資料371 寺田寅彦の随筆「小爆発二件」(旧字・旧仮名)



           小爆発二件
                       
 寺田  寅彦

 昭和十年八月四日の朝、信州輕井澤千ヶ瀧グリーンホテルの三階の食堂で朝食を食つて、それからあの見晴しの好い露臺に出てゆつくり休息するつもりで煙草に點火した途端に、何だかけたゝましい爆音が聞えた。「ドカン、ドカドカ、ドカーン」と云つたやうな不規則なリズムを刻んだ爆音が僅二三秒間に完了して、そのあとに「ゴー」と丁度雷鳴の反響のやうな餘韻が二三秒位續き次第に減衰しながら南の山裾の方に消えて行つた。大砲の音や瓦斯容器の爆發の音などゝは全くちがつた種類の音で、強ひて似よつた音をさがせば、「はつぱ」即ちダイナマイトで岩山を破碎する音がそれである。「ドカーン」といふ假名文字で現はされるやうな爆音の中に、もつと鋭い、どぎつい、「ガー」とか「ギャー」とか云つたやうな、例へばシャヴェルで敷居の面を引搔くやうなさういふ感じの音がまじつてゐた。それがなんだか怒鳴りつけるか又叱り飛ばしでもするやうな強烈なアクセントで天地に鳴り響いたのであつた。
 やつぱり淺間が爆發したのだらうと思つてすぐにホテルの西側の屋上露臺へ出て淺間の方を眺めたが生憎山頂には密雲のヴェールがひつかゝつてゐて何も見えない。併し山頂から視角にして略十度位から以上の空はよく晴れてゐたから、今に噴煙の頭が出現するだらうと思つてしばらく注意して見守つてゐると、間もなく特徴ある花甘藍(コーリフラワー)形の噴煙の圓頂が山を被ふ雲帽の上にもくもくと沸き上がつて、それが見る見る威勢よく直上して行つた。上昇速度は目測の結果からあとで推算したところでは毎秒五六十米、即ち颱風で觀測される最大速度と同程度のものであつたらしい。
 煙の柱の外側の膚は花甘藍形に細かい凹凸を刻まれてゐて内部の擾亂渦動の劇烈なことを示してゐる。さうして、從來見た火山の噴煙と較べて著しい特徴と思はれたのは噴煙の色が唯の黑灰色でなくて、その上に可なり顯著な例へば煉瓦の色のやうな赤褐色を帶びてゐることであつた。
 高く上がるにつれて頂上の部分の花甘藍形の粒立つた凹凸が減じて行くのは、上昇速度の減少につれて擾亂渦動の衰へることを示すと思はれた。同時に煙の色が白つぽくなつて形も普通の積亂雲の頂部に似て來た、さうして例へば椎蕈の笠を何枚か積重ねたやうな恰好をしてゐて、その笠の縁が特に白く、その裏のまくれ込んだ内側が暗灰色に隈取られてゐる。これは明に噴煙の頭に大きな渦環(ヴォーテックスリング)が重疊してゐることを示すと思はれた。
 仰角から推算して高さ七八粁迄昇つたと思はれる頃から頂部の煙が東南に靡いて、丁度自分達の頭上の方向に流れて來た。
 ホテルの帳場で勘定をすませて玄關へ出て見たら灰が降り初めてゐた。爆發から約十五分位たつた頃であつたと思ふ。麓の方から迎ひに來た自動車の前面の硝子窓に降灰がまばらな絣模樣を描いてゐた。
 山を下りる途中で出會つた土方等の中には眼に入つた灰を片手でこすりながら歩いてゐるのもあつた。荷車を引いた馬が異常に低く首を垂れて歩いてゐるやうに見えた。避暑客の往來も全く絶えてゐるやうであつた。
 星野温泉へ着いて見ると地面はもう相當色が變る位灰が降り積つてゐる。草原の上に干してあつた合羽の上には約一粍か二粍の厚さに積つてゐた。
 庭の檜葉の手入をしてゐた植木屋達は併し平氣で何事も起つてゐないやうな顔をして仕事を續けてゐた。
 池の水がいつもとちがつて白つぽく濁つてゐる、その表面に小雨でも降つてゐるかのやうに細かい波紋が現滅してゐた。
 こんな微量な降灰で空も別に暗いといふ程でもないのであるが、併しいつもの雨ではなくて灰が降つてゐるのだといふ意識が、周圍の見馴れた景色を一種不思議な淒涼の雰圍氣で彩るやうに思はれた。宿屋も別莊もしんとして靜まり返つてゐるやうな氣がした。
 八時半頃、即ち爆發から約一時間後にはもう降灰は完全に止んでゐた。九時頃に出て空を仰いで見たら黑い噴煙の流れはもう見られないで、その代りに蒼白い煙草の薄煙りのやうなものが淺間の方から東南の空に向つてゆるやかに流れて行くのが見えた。最初の爆發にはあんなに多量の水蒸氣を噴出したのが、一時間半後にはもう餘り水蒸氣を含まない硫煙の樣なものを噴出してゐるといふ事實が自分にはひどく不思議に思はれた。この事實から考へると最初に出るあの多量の水蒸氣は主として火口の表層に含まれてゐた水から生じたもので、爆發の原動力をなしたと思はれる深層からの瓦斯は案外水分の少ないものではないかといふ疑が起つた。併しこれはもつとよく研究して見なければ本當の事は分らない。
 降灰をそつとピンセットの先でしやくひ上げて二十倍の雙眼顯微鏡で覗いて見ると、その一粒一粒の心核には多稜形の岩片があつて、その表面には微細な灰粒が譬へて云へば杉の葉のやうに、或はまた霧氷のやうな形に附着してゐる。それが一寸つま楊枝の先で觸つてもすぐこぼれ落ちる程柔かい海綿狀の集塊となつて心核の表面に附着し被覆してゐるのである。唯の灰の塊が降るとばかり思つてゐた自分にはこの事實が珍らしく不思議に思はれた。灰の微粒と心核の石粒とでは周圍の氣流に對する落下速度が著しくちがふから、この兩者は空中で度々衝突するであらうが、それが再び反撥しないでそのまゝ膠着してこんな形に生長する爲には何かそれだけの機巧がなければならない。
 その機巧としては物理的又化學的に色々な可能性が考へられるのであるが、それも本當のことは色々實驗的研究を重ねた上でなければ分らない將來の問題であらうと思はれた。
 一度淺間の爆發を實見したいと思つてゐた念願がこれで偶然に遂げられたわけである。淺間觀測所の水上理學士に聞いたところでは、この日の爆發は四月廿日の大爆發以來起つた多數の小爆發の中でその強度の等級にしてまづ十番目位のものださうである。その位の小爆發であつたせゐでもあらうが、自分のこの現象に對する感じは寧ろ單純な機械的なものであつて神祕的とか驚異的とか云つた氣持は割合に少なかつた。人間が爆發物で岩山を破壞してゐるあの仕事の少し大仕掛けのものだといふやうな印象であつた。併し、これは火口から七粁を距てた安全地帶から見たからのことであつて、萬一火口の近くにでも居たら直徑一米もあるやうな眞赤に燒けた石が落下して來て數分時間内に生命を亡なつたことは確實であらう。
 十時過の汽車で歸京しようとして沓掛驛で待合はせてゐたら、今淺間から下りて來たらしい學生をつかまへて驛員が爆發當時の模樣を聞き取つてゐた。爆發當時その學生はもう小淺間の麓まで下りてゐたから何のこともなかつたさうである。その時別に四人連れの登山者が登山道を上りかけてゐたが、爆發しても平氣でのぼつて行つたさうである。「なに何でもないですよ、大丈夫ですよ」と學生がさも請合つたやうに云つたのに對して、驛員は急に嚴かな表情をして、靜に首を左右にふりながら「いや、さうでないです、さうでないです。――いやどうも有難う」と云ひながら何か書留めてゐた手帳をかくしに收めた。
 ものを怖がらな過ぎたり、怖がり過ぎたりするのはやさしいが、正當に怖がることは中々六かしいことだと思はれた。○○の○○○○に對するのでも△△の△△△△△に對するのでも、矢張そんな氣がする。

 八月十七日の午後五時半頃に又爆發があつた。その時自分は星野温泉別館の南向きのベランダで顯微鏡を覗いてゐたが、爆音も氣付かず、又氣波も感じなかつた。併し本館の方にゐた水上理學士は障子にあたつて搖れる氣波を感知したさうである。又自分達の家の裏の丘上の別莊にゐた人は爆音を聞き、そのあとで岩の崩れ落ちるやうな物凄い物音がしばらく持續して鳴り響くのを聞いたさうである。生憎山が雲で隱れてゐて星野の方からは噴煙は見えなかつたし、降灰も認められなかつた。
 翌日の東京新聞で見ると、四月廿日以來の最大の爆發で噴煙が六里の高さに昇つたとあるが、これは信じられない。素人のゴシップをそのまゝに傳へたいつもの新聞の嘘であらう。この日の降灰は風向の北がゝつてゐた爲に御代田や小諸方面に降つたさうで、これは全く珍らしいことであつた。
 當時北輕井澤で目撃した人々の話では、噴煙がよく見え、岩塊の噴き上げられるのもいくつか認められ又煙柱を綴る放電現象も明瞭に見られたさうである。爆音も相當に強く明瞭に聞かれ、その音の性質は自分が八月四日に千ヶ瀧で聞いたものと略同種のものであつたらしい。噴煙の達した高さは目撃者の仰角の記憶と山への距離とから判斷して矢張約十粁程度であつたものと推算される。面白いことには、噴出の始まつた頃は火山の頂を蔽つてゐた雲が間もなく消散して山頂がはつきり見えて來たさうである。偶然の一致かも知れないが爆發の影響とも考へられないことはない。今後注意すべき現象の一つであらう。
 グリーンホテルではこの日の爆音は八月四日のに比べて比較にならぬほど弱くて氣のつかなかつた人も多かつたさうである。
 火山の爆音の異常傳播に就いては大森博士の調査以來藤原博士の理論的研究をはじめとして内外學者の詳しい研究がいろいろあるが、併し、こんなに火山に近い小區域で、こんなに音の強度に異同のあるのは寧ろ意外に思はれた。こゝにも未來の學者に殘された問題がありさうに思はれる。
 この日峯の茶屋近くで採集した降灰の標本といふのを植物學者のK氏に見せて貰つた。霧の中を降つて來たさうで、みんなぐしよぐしよに濡れてゐた。そのせゐか、八月四日の降灰のやうな特異な海綿狀の灰の被覆物は見られなかつた。或は時によつて降灰の構造がちがふのかも知れないと思はれた。
 翌十八日午後峯の茶屋からグリーンホテルへ下りる專用道路を歩いてゐたら極めてかすかな灰が降つて來た。降るのは見えないが時々眼の中にはいつて刺戟するので氣が付いた。子供の服の白い襟にかすかな灰色の斑點を示す位のもので心核の石粒などは見えなかつた。
 一と口に降灰とは云つても降る時と場所とでこんなに色々の形態の変化を示すのである。輕井澤一帶を一米以上の厚さに蔽つてゐるあの豌豆大の輕石の粒も普通の記録では矢張降灰の一種と呼ばれるであらう。
 毎回の爆發でも單にその全エネルギーに差等があるばかりでなく、その爆發の型にも可なり色々な差別があるらしい。併しそれが新聞に限らず世人の言葉ではみんな唯の「爆發」になつてしまふ。言葉といふものは全く調法なものであるが又一方から考へると實に頼り無いものである。「人殺し」「心中」などでも同樣である。
 併し、火山の爆發だけは、今にもう少し火山に關する研究が進んだら爆發の型と等級の分類が出來て、今日のはA型第三級とか昨日のはB型第五級とかいふ記載が出來るやうになる見込がある。
 S型三六號の心中やP型二四七號の人殺しが新聞で報ぜられる時代も來ないとは限らないが、その時代に於ける「文學」がどんなものになるであらうかを想像することは困難である。
 少くも現代の雜誌の「創作欄」を飾つてゐるやうなあたまの粗雜さを成立條件とする種類の文學は亡くなるかも知れないといふ氣がする。
                               (昭和十年十一月、文學)



  (注) 1. 上記の寺田寅彦の随筆「小爆発二件」(旧字・旧仮名)の本文は、『寺田寅彦全集 文學篇』第五巻(岩波書店、昭和11年11月5日発行)に拠りました。
なお、同全集の後記に、「本巻は口絵を除き旧版第五巻に同じである」という付記があります(後記7頁)。 
(引用者注:「旧版」とは、昭和11-13年に出版された最初の『寺田寅彦全集 文学篇』をさしています。)
   
    2. 上記の全集(第五巻)の後記によれば、「小爆発二件」は昭和10年11月『文学』第3巻第11号に発表され、昭和11年3月、著者の没後発行された『橡の実』に収録された由です。    
    3. 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、元の文字を繰り返して表記してあります(「見る見る」「いろいろ」「ぐしよぐしよ」)。    
    4. 本文の終わり近くにある「眼の中にはいつて刺戟するので」の「はいつて」は、歴史的仮名遣いでは「はひつて」となるところですが、全集の本文のまま「はいつて」にしてあります。    
    5. 本文の終わり近くに出て来る大森博士・藤原博士とは、地震学者の大森房吉と気象学者の藤原咲平のことです。
大森房吉(おおもり・ふさきち)=地震学者。福井県人。東大卒、同教授。大森公式の算出、地震計の発明、地震帯の研究など。(1868~1923) (『広辞苑』第6版による。)
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引用者注:「大森公式」とは、地震で初期微動継続時間によって、震源距離(観測地点から震源までの距離)を求める式のこと。
(1)フリー百科事典『ウィキペディア』に「大森公式」の項があります。
(2)福井工業高等専門学校地球物理学研究会による「わかりやすい地震の説明、そして『大森公式』と『余震の大森公式』」というページがあります。
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藤原咲平(ふじわら・さくへい)=気象学者。長野県生れ。中央気象台に入り、気象技監・中央気象台長、東大教授を兼任。「音の異常伝播の研究」により。学士院賞(1884~1950) (『広辞苑』第6版による。)
   
    6. 寺田寅彦(てらだ・とらひこ)=物理学者・随筆家。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号した。著「冬彦集」「藪柑子集」など。(1878~1935) (『広辞苑』第6版による。)    
    7. フリー百科事典『ウィキペディア』に「大森房吉」・「藤原咲平」・「寺田寅彦」の項があります。    
    8. 電子図書館『図書館。in』で、寺田寅彦の一部の作品を、縦書きで読むことができます。    






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