|
(注) |
1. |
本文は、筑摩書房発行の『太宰治全集 第七巻』(昭和33年4月25日発行)によりました。 |
|
|
|
2. |
漢字は常用漢字に改めました。また、ルビは( )に入れて示しました。 |
|
|
|
3. |
文中に、作者が『思ひ出』の一節を引用したところがありますが、その中に出てくる「(中略)」は、原文のままです。 |
|
|
|
4. |
上記全集の後記によれば、『津軽』は、小山書店の『新風土記叢書』の第七編として、昭和19年11月に刊行されました。この年5月、書店の依頼を受けて津軽地方を旅行し、その旅行の見聞をもとにして書き下ろし、7月に完成したものということです。 |
|
|
|
5. |
また同後記には、全集の校訂は初版本に拠り、昭和22年に前田出版社から改訂再刊された再刊本を参照した、とあります。 |
|
|
|
6. |
電子図書館『青空文庫』で、『津軽』の全文を読むことができます(新字旧かな)。 |
|
|
|
7. |
渡部芳紀先生の『太宰治資料館』があって、たいへん参考になります。また、『津軽』の全文は、ここでも読むことができます。
リンクが繋がりませんので、リンクを外しました。(2023年10月1日) |
|
|
|
8. |
北津軽郡中泊町が管理する『小説「津軽」の像記念館』が、中泊町大字小泊字砂山にあります。記念館は、小泊小学校の運動場を望む丘に建てられていて、傍らに越野たけと太宰治の像があるそうです。
(1)『青森県観光情報サイト』というサイトに、『小説「津軽」の像記念館』を紹介したページがあります。
(2)『こまきのいせきものがたり』というホームページが作成したと思われる、同じく
『小説「津軽」の像記念館』を紹介したページがあります。 |
|
|
|
9. |
太宰とたけの実際の再会の様子は、作品とはかなり違うと言われています。ここでは、作品の美しい再会の場面の印象を大切にしたいので、それについては触れないでおくことにします。
……とはいうものの、少し触れておくことにします。
2009年12月8日の朝日新聞夕刊に『ニッポン人脈記』漢字の森深く(10)が出ていて、そこに『津軽』の、タケとの再会の場面が取り上げられています。相馬正一さん撮影の越野タケさんの写真も載っています。(筆者は、編集委員・白石明彦氏)
その中の一部を引用させていただくと、
<太宰と同郷の文芸評論家相馬正一(そうま・しょういち)は、(略)高校教師をしながら太宰研究に打ちこみ、のちに優れた評伝で名をなす。タケに何度も会い、思い出話を聞いた。
「あの有名な場面がほとんど虚構と知った時は、いやあ、本当にびっくりしました」
太宰は再会した国民学校で、実はタケそっちのけで知り合いの住職に酒をふるまわれていたという。竜神様でもタケと言葉をかわしていない。
相馬はこの住職からも再会の実情を明かされ、こう考えた。
「太宰は母にかわいがられなかった。タケさんの姿を借りて育ての母という像を作り、安心立命を得たかったのでしょう。再会シーンは願望なのです。愛をめぐる虚構の天才ですね」
(略)太宰の娘、のちの作家太田治子(おおた・はるこ)(略)もタケに会っている。(略)「津軽」は太宰文学のなかでも治子の好きな作品の一つだ。
「タケさんと再会する場面にフィクションはあっても、父の心にうそはありません」
タケは(略)83年に85歳で亡くなり、今月15日が命日になる。>
(2009年12月17日付記) |
|
|
|
10. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に、「津軽(小説)」 の項があります。 ここには、「相馬正一の研究(『評伝 太宰治』、筑摩書房、改訂版津軽書房ほか)によれば、作中の竜神様の場面において、タケとは一言も言葉を交わしていなかったとしている。また、運動会の場面において、太宰は一人離れて周りの景色を見ていた」とあります。
※ 相馬正一著『評伝 太宰治』改訂版、上巻・下巻(弥生書房、1995年発行)(2012年3月5日付記) |
|
|
|
11. |
『西南学院大学国際文化学部』のホームページに、「第3回研究旅行奨励制度報告書」があり、ここに「太宰治と「家」」があって参考になります。
『西南学院大学国際文化学部』
→ 「第3回研究旅行奨励制度報告書」
→ 「太宰治と「家」」 (2013年6月5日付記) |
|