資料423 硫黄島総指揮官栗林忠道中将の訣別電報



  太平洋戦争末期の昭和20年2月19日、栗林忠道中将総指揮下の陸海軍合わせて約2万の兵士が死守する硫黄島に、米軍は上陸に備えて海と空から猛烈な砲爆撃を敢行したうえで、海兵師団約6万が南海岸に上陸した。
迎え撃つ日本軍は地下壕を掘り巡らして対抗、5日間もあれば島を制圧できると考えていた米軍の予想に反して激戦1か月余を持ちこたえた。3月26日、栗林中将の率いる部隊は最後の総攻撃を行い、米軍海兵隊と陸軍航空部隊の野営を襲撃、多くの損害を与えて殆んどが戦死を遂げたという。
硫黄島の戦闘における米軍の死傷も甚大であった。「栗林とその部下は粘りに粘って、精鋭で鳴らす米海兵隊に史上最大の苦戦を強いる。結果的に硫黄島は陥落したものの、日本軍の死傷者が21,152名だったのに対し、米軍は28,686名と、米軍は日本軍よりも多い死傷者を出している。戦死者だけを見れば、米軍6,8216名、日本軍20,129名と日本側の方が多いが、彼我の戦力差から見れば驚くべきことである。太平洋の島嶼をめぐる戦いで、日本が自軍を上回る死傷者をアメリカに強いたのは硫黄島戦だけで、アメリカでの知名度と評価はむしろ日本より高い」と、梯久美子氏の『硫黄島 栗林中将の最期』(文春新書)にある。(同書、21頁)
硫黄島上陸作戦の米軍指揮官・スミス中将は、「太平洋で相手とした敵指揮官中、栗林は最も勇敢であった」と、栗林中将を称賛したという。
その栗林中将が、昭和20年3月16日16時過ぎに大本営に宛てて発した電報が、次に掲げる「硫黄島総指揮官栗林忠道中将の訣別電報」である。
 



  硫黄島総指揮官栗林忠道中将の訣別電報  


戰局最後ノ關頭ニ直面セリ敵來攻以來麾下將兵ノ敢闘ハ眞ニ鬼神ヲ哭シムルモノアリ特ニ想像ヲ越エタル物量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ對シ宛然徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ續ケタルハ小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ
然レドモ飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次デ斃レ爲ニ御期待ニ反シ此ノ要地ヲ敵手ニ委ヌル外ナキニ至リシハ小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御詫申上グ
今ヤ彈丸盡キ水涸レ全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨碎身モ亦悔イズ 
特ニ本島ヲ奪還セザル限リ皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ縱ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重來ノ魁タランコトヲ期ス 
茲ニ最後ノ關頭ニ立チ重ネテ衷情ヲ披歴スルト共ニ只管皇國ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ永ヘニ御別レ申上グ
尚父島母島等ニ就テハ同地麾下將兵如何ナル敵ノ攻撃ヲモ斷乎破摧シ得ルヲ確信スルモ何卒宜シク御願申上グ
終リニ左記駄作御笑覧ニ供ス何卒玉斧ヲ乞フ

  左 記  

國の爲重きつとめを果し得で 矢彈盡き果て散るぞ悲しき
仇討たで野邊には朽ちじ吾は又 七度生れて矛を執らむぞ
醜草の島に蔓るその時の 皇國の行手一途に思ふ




  (注) 1. 上記の、資料423「硫黄島総指揮官栗林忠道中将の訣別電報」の本文は、梯久美子著『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(新潮社、2005年7月30日発行、2005年8月15日2刷)によりました。    
           
    2. 上記の本文部分は、漢字・平仮名、句読点・振り仮名つきで表記されていますが、「(本文部分の原文は漢字+カタカナ、句読点なし)」とある著者の注記によって、引用者が「漢字+カタカナ、句読点・振り仮名なし」の形に書き改めたことをお断りしておきます。(本文221~2頁) なお、漢字も旧漢字に直してあります。原文は勿論、縦書きです。    
           
    3. この訣別電報は、昭和20年3月16日16時過ぎに大本営に宛てて発せられた由です。硫黄島の戦闘については、次に挙げてあるフリー百科事典『ウィキペディア』の「硫黄島の戦い」を参照してください。    
           
    4. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「栗林忠道」「硫黄島の戦い」の項目があります。    
           
    5. この訣別電報は、当時新聞に発表されるに当たって、大本営によって改変されたそうです。その新聞に掲載された記事と電文を、次に掲げます

   
        たとひ魂魄となるも
   巻土重來の魁たらん
      栗林中將・最後の無電
   
      硫黄島最高指揮官栗林中將は十七日夜半皇國必勝を念ずる和歌を添へた次の最後の電報を打電し、生き残つた手兵数百名を率ゐて最後の総攻撃を敢行した戰局遂に最後の関頭に直面せり
十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇國の必勝と安泰とを祈念しつゝ全員壯烈なる総攻撃を敢行す
敵來攻以來想像に余る物量的優勢を以て陸海空よりする敵の攻撃に対し克く健鬪を續けた事は小職の聊か自ら悦びとする所にして部下將兵の勇戰は眞に鬼神をも哭かしむるものあり
然れども執拗なる敵の猛攻に將兵相次いで斃れ爲に御期待に反し、この要地を敵手に委ぬるのやむなきに至れるは誠に恐懼に堪へず、幾重にも御詫申上ぐ
特に本島を奪還せざる限り皇土永遠に安からざるを思ひ、たとひ魂魄となるも誓つて皇軍の巻土重來の魁たらんことを期す、今や彈丸盡き水涸れ戰ひ残れる者全員いよいよ最後の敢鬪を行はんとするに方り熟々皇恩の忝さを思ひ粉骨碎身亦悔ゆる所にあらず
茲に將兵一同と共に謹んで聖壽の萬歳を奉唱しつゝ永へに御別れ申上ぐ
終りに左記駄作御笑覽に供す
   
       國の爲重きつとめを果し得で矢彈盡き果て散るぞ口惜し
 仇討たで野辺には朽ちじわれは又七度生れて矛を執らむぞ
 醜草の島に蔓るその時の皇國の行手一途に思ふ
   
     
  栗 林 中 將  
  (朝日新聞、昭和20年3月22日)  



   
     
引用者注:
   
      (1)見出しと本文中に出てくる「巻土重來」は、普通は「捲土重來」と表記しますが、ここは新聞記事のまま「巻土重來」としてあります。    
      (2)本文最後の「聖壽の萬歳を奉唱しつゝ永へに御別れ申上ぐ」の「つゝ」は、新聞では2番目の「つ」が行頭に来たため「つ」という仮名になっていますが、本文の初めに「皇國の必勝と安泰とを祈念しつゝ」と、「つゝ」の表記になっているので、引用者がここも同じく「つゝ」と書き改めたことを、お断りしておきます。    
           
       なお、この新聞に掲載された電文については、『ウィキペディア』の「栗林忠道」の項目にも出ていますのでご覧ください。    
     
参考までに、上記の「栗林中将・最後の無電」に関する一面の他の記事を引いておきます。
   
           
        硫黄島遂に敵手へ    
      最高指揮官陣頭に 壯烈・全員總攻撃 敵の損害三萬三千    
      大本營發表(昭和二十年三月廿一日十二時)    
      一、硫黄島の我部隊は敵上陸以來約一箇月に亘り敢鬪を繼續し殊に三月十三日頃以降北部落及東山附近の複郭陣地に據り凄絶なる奮戰を續行中なりしが戰局遂に最後の關頭に直面し「十七日夜半を期し最高指揮官を陣頭に皇國の必勝と安泰とを祈念しつゝ全員壯烈なる總攻撃を敢行す」との打電あり、爾後通信絶ゆ
二、敵兵同島上陸以來三月十六日迄に陸上に於て之に與へたる損害約三萬三千名なり
   
      敢鬪一箇月 十七日夜半通信絶ゆ    
      硫黄島つひに敵手に委ぬ、わが硫黄島守備將兵は彈丸盡き刀折るゝ最後まで勇戰奮鬪、阿修羅の働きののち皇土の南関に護國の鬼となつた、唯最後の突撃の日まで無電機を確保し、最後の決意を打電し得たことは栗林最高指揮官以下將兵の情においてせめてもの慰めであらうか    
      敵は硫黄島上陸作戰を企圖するやこれに先立ち有力なる機動部隊を本土近海に接近せしめ、二月十六日早朝より關東地方および靜岡區の飛行場に対し波狀攻撃を行ひ、一方戰艦および空母を含む三十数隻よりなる敵艦隊は硫黄島に猛烈な艦砲射撃を実施した、かくて十九日朝果然敵は多数の上陸用舟艇を伴つて硫黄島上陸を敢行、その後の硫黄島戰鬪日誌は逐次大本營發表その他により報道された通りであるが、敵は上陸以來常時二十隻乃至三十隻内外の大中小艦艇百隻内外の輸送船などをもつて同島を包圍し、一日四千乃至八千発に上る艦砲射撃を加へ、さらに機動部隊より放つ二百乃至八百機に上る艦載機が上空を蔽つて爆撃をくり返し、物量を恃みとする敵が同島に注入した砲爆彈量は敵側発表によれば最初の二日間に既に八千トンに上つたといはれる
連日の猛砲爆撃にさらでだに疎らな同島の草木は燒け、山容既に改まつた中にわが神兵は凝灰岩と硫黄を噴く沙漠の中に構築された洞窟、特火点に身をひそめ重火器はほとんど破壊されつつも手榴彈、小銃などにより出血作戰を策し、夜暗の挺進斬込により敵に多大の犠牲を出ださしめ寡兵克く地上戰鬪のみに於て十六日までに約三万三千の損害を與へ、その他艦船の撃沈などによる損害を合するならばさらに尨大な数に上るのである、寡兵よく醜敵を邀へて猛烈な砲爆撃下に渺たる孤島に一箇月を守り拔く、まさに神技でなくて何であらう、硫黄島陷ちて今本土直接敵の矢面に立つ、しかし補給全く絶えた孤島にわが將兵は敢鬪よく三万三千の敵を斃したではないか、これを思ふときわれら本土を護るもの必勝の信念いよいよ強きを覺えるのである
   
      硫黄島戰鬪概要    
     
二月 十九日   敵硫黄島に上陸開始海兵第三、四、五の三個師約四万五千を逐次同島南海岸に揚陸
  二十日   敵千鳥部落に突入、一方東海岸および北西海岸に上陸を企圖、いづれも撃退
  二十一日   神風特攻隊第二御楯隊出撃
  二十三日   敵は南波止場より南部落、地熱ケ原、中央飛行場南端、千鳥部落、西揚陸場北側を連ねる線に侵出、この日摺鉢山守備隊長自ら主力を率ゐて敵戰線を突破、北部の我主力と合体
  二十六日   敵は南波止場、屏風山、元山、田原坂にわたり全面砲撃を開始、この日南飛行場に敵小型機数機の着陸を認む
  二十七日   敵の一部玉名山、田原坂附近に侵出
  二十八日   この頃敵は第一線部隊交代
三月 一日   敵の一部東山附近に侵入、敵主力の第一線は西部落附近より大阪山南側硫黄ケ丘、二段岩、南波止場の線に侵出
  三日   敵は東山、元山飛行場より北部落に侵出
  八日   敵の一部天山に侵入、玉名山警備司令を先登にわが精鋭二千敵中に斬込
  九日   わが航空部隊出撃
  十三日   天山敵手に帰す
  十四日   敵同島北方面に侵出企圖
  十七日   最高指揮官を先登に全員総攻撃を敢行、敵中に突入、その後通信杜絶
   
           
       なお、この他に一面には、「斷乎戰ひ拔かん 活かせ硫黄島勇士の魂」という「首相放送」の記事、「空の包圍網を壓縮 敵の本土空襲愈本格化」という解説記事、「本土決戰に築城、設營 所要の業務に從事命令」〔軍事特別措置法案〕という、政府が今議会に「軍事特別措置法案」を提出するに至ったという記事、「避退の敵機動部隊猛追 正規空母二を撃沈破 荒鷲なほ戰果を擴充中」という大本営発表、「敵、作戰に大齟齬 確認撃沈破既に十一艦」という解説記事、社説:「硫黄島守備部隊へ誓ふ:国土要塞化の特別法」が掲載されています。    
           
    6. 硫黄島(いおうとう)=硫黄列島中の主島。面積23.2平方キロメートル。現在は自衛隊の基地などがある。いおうじま。(『広辞苑』第6版による。)    
           
    7. 上にも引用しましたが、梯久美子氏は、『散るぞ悲しき』の後に、文春新書761『硫黄島 栗林中将の最期』(文藝春秋、2010年(平成22年)7月20日第1刷発行)を書かれています。    
           
    8. 参考までに、電報本文の漢字の読みを記しておきます。(読みは現代仮名遣いで示します。)    
     
  麾下(きか) 哭シムル(なかしむる) 宛然(えんぜん)  
  克ク(よく) 聊カ(いささか) 斃レ(たおれ)  
  委ヌル(ゆだぬる) 方リ(あたり) 熟々(つらつら)  
  魁(さきがけ) 茲ニ(ここに) 衷情(ちゅうじょう)  
  披歴(ひれき) 只管(ひたすら) 永ヘニ(とこしえに)  
  破摧(はさい) 玉斧(ぎょくふ) 矢彈(やだま)  
  仇(あだ) 七度(ななたび) 矛(ほこ)  
  醜草(しこくさ) 蔓る(はびこる) 皇國(みくに)  
  一途に(いちずに)  
     
     
   
           




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