(注) | 1. | 上記の「初心忘るべからず」(『花鏡』奥段)の本文は、日本古典文学大系65『歌論集 能樂論集』(久松潜一・西尾實 校注、岩波書店・昭和36年9月5日第1刷発行、昭和39年3月15日第3刷発行)に拠りました。能楽論集の校注者は、西尾實氏です。 | |||
2. | 日本古典文学大系の凡例に、「花鏡……〔底本〕金春本。〔補助底本〕安田本。(中略)〔校合本〕田中本。吉田本。清親本。(後略)」「花鏡は、底本の欠損部分を補助底本の安田本で補ったが、該部分があまりにも多く、どこが補助底本に基づくかは別に示さなかった。安田本は底本の転写本であるが、文字づかいはさほど底本に忠実でなく、従って本書の花鏡の本文は文字づかいの面では混合本たるをまぬがれなかった」とあります。(詳しくは同書を参照してください。) | ||||
3. | 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの仮名や漢字を繰り返して表記してあります。(「まことにまことに」「いよいよ」「覺し覺し」「時分時分」「少な少な」「よくよく」など) | ||||
4. |
本文の語句の注は他書に譲り、ここには省きました。ご了承ください。ただ、二つほど日本古典文学大系から注を引用させていただきます。 〇初心不レ可レ忘。……「初心」は通常は初心者の意だが、ここでは若年の頃に学んだ芸や、その当時の力量(未熟さ)、及び時期時期での初めての経験を意味している。物事を思い立った時の心の意ではない。(日本古典文学大系の「頭注」) 〇是非初心不レ可レ忘。……「是非(の)」について、日本古典文学大系の頭注に、「善悪にかかわらず。是なる点も非なる点も」とあり、巻末の「補注」に、〈本文中に「是(これ)すなはち是非を分つ道理也」とあるのを眼目の文句とみて、“是非すなわち批判の基準としての初心を忘れるな”と解する新説(小西甚一『能楽論研究』191頁)は注目すべき見解であるが、“是なる初心も非なる初心も忘れるな”とみる従来の見解も捨て難い。「時々の初心」「老後の初心」との形の対応を考慮し、旧説に従った。具体的に「若年の初心」を意味することは明らかである〉とあります。(同書、559頁) |
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5. | 川瀬一馬著『校註 花鏡 至花道
九位』(わんや書店、昭和27年12月25日初版発行、昭和34年1月25日3版発行)の解題に、 花鏡は、「はなのかがみ」とも、又音で「クワキヤウ」とも呼ばれてゐる。風姿花傳や花鏡の前身たる「花習」等の書名との聯關から考へると、花鏡は世阿彌自身は音でクワキヤウと呼ぶつもりであつたと思はれる。世阿彌が應永三十一年六十二歳の時に完稿した著作であつて、生涯に二十數部の傳書を著作した中に於ける代表的なる主著である。 その奥書に明記する所によつても、風姿花傳は、亡父から敎へられた遺訓をそつくり書き記したものであるのに對し、花鏡は、風姿花傳を執筆成書とした(四十有餘)後、老後に至る間に自から考へついた事實を纏めたものであるといふ。 とあります。(同書、1頁) |
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6. | 〇世阿弥(ぜあみ)=室町初期の能役者・能作者。大和猿楽の観世座二代目の大夫。幼名、藤若。通称、三郎。実名は元清。父観阿弥の通称観世(かんぜ)の名でもよばれ、法名的芸名は世阿弥陀仏(世阿弥・世阿)。晩年、至翁・善芳。足利義満の庇護を受け、ついで鑑賞眼の高い足利義持の意にかなうよう、能を優雅なものに洗練すると共に、これに芸術論の基礎を与えた。「風姿花伝」「花鏡」ほか多くの著作を残し、夢幻能形式を完成させ、「老松」「高砂」「清経」「実盛」「井筒」「桧垣」「砧」「融(とおる)」など多くの能を作り、詩劇を創造した。(1363?-1443?) 〇初心忘るべからず……学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事にあたらねばならないの意。花鏡「当流に、万能一徳の一句あり。─」 〇花鏡(かきょう)=世阿弥の能楽書。1424年(応永31)完成。先聞後見(まずきかせてのちにみせよ)な・序破急・幽玄・劫(こう)・妙所・見聞心(けんもんしん)、初心を忘るべからず、その他を論ずる。 (以上、『広辞苑』第6版による。) |
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7. | フリー百科事典『ウィキペディア』に「世阿弥」の項があります。 | ||||
8. | 参考までに、少し古いのですが手元の辞書を引いてみると、次のように出ています。
〇初心=(1)〔対〕「後心」初歩の段階。または習いはじめの者。未熟者。「俊恵は(名人トナッタ)このごろも、ただ─のごとく歌を案じはべり」〔無名抄・51〕「タレ(ダッテ)義理(ノタイセツサヲ)知らぬ者やある。─なる事をいふ(ヤツダナ)」〔鳩巢・駿台雑話・巻5〕 (2)(イ)《世阿弥の能楽論で》芸が未完成の時代に習得した境地。「─忘るべからず」〔花鏡〕(ロ)未熟なこと。幼稚。「(贈リ物ヲ)返したるとき…手形(=受領証)を取らせさうらふよし…─なる事にてさうらふ」〔常朝・葉隠・聞書1〕(3)《近世語で》しろうとくさいこと。すれていないこと。「─・なる女郎は、脇からも赤面してゐられしに」〔西鶴・一代男・巻7ノ1〕【「はじめに思った心」という意味の用例は見当たらない】(小西甚一著『基本古語辞典 三訂版』昭和51年・大修館書店) 〇初心=(1)学問・芸能などの習いはじめ。(例)「─の人、二つの矢を持つことなかれ」〈徒然草・92〉(訳)弓を習いはじめの人は、二本の矢を持ってはならない。(注)二本目ノ矢ニ頼ル気持チヲ戒メテイル。(2)特に能楽論で、初々しく新鮮な演技経験。(例)「─忘るべからず」〈花鏡〉(訳)初々しく新鮮な演技経験を忘れてはいけない。(3)もの慣れないこと。世慣れぬこと。(例)「─なる女郎は、脇(わき)からも赤面して居られしに」〈西鶴・一代男・巻7・1〉(訳)(お金をさし出され)世慣れない遊女は人ごとながら赤面していたのに。 (北原保雄編『全訳古語例解辞典』昭和63年初版第7刷・小学館) 〇初心=(1)何かをやろうと思い立った当初の純真な気持。「─忘るべからず・─に返れ:─を・貫徹する(見失う)」(2)(専門の)学芸・技術の習い始め。「─者」(『新明解国語辞典 第三版』1987年(昭和62年)第487刷・三省堂) 〇初心=(1)何かしようと最初に思いたったときの、ひたむきな気持ち。初志。「─に返る」(2)〔形動〕学問・技芸などを、習い始めたばかりであること。初学。(3)〔形動〕世なれていないこと。「─者(もの)(=うぶな人)」 初心忘(わす)るべからず 物事を始めたころの謙虚で真剣な気持ちを忘れてはならないということ。世阿弥の『花鏡(かきょう)』にあることば。(北原保雄編『明鏡 国語辞典』2002年(平成14年)初版第1刷・大修館書店) ※ 現在は、世阿弥の用いた本来の意味とは違う意味で用いられているようです。 |