資料420 「万国津梁の鐘(旧首里城正殿銅鐘)」銘文




      「万國津梁の鐘(旧首里城正殿銅鐘)」 銘文

  琉球國者南海勝地而
  鍾三韓之秀以大明為
  輔車以日域為唇齒在
  此二中間湧出之蓬萊
  嶋也以舟楫為万國之
  津梁異産至宝充滿十
  方刹地靈人物遠扇和
  夏之仁風故吾
  王大世主庚寅慶生尚泰久茲
  承宝位於高天育蒼生
  於厚地為興隆三宝報
  酬四恩新鋳巨鐘以就
  本州中山國王殿前掛
  着之定憲章于三代之
  後戢文武于百王之前
  下済三界群生上祝万
  歳宝位辱命相國住持
  溪隠安潜叟求銘々曰
  須弥南畔 世界洪宏
  吾王出現 済苦衆生
  截流玉象 吼月華鯨
  泛溢四海 震梵音声
  覚長夜夢 輸感天誠
  尭風永扇 舜日益明
    
戊寅六月十九日辛亥
          
大工藤原國善
     
住相國溪隠叟誌之


 ※「王大世主庚寅慶生尚泰久茲」「戊寅六月十九日辛亥」 の「庚寅」「尚泰久」「戊寅」「辛亥」は、全体が縦書きの中で、左右に並べて(右書きで。「寅庚」「久泰尚」「寅戊」「亥辛」のように)書いてあります。


〔書き下し文〕
琉球国は南海の勝地(しようち)にして、三韓の秀(しう)を鍾(あつ)め、大明(だいみん)を以て輔車(ほしや)と為(な)し、日域(じちゐき)を以て唇歯(しんし)と為(な)して、此の二つの中間に在りて湧出(ゆうしゆつ)せる蓬莱(ほうらい)島なり。舟楫(しうしふ)を以て万国の津梁(しんりやう)と為(な)し、異産至宝(いさんしほう)は十方刹(じつぱうさつ)に充満し、地霊人物は遠く和夏の仁風(じんぷう)を扇(あふ)ぐ。故に吾が王、大世(おほよ)の主、庚寅(かのえのとら)に慶生す。尚泰久(しやうたいきう)なり。茲(ここ)に、宝位を高天(かうてん)に承(う)け、蒼生(さうせい)を厚地(こうち)に育(はぐく)む。三宝を興隆し、四恩に報酬(ほうしう)せんが為(ため)に、新たに巨鐘(きよしよう)を鋳(い)て、以て本州中山国王殿(ちゆうざんこくわうでん)の前に就(つ)け、之(これ)を掛着(かいちやく)す。憲章を三代の後より定め、文武を百王の前より戢(あつ)め、下(しも)は三界の群生(ぐんじやう)を済(すく)ひ、上(かみ)は万歳(まんざい)の宝位(ほうゐ)を祝ふ。辱(かたじ)けなくも、相国(しやうこく)の住持(ぢゆうぢ)溪隠安潜叟(けいいんあんせんそう)に命じて、銘を求む。銘に曰(いは)く、
 須弥(しゆみ)の南畔(なんぱん)、世界洪宏(こうくわう)たり。
 吾が王出現して、苦しむ衆生(しゆじやう)を済(すく)ふ。
 流れを截(た)つ玉象(ぎよくしやう)、月に吼(ほ)ゆる華鯨(くわげい)
 四海に泛溢(はんいつ)し、梵音声(ぼんおんじやう)を震(ふる)はし、
 長夜(ちやうや)の夢を覚まし、感天(かんてん)の誠を輸(いた)す。
 堯風(げうふう)は永く扇(あふ)ぎ、舜日(しゆんじつ)は益々明らかなり。
  戊寅(つちのえとら)のとし六月十九日辛亥(かのとゐ)のひ、
               大工 藤原国善
     住相国溪隠叟(けいいんそう)、これを誌(しる)す。


(注) 1.  上記の資料420 「「万国津梁の鐘(旧首里城正殿銅鐘)」銘文」の本文は、沖縄県のホームページの「「万国津梁の鐘」の文字(第1知事応接室の屏風)」により、沖縄県立図書館のホームページの「貴重資料デジタル書庫」にある「旧首里城正殿銅鐘銘(万国津梁の鐘)」の画像を参考にして記述しました。
 漢字の字体は、できるだけ鐘の刻字に合わせるようにしましたが、必ずしも刻字通りになっていない文字もあります(例えば、「地靈」の「靈(灵)」や「泛溢」の「溢(氵+ 益)」など)。
 また、書き下し文は、改行をなくしたり、引用者の判断で読み仮名を改めたり、付け足したりした部分があることをお断りしておきます。
 「沖縄県」のホームページ
  → 知事のページ『はいさい! デニーやいびーん』 
  →「知事応接室の屏風について」
  →「「万国津梁の鐘」の文字(第1知事応接室の屏風)」
 
 「沖縄県立図書館」ホームページ
 
 →「貴重資料デジタル書庫」 
      →「旧首里城正殿銅鐘銘(万国津梁の鐘)」(概要・解説)
  →「旧首里城正殿銅鐘銘(万国津梁の鐘)[拓本]」 
           
    2.  上記「沖縄県立図書館」ホームページの「貴重資料デジタル書庫」の「旧首里城正殿銅鐘銘(万国津梁の鐘)」拓本の解説に、この鐘は「仏教を国の政治理念に据えようとした尚泰久王が1458年に首里城正殿の前に設置するために作った鐘で、同じ時期に作られた約24点の琉球最古の鐘の一つで」ある、とあります。             
    3.  この「万国津梁の鐘(旧首里城正殿銅鐘)」銘文は、沖縄県庁の第一知事応接室の屏風に書かれていて、よく知られています。(今まで、豊平峰雲氏の書かれた屏風が置いてありましたが、最近、茅原南龍(ちはらなんりゅう)氏の書かれた屏風に置き換えたとのことです(2012年4月23日記)。なお、第二応接室の屏風は豊平峰雲(とよひらほううん)氏の執筆だそうです。         
    4.   「万国津梁の鐘(旧首里城正殿銅鐘)」は、初め首里城の正殿に置かれていたものだそうですが、現在は沖縄県立博物館に置かれていて、首里城の供屋(ともや)にはレプリカが置いてあるそうです。
 首里城公園管理センターの『首里城公園』というサイトによると、この「万国津梁の鐘」は「歴史資料に1458年に首里城正殿に掛けられていたと記録されているが、具体的な設置場所が不明であるため、当面」奉神門(首里城正殿のある御座(うなー)へ入る最後の門)の向かって左手に離れて建っている「供屋(ともや)に(レプリカを)設置してある」、とのことです。
 (『首里城公園』というサイトのTOPページ → 施設紹介「正殿への道」 → 万国津梁の鐘)  
      
   
    5.  「万国津梁の鐘」は、国指定重要文化財に指定されています。(『文化庁』のホームページの「国指定文化財等データベース」にある「国宝・重要文化財(美術品)」に出ている「銅鐘(旧首里城正殿鐘)」のデータ)
 名称:銅鐘(旧首里城正殿鐘) ふりがな:どうしょう(きゅうしゅりじょうせいでんしょう)  
 員数:1口  種別:工芸品  国:中国  時代:明 
 年代:1458  卜書:戊寅(天順2年)6月19日、大工藤原国善の刻名がある。  指定番号(登録番号):02434
 国宝・重文区分:重要文化財 重文指定年月日:1978.06.15(昭和53.06.15)
  所在都道府県:沖縄県 所在地:沖縄県立博物館・美術館 沖縄県那覇市おもろまち3-1-1  所有者名:沖縄県
             
   
    6.   尚氏(しょうし)=琉球王国時代の王統。第1尚氏・第2尚氏の区別がある。15世紀初期、群雄割拠する沖縄島を平定し首里に拠点をおく統一政権が出現したが(第1尚氏)、しかし国内支配は安定せず7代64年にして内間金丸(うちまかなまる)を中心とする勢力により滅ぼされ、1470年新王朝が成立(第2尚氏)。以後第2尚氏は19代400年余にわたって琉球に君臨、国王はいずれも中国皇帝の冊封を受けた。その間1609年(慶長14)薩摩藩に征服されて以後は、王国としての体裁を一応保持してはいたが、実質的には薩摩の強い支配を受けていた。1872年(明治5)明治政府により尚泰(19代)は華族・琉球藩王とされ、さらに1879年琉球処分により統治者としての地位を完全に失い、東京に移住させられた。(『角川日本史辞典』第2版による。)

 ※ 「万国津梁の鐘」を作った尚泰久王(1415-1460)は、第1尚氏王統の第6代国王。在位1453-1460年。父、尚巴志王の7男。

         第1尚氏王統系図 
    1.尚思紹 ── 2.尚巴志 ─┬─ 3.尚  忠 ── 4.尚思達
                    │
                    ├─ 5.尚金福
                  │
                    └─ 6.尚泰久──7.尚  徳
   
           





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