資料456 杜甫の詩「九日藍田崔氏荘」

 

 

 九日藍田崔氏莊   杜 甫 

 

 


 
老去悲秋強自寛
 
興來今日盡君歡

羞將短髮還吹帽

笑倩旁人爲正冠

藍水遠從千澗落

玉山高竝兩峯寒

明年此會知誰健

醉把茱萸仔細看



 

 

 

(訓読)
 
九日(きうじつ)藍田(らんでん)の崔氏(さいし)の莊(さう)

老い去つて悲秋(ひしう)(し)ひて自(みづか)ら寛(ゆる)うす。
(きよう)(きた)つて今日(こんにち)君が歡(くわん)を盡くす。
羞づらくは短髮を將
(も)つて環(ま)た帽を吹かるるを。
笑つて旁人
(ばうじん)に倩(たの)んで爲(ため)に冠(くわん)を正さしむ。
藍水
(らんすい)は遠く千澗(せんかん)より落ち、
玉山
(ぎよくざん)は高く兩峰(りやうほう)を竝(なら)べて寒し。
明年
(みやうねん)此の會(くわい)知る誰(たれ)か健(けん)なる。
醉うて茱萸
(しゆゆ)を把(と)つて仔細(しさい)に看(み)る。


 


     
    (注)  1. 上記の杜甫の「九日藍田崔氏荘」という七言律詩は、新釈漢文大系 19 『唐詩選』
         (目加田誠著、明治書院・昭和39年3月10日初版発行、昭和47年3月1日12版発
         行)によりました。
        2. 新釈漢文大系『唐詩選』所収のこの詩の目加田氏の「語釈」をお借りして、その一部
         を引かせていただきます。詳しくは、同書563~4頁を参照してください。

              藍田崔氏荘……藍田県は長安の東南、終南山の麓にあり、王維の別荘もあったところ。
                ここに崔氏という人の別荘がある。乾元元年、長安の宮廷から華州司功参軍に出さ
                れた杜甫は、田舎の役所づとめに、日々怏々として楽しまなかった。ことにその夏は
                暑気烈しく、蠅はうるさく、事務上の書類は机の上にうずたかく積もった。やっと秋に
                なり、九月九日重陽の節句に、華州から余り遠くない藍田の崔氏の別荘に招かれて、
                酒宴の席で作った詩。乾元元年(758)作者47歳。
              自寛……自ら心をひろく持つこと。
              吹帽……晋の桓温が荊州を治めていた時、九日の宴にお、たまたま風が吹いて来て、
                参軍の孟嘉の帽子を吹き落とした。桓温はこれを見て、人に文章を作らせてから
                かったが、孟嘉は落ち着きはらって、名文を以てそれに答えたということが、陶淵
                明の「晋故征西大将軍長史孟府君伝・晋書巻九十八、叛逆伝」に見える。
              
千澗……多くの谷。
              玉山……藍田山。ここから美しい玉を産するのでこの名がある。
              
竝兩峯……これは、あるいは玉山に両峯あり、それが並んで聳える意味に解し、ある
                いは玉山と両峯とは別物とし、玉山と両峯とが高く並ぶ意に解する。よく分からぬが
                前説に従う。
              
……人に請うて代わってしてもらうこと。
              茱萸……ぐみではなく、ハジカミというものの一種らしい。重陽の節句に、丘に登るとき、
                              この茱萸の実のついた枝を厄よけのため髪にさすという。
           「明年此會知誰健」の句を、目加田氏は、「来年の集まりに、果たして誰が健在でいること
            やら」と訳しておられます。

        3. 新釈漢文大系の『唐詩選』には、「語釈」の他に「通釈」「余説」が出ています。
          また、同書の巻頭にある「唐詩概説」の「玄宗の時代─盛唐の詩人たち」には、
         杜甫についても詳しく書かれてあり、特にこの詩(九日藍田崔氏荘)が作られたこ
         ろの杜甫の生活については、106頁前後に詳しく触れてあります。
          一部を引用させていただくと、
           
その六月(乾元元年)、早くも彼自ら欲するのではなく、朝廷から身を退けざるを得ない事に
            なった。以前彼が弁護した房琯が、(中略)弾劾されて、邠州の刺史に出されることになり、
            (中略)杜甫もこの一派と目されたのか、華州司功参軍に出された。/華州は華山の麓の、
            いなかの県で、この地における杜甫の生活はまことに索漠たるものであった。六月華州に至
            り、七月炎暑ことにきびしく、昼は蠅、夜はサソリに悩まされ、役所の書類は、日々に机上に
            うず高かった。「束帯狂を発して大いに叫ばんと欲す。簿書何ぞ急
(しきり)に来たって相仍(よ)
               
るや。」と歌った。それでも、やがて秋が来る。秋色は一入(ひとしお)わびしく、九月九日、
            藍田の崔興宗の別荘を訪うた。「九日藍田崔氏荘」
(唐詩選七律)はこのころの杜甫の心懐
            をうつして、思い深いものである。(同書、106頁)

        4. 杜甫(とほ)=盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。鞏
(きょう)県(河南鄭州)の人。
              先祖に晋の杜預があり、祖父杜審言は初唐の宮廷詩人。科挙に及第せず、
              長安で憂苦するうちに安禄山の乱に遭遇。一時左拾遺として宮廷に仕えた
              が、後半生を放浪のうちに過ごす。その詩は格律厳正、律詩の完成者とされ
              る。社会を鋭く見つめた叙事詩に長じ、「詩史」の称がある。李白と並び李杜
              と称され、杜牧(小杜)に対して老杜という。工部員外郎となったので、その
              詩集を「杜工部集」という。(712-770)  
(『広辞苑』第6版による。)
      
 



                            
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