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(注) |
1. |
上記の三島由紀夫の「檄」の本文は、主として『多摩湖畔日誌』というサイトに掲載してある「檄文」のコピーの写真により、その他『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、昭和51年2月25日発行)所収の本文を参照して記述しました。
→ 三島由紀夫「檄」(「檄文」のコピーの写真) |
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2. |
文中の漢字は、コピーの写真に一部常用漢字(当用漢字)体になっているものも、)
なお、「凛烈」は「凛冽」、「ねじ曲つた」は「ねぢ曲つた」、「治安出動は不用となつた」は「治安出動は不要となつた」、「堺」は「界(又は「境」)」とあるべきところかと思われますが、原文のままにしてあります。(前掲の『全集』には、「ねじ曲つた」だけが「ねぢ曲つた」となっています。
2011年8月23日確認。)
* 全集記載の「檄」と、ここに掲げた「檄」との本文の違いは、「ねじ曲つた」が全集には「ねぢ曲つた」となっている点だけです。 |
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3. |
『全集』の巻末にある「校訂」には、「銘記せよ! 實はこの昭和四十五年十月二十一日といふ日は」の「昭和四十五年」について、<「昭和四十四年」の誤りと思われるが、原文のままとした>とあります。 |
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4. |
この「檄」について、『全集』巻末の「解題」に、「「檄」と「辭世」は、昭和四十五年十一月二十五日、午後零時十五分、自衛隊市ヶ谷駐屯地、東部方面総監室にての自決に際して遺されたものである」とあります。 |
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5. |
著作権について:檄文の性質上、資料として掲載することは差し支えないものと判断して、掲載させていただきました。 |
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6. |
三島由紀夫は、昭和45年(1970)11月25日、楯の会隊長として隊員4名とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現在の防衛省本庁)に東部方面総監を訪ね、その部屋で懇談中、突然日本刀を持って総監を監禁、部屋の前のバルコニーで演説してクーデターを促しましたが、自衛隊員は決起せず、約1時間後に割腹自殺を遂げました。享年45。(フリー百科事典『ウィキペディア』による。) |
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7. |
〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=小説家・劇作家。本名、平岡公威(きみたけ)。東京生れ。東大卒。20世紀西欧文学の文体と方法に学んで、秩序と神話を志向、純粋日本原理を模索して自裁。作「仮面の告白」「金閣寺」「豊饒の海」など。(1925-1970) (『広辞苑』第6版による)
〇三島由紀夫(みしま・ゆきお)=(1925-1970)小説家・劇作家。東京生まれ。本名、平岡公威(きみたけ)。東大卒。絶対者の希求、美的死生観、様式美への憧憬を昇華させて唯美的世界を構築。その傾向はしだいにナショナリズム的色彩を強めた。割腹自殺。著「仮面の告白」「潮騒」「金閣寺」「鹿鳴館」「豊饒の海」など。 (『広辞林』第2版による) |
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8. |
三島由紀夫の死をどうとらえるか。それを肯定的にとらえるにせよ、否定的にとらえるにせよ、いずれにしても、自分なりに検証しておく必要があるだろうと思い、資料の一つとして掲載しました。 |
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9. |
山中湖畔にある『三島由紀夫文学館』のホームページがあります。 |
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10. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に「三島由紀夫」の項があり、三島由紀夫についての詳しい解説が出ています。 |
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11. |
三島由紀夫に、「私が組織した「楯の會」は、會員が百名にも滿たない、そして武器も持たない、世界で一等小さな軍隊である。毎年補充しながら、百名でとどめておくつもりであるから、私はまづ百人隊長以上に出世することはあるまい」という書き出しの、「楯の會」結成一周年記念パンフレット(昭和44年11月)に掲載された「「楯の會」のこと」という文章があります。
これを「檄」を読むときの参考に、資料の一つに入れたいと思いましたが、考えてみると、著作権がまだ切れていないということがあり、結局、資料に加えることを断念しました。関心のある方は、『三島由紀夫全集』第34巻・評論(10)(新潮社、昭和51年
2月25日発行)などでご覧ください。
なお、三島由紀夫が楯の会会員にあてた遺書「楯の会会員たりし諸君へ」という文章がネット上に出ていて、これを読むことができます。 |
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12. |
『四国の山なみ』というサイトに、三島由紀夫が自衛隊市ヶ谷駐屯地で行った演説「三島由紀夫演説文」が掲載されています。 |
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13. |
読売新聞文化欄、2011年(平成23年)6月6日の「今に問う言葉」で、文芸評論家の富岡幸一郎氏は、三島由紀夫の『太陽と鉄』(1968年)から「『武』とは花と散ることであり、『文』とは不朽の花を育てることだ」という言葉を引いて、次のように書いておられます。
昭和45年11月25日、三島由紀夫は市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部(当時)で千人の隊員たちを前に演説後、割腹自殺した。自衛隊がアメリカの傭兵(ようへい)である現状から脱却し、名誉ある国軍となるために憲法改正に立ちあがれ、との主張であった。(中略) 死の数年前に著した『太陽と鉄』は、作家の思想を凝縮した文学的遺書であり、戦後のあらゆる価 値の転倒した時代にこそ、「文武両道」という古い徳目が復活すべきだと説いている。「武」と「文」という相反する緊張感のなかに、日本人の伝統感覚を追求しようとした三島。「武」が欠落すれば「文」は弛緩(しかん)し腐敗する。その衝撃的な死からすでに40年。日本は何も変 わってはいない。
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14. |
『うずまく研究室』というサイトに、『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)(2000年11月~2006年4月)の各巻目次が出ています。
この全集では、「檄」は第36巻評論11に入っています。
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『うずまく研究室』 →
『決定版 三島由紀夫全集』(新潮社)各巻目次 |
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15. |
篠原裕著『三島由紀夫かく語りき』(展転社、2017年5月刊)が出ています。
(本の紹介文「三島氏は我らに何を遺していったのか? 膨大精緻なる創作と言動の一端に、元楯の会一期生が肉迫する!」) |
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