水戸小川稽醫館碑銘幷序
郡奉行小宮山昌秀撰文 常陸茨城郡小川城園部兼泰始築之其後世属小田氏 及天正中有園部宮内大輔子助大郎爲佐竹義宣所滅 慶長中戸澤右亰亮政盛封焉政盛移封於手綱城之後 即以其地益入我 威公封域之中 公乃就其地 搆別館爲游息之處後置運漕奉行享和中予奉治民之 軄兼領運漕事移其局於上戸村小川醫本間玄琢等請 以其舊舘爲醫書講習之處予喜其擧上其事 文公 命許之名曰稽醫館於是醫人集會肄其業者日益進皆 感 公之恩請予記其事乃系以銘曰 維民之生所欲佚樂維病之發所仰鍼藥行遠者假於車 濟江者因於航非假醫力誰濟夭横嗟生死所係慎之戒 之戒慎如何在仁以治 文政元年二月二日建 小姓頭鵜殿廣生書及篆額 |
(注) | 1. |
上記の本文は、「水戸小川稽医館碑銘幷序」の拓本の写真(小美玉市の『広報おみたま』第74号(平成24年5月号)18頁に掲載)、及び碑文双書(一)『碑文・墓碑銘集』茨城県内版(漢文編)(鈴木健夫・田代辰雄
編著、平成20年7月25日発行に掲載)により記述しました。 |
|||
2. |
初めの「水戸小川稽医館碑」の部分が篆額で、これが碑の上部に2字ずつ縦書きで、右から「水戸/小川/稽医/館碑」と4行に書いてあります。 本文の改行は、碑文のとおりにしてあります。漢字もできるだけ碑文の漢字に合わせるようにしました。 また、文中に2字分の空白の部分があるのは、いわゆる「闕字(けつじ)」で、ここは威公(徳川頼房)と文公(徳川治保)に敬意を表すためのものです。 |
||||
3. |
「稽医館」は、文化元年(1804年)、当時水戸領であった小川村(東茨城郡小川町を経て、現・小美玉市)の医師・本間玄琢(1755-1824)が、郡奉行小宮山昌秀(楓軒)に願い出て藩主の許しを得て小川村に創設した医学研究所です。 稽医館の名は碑文にあるように、水戸藩6代藩主・文公徳川治保(はるもり)から賜ったものです。 稽医館はその後、安政5年(1858年)に「小川郷校」となって文武館と呼ばれるようになり、次第にその医学館としての性格を変えて行きました。現在、その跡地は小美玉市立小川小学校になっており、敷地内にこの碑が建っています。 この碑が建てられた文政元年は、西暦1818年です。 |
||||
4. | 『広報おみたま』第74号(平成24年5月号)に掲載されている「小美玉市の歴史を知ろう(20) 小川稽医館の碑~江戸時代の地域医療の場~」に、碑の拓本の写真と解説文が載っています。解説文の一部を引用させて頂きます(18/20頁)。 稽医館の碑は、高さ160cmの平石に漢文で刻まれている顕彰碑です。建立は、創設者である玄琢晩年の文政元年(1818)二月二日であり、稽医館以前の歴史、稽医館創設の由来、医道の心得などで構成されています。 撰文(文章をつくる人)は、水戸南郡の郡奉行小宮山楓軒(こみやまふうけん)、篆額(てんがく・篆字で彫った題字)が水戸藩小姓頭(こしょうがしら)で能筆家として有名であった鵜殿広生によるものです。 天保十二年(1841)、第九代水戸藩主徳川斉昭は、文武両道を教育方針とした藩校弘道館を創設します。安政五年(1858)、稽医館は、藩校弘道館の指導下に置かれ、名称も小川郷校(ごうこう)と改名されました。しかし、稽医館時代の伝統は受け継がれ、医学振興も重視されました。 |
||||
5. | 碑文双書(一)『碑文・墓碑銘集』茨城県内版(漢文編)(鈴木健夫・田代辰雄 編著、平成20年7月25日発行)には、「水戸小川稽医館碑」の拓本の写真とともに、書き下し文が出ています。(同書、201-202頁) | ||||
6. | 『茅葺き情報ネット』のホームページに「小川町やすらぎの里 旧村山家住宅(本間玄琢の生家)」があります。 | ||||
7. | フリー百科事典『ウィキペディア』に「本間玄琢」の項はありませんが、本間玄琢の孫にあたる「本間棗軒」(通称・玄調)の項があります。(本間玄琢─玄有(養子・長女の婿)─玄調) フリー百科事典『ウィキペディア』 → 「本間棗軒(玄調)」(玄琢の孫) |
||||
8. |
『小川町史 下巻』(小川町史編さん委員会編集、小川町・昭和63年3月25日発行)に、「小川稽医館」の章があって、そこに「稽医館」について次のように出ています。 文化元年(1804)玄琢50歳の時、水戸六代藩主治保(はるもり)に対して、郷医の医学研究所を創設したいからと、郡宰小宮山楓軒を介して願いでた。藩主からは早速お許しがでて「稽医館」の名を賜わった。稽医館の「稽」は稽古の稽で、学問や技術を習うことを意味し、医学研究所には最も適切な名前であると喜んだ。さらに小川城跡にあった水戸藩運送庁の建物が、その前年上戸村(牛堀町)に移転になり、空家になっていたので当分の間使用することがよかろうと奨められた。玄琢は藩主並びに郡宰が以前から医学振興に関心を寄せられていたこと、よき機を見る識見をもっていたことに感激し、稽医館経営に全精魂を傾注し、期待にこたえる決意をしたという。(以下、略)(同書、509頁) また、「稽医館の碑」について、次のように出ています。 小川城の沿革と稽医館の由来を記した「水戸小川稽医館」の碑が、小川小学校々庭の稽医館ゆかりの地に建っている。高さ160センチの平石で、撰文は当時の南部宰小宮山昌秀(楓軒)先生、書並びに篆額は鵜殿広生(清虚)である。かつては山桜の老木が三、四本と、広く枝を垂れた老松が、その他の巨木とともに配置よく碑を覆っていた。現在は碑が小学校玄関前に移転し、遺跡の小山はとりこわされ、名木・古木も総て姿を消して、昔の面影は全く見られなくなった。また古城跡には珍木が多く、ケンポ梨の大木は天然記念物として県の指定を受けていたが、樹勢衰え最近伐採になった。その他クルミの老木、高く背の伸びた大王松、中国から渡来したという松柏科の名木があり、稽医館の薬学研究に関係のある植物といわれている。(同書、511頁) |
||||
9. |
本間玄琢について、『小川町史 下巻』(小川町史編さん委員会編集、小川町・昭和63年3月25日発行)から引用させていただきます。 本間玄琢の人となり 本間玄琢は、宝暦5年(1755)馬場村(大字下馬場163)の里正、村山儀衛門の長子に生まれ、名を義見墨斎と称した。明和5年(1768)14歳で小川村の医本間道意に認められその嗣となる。すぐれた知性と勤勉さは早くから衆を抜き、道意夫妻の愛育の中で医学修業は順調に進んでいった。天明3年(1783)義見29歳で、太田屋与兵衛の紹介で水戸藩医原南陽の門に入り、さらに研鑽を重ね、帰って名を玄琢と改め本間五世を継いだ。以後天明8年道意の死亡まで、養父を援け診療に専念した。玄琢の名医としての評判はますます高まり、遠隔の地からも患者が殺到する盛況だったといわれている。「玄琢記」にも「近郷数里聘招迎礼その方剤を、乞いしという」とみえる(『小川町史』上巻222頁)。小川地方では名医道意をしのぐ後継者玄琢に、信頼と尊敬の念をもって医療の総てをまかせ、また南陽門人の間でも勤勉家、努力家として信望が厚かった。とくに患者に対しては慎重かつ丁寧で、診療した者は必ず平癒させるということでも有名であった。 玄琢にはかねがね稽医館設立の契機となった持論があった。それは「医者は人間の生命を預かる大切な役人であるが、田舎には良医に恵まれないために、助かる病人を死なせてしまうことがある。しかしたとえ田舎医者でも何人かが一堂に会して、問題の症状に対して討論をつくし、疑いを正して適正な投薬をすれば助けることができる」と強い信念をもって近郷の医者の相互研究の場を作り、医療技術を磨き合うことの必要を強調した。さらに人間が若死したり、大なり小なりの病気にかかることは、きわめて不幸なことであり、ときには財産をなくして一家の悲劇を招くことにもなる。このために上古の聖神は妙薬を創案されたのである、ともいっている。(同書、508~9頁) 玄琢の晩年 「小川稽医館草設の医生名簿」(『小川町史』上巻222頁)によると、水戸・部垂・東野・出島の有河などの遠隔地からの出席者があり、その筆頭に原玄与(南陽)の名がある。玄琢と玄与とは天明3年(1783)以来、師弟関係にあり、また草創の医生名簿の中には南陽の門弟が6人ほど見られ、その後も玄琢の子および孫は南陽に師事しているので、玄琢の稽医館設立には原南陽の示唆と援助が多分にあったものと思われる。潮来町の名刹長勝寺には本間家の過去帳(『小川町史』上巻257頁)があり、その中に本間家と血縁関係のない原南陽が「蘭耕院南陽日叢居士」の戒名で記されている。玄琢はもちろん本間家子孫は、南陽先生の逝去後も尊崇生前と変りなく、命日ごとに法要を行なっていたようである。 文化2年、玄琢は苗字帯刀を許され、文化5年7月に水戸藩医員に名をつらねたが、文政7年(1824)4月6日病のため70歳の生涯を閉じた。小川天聖寺墓地には「有斐院切瑳玄琢居士」と先妻「見性院安心退休大婦」と夫妻の戒名を並べて大書した墓碑が建っている。切磋琢磨に明け暮れた本間玄琢の真摯な努力と、絶えず同志とともに学徳を磨き上げた奇特な姿が表徴されている。また碑の左側には「閑古鳥こころとむれば風が吹く」の辞世の句が、裏面には「故玄琢本間先生墓標」として先生の来歴と業績が、七世義香(道偉)の撰文で刻されている(『小川町史』上巻251頁)。 玄琢はまた趣味豊かで、始祖道悦と同じ松江の俳号を称し「小川社中」の句会を結成、名句を沢山残しており、天聖寺墓地内には、同志の句碑が幾つか建っている。嘉永元年(1848)には、玄琢の門弟らによって大きな句碑が建てられ、「つゝがなく実をもつ芥子(けし)の一重かな」とある。 玄琢先生の実父、村山儀衛門夫妻の墓は、下馬場共同墓地内にあり、「常実光相清信士 寛政元年(1789)酉二月五九歳」「円樹昌了清信女 享和三年(1803)亥三月」とみえる。(同書、510頁) |
||||
10. | 茨城新聞
2013年(平成25年)1月22日の紙上に、「小川稽医館」の記事と碑の写真が掲載されています。 |
||||
11. |
試みに、井坂教著『小川稽医館』(ふるさと文庫)、鈴木健夫・田代辰雄
編著『碑文・墓碑銘集』茨城県内版(漢文編)1に掲載されている書き下し文を参考に、自身の書き下し文を考えてみます。暫定的な書き下し文です。お気づきの点を教えていただければ幸いです。(2013年1月29日現在) 水戸小川稽醫館碑銘幷(なら)びに序 郡奉行(こほりぶぎやう)小宮山昌秀・撰文 常陸茨城郡(いばらきごほり)の小川城は、園部兼泰、始めて之(これ)を築く。其の後(のち)、世々(よよ)小田氏に属す。天正中に及び、園部宮内大輔有り。子の助大郎は、佐竹義宣の滅ぼす所と爲(な)る。慶長中、戸澤右亰亮(うきやうのすけ)政盛、焉(ここ)に封(ほう)ぜらる。政盛、手綱城(てづなじやう)に移封(いほう)されて後(のち)、即ち其の地の益を以て、我が威公、封域(ほうゐき)の中に入(い)る。公、乃(すなはち)其の地に就きて別館を搆(かま)へ、游息の處と爲(な)す。後(のち)に、運漕奉行を置く。享和中、予、治民(ちみん)の軄を奉じ、兼ねて運漕の事を領(りやう)す。其の局を上戸村(うはどむら)に移す。小川の醫・本間玄琢等(ら)、其の舊舘を以て醫書講習の處(ところ)と爲さんことを請(こ)ふ。予、其の擧(きよ)を喜び、其の事を上(たてまつ)る。文公、命じて之(これ)を許し、名づけて稽醫館と曰(い)ふ。是(ここ)に於て醫人(いじん)集まり會し、其の業(わざ)を肄(なら)ふ者、日に益々進み、皆、公の恩を感ず。予に其の事を記さんことを請ふ。乃(すなは)ち、系(かかは)るに銘を以てす。曰(いは)く、 維(こ)れ民の生(い)くるは、佚樂(いつらく)を欲する所なり。維れ病(やまひ)の發(おこ)るは、鍼藥(しんやく)を仰ぐ所なり。遠きに行(ゆ)く者は車に假(か)り、江(かう)を濟(わた)る者は航(ふね)に因(よ)る。醫力を假るに非(あら)ずんば、誰(たれ)か夭横(えうわう)を濟(すく)はん。嗟(ああ)、生死の係(かか)はる所、之(これ)を慎(つつし)み之を戒(いまし)む。戒慎(かいしん)は如何(いかん)。仁(じん)以て治(ぢ)するに在(あ)り。 文政元年二月二日、建つ。 小姓頭・鵜殿廣生(うどのひろお)、書及び篆額(てんがく)。 (語注) ここの語注の読み仮名は、現代仮名遣いにしてあります。 〇郡奉行(こおりぶぎょう)=江戸時代、諸藩の職名。家老のもとで郡の代官を統轄し、郡の庶政をつかさどった。 〇小宮山楓軒(こみやま・ふうけん)=江戸後期の儒学者。名は昌秀。水戸藩士。立原翠軒に学び、史学に秀で、農政にも治績を挙げた。著「水府志料」「楓軒偶記」など。(1764-1840) 〇手綱城(てづなじょう)=現在の高萩市下手綱(しもてづな)にあった城。竜子山城、松岡城ともいう。 〇威公(いこう)=徳川頼房(とくがわ・よりふさ)。水戸徳川家の祖。家康の11男。光圀の父。 〇上戸村(うわどむら)=かつての牛堀町にあった村。明治22年、島須村と合併し行方郡八代村となり、昭和30年、八代村は香澄村と合併し牛堀村となる。のち牛堀町。平成13年、牛堀町は潮来町に編入されて消滅。同日、潮来町は潮来市となり、現在に至る。 〇文公(ぶんこう)=徳川治保(とくがわ・はるもり)。水戸藩6代藩主。 〇肄ふ(ならう)=「肄」は、音イ。ならう。練習する。学ぶ。 〇佚楽(いつらく)=気ままに遊び楽しむこと。逸楽。 〇鍼薬(しんやく)=鍼(はり)と薬。転じて、病気の治療。 〇夭横(ようおう)=若死に。横夭(おうよう)。 〇鵜殿広生(うどの・ひろお)=水戸藩小姓頭(こしょうがしら)。武道に優れ、能筆家でもあった。 〇篆額(てんがく)=碑などの上部に篆文(篆書体の文字)で書いた題字。 (『広辞苑』『漢字源』その他を利用させていただきました。) |