資料383 「初心忘るべからず」(『花鏡』奥段)




         花 鏡    奧段 (おくのだん)

      
 凡(およそ)、此(この)一巻、條々已上。この外の習事(ならひごと)あるべからず。たゞ、能を知(しる)より外の事なし。能を知る理(ことわり)をわきまへずは、此(この)條々もいたづら事(ごと)なるべし。まことにまことに、能を知らんと思はゞ、先(まづ)、諸道諸事をうちをきて、當藝ばかりに入(いり)ふして、連續に習(なら)ひ極めて、劫(こふ)を積む所にて、をのづから心に浮かぶ時、是(これ)を知るべし。
 先(まづ)、師の云(いふ)事を深く信じて、心中(しんぢゆう)に持つべし。師の云と者(いつぱ)、此一巻の條々を、能々(よくよく)(かく)して、定心(ぢやうしん)に覺(おぼえ)て、さて能の當座に至る時、其(その)條々をいたし心みて、其(その)德あらば、げにもと尊みて、いよいよ道を崇(あが)めて、年來の劫(こふ)を積むを、能を智(しる)大用(たいよう)とする也。一切藝道に、習々(ならひならひ)、覺(かく)し覺して、さて、行(おこなふ)道あるべし。申樂(さるがく)も、習覺而(ならひかくして)、さて其條々をことごとく行うべし。
 祕義(ひぎに)(いはく)、能は、若年(じやくねん)より老後迄習ひ徹(とを)るべし。老後まで習(ならふ)とは、初心より、盛りに至りて、其比(そのころ)の時分時分を習(ならひ)て、又四十以來よりは、能を少な少なと、次第々々に惜しむ風體(ふうてい)をなす。是(これ)、四十以來の風體を習(ならふ)なるべし。五十有餘よりは、大かた、せぬをもて手立(てだて)とする也。大事の際(きわ)なり。此(この)時分の習事(ならひごと)と者(いつぱ)、まづ、物數(ものかず)を少なくすべし。音曲(おんぎよく)を本(ほん)として、風體を淺く、舞などをも手を少なく、古風の名殘(ごなり)を見すべし。凡(およそ)、音曲は、年寄の一手(ひとて)取る曲也。老聲(らうせい)は、生聲(なまごゑ)盡きて、あるひは横(わう)、あるひは主(しゆ)、又は相音(あひおん)などの殘聲(ざんせい)にて、曲よければ、面白き感聞(かんもん)あり。是(これ)、一の便(たよ)りなり。かやうの色々を心得て、此風體にて一手(ひとて)取らんずる事をたしなむを、老後に習う風體とは申(まうす)也。
 老藝の物まねの事、老・女二體などの物まね、然(しか)るべし。たゞし、その身の得手(えて)によるべし。靜かならん風體を得たらん爲手(して)は、是(これ)、老風に似合(にあふ)所なるべし。若々(もしもし)狂ひはたらく態(わざ)得手ならば、似合(にあふ)まじき也。さりながら、其(その)うちに、本十分(ほんじふぶん)と思はん舞・はたらきを、六、七分に心得て、殊更(ことさら)、身七分動(しんしちぶんどう)に身をなして、心得てすべし。是を、老後に習(ならふ)所と知(しる)べし。
 然(しか)れば、當流に、萬能一德(まんのういつとく)の一句あり。
   初心不(わするべからず)
此句、三ヶ條(の)口傳(くでん)(あり)
   是非(ぜひの)初心不忘。時々(じじの)初心不忘。老後(らうごの)
   初心不忘。
(この)三、能々(よくよく)口傳可(すべし)
 一、是非(ぜひの)初心を忘るべからずとは、若年(じやくねん)の初心を不(わすれず)して、身に持ちて在れば、老後にさまざまの德あり。「前々(ぜんぜん)の非を知るを、後々(ごご)の是(ぜ)とす」と云(いへ)り。「先車(せんしや)のくつがへす所、後車(こうしや)の戒め」と云々(うんぬん)。初心を忘るゝは、後心(ごしん)をも忘るゝにてあらずや。劫成り名遂ぐる所は、能の上(あが)る果(くわ)也。上る所を忘るゝは、初心へかへる心をも知らず。初心へかへるは、能の下(さが)る所なるべし。然者(しかれば)、今の位を忘れじがために、初心を忘れじと工夫する也。返々(かへすがへす)、初心を忘るれば初心へかへる理(ことはり)を、能々(よくよく)工夫すべし。初心を忘れずは、後心(ごしん)は正しかるべし。後心正しくは、上る所のわざは、下る事あるべからず。是(これ)すなはち、是非を分(わか)つ道理也。
 又、若(わかき)人は、當時の藝曲の位をよくよく覺えて、是(これ)は初心の分(ぶん)也、なをなを上(あが)る重曲(ぢゆうきよく)を知らんがために、今の初心を忘れじと拈弄(ねんろう)すべし。今の初心を忘るれば、上(あが)る際(きわ)をも知らぬによて、能は上らぬ也。さるほどに、若(わかき)人は、今の初心を忘るべからず。
 一、時々(じじ)の初心を忘るべからずとは、是(これ)は、初心より、年盛(としざか)りの比(ころ)、老後に至るまで、其(その)時分時分の藝曲の、似合たる風體(ふうてい)をたしなみしは、時々(じじ)の初心也。されば、その時々(ときどき)の風義をし捨てし捨て忘るれば、今の當體(たうたい)の風義をならでは、身に不レ持(もたず)。過し方の一體(いつてい)一體を、今(いま)當藝に、みな一能曲(いちのうきよく)に持てば、十體(じつてい)にわたりて、能數(かず)盡きず。其(その)時々(ときどき)にありし風體は、時々(じじ)の初心なり。それを當藝に一どに持つは、時々(じじ)の初心を忘(わすれ)ぬにてはなしや。さてこそ、わたりたる爲手(して)にてはあるべけれ。然者(しかれば)、時々の初心を忘るべからず。
 一、老後の初心を忘るべからずとは、 命には終りあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一體(いつてい)一體を習ひわたりて、又老後の風體に似合(にあふ)事を習(ならふ)は、老後の初心也。老後初心なれば、前能を後心(ごしん)とす。五十有餘よりは、せぬならでは手立(てだて)なしと云(いへ)り。せぬならでは手立なきほどの大事(だいじ)を、老後にせん事、初心にてはなしや。
 さるほどに、一期(いちご)初心を忘(わすれ)ずして過ぐれば、上(あが)る位を入舞(いりまひ)にして、つゐに能下(さが)らず。然(しか)れば、能の奥を見せずして生涯を暮らすを、當流の奧義(あうぎ)、子孫庭訓(ていきん)の祕傳とす。此心底(しんてい)を傳ふるを、初心重代(ぢゆうだい)相傳(さうでん)の藝安(げいあん)とす。初心を忘(わする)れば、初心子孫に傳るべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし。
 此外、覺者智(かくしやのち)によりて、又別(べつに)見所(けんじよ)(あるべし)



  (注) 1.  上記の「初心忘るべからず」(『花鏡』奥段)の本文は、日本古典文学大系65『歌論集 能樂論集』(久松潜一・西尾實 校注、岩波書店・昭和36年9月5日第1刷発行、昭和39年3月15日第3刷発行)に拠りました。能楽論集の校注者は、西尾實氏です。         
    2.  日本古典文学大系の凡例に、「花鏡……〔底本〕金春本。〔補助底本〕安田本。(中略)〔校合本〕田中本。吉田本。清親本。(後略)」「花鏡は、底本の欠損部分を補助底本の安田本で補ったが、該部分があまりにも多く、どこが補助底本に基づくかは別に示さなかった。安田本は底本の転写本であるが、文字づかいはさほど底本に忠実でなく、従って本書の花鏡の本文は文字づかいの面では混合本たるをまぬがれなかった」とあります。(詳しくは同書を参照してください。)    
    3.  平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの仮名や漢字を繰り返して表記してあります。(「まことにまことに」「いよいよ」「覺し覺し」「時分時分」「少な少な」「よくよく」など)    
    4.  本文の語句の注は他書に譲り、ここには省きました。ご了承ください。ただ、二つほど日本古典文学大系から注を引用させていただきます。
 〇初心不忘。……「初心」は通常は初心者の意だが、ここでは若年の頃に学んだ芸や、その当時の力量(未熟さ)、及び時期時期での初めての経験を意味している。物事を思い立った時の心の意ではない。(日本古典文学大系の「頭注」)
 〇是非初心不忘。……「是非(の)」について、日本古典文学大系の頭注に、「善悪にかかわらず。是なる点も非なる点も」とあり、巻末の「補注」に、〈本文中に「是(これ)すなはち是非を分つ道理也」とあるのを眼目の文句とみて、“是非すなわち批判の基準としての初心を忘れるな”と解する新説(小西甚一『能楽論研究』191頁)は注目すべき見解であるが、“是なる初心も非なる初心も忘れるな”とみる従来の見解も捨て難い。「時々の初心」「老後の初心」との形の対応を考慮し、旧説に従った。具体的に「若年の初心」を意味することは明らかである〉とあります。(同書、559頁)       
   
    5.  川瀬一馬著『校註 花鏡 至花道 九位』(わんや書店、昭和27年12月25日初版発行、昭和34年1月25日3版発行)の解題に、
 花鏡は、「はなのかがみ」とも、又音で「クワキヤウ」とも呼ばれてゐる。風姿花傳や花鏡の前身たる「花習」等の書名との聯關から考へると、花鏡は世阿彌自身は音でクワキヤウと呼ぶつもりであつたと思はれる。世阿彌が應永三十一年六十二歳の時に完稿した著作であつて、生涯に二十數部の傳書を著作した中に於ける代表的なる主著である。
 その奥書に明記する所によつても、風姿花傳は、亡父から敎へられた遺訓をそつくり書き記したものであるのに對し、花鏡は、風姿花傳を執筆成書とした(四十有餘)後、老後に至る間に自から考へついた事實を纏めたものであるといふ。

とあります。(同書、1頁)        
   
    6.   〇世阿弥(ぜあみ)=室町初期の能役者・能作者。大和猿楽の観世座二代目の大夫。幼名、藤若。通称、三郎。実名は元清。父観阿弥の通称観世(かんぜ)の名でもよばれ、法名的芸名は世阿弥陀仏(世阿弥・世阿)。晩年、至翁・善芳。足利義満の庇護を受け、ついで鑑賞眼の高い足利義持の意にかなうよう、能を優雅なものに洗練すると共に、これに芸術論の基礎を与えた。「風姿花伝」「花鏡」ほか多くの著作を残し、夢幻能形式を完成させ、「老松」「高砂」「清経」「実盛」「井筒」「桧垣」「砧」「融(とおる)」など多くの能を作り、詩劇を創造した。(1363?-1443?)
 〇初心忘るべからず……学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事にあたらねばならないの意。花鏡「当流に、万能一徳の一句あり。─」
 〇花鏡(かきょう)=世阿弥の能楽書。1424年(応永31)完成。先聞後見(まずきかせてのちにみせよ)な・序破急・幽玄・劫(こう)・妙所・見聞心(けんもんしん)、初心を忘るべからず、その他を論ずる。  (以上、『広辞苑』第6版による。)         
   
    7.  フリー百科事典『ウィキペディア』「世阿弥」の項があります。    
    8.   参考までに、少し古いのですが手元の辞書を引いてみると、次のように出ています。 
 〇初心=(1)〔対〕「後心」初歩の段階。または習いはじめの者。未熟者。「俊恵は(名人トナッタ)このごろも、ただ─のごとく歌を案じはべり」〔無名抄・51〕「タレ(ダッテ)義理(ノタイセツサヲ)知らぬ者やある。─なる事をいふ(ヤツダナ)」〔鳩巢・駿台雑話・巻5〕 (2)(イ)《世阿弥の能楽論で》芸が未完成の時代に習得した境地。「─忘るべからず」〔花鏡〕(ロ)未熟なこと。幼稚。「(贈リ物ヲ)返したるとき…手形(=受領証)を取らせさうらふよし…─なる事にてさうらふ」〔常朝・葉隠・聞書1〕(3)《近世語で》しろうとくさいこと。すれていないこと。「─・なる女郎は、脇からも赤面してゐられしに」〔西鶴・一代男・巻7ノ1〕【「はじめに思った心」という意味の用例は見当たらない】(小西甚一著『基本古語辞典 三訂版』昭和51年・大修館書店)
 〇初心=(1)学問・芸能などの習いはじめ。(例)「─の人、二つの矢を持つことなかれ」〈徒然草・92〉(訳)弓を習いはじめの人は、二本の矢を持ってはならない。(注)二本目ノ矢ニ頼ル気持チヲ戒メテイル。(2)特に能楽論で、初々しく新鮮な演技経験。(例)「─忘るべからず」〈花鏡〉(訳)初々しく新鮮な演技経験を忘れてはいけない。(3)もの慣れないこと。世慣れぬこと。(例)「─なる女郎は、脇(わき)からも赤面して居られしに」〈西鶴・一代男・巻7・1〉(訳)(お金をさし出され)世慣れない遊女は人ごとながら赤面していたのに。 (北原保雄編『全訳古語例解辞典』昭和63年初版第7刷・小学館)
 〇初心=(1)何かをやろうと思い立った当初の純真な気持。「─忘るべからず・─に返れ:─を・貫徹する(見失う)」(2)(専門の)学芸・技術の習い始め。「─者」(『新明解国語辞典 第三版』1987年(昭和62年)第487刷・三省堂)
 〇初心=(1)何かしようと最初に思いたったときの、ひたむきな気持ち。初志。「─に返る」(2)〔形動〕学問・技芸などを、習い始めたばかりであること。初学。(3)〔形動〕世なれていないこと。「─者(もの)(=うぶな人)」
 初心忘(わす)るべからず 物事を始めたころの謙虚で真剣な気持ちを忘れてはならないということ。世阿弥の『花鏡(かきょう)』にあることば。(北原保雄編『明鏡 国語辞典』2002年(平成14年)初版第1刷・大修館書店)
 
  現在は、世阿弥の用いた本来の意味とは違う意味で用いられているようです。
   








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