資料37 読書子に寄す─岩波文庫発刊に際して─




        讀書子に寄す   岩 波  茂 雄
             ─ 岩 波 文 庫 發 刊 に 際 し て ─ 
 

 眞理は萬人によつて求められることを自ら欲し、藝術は萬人によつて愛されることを自ら望む。嘗ては民を愚昧ならしめるために學藝が最も狹き堂宇に閉鎖されたことがあつた。今や知識と美とを特權階級の獨占より奪ひ返すことはつねに進取的なる民衆の切實なる要求である。岩波文庫は此要求に應じそれに勵まされて生まれた。それは生命ある不朽の書を少數者の書齋と研究室とより解放して街頭に隈なく立たしめ民衆に伍せしめるであらう。近時大量生産豫約出版の流行を見る。その廣告宣傳の狂態は姑く措くも後代に貽すと誇稱する全集が其編輯に萬全の用意をなしたるか。千古の典籍の飜譯企圖に敬虔の態度を缺かざりしか。更に分賣を許さず讀者を繋縛して數十册を強ふるが如き、果して其揚言する學藝解放の所以なりや。吾人は天下の名士の聲に和して之を推擧するに躊躇するものである。この秋にあたつて岩波書店は自己の責務の愈重大なるを思ひ、從來の方針の徹底を期するため既に十數年以前より志して來た計畫を愼重審議この際斷然實行することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西に亙つて文藝哲學社會科學自然科學等種類の如何を問はず、苟も萬人の必讀すべき眞に古典的價値ある書を極めて簡易なる形式に於て逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は豫約出版の方法を排したるが故に、讀者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選擇することが出來る。携帶に便にして價格の低きを最主とするが故に、外觀を顧みざるも内容に至つては嚴選最も力を盡し從來の岩波出版物の特色を益發揮せしめようとする。この計畫たるや世間の一時の投機的なるものと異り、永遠の事業として吾人は微力を傾倒しあらゆる犠牲を忍んで今後永久に繼續發展せしめ、もつて文庫の使命を遺憾なく果さしめることを期する。藝術を愛し知識を求むる士の自ら進んで此擧に參加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望するところである。その性質上經濟的には最も困難多き此事業に敢て當らんとする吾人の志を諒として其達成のため世の讀書子とのうるはしき共同を期待する。
     昭和二年七月


  (注) 1.  本文は、岩波文庫 『寺田寅彦隨筆集 第一巻』(小宮豊隆編・昭和22年2月5日第1刷発行、昭和33年9月10日第23刷発行)の巻末に掲載されているものによりました。           
    2.  漢字はできるだけ旧漢字を用い、仮名遣いは原文のまま歴史的仮名遣いとしました。(現在発行されている岩波文庫には、旧字 ・旧仮名遣いを常用漢字 ・新仮名遣いに改め、一部の漢字を仮名に改めたものが掲載されています。)    
    3.  現在発行されている岩波文庫に掲載されている新字 ・新仮名による本文は、 『日本ペンクラブ電子文藝館』や、『青空文庫』の「読書子に寄す」で見ることができます。
 『日本ペンクラブ電子文藝館』の「読書子に寄す」には、岩波茂雄氏の「回顧三十年」(昭和21年3月の『日本読書新聞』に連載)も掲載されています。

 『日本ペンクラブ電子文藝館』
   →「読書子に寄す」「回顧三十年」
 『青空文庫』
   →「読書子に寄す」
   
           
           
           




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