(注) | 1. | 上記の杜甫の「九日藍田崔氏荘」という七言律詩は、新釈漢文大系 19 『唐詩選』(目加田誠著、明治書院・昭和39年3月10日初版発行、昭和47年3月1日12版発行)によりました。 | |||
2. |
新釈漢文大系『唐詩選』所収のこの詩の目加田氏の「語釈」をお借りして、その一部を引かせていただきます。詳しくは、同書563~4頁を参照してください。 〇藍田崔氏荘……藍田県は長安の東南、終南山の麓にあり、王維の別荘もあったところ。ここに崔氏という人の別荘がある。乾元元年、長安の宮廷から華州司功参軍に出された杜甫は、田舎の役所づとめに、日々怏々として楽しまなかった。ことにその夏は暑気烈しく、蠅はうるさく、事務上の書類は机の上にうずたかく積もった。やっと秋になり、九月九日重陽の節句に、華州から余り遠くない藍田の崔氏の別荘に招かれて、酒宴の席で作った詩。乾元元年(758)作者47歳。 〇自寛……自ら心をひろく持つこと。 〇吹帽……晋の桓温が荊州を治めていた時、九日の宴にお、たまたま風が吹いて来て、参軍の孟嘉の帽子を吹き落とした。桓温はこれを見て、人に文章を作らせてからかったが、孟嘉は落ち着きはらって、名文を以てそれに答えたということが、陶淵明の「晋故征西大将軍長史孟府君伝・晋書巻九十八、叛逆伝」に見える。 〇千澗……多くの谷。 〇玉山……藍田山。ここから美しい玉を産するのでこの名がある。 〇竝兩峯……これは、あるいは玉山に両峯あり、それが並んで聳える意味に解し、あるいは玉山と両峯とは別物とし、玉山と両峯とが高く並ぶ意に解する。よく分からぬが前説に従う。 〇倩……人に請うて代わってしてもらうこと。 〇茱萸……ぐみではなく、ハジカミというものの一種らしい。重陽の節句に、丘に登るとき、この茱萸の実のついた枝を厄よけのため髪にさすという。 ※「明年此會知誰健」の句を、目加田氏は、「来年の集まりに、果たして誰が健在でいることやら」と訳しておられます。 |
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3. |
新釈漢文大系の『唐詩選』には、「語釈」の他に「通釈」「余説」が出ています。 また、同書の巻頭にある「唐詩概説」の「玄宗の時代─盛唐の詩人たち」には、杜甫についても詳しく書かれてあり、特にこの詩(九日藍田崔氏荘)が作られたころの杜甫の生活については、106頁前後に詳しく触れてあります。一部を引用させていただくと、 その六月(乾元元年)、早くも彼自ら欲するのではなく、朝廷から身を退けざるを得ない事になった。以前彼が弁護した房琯が、(中略)弾劾されて、邠州の刺史に出されることになり、(中略)杜甫もこの一派と目されたのか、華州司功参軍に出された。/華州は華山の麓の、いなかの県で、この地における杜甫の生活はまことに索漠たるものであった。六月華州に至り、七月炎暑ことにきびしく、昼は蠅、夜はサソリに悩まされ、役所の書類は、日々に机上にうず高かった。「束帯狂を発して大いに叫ばんと欲す。簿書何ぞ急(しきり)に来たって相仍(よ)るや。」と歌った。それでも、やがて秋が来る。秋色は一入(ひとしお)わびしく、九月九日、藍田の崔興宗の別荘を訪うた。「九日藍田崔氏荘」(唐詩選七律)はこのころの杜甫の心懐をうつして、思い深いものである。(同書、106頁) |
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4. | 〇杜甫(とほ)=盛唐の詩人。字は子美、号は少陵。鞏(きょう)県(河南鄭州)の人。先祖に晋の杜預があり、祖父杜審言は初唐の宮廷詩人。科挙に及第せず、長安で憂苦するうちに安禄山の乱に遭遇。一時左拾遺として宮廷に仕えたが、後半生を放浪のうちに過ごす。その詩は格律厳正、律詩の完成者とされる。社会を鋭く見つめた叙事詩に長じ、「詩史」の称がある。李白と並び李杜と称され、杜牧(小杜)に対して老杜という。工部員外郎となったので、その詩集を「杜工部集」という。(712-770)(『広辞苑』第6版による。) | ||||