(注) | 1. | 上記の『徒然草』第155段「世に従はん人は……」の本文は、岩波文庫『新訂徒然草』(西尾実・安良岡康作校注、1928年12月25日第1刷発行・1985年1月16日第70刷改版発行・1989年5月16日第80刷発行)によりました。 | |||
2. | 本文中の振り仮名(ルビ)は、引用者が必要と思うものの外は省略してあります。 | ||||
3. | 岩波文庫の『新訂徒然草』は、「昭和13年度・昭和40年度の校訂と同じく、烏丸光広本(からすまるみつひろぼん)を底本とすることにした」と、凡例にあります。 | ||||
4. | <岩波文庫の『徒然草』は、『徒然草文段抄(もんだんしょう)』の本文を底本とする、昭和3年の初版発行以来、烏丸光広本による、昭和13年度・昭和40年度の改訂を経て、今回の第4回の新訂に至ったのであるが、すべては、前校訂者、西尾実先生の深い研究と高い見識にもとづくものであった。(以下、略)>と、岩波文庫冒頭の「凡例」に安良岡康作氏が書いておられます。 | ||||
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いくつかの語句の注をつけておきます。(岩波文庫の注釈その他、を利用させていただきました。) 〇世に従はんとする人……世の中に順応していこうと思う人。世間並みに生きていこうと思う人。 〇機嫌……時機、潮時。ここは、物事の都合よくゆく時機。 〇序(ついで)……ことの運ばれる順序・次第。 〇耳に逆(さか)ひ……耳にさからい。 〇機嫌をはからず……「はからず」は、考慮しない。 〇真俗につけて……真諦(しんたい・出世間の法・道理)と俗諦(俗世間の法・道理)。ここでは、仏道修行の上でも、俗世間に処していく上でも、の意。 〇春はやがて……「やがて」は、早くから。時を移さず。すぐさま。 〇秋は即ち……「即ち」は、すぐに。直ちに。 〇萌しつはるに堪へずして……芽を出し、その勢いの進むのにこらえ切れないで。「つはる」は、兆しはじめた徴候が進むこと。妊娠初期の身体の変調を悪阻(つわり)というのは、この名詞形。 〇迎ふる気、下に設けたる……葉の落ちる時機を待っている生気を、内部に包蔵している。 〇待ちとる序(ついで)……待ち受けて交替する順序。 〇死期(しご)……死にぎわ。臨終の時。 〇かねて後に迫れり……それより先に、人の背後に接近しているのだ。気がつかぬうちに、ひそかに近づいている状態をいう。前から来れば、近づくのを覚悟できるが、死は気がつかないうちに急に訪れる、というのである。 〇沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し……遥か沖まで続く干潟に安心していると、いつの間にか足元に潮が満ちているようなものだ。つまり、人生はまだ長いと思ってうかうかしていると、いつのまにか死が迫っている、ということ。 〇干潟……遠浅の海で、潮が干(ひ)れば現れ、させば隠れる所。「ヒカタ。潮がよく引いて乾いている所」(日ポ辞書)。 〇磯……海のほとりの、岩石の多い所。 |
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6. | 〔口語訳〕 世の中に順応していこうと思う人(世間並みに生きていこうと思う人)は、まず第一に、物事の時機というものを知らなければならない。物事の運ばれる順序に適しないことは、人の耳にも逆らい、人の心にも合わずに、その事がうまくいかない。そのような時機のよしあしをわきまえなければならない。ただし、病気にかかること、子を産むこと、死ぬことだけは、時機のよしあしには関わらない。順序が悪いからといって、それが中止になることがない。ものが生じ、ある期間存続し、それが変化してゆき、やがて滅び去るという、すべてのものは変転して止まないという真の重大事は、流れの激しい川が水をいっぱいに湛えて流れていくようなものである。 暫くの間も停滞することなく、どんどん進んでいくものなのである。であるから、仏道修行の上でも、俗世間に処していく上でも、必ずやり遂げようと思うことは、時機をあれこれ言うべきではない。なんのかのと、ためらうことなく、足踏みをしてはならないのである。 春が暮れてそのあと夏になり、夏が終わって秋が来るのではない。春は春のまま夏の気配をきざしており、夏のうちから早くも秋の気配が入り交じり、秋はすぐに寒くなり、寒いはずの十月(陰暦の、冬の初めの月)は、小春日和の暖かさであって、草も青くなり、梅も蕾(つぼみ)をつけてしまう。木(こ)の葉が落ちるのも、まず木の葉が落ちて、それから芽が生じるのではない。木の内部から芽がきざし、その勢いの進むのに堪え切れないで、木の葉が落ちるのである。新しい変化を迎え入れる気配が木の内部に待ち受けているので、交替する順序が非常に速いのである。生(しょう)・老・病・死(生まれること・老いること・病気になること・死ぬこと)の四苦がやってくることも、また、四季の変化以上に速やかである。四季は、速いとはいっても、やはり決まった順序がある。しかし、死期(臨終の時)は、順序を待たない。死は必ず前方からやってくるものとは限らず、 いつの間にか、人の背後に迫っている。人は誰しも皆、死があることを知っているものの、しかも死が急にやってくると思って待っていないうちに、死は不意にやってくる。それはちょうど、沖まで の干潟が遥か彼方まで続いているので安心していても、足もとの磯から急に潮が満ちて来るようなものである。 |
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7. | 徒然草第155段で筆者が述べようとしたこと。 この段は、「世の中に順応していこうと思う人」の心構えを述べようとする形で書き出されているが、それは初めの部分だけ(世に従はん人は……さやうの折節を心得べきなり)で終わり、人間の生老病死は時機を超越している、つまり、それはいついかなる順序でやってくるか決まっていない。だから、仏道のことも世俗のことも、必ず成し遂げようと思うことは直ちに実行すべきである、ということを述べているのである。 後段は、前段の主張のうち特に死が不意に訪れることを強調して、四季の推移のこと(ある季節は既に次の季節を含み持っていること)、木(こ)の葉の凋落のこと(葉が落ちる前に既に次の芽が用意されていること)を述べて、自然現象のうちに見られる変化の相が、同じく人間の生のうちにも見られ、刻々移り行く生の中に常に死がきざしていて、それが思いがけなく突然にやってくる、と人生の無常を説いている。(だから、必ず成し遂げようと思うことは直ちに実行すべきである、というのである。) 〔付記〕 ところで、この文章の中で筆者・兼好が、ある季節が既に次の季節を準備しているということ、そして、木(こ)の葉が落ちるのは、次の芽が既にできていてその勢いに堪えきれずに落ちるのだ、と指摘していることは、まことに興味深いものがあります。この段を資料の一つとしてここに掲載したのも、実はこの部分に興味があってのことなのでした。一言、付記しておきます。 |
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8. | 〇徒然草(つれづれぐさ)=鎌倉時代の随筆。2巻。作者は兼好法師。出家前の1310年(延慶3)頃から31年(元弘1)にかけて断続的に書いたものか。「つれづれなるままに」と筆を起こす序段のほか、種々の思索的随想や見聞など243段より成る。名文の誉れ高く、枕草子と共に日本の随筆文学の双璧。 〇徒然草文段抄(つれづれぐさ・もんだんしょう)=徒然草の注釈書。7巻。北村季吟著。1667年(寛文7)刊。各段をさらに数節に小分けして説明し、注は「寿命院抄」「野槌」以下の旧説を取捨して穏健な自説を加える。(以上、『広辞苑』第6版による。) 引用者注:「寿命院抄」とは、安土桃山~江戸前期の医学者・秦宗巴の著した、徒然草の最初の注釈書。「徒然草寿命院抄」とも。また、「野槌」は、林羅山の著した徒然草の注釈書。 |
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9. | 『Zaco's
Page』というサイトに、「国語の先生の為のテキストファイル集」というページがあり、そこに『徒然草』の本文が入っています。(2012年5月25日付記) 『Zaco's Page』→「国語の先生の為のテキストファイル集」 |