わたくしの近頃書いた、歴史上の人物を取り扱つた作品は、小説だとか、小説でないとか云つて、友人間にも議論がある。しかし所謂 normativ な美學を奉じて、小説はかうなくてはならぬと云ふ學者の少くなつた時代には、此判斷はなかなかむづかしい。わたくし自身も、これまで書いた中で、材料を觀照的に看た程度に、大分の相違のあるのを知つてゐる。中にも『栗山大膳』は、わたくしのすぐれなかつた健康と忙しかつた境界とのために、殆ど單に筋書をしたのみの物になつてゐる。そこでそれを太陽の某記者にわたす時、小説欄に入れずに、雜録樣のものに交ぜて出して貰ひたいと云つた。某はそれを承諾した。さてそれが例になくわたくしの校正を經ずに、太陽に出たのを見れば、總ルビを振つて、小説欄に入れてある。殊に其ルビは數人で手分をして振つたものと見えて、二三ペエジ毎に變つてゐる。鐵砲頭(かしら)が鐵砲のかみになつたり、左右良(まてら)の城がさうらの城になつたりした處のあるのも、是非がない。 さうした行違のある栗山大膳は除くとしても、わたくしの前に言つた類の作品は、誰の小説とも違ふ。これは小説には、事實を自由に取捨して、纏まりを附けた迹がある習であるに、あの類の作品にはそれがないからである。わたくしだつて、これは脚本ではあるが、『日蓮上人辻説法』を書く時なぞは、ずつと後の立正安國論を、前の鎌倉の辻説法に疊み込んだ。かう云ふ手段を、わたくしは近頃小説を書く時全く斥けてゐたのである。 なぜさうしたかと云ふと、其動機は簡單である。わたくしは史料を調べて見て、其中に窺はれる『自然』を尊重する念を發した。そしてそれを猥に變更するのが厭になつた。これが一つである。わたくしは又現存の人が自家の生活をありの儘に書くのを見て、現在がありの儘に書いて好いなら、過去も書いて好い筈だと思つた。これが二つである。 わたくしのあの類の作品が、他の物と違ふ點は、巧拙は別として種々あらうが、其中核は右に陳べた點にあると、わたくしは思ふ。 友人中には、他人は『情』を以て物を取り扱ふのに、わたくしは『智』を以て取り扱ふと云つた人もある。しかしこれはわたくしの作品全體に渡つた事で、歴史上人物を取り扱つた作品に限つてはゐない。わたくしの作品は概して dionysisch でなくつて、apollonisch なのだ。わたくしはまだ作品を dionysisch にしようとして努力したことはない。わたくしが多少努力したことがあるとすれば、それは只觀照的ならしめようとする努力のみである。 ─────────── わたくしは歴史の『自然』を變更することを嫌つて、知らず識らず歴史に縛られた。わたくしは此縛の下に喘ぎ苦んだ。そしてこれを脱せようと思つた。 まだ弟篤二郎の生きてゐた頃、わたくしは種々の流派の短い語物を集めて見たことがある。其中に粟の鳥を逐ふ女の事があつた。わたくしはそれを一幕物に書きたいと弟に言つた。弟は出来たら成田屋にさせると云つた。まだ團十郎も生きてゐたのである。 粟の鳥を逐ふ女の事は、山椒大夫傳説の一節である。わたくしは昔手に取つた儘で棄てた一幕物の企を、今單篇小説に蘇らせようと思ひ立つた。山椒大夫のやうな傳説は、書いて行く途中で、想像が道草を食つて迷子にならぬ位の程度に筋が立つてゐると云ふだけで、わたくしの辿つて行く絲には人を縛る強さはない。わたくしは傳説其物をも、余り精しく探らずに、夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮べて見た。 昔陸奥に磐城判官正氏と云ふ人があつた。永保元年の冬罪があつて筑紫安樂寺へ流された。妻は二人の子を連れて、岩代の信夫郡にゐた。二人の子は姊をあんじゆと云ひ、弟をつし王と云ふ。母は二人の育つのを待つて、父を尋ねに旅立つた。越後の直江の浦に來て、應化の橋の下に寢てゐると、そこへ山岡大夫と云ふ人買が來て、だまして舟に載せた。母子三人に、うば竹と云ふ老女が附いてゐたのである。さて沖に漕ぎ出して、山岡大夫は母子主從を二人の船頭に分けて賣つた。一人は佐渡の二郎で母とうば竹とを買つて佐渡へ往く。一人は宮崎の三郎で、あんじゆとつし王とを買つて丹後の由良へ往く。佐渡へ渡つた母は、舟で入水したうば竹に離れて、粟の鳥を逐はせられる。由良に着いたあんじゆ、つし王は山椒大夫と云ふものに買はれて、姊は汐を汲ませられ、弟は柴を苅らせられる。子供等は親を慕つて逃げようとして、額に烙印をせられる。姊が弟を逃がして、跡に殘つて責め殺される。弟は中山国分寺の僧に救はれて、京都に往く。清水寺で、つし王は梅津院と云ふ貴人に逢ふ。梅津院は七十を越して子がないので、子を授けて貰ひたさに參籠したのである。 つし王は梅津院の養子にせられて、陸奥守兼丹後守になる。つし王は佐渡へ渡つて母を連れ戻し、丹後に入つて山椒大夫を竹の鋸で挽き殺させる。山椒大夫には太郎、二郎、三郎の三人の子があつた。兄二人はつし王をいたはつたので助命せられ、末の三郎は父と共に虐(しへた)けたので殺される。これがわたくしの知つてゐる傳説の筋である。 わたくしはおほよそ此筋を辿つて、勝手に想像して書いた。地の文はこれまで書き慣れた口語體、對話は現代の東京語で、只山岡大夫や山椒大夫の口吻に、少し古びを附けただけである。しかし歴史上の人物を扱ふ癖の附いたわたくしは、まるで時代と云ふものを顧みずに書くことが出來ない。そこで調度やなんぞは手近にある和名抄にある名を使つた。官名なんぞも古いのを使つた。現代の口語體文に所々古代の名詞が插まることになるのである。同じく時代を蔑にしたくない所から、わたくしは物語の年立をした。即ち、永保元年に謫せられた正氏が、三歳のあんじゆ、當歳のつし王を殘して置いたとして、全篇の出來事を、あんじゆが十四、十五になり、つし王が十二、十三になる寛治六七年の間に經過させた。 さてつし王を拾ひ上げる梅津院と云ふ人の身分が、わたくしには想像が附かない、藤原基實が梅津大臣と云はれた外には、似寄の稱のある人を知らない。基實は永萬二年に二十四で薨じたのだから、時代も後になつてをり、年齢もふさはしくない。そこでわたくしは寛治六七年の頃、二度目に關白になつてゐた藤原師實を出した。 其外、つし王の父正氏と云ふ人の家世は、傳説に平將門の裔だと云つてあるのを見た。わたくしはそれを面白くなく思つたので、只高見王から筋を引いた桓武平氏の族とした。又山椒大夫には五人の男子があつたと云つてあるのを見た。就中太郎、二郎はあん壽、つし王をいたはり、三郎は二人を虐けるのである。わたくしはいたはる側の人物を二人にする必要がないので、太郎を失踪させた。 こんなにして書き上げた所で見ると、稍妥當でなく感ぜられる事が出來た。それは山椒大夫一家に虐けられるには、十三と云ふつし王が年齢もふさはしからうが、國守になるにはいかがはしいと云ふ事である。しかしつし王に京都で身を立てさせて、何年も父母を顧みずにゐさせるわけにはいかない。それをさせる動機を求めるのは、餘り困難である。そこでわたしは十三歳の國守を作ることをも、藤原氏の無際限な權力に委ねてしまつた。十三歳の元服は勿論早過ぎはしない。 わたくしが山椒大夫を書いた樂屋は、無遠慮にぶちまけて見れば、ざつとこんな物である。傳説が人買の事に關してゐるので、書いてゐるうちに奴隷解放問題なんぞに觸れたのは、已むことを得ない。 兎に角わたくしは歴史離れがしたさに山椒大夫を書いたのだが、さて書き上げた所を見れば、なんだか歴史離れがし足りないやうである。これはわたくしの正直な告白である。(終) |