資料385 大塩平八郎の檄文
  
 



       
大塩平八郎の檄文           
         

 

(袋上書)

 天より被下候
    村々小前のものに至迠へ

(本文)

四海こんきういたし候ハゝ天祿ながくたゝん小人に
國家をおさめしめば災害并至と昔の聖人深く
天下後世人の君人の臣たる者を御誡
置候ゆヘ
東照神君
も鰥寡孤獨おひて尤あわれみ
を加ふへくハ是仁政之基と被仰置候然
に茲二
百四五十年太平之間
追々上たる人驕奢とておこり
を極太切之政事
携候諸役人とも賄賂を公授受と
て贈貰いたし奥向女中の因縁を以道德仁義をも
なき拙き身分
て立身重き役一人一家を
肥し候工夫
而已智術を運し其領分知行所之民百
姓共へ過分之用金申付是迠年貢諸役の甚しき
苦む上
右之通無躰之儀を申渡追々入用かさみ候ゆへ
四海の困窮と相成候付人々上を怨さるものなき樣

成行候得共江戸表より諸國一同右之風儀
落入
天子ハ足利家已来別
御隱居御同樣賞罰之柄を
御失ひ
付下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方な
き樣
候付人々之怨氣天年々地震火災山も崩水も
溢るより外色々樣々の天災流行終
五穀飢饉相成
皆天より深く御誡之有かたき御告
候へとも一向上たる人々
心も付ず猶小人奸者之輩太切之政を執行只下を惱
し金米を取たてる手段斗
打懸実以小前百姓共
のなんきを吾等如きもの草乃陰より常々察し悲候
得とも湯王武王の勢位なく孔子孟子の道德もなけ
れバ徒
蟄居いたし候處此節米價弥高直相成大坂之
奉行并諸役人とも万物一體の仁を忘れ得手勝手
の政道をいたし江戸へ廻米をいたし
天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致
而已
らす五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔い
たし実
昔葛伯といふ大名其農人乃弁當を持運
ひ候小児を殺候も同樣言語同斷何れ乃土地にても人民
ハ 德川家御支配之もの
相違なき處如此隔を付候ハ
全奉行等之不仁
て其上勝手我儘觸書等を度々
差出し大坂市中游民斗を太切
心得候者前にも申通
道德仁義を不存拙き身故
て甚以厚ヶ間敷不届
之至且三都之内大坂之金持共年來諸大名へかし付候
利德之金銀并扶持米等を莫大
掠取未曾有之有福
に暮し丁人之身を以大名之家老用人格等
被取用
又ハ自己之田畑新田等を夥しく所持何に不足なく
暮し此節の天災天罰を見なから畏も不致餓死之
貧人乞食をも敢而不救其身ハ膏梁之味とて結構
之物を食ひ妾宅等へ入込或ハ揚屋茶屋へ大名之家來を
誘引參り高價の酒を湯水を呑も同樣
いたし此難
澁の時節
絹服をまとひ候かわらものを妓女と共に迎
ひ平生同樣に游樂に耽候ハ何等の事哉紂王長夜の
酒盛も同事其所之奉行諸役人手
握居候政を以右之
もの共を取〆下民を救候義も難出來日々堂島相場斗
をいしり事いたし実
祿て決天道聖人之御心難叶
御赦しなき事
候蟄居の我等最早堪忍難成湯武
之勢孔孟之德ハなけれ共無據天下乃ためと存血
族の禍をおかし此度有志のものと申合下民を惱し
苦〆候諸役人を先誅伐いたし引續き驕に長し居候大坂
市中金持之丁人共を誅戮およひ可申候間右之者共
穴藏
貯置候金銀錢等諸藏屋敷内に隱置候俵米
夫々分散配當いたし遣候間攝河泉播之内田畑所持
不致ものたとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方難
出來程之難澁者へハ右金米等取らせ遣候間いつに

大坂市中
騷動起り候と聞傳へ候ハゝ里數を不厭一刻も
早く大坂へ向駈可參候面々へ右米金を分け遣し可申候
鉅橋鹿臺の金粟を下民へ被與候遺意
て當時之
飢饉難義を相救遣し若又其内器量才力等有之者
ハ夫々取立無道之者共を征伐いたし候軍役も遣ひ申
へく候必一揆蜂起之企とハ違ひ追々年貢諸役ニ至迠
輕くいたし都
中興
神武帝御政道之通寛仁大度の取扱にいたし遣
年來驕奢淫逸の風俗を一洗相改質素
立戻
海萬民いつ迠も
天恩を難有存父母妻子を被養生前之地獄を
救ひ死後の極樂成佛を眼前
見せ遣し堯舜
天照皇太神之時代に復
かたく共中興之氣象

恢復とて立戻り申へく候此書付村々ヘ一々しらせ
度候へとも数多之事
付最寄之人家多候大村之神殿
張付置候間大坂より廻し有之番人ともにしられさる
心懸早々村々へ相觸可申候万一番人とも眼付大
坂四ヶ所の奸人共へ注進いたし候樣子
候ハゝ遠慮なく
面々申合番人を不殘打殺可申候若右騷動起り候を
承なから疑惑いたし駈參不申又者遲參及候ハゝ
金持之米金者皆火中の灰に相成天下之宝を取失
ひ申へく候間跡
て必我等を恨み宝を捨る無道者
と陰言を不致樣可致候其為一同へ觸しらせ候尤是
迠地頭村方
ある年貢等かゝわり候諸記録帳面
類ハ都
引破焼捨可申候是往々深き慮ある事
人民を困窮為致不申積に候乍去此度乃一擧當朝
平將門明智光秀漢土之劉裕朱佺忠の謀反
類し候
と申者
是非有之道理
候得共我等一同心中
下國家を簒盗いたし候慾念より起し候事にハ更無之
日月星辰之神鑑
ある事て詰處者湯武漢高
祖明太祖民を吊君を誅し天討を執行候誠心
而已て若疑しく覺候ハゝ我等之所業終る處を
爾等眼を開て看
 但し此書付小前之者へハ道場坊主或醫者等
 より篤と讀聞せ可申若庄屋年寄眼前乃
 禍を畏一己
し候ハゝ追急度其罪可行候

       
奉天命致天討候

 天保八
丁酉年 月日                某
 
    攝河泉播村村
    庄屋年寄百姓
小前百姓共へ

 



    
(注) 1. 上記の「大塩平八郎の檄文」の本文は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の
        「大塩中斎先生天保救民告文」(大鹽中齋先生九十年記念會發行・主催 大阪陽明學會、
         大正15年)に拠りました。
         2. 本文中の「鰥寡孤獨
おひて」(おいて)、「あわれみ」(あはれみ)、「言語同断」(言語道断)
         などの文字は、原文のままにしてあります。         
         3. 大塩平八郎(おおしお・へいはちろう)=江戸後期の陽明学者。大坂町奉行所の与力。
             諱(いみな)は正高、のち後素(としもと)。号は中斎。家塾を洗心洞と名づけた。大坂
             天満(一説に阿波)生れ。天保の飢饉に救済を町奉行に請うが、入れられず、蔵
             書を売り払い窮民を救う。天保8年(1837)二月大坂に窮民・幕政批判の兵を挙
             げ、敗れて潜伏後、放火して自殺。著「洗心洞剳記」「古本大学刮且」など。(1793
             -1837)                            (『広辞苑』第6版による。)     

          大塩平八郎(おおしお・へいはちろう)=1793-1837 (寛政5-天保8) 江戸後期の
             儒者。名は後素、号は中斎。家職の大坂町奉行所与力をつとめ、さらに吟味役
             として名声をあげた。その間、林述斎について朱子学を学び、のち陽明学に転じ
             て知行合一説を信奉。職を辞したのちは学問・著述に専念するかたわら私塾洗
             心洞を開いて子弟の教育にあたった。1836(天保7)の飢饉に際して、翌 37
             窮民救済のため兵をおこしたが、失敗して自殺。著書「洗心洞剳記」など。
             
 引用者注: 生年が「1792(寛政4)」となっていたのを、他を参照して「1793(寛政5)」
                  と改めました。

          大塩平八郎の乱=1837(天保8) 大坂で大塩平八郎らがおこした挙兵・反乱。前年
             の天保の飢饉に際し、大塩平八郎は民衆の救済を大坂町奉行に献策し、蔵書を
             売り貧民を救済。一方大坂町奉行の無為無策、豪商の奸智に憤慨し、付近の農
             民に檄文を回し、門下の与力・同心・近郷の富農らとひそかにはかり、貧農や市
             内の貧民、部落民などへ呼びかけて翌年2月挙兵、市内の豪商を襲い、米・金を
             窮民に与えたが、1日で鎮圧された。平八郎は潜伏1か月ののち発見されて自殺。
             平八郎が著名な学者で旧幕吏であったためこの事件の影響は大きく、越後柏崎
             の生田万、摂津能勢の山田屋大助の乱などはこの事件に直接影響されて起こっ
             た。
 
          天保の飢饉(てんぽうのききん)=1833-36(天保4-7)に起こった全国的飢饉。
              33より天候不良で冷害・洪水・大風雨が続発し、作柄は3分ないし7分作にと
             どまり米価が騰貴した。続く 34、 35も不作が続き、 36に至って全国平均
             作柄4分という慢性的な大飢饉の様相を示した。このため米価をはじめ諸物価
             が騰貴し、農村の荒廃、農民・下層町人の離散困窮はなはだしく、各藩領内で
             一揆・打毀が激発した。幕府はその救済策として現米の給与・救小屋の設置、
             酒造制限・小売値段引下げ・囲米売却・廻米策・隠米禁止を行なったが、諸藩
             がこの危機に対処して飯米の確保につとめたため、江戸・大坂への廻米が激
             減し、いずれも不十分に終わった。この結果、大塩平八郎の乱をはじめ各地の
             一揆・打毀を続発させ、幕藩体制の崩壊を促進した。
                                    
 (以上、『角川日本史辞典』第2版による。)
         4. 『大塩の乱資料館』というサイトがあって、たいへん参考になります。
          ここの「別館」には、成正寺所蔵の大塩平八郎自筆の「大塩檄文」の画像
(『国立国会
            図書館デジタルコレクション』所収の「大塩中斎先生天保救民告文」と同じものと思われます)
と、読点
          つきの読みやすい文章があり、その他、「大塩平八郎の肖像」や「大塩家墓所の写
          真」など多くの資料が見られます。
             『大塩の乱資料館』  →   『本館』
                           →  
『別館』  →  「大塩檄文」 ・ 「大塩檄文(釈文)」
                           → 
『古文書館』                            
         5. 森鴎外に『大塩平八郎』という作品があり、青空文庫で読むことができます。
                → 森鴎外『大塩平八郎』(新字・旧かな) 〔青空文庫〕

         6. フリー百科事典『ウィキペディア』に「大塩平八郎」「大塩平八郎の乱」の項があります。
    
     



 
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