の風に任する身ながらもたわまぬふしは有とこそきけ、とは流石におとなひて聞ゆ妹なる眉壽子は兼て雄々しき心なりしが、しにかへりいく度世には生るともますら武雄と成なん物を、こは二十六歳にて、由布子は二十三歳なりしが、ものゝふの道と聞しをたよりにて思ひ立ぬる黄泉の旅哉、
とは赤穗義士の歌に等類有と覺ゆれど、暗合にて決心の樣さこそとかなし、十三のむすめ瀑布子が、手をとりて共に行なは迷はしよ、と云しに、いざたとらまし死出の山道、と十六歳なる姉の細布子か下の句を付たるなど中々にうひうひし、田鶴子は九歳常磐子は四歳季子が二歳にて、支族近虎夫妻外に、此春江戸の邸を引拂へて同居せし小森氏の家族外祖母をはじめ五人、町田傳八が家族三人、折節其女の淺井氏へ嫁せしが子をつれて來しとて共に空しくなりぬとぞ、千重子は太刀をとり有鄰に佩はせて、出せしと云り、それより幼なき者共の始末如何にしけん、思ひやられてあはれなり季弟説近は十八歳なりしが、五月六日に野州小佐越にて手負となり、前に學校なる病院にてはかなくなれり、(※1)後に薩摩     の國人中島信行が、我舊藩人中林包明にかたりしは、若松城門の前にいと大きやかなる屋敷あり、それに向ひ發砲すれど應ずるものなし、進みて内に入り長廊を過て奧なる便殿に婦人數多並居て自盡せり、其内に齡十七八なる女子の嬋娟たるが、いまだ死なずありて起かへりたれど、其目は見えず有けんかし、聲かすかに味方か敵かと問ふにぞ、わざと味方と答ひしかば、身をかい探り懷劍を出せしは、これをもて命をとめてよとの事なるべけれど、見るに忍びねば其まゝ首をはねて出る時、傍に七十計の老人がいといさぎよく腹切て居たり、其女子が懷劍は九曜の目貫にて舊井某が持りと云しとぞ、かれこれ合せ考ふるにこはおのが家にて、女子は細布子、紋の目貫つけし懷劍も覺えあり、またうら若き手弱女が今はの際成けん、聞に堪ずなむ、老人は近虎なるべく、何れも家聲を墜さぬを悦び薩摩人の厚意を謝するのみ、其頃太平の習ひとて不虞の用意薄く、郎黨の備ひ抔はなき世
なりしが、祖宗以來の家の子にて、森則諫は屋敷を取片付し後變名し士族にて父子今にあり、島影忠恕は北海道迄隨從せしが金澤藩へ幽せられ、後南部の地へ行て如何になりけん、土屋信臣は五月朔日に白河にて手を負ひ病院にて果て、そか祖父の信方は見彌山の樂人より祖父君に仕へ參らせ、齡九十成けん、いと健なる翁なりしが廿三日に門前にて鐵砲に當り討死せしとぞ、己が心置し馬脇の者迚十人程有しも、其外の家僕等と共に會津の所々に殘りて稀に尋る事もあり、扨おのれは籠城の中より越路出張の老等が許へ、輕き事の使を命ぜられて其事を果し、直樣北海に赴きしに、守の殿の面前にて、實に胸つぶれむばかりの事をさへ仰せしとかや、命を受たりし人は今も猶有ぬべし、維新の初め館林藩の幽閉を免ぜられ、東の京隅田の川邊より、伊豆の國月の浦近きあたりに移りしか、やがて謹申學舎を開き、里人等に學びの道を授けしに、都々古別の宮司になりたりし後、そを辭すべき旨令せられしは、西郷隆盛が謀反に組せし疑とぞ聞ゆ、故三位殿日光なる東照宮の宮司に任ぜられ、おのれは禰宜にて補佐すべき旨沙汰せられ、此ころよりかの胸つぶれん程の事も消やしぬらん、舊主從の間はますます親睦を加ひしのみ、古より怯者が讒諛して聰明をさまたげしためしの恐しくこそ、數年の後廢官となり、會津へもどり若松なる故郷にすみ、曾て傳を著して曰

   八 握 髯 翁 傳

翁名近悳保科氏、元會津藩之巨室也、避公族世稱西郷、翁初以先子憲彦君蔭就職、憲彦君致仕襲家爲番頭、尋遷家老、蓋異數也、幕府末造藩主芳山公守護京師、翁有所建言而不行、移疾辭職、明治元年正月伏見之役起、時世子在會津、令翁起執事、尋之江戸、途逢故幕府大隊歩兵脱營奔於會津、翁鎭撫附之其將古屋作左衞門、既到江戸收藩邸而歸會津、防禦四境、翁初在猪苗代城、後向白河、閏四月廿五日我先鋒大破敵軍、五月朔我軍敗退、翁又有所建言、至秋罷職、八月廿三日石筵嶺不守出率水戸兵守冬坂、(※2)翌日敵軍迫若松城、先妣小森氏妻飯沼氏及二妹五女火邸自盡、翁望城下火起、馳而入城則幼兒有鄰在君側、曰母令兒侯公起居、出則火起、廿六日翁奉使出城、致命後、直投榎本武揚於仙臺、搭開陽艦到北海道、艦中聞會津開城而降不復關軍事、二年五月敵軍入函舘、自訴降於牙營、茲時復氏保科、九月幽舘林藩、三年二月免、翁幼輭弱如不勝衣、及壯頗健強、嘗自筮得噬嗑、先子及族近潔亦爲翁筮、並遇噬嗑、翁之與藩公、不相合蓋亦命也矣、雖維新後輔舊公奉祠日光東照廟、不能報舊恩萬一、復云何邪、有鄰早世無嗣、令族房成之後繼宗家奉先祀、嗚呼翁也居治而無益、國遇亂而不奏功、不能免尸素之誹也、明治二十一年第十月自作傳且題肖像曰、六十僅虧一邈然小丈夫、胸中無物在、只蓄此長鬚
かくて靈山の宮司に補せられ徒然には十友十客をぞ伴ふそは
    益 友
心しる人なき身とて唐大和ふみゝる外に益友はなし
    寫 友
塵をたにすゑぬ硯の水鏡浮世の外をうつすなり鳧
    醉 友
世の外の雲にすむ身はかすゆ酒酌盃も曇らざりけり
    眠 友
捨しよも猶厭はるゝ折々は枕を友と夢に遊ばん
    閑 友
聲たてゝ靜けき物は松風の響きに通ふ釜の湯の音
    醒 友
徒然に枕をとりし名殘にはね覺の友と木のめをぞくむ
    明 友
老が身のね覺の友とより添て夜はにかゝぐる窓の燈火
    暖 友
昨日かも拾ひし眞薪折くべておき暖きうつみ火のもと
    馴 友
かくれかを戸ざゝぬ門の明暮に馴れはなるゝ犬も睦まし
    爨 友
飯かしぎ水汲業も朝な夕な吾妹子顔に老を扶けて
    芳 客
尋くる人なき宿は折々の花より繁く見る物もなし
    靜 客
訪人もなき山里に音たてゝしめやかにふる軒の雨哉
    羽 客
人とはぬこの山住のつれづれを慰め顔の鳥の聲かな
    煌 客
草むらの茂みを出てとぶ螢またねもやらぬ夕闇の空
    凉 客
我宿に浮世の外を吹風はわきて凉しきこゝちこそすれ
    皎 客
世の中の人に見せばや露深き蓬の窓にすめる月かげ
    玉 客
白玉か何そとみれば吹風にこぼれて消る淺ぢふの露
    鳴 客
あはれさの一つはしらす老が身の耳にはうとき虫の聲々
    錦 客 紅葉
折々の花は盡たる野に山におのが樣々染るもみぢ葉
    潔 客
中々に跡さへつけぬ深雪をば訪人もなき山陰のいほ

方丈の室さへ持ねど、或時は市中の隱士となり、又は神殿に世を避て、いつも世外の雲に心をすます身にぞ有ける子の有鄰は戊辰のとし幼名を吉十郎と云十一歳なるを置て出城し、君側のさまたげをせんもかしこければ、北海迄ともなひ彼方に止めたりしに、歸り來て二十二歳にてうせぬ、只ひとり殘れる子を失ひし心の中、實にせん方ぞなき、山田の家を繼たる我弟の直節は凾舘にても逢ひ、古河藩へ幽せ
られ後東京にては共に居たりしが米澤の人雲井龍雄に組し不軌を謀りしとの疑ひにて、囹圄につながれ空しくなりき、己も其折とらはるべかりしを、救し人有しとぞ、其子重郎は陸軍歩兵中尉にて、支那の軍に赴き大尉に進み直に臺灣守備隊に行き勳六等に叙せられしとか、今は幼なき兩兒もあり、我家血胤の近きは只こゝにある而已なれば、序あらん折贈らばやと、思ひ出るふしふししるし置ぬ
  二十九年九月
昔わが栖にし雲を尋れば涙の雨の名殘なりけり
人の行爲は善惡邪正共に其血統を評する物に候へば、努力々々心し給へかしあなかしこ
    由 緒 書
一 淸和源姓本國信濃井上掃部助賴季の流保科又穗科或星名
一 家紋並九曜、替紋梶葉丸に一字
一 舊主家は正則正俊正直と稱す、世鎗彈正正光、德川二代
 將軍秀忠公の庶子中將贈三位正之卿を養子とせらる
一 我家系は正直君弟三河守正勝子民部少輔正近十郎右衞門正長子なきを以て正近女西郷房茂に嫁せし妹の子賴母近房を養ひ沼澤吉通に嫁せし妹の子を妻あはせし也 
一 西郷家も淸和源姓にして德川家の戚親たり

 
 ※1  この部分の頭注に、次のような記述がある。
 栖雲曰或人云中島信行は國會の始め議長となり其後男爵をさへ賜はり華族に列せられし土佐の人にて同人の云しは此時直樣城を乘んと第一に城外に至りしは土佐の人數なりしとぞ我隣家なる内藤の屋敷に迫りし時城中よりの飛丸はげしくして城に付事なり難かりしと云し由なれは薩人と云しは誤にて土佐人の中島信行と同人なるべし
 ※2   この部分の頭注に、次のような記述がある。
 沼澤七郎曰故中島信行氏の實見談話によれば圓座自殉の中央に大なる火鉢ありて綿を置き柴を重ね火を放ちありしと然すれば同家に未だ火の擧らざるの前に同氏は闖入せし事と察せらる由是觀之吉十郎が父に告げし事も誤りなき次第也聊本記と實見談と相違の如く見む人もあらんことを恐れて爰に附記することゝせり此話は近悳翁の妹井澤八代子姪沼澤久仁子が聞知せし所なり


  (注) 1.  上記の『栖雲記(一名雨の名残)』保科近悳(ちかのり)(西郷頼母)著の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『沼澤道子君之傳』(高木盛之輔著・保科近悳著、大正2年5月29日・ 沼澤七郎発行)によりました。
『国立国会図書館デジタルコレクション』
 → 『沼澤道子君之傳』 
 → 「栖雲記(一名雨の名残)」19~26/28)
   
    2.  『栖雲記(せいうんき)』が書かれたのは、本文中にあるように、明治29年(1896)9月、その時頼母は66歳(数えで67歳)でした。    
    3.   平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの文字を繰り返すことによって表記してあります(「折々」の場合は「々」を用いました」)(「うひうひし」「ますます」「折々」「つれづれ」「ふしふし」)    
    4.  本文中に、濁点をつけてない仮名が見受けられますが、これは引用した本文のままにしてあります。    
    5.  〇西郷頼母(さいごう・たのも)=文久13年(1830)~明治36年(1903)。幕末の会津藩家老。名は、近悳(ちかのり)。通称、頼母(たのも)。栖雲(せいうん)、又は酔月、晩年は八握髯翁(やつかぜんおう)と号した。万延元年(1860)、31歳の時、家督と家老職を継いで藩主松平容保(かたもり)に仕える。文久2年(1862)、藩主の京都守護職就任に反対して解職される。慶応4年(1868)、戊辰戦争のさなか、家老に復職、白河口の戦いを指揮して新政府軍と戦ったが、敗れて帰城、再度恭順を唱えたが容れられず、降伏直前に軍への連絡にかこつけた追放措置とされる命を受けて城を脱出。仙台で榎本武揚の軍に加わって箱館に行き、最後の抵抗を試みた。箱館降伏後は館林藩に幽閉されていたが、のち許され、明治5年(1872)、伊豆で謹申学舎を開く。維新後は保科頼母(ほしな・たのも)と改名。明治8年(1875)、棚倉の都々古別神社宮司に就任。明治13年(1880)、日光東照宮禰宜。明治21年(1888)、若松に帰る。翌年、福島県霊山神社宮司となる。明治29年(1896)9月、『栖雲記』を記す。明治32年(1898)、霊山神社宮司を依願退職し、再び故郷に帰る。明治36年(1903)4月28日、死去。享年73(数えで74)。墓は、会津若松市内の善龍寺にある。

 ※ 善龍寺は、戊辰戦争で自刃した会津藩家老・西郷頼母一族の埋葬地であり、寺には頼母が自分の号と並べて妻千重子の名を刻んだ墓(保科八握髯翁墓・室飯沼八重子位)や、八重子の辞世の和歌「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそ聞け」を刻した歌碑や、碑陰に戊辰戦争で散った233名の会津藩の婦女子の名が刻まれている「奈與竹能碑(なよたけの碑)」などがあります。
  → 善龍寺・奈与竹の碑

 ※ 晩年の号「八握髯翁」(やつかぜんおう)の「八握」(やつか)とは、「八束」と同じで、「つか」は握った拳(こぶし)の小指から人差指までの幅をいいます。「八握(八束)」とは、束(つか)八つ分ある長さのこと、また、たけの長いこと。つまり、「八握髯翁」とは、ひげの長い老人、という意味です。「長いひげ」のことを言う「八束鬚(やつかひげ)」という言葉もあります。(日本書紀・神代紀上「八束鬚生ひたり」)。(この項は、『広辞苑』によってまとめました。)
   
    6.   『栖雲記』の本文は、堀田節夫著『会津藩老・西郷頼母自叙伝『栖雲記』私注』によれば、次のものに出ている由です。(詳しくは、同書54~56頁を参照してください。)
 〇『沼沢道子君之伝』高木盛之輔・保科近一共著(大正2年5月29日発行)(引用者注: 高木盛之輔・保科近一共著とあるのは同書の奥付の記載で、実際の筆者は高木盛之輔と西郷頼母)  
 〇『史談会速記録』第333輯(大正11年11月18日例会に於て斉藤一馬君の旧会津藩国家老西郷頼母氏維新前後の事蹟に関する談話)
 〇『東洋日の出新聞』(大正12年4月6、7、8日、第1面に分割して連載)
 〇『会津史談』第1号(昭和6年12月、B6判謄写印刷)
 〇『会津戊辰戦争史料集』(宮崎十三八編、新人物往来社・1991年9月刊) 
 〇保科近一氏所蔵の写本
 〇西郷四郎氏による写記
   
    7.  『会津の歴史』というサイトに「戊辰戦争百話」があり、その第92話に「家老・西郷頼母」があって参考になります。
 『会津の歴史』
  →「戊辰戦争百話」
  → 「第九十二話:家老・西郷頼母」
   
    8.   フリー百科事典『ウィキペディア』 に、「西郷頼母」の項があります。
『ウィキペディア』
   → 「西郷頼母」
   
    9.  『日本歴史 武将人物伝』というサイトに、「西郷頼母~幕末の動乱期に藩主・松平容保を支えた会津藩家老」があります。    
    10.  『会津藩老・西郷頼母自叙伝『栖雲記』私注』(堀田節夫著、東京書籍・1993年9月30日第1刷発行)には、詳しい注釈・年譜が出ています。(現在、絶版だそうです。2013年6月20日現在)    
    11.  上記の『会津藩老・西郷頼母自叙伝『栖雲記』私注』によって、いくつかの注を引かせていただきます。詳しい注釈は、同書を参照してください。(引用は原文通りではありませんので、文責は当然引用者にあります。)

 〇思へば思へば讖をなせしと云つべく……「讖」(シン)は、予言。堀田氏は、「思へば思へば」となっている本があるのは、印刷上の誤植であろうと思う、としておられる。   
 〇流石におとなひて聞ゆ……「おとなひて」は、おとなびて。   
 〇ますら武雄……「益荒猛男」で、いさましい男。  
 〇有鄰に佩はせて……有鄰(ありちか)は、西郷吉十郎有鄰。頼母の長男。明治13年(1880)、東京で死亡。享年24(数え年)。「佩はせて」は、「佩(は)はせて(ハワセテ)」で、帯につり下げて。  
 〇軽き事の使を命ぜられて……越後方面に従軍していた部将らが帰城しつつあった、その部将への伝言の使いを命じられたこと。    
 〇守の殿……会津藩主松平容保は、このころ既に家督を養子喜徳にゆずり隠退という形であったはずだから、守城の殿といえば喜徳を指すことになる。この殿の面前で胸がつぶれるほどのことを「仰せしとかや」と敬語で語っているところからすれば、「仰せし」人は容保公となろうか。あるいは側近の重役であったか。「守」を “カミ” と解釈すれば、当然、肥後守容保公となろう。   
 〇胸つぶれむばかりの事……城を出て行く頼母と吉十郎の二人に刺客が差し向けられたことをいう。
 〇嘗自筮得噬嗑……嘗て自ら筮(ぜい)し噬嗑(ぜいこう)を得(う)。筮は、占う。噬嗑は、易の卦で、刑獄罪因の象。つまり、君(容保)と臣(頼母)が、うまく噛み合わないという卦になる。    
 〇尸素之誹……しそのそしり。尸素とは、尸位素餐の略。その位にありながらその務めを尽さず私利ばかりはかる、という非難。    
 〇霊山……りょうぜん。福島県伊達市霊山町。山は伊達市と相馬市の境に位置し、標高825メートル。広大な岩山で、国の史跡・名勝、県立公園に指定されている。山頂に慈覚大師の建立した霊山寺がある。霊山神社は、霊山の山頂から2キロばかり離れた山麓にある。明治14年の創建で、祭神は北畠親房とその子顕家・顕信・守親の4公。
   
    12.  〇戊辰戦争(ぼしんせんそう)=戊辰の役(えき)ともいう。1868(慶応4)年1月3日の鳥羽・伏見の戦いから1869(明治2)年5月18日の五稜郭の戦いで榎本武揚らが降伏するまでの討幕派と旧幕府軍の戦争。1867年12月9日夜の小御所会議により江戸幕府15代将軍徳川慶喜に辞官・納地が要求され、薩長側の挑発によって鳥羽・伏見の戦いとなり、この緒戦で旧幕府軍は敗れ、中立諸藩も次第に討幕軍側についた。また、この内乱の革命転化を恐れたイギリス公使パークスのあっせんで、諸外国は1月25日局外中立を宣言。関東一帯の百姓一揆高揚の中で討幕軍は4月江戸城を接収。この間、慶喜は恭順の意を表す一方、旧幕府主戦派は上野東叡山での彰義隊の戦い、その他関東各地での抵抗、また、東北地方では閏4月に仙台・米沢藩を中心に奥羽列藩同盟、さらに翌月奥羽越列藩同盟へ発展、会津戦争となったが、9月会津落城の結果降伏。他方、品川から逃れた榎本らの旧幕府海軍は箱館で翌年にかけて最後の抵抗を試みた。この戦争による討幕派の勝利は、新政府絶対主義官僚の地位と見通しを不動のものとし、以後の藩体制の急速な解体、明治天皇制統一国家形成へ決定的役割を果たした。(『角川日本史辞典』第二版、昭和41年初版によりました。一部、表記を改めてあります。)    
    13.  試みに、「八握髯翁傳」を書き下してみます。(お気づきの点を教えていただけると幸いです。) 

    八 握 髯 翁 傳(やつかぜんをう・でん)
翁、名は近悳(ちかのり)、保科(ほしな)氏。元會津藩の巨室なり。公族を避けて世々西郷と稱す。翁、初め先子・憲彦君の蔭を以て職に就く。憲彦君致仕し、家を襲(おそ)ひ番頭と爲る。尋(つ)いで家老に遷るは、蓋(けだ)し異數なり。幕府の末造、藩主・芳山公、京師を守護す。翁、建言する所有るも、行はれず。移疾、職を辭す。明治元年正月、伏見の役起る。時に世子、會津に在り。翁に令して執事に起す。尋(つ)いで、江戸に之(ゆ)く。
途(みち)に、故(もと)の幕府大隊の歩兵の、營を脱して會津に奔(はし)るに逢ふ。翁、鎭撫して之(これ)に其の將・古屋作左衞門を附す。既に江戸に到り、藩邸を收めて會津に歸り、四境を防禦す。翁、初め猪苗代城に在り。後に白河に向かふ。閏四月廿五日、我が先鋒、大いに敵軍を破る。五月の朔、我が軍敗退す。翁、又建言する所有り。秋に至り、職を罷(や)む。八月廿三日、石筵(いしむしろ)嶺は守れず、出でて水戸兵を率(ひき)ゐて冬坂を守る。翌日、敵軍若松城に迫る。先妣(せんぴ)小森氏、妻飯沼氏、及び二妹五女、邸に火をはなち自盡す。翁、城下に火の起るを望み、馳せて城に入(い)れば、則ち幼兒・有鄰(ありちか)君側に在り。曰(いは)く、「母、兒をして侯公と起居せしむ。出づれば、則ち火起る」と。廿六日、翁、使(つかひ)を奉じて城を出(い)で、命(めい)を致して後、直ちに榎本武揚に仙臺に投ず。開陽艦に搭じて北海道に到る。艦中、會津開城して降るを聞き、復(ふたた)びは軍事に關はらず。、二年五月、敵軍函舘に入(い)る。自(みづか)ら降(かう)を牙營(がえい)に訴ふ。茲(こ)の時、氏を保科に復す。九月、舘林藩に幽せらる。三年二月、免(ゆる)さる。翁、幼きとき輭弱(なんじやく)、衣に勝(た)へざるが如し。壯に及びて頗(すこぶ)る健強、嘗て自(みづか)ら筮(ぜい)して噬嗑(ぜいかふ)を得(う)。先子及び族の近潔も亦、翁筮を爲す。並びに噬嗑に遇ふ。翁の藩公と相(あ)ひ合はざるは、蓋(けだ)し亦、命なるかな。維新後、舊公を輔(たす)け、日光東照の廟に奉祠すと雖(いへど)も、舊恩の萬一(まんいつ)に報ずる能(あた)はず。復た何をか云はんや。有鄰(ありちか)早世し、嗣無し。族の房成の後(のち)をして、宗家を繼いで先祀を奉ぜしむ。嗚呼、翁や治に居て益無し。國は亂に遇ひて、功を奏せず。尸素(しそ)の誹(そしり)を免るる能(あた)はざるなり。明治二十一年第十月、自ら傳を作り、且つ肖像に題して曰(いは)く、「六十僅かに一(いつ)を虧(か)く。邈然(ばくぜん)たる小丈夫、胸中物(もの)の在る無く、只(ただ)此の長鬚(ちやうしゆ)を蓄(たくは)ふ」と。
   







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