資料334 与謝蕪村「北寿老仙をいたむ」





       北壽老仙をいたむ   
               
与 謝 蕪 村

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公の黄に薺のしろう咲たる
見る人ぞなき

雉子のあるかひたなきに鳴を聞ば
友ありき河をへだてゝ住にき

へげのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原眞すげはら
のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる

我庵のあみだ仏ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごと彳める今宵は
ことにたうとき

    
           釋蕪村百拜書
 
 

(読み仮名付き)


  北壽老仙をいたむ   
            
 与 謝 蕪 村

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々(ちゞ)
(なん)ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行(ゆき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公(たんぽぽ)の黄(き)に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき

雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき

へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹風(にしふくかぜ)
はげしくて小竹原(をざさはら)(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ

君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる

我庵(わがいほ)のあみだ仏ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は
ことにたうとき

    
            釋蕪村百拜書 


     
  (注) 1.  上記の与謝蕪村「北壽老仙をいたむ」の本文は、日本古典文学大系58『蕪村集 一茶集』(暉峻康隆・川島つゆ校注、岩波書店・昭和34年4月6日第1刷発行)によりました。           
    2.  本文の平仮名の「こ」を縦に潰した形の繰り返し符号は、「々」に置き換えてあります(千々)。また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の平仮名に置き換えてあります(すごすご)。    
    3.   本文中の「去ぬ」の読みについては、日本古典文学大系の頭注に「去ぬ─「去りぬ」と「いぬ」の二つの読み方がある。清水孝之氏は句例によって「いぬ」とよむ」とあります。(「去ぬ」の読みについては、次の注4を参照してください。)
 なお、「へげのけぶり」については、同頭注に、
 「へげ」は竈の古名とする説があるが、用例がない。変化(へげ)の煙であろう。「宇津保物語」楼上「御かたちもへげのもののやうになりまさりたまふ」。夕べの煙を火葬の煙と感じたのである。
 とあり、「はと」については、「ぱっと」とあります。
 また、初めのほうにある「おもふて」、最後にある「まいらせず」「たうとき」は、歴史的仮名遣いでは、それぞれ「おもうて」「まゐらせず」「たふとき」となります。
   
    4.  「去ぬ」の読みについて

(1)「さりぬ」と読んでいるもの

 〇新潮文庫『郷愁の詩人与謝蕪村』(萩原朔太郎著、昭和26年11月10日発行)
 〇講談社版『蕪村全集 第4巻』俳詩・俳文(尾形仂・山下一海 校注、1994年8月25日第1刷発行) 

(2)「いぬ」と読んでいるもの  

 〇新潮古典集成『與謝蕪村集』(清水孝之・校注、新潮社・昭和54年11月10日発行) 
 「句集93・新花つみ78等の例により「いぬ」と読む。」(241頁頭注)
 引用者注:句集93「きのふ去(い)ニけふいに鴈(かり)のなき夜哉(かな)
    新花つみ78「鮓
(すし)つけてやがて去(い)ニたる魚屋(ととや)かな」
 〇岩波文庫『蕪村俳句集 付春風馬堤曲他二篇』(尾形仂・山下一海 校注、1989年3月16日第1刷発行)
 本文に「去(い)ぬ」とルビ。脚注に「去ぬ─逝去した。「逝、イヌル。去、同上」(『増補下学集』下一)。」(277頁脚注)
 〇ワイド版岩波文庫17『蕪村俳句集 付春風馬堤曲他二篇』(同前。1991年1月24日第1刷発行)も、同内容。

 ※ 引用者注: 同じ校注者、尾形仂・山下一海氏が、(1)に挙げた、講談社版『蕪村全集 第4巻』(1994年8月25日第1刷発行)で「さりぬ」と読んでおられるとすれば、岩波文庫の第1刷 (1989年3月16日発行)及びワイド版岩波文庫の第1刷(1991年1月24日発行)で「いぬ」と読んでいたのを、「さりぬ」と読むのをよしとされたのでしょうか?  『蕪村全集』に、このことについての何らかの断りが欲しかったところです。(2012年9月1日付記)

 〇安東次男著『与謝蕪村』(講談社学術文庫、1991年4月10日第1刷発行)
 〇金田晉「美的価値について」
 この論文の中の「二、蕪村の和詩「北寿老仙を悼む」をもとにして」の中で、金田晉(かなた・すすむ)氏(広島大学総合科学部)は、「リズムの関係で、私は清水孝之氏や安東次男氏の「いぬ」という読みを採る」としておられます。(このことについては、注15に論文の一部が引用してあります。)
 → 金田晉「美的価値について」   
 これは、『広島大学学術情報リポジトリ』に収められている論文です。(2012年9月2日付記) 


(3)「いぬ」とも「さりぬ」とも読めるが、「いぬ」と読むほうがよいか、とするもの

 〇日本の文学 古典編43『蕪村集・一茶集』(揖斐 高・校注訳、ほるぷ出版・昭和61年9月1日初版第1刷発行)
 「「いぬ」とも「さりぬ」とも読める。蕪村自身に「きのふ去(い)にけふいに雁のなき夜哉」や、「鮓につけてやがて去(い)にたる魚屋かな」(『新花つみ』)という用例があるから、「いぬ」の方がよいか。」(103頁脚注)

(4)「いぬ」と「さりぬ」の二つの読みがある、とするもの

  日本古典文学大系58『蕪村集 一茶集』(暉峻康隆・川島つゆ校注、岩波書店・昭和34年4月6日第1刷発行)〔「蕪村集」の校注は、暉峻康隆氏〕
 「○去ぬ─「去りぬ」と「いぬ」の二つの読み方がある。清水孝之氏は句例によって「いぬ」とよむ 。」(258頁頭注)   
      あなたは卒然として今朝この世を去ってしまわれた。今宵わたしの心は千々に思い乱れている。なんとまあ、あなたは遠くへへだたってしまわれたのであろう。 (258頁頭注の訳)  
   
    5.  「へげのけぶり」について   
 注の3にも触れましたが、「へげのけぶり」については、日本古典文学大系の頭注に、「「へげ」は竈の古名とする説があるが、用例がない。変化(へげ)の煙であろう。「宇津保物語」楼上「御かたちもへげのもののやうになりまさりたまふ」。夕べの煙を火葬の煙と感じたのである」とあります。
 辞典を引いてみると、日本国語大辞典には、「へげ」は「へんげ」の撥音「ん」の無表記とあり、「へんげ(変化)」を見よ、となっています。(以下、「へんげ(変化)」の項は日本国語大辞典による。)      
 へんげ(変化) (名)(「げ」は「化」の呉音)
 1.神仏・天人などが仮に人間の姿になって現われること。また、その物。神の化身(けしん)。権化(ごんげ)。(引用者注:用例、略)
 2.動物などが姿を変えて現われること。また、その物。化け物。妖怪。変化物。(用例、略)
 3.神変不可思議な現象。(用例、略)
 4.へんか(変化)1.に同じ。(ある性質・状態などが他の性質や状態に変わること。または、変えること。へんげ。)


 つまり、ここの「へげのけぶり」は、上記の「3.神変不可思議な現象」の意味で、「この世のものとも思われぬ、不思議な煙」というような意味であろうと思われます。       
   
    6.   与謝蕪村(よさ・ぶそん)=江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、のちに改姓。別号、宰鳥・夜半亭・謝寅・春星など。幼時から絵画に長じ、文人画で大成するかたわら、早野巴人(はじん)に俳諧を学び、正風(しょうふう)の中興を唱え、感性的・浪漫的俳風を生み出し、芭蕉と並称される。著「新花つみ」「たまも集」など。(1716-1783) (『広辞苑』第6版による。)    
    7.  北壽老仙(ほくじゅ・ろうせん)=「北壽」は下総結城郡本郷の俳人早見晋我(しんが)の隠居後の号。「老仙」は老仙人の意で、蕪村の呈した敬称。晋我は通称治郎左衛門、善久。代々酒造家で、初め俳諧を其角に学び、のち佐保介我についた。その晋我が延享2年(1745)正月28日に75歳で没した時、当時この地方に居て晋我に愛されていた蕪村(当時30歳)が、悲しみにたえず作詩した、といわれているのが、この追悼曲である。墓所は結城市の妙国寺にある。(日本古典文学大系の頭注、その他によりました。)
   
    8. 早見晋我の号「北壽」(北寿)について
 晋我の号「北壽」については、講談社版全集に、「晋我は本名次郎左衛門。下総結城(しもうさゆうき)の酒造家で、「北寿」はその隠居号。「老仙」は老仙人の意で蕪村が呈した敬称である」とあります(同書、26頁)。従って、「北寿老仙」を晋我の号とするのは、正確ではないのではないでしょうか。
   
    9.  北壽老仙(早見晋我)の墓がある妙国寺(結城市結城1570)には、「北壽老仙をいたむ」の碑が建っているそうです。(晋我の墓は、結城市の市指定有形文化財<史跡>に指定されています。)
 ※ 「水戸線 結城を往く(3)」というホームページで、妙国寺にある「北壽老仙をいたむ」の碑と北壽老仙(早見晋我)の墓の写真が見られます。(2012年3月28日現在)
 
 → 「水戸線 結城を往く(3)」
   
    10.  萩原朔太郎著『郷愁の詩人与謝蕪村』(新潮文庫、昭和26年11月10日発行)の巻頭にある「蕪村の俳句について」の冒頭に、次のようにあります。

 君あしたに去りぬ
 ゆうべの心千々に何ぞ遙かなる。

 君を思うて岡の邊(べ)に行きつ遊ぶ。
 岡の邊なんぞかく悲しき。

 この詩の作者の名をかくして、明治年代の若い新體詩人の作だと言つても、人は決して怪しまないだらう。しかもこれが百數十年も昔、江戸時代の俳人與謝蕪村によつて試作された新詩體の一節であることは、今日僕等にとつて異常な興味を感じさせる。實際かうした詩の情操には、何等か或る鮮新な、浪漫的な、多少西歐の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そして此の種の情操は、江戸時代の文化に全く無かつたものなのである。(同文庫、11頁)
   
    11. 「北壽老仙をいたむ」の制作時期について
 講談社版『蕪村全集 第4巻』の解説によれば、早見晋我の死を悼んで作られたこの詩は、晋我50回忌追善集『いそのはな』(二世晋我編、寛政5年刊)に、「庫(くら)のうちより見出(みいで)つるまゝ右にしるし侍る」との編者の付記とともに収められています。
 この詩は、「君」という呼びかけや、「友ありき」という言い方が、75歳の晋我と30歳の蕪村の間柄としてはふさわしくない、ということや、その他の理由から、晋我が没した延享2年(1745年)蕪村30歳の作ではなく、晋我の33回忌にあたる安永6年(1777年)、晋我の追善集の出版を計画した息子の桃彦(二世晋我)の依頼によって、蕪村62歳の時に、30歳の時点に立ち返って作られたものであろう、と考えられているようです。
 その33回忌追善の企画が何らかの事情で流れて、寛政5年(1793年)に、50回忌追善集として刊行された『いそのはな』に、「庫のうちより見出」されるという結果となって掲載されたものか、というわけです。
 ※  この作品の制作時期については、日本の文学・古典編『蕪村集 一茶集』(揖斐 高 校注・訳、 ほるぷ出版、108~109頁の解説)、尾形仂・校注『蕪村俳句集』(岩波文庫、解説の297~299頁)、講談社版『蕪村全集 第4巻』(26~27頁の解説)等を参照してください。(揖斐 高 氏の解説を、次の注12に引かせていただきました。)
   
    12.  「北壽老仙をいたむ」の制作時期について、少し長くなって恐縮ですが、日本の文学・古典編『蕪村集 一茶集』(ほるぷ出版、昭和61年発行)の揖斐 高 氏の解説を引かせていただきます。 

 この作品は、本文の脚注にも記したように、下総国結城の早見晋我(隠居後の号を北寿老仙 *引用者注:号は「北寿」ではないでしょうか)の死を悼んで作られた。晋我が没したのは延享2年(1745)正月28日、75歳。時に関東遊歴中の蕪村は30歳であった。しかし、この作が公表されたのは、はるか後年、晋我の50回忌追善集として息子の桃彦(二世晋我)が、寛政5年(1793)に出版した『いそのはな』においてである。すでに蕪村が没してからも10年後の『いそのはな』出版において、「北寿老仙をいたむ」は、その末尾に「庫のうちより見出(みいで)つるまま右にしるし侍る」という注記を付して、初めて公開されたのであった。
 ごく自然に考えれば、この作は晋我没後間もなく作られ、早見家の土蔵に眠り続けて、およそ50年後に初めて日の目を見たということになろう。つまり、この作は蕪村30歳の延享2年の作と考えられるということである。しかし、それはこの作の成立時期についての一つの有力な推測ではあっても、確実な事実とはいえない。蕪村の原稿が、早見家の「庫のうち」にあった期間が果たして50年間かどうかは、右の注記からだけでは確言できないからである。反対に、これだけの詩的達成を示す作品を、俳諧作者としてまだ未熟であった30歳の蕪村が作り得たかどうか、という疑問は当然湧いてくる。むしろ、作品の評価を踏まえれば、これは蕪村の円熟を待って初めて書き得る作品だと考える方が穏当であるかもしれない。とすれば、晋我の33回忌に当たる安永6年(1777)に、晋我の追善集の出版を計画した(この時は結局実現しなかったが)桃彦の依頼によって、実はその安永6年頃に作られたのではないかという推測(安東次男『与謝蕪村』、村松友次『蕪村集』など)は、かなりの説得力を持っており、注目すべき説であるように思われる。
 たとえば、次の「春風馬堤曲」の創作モチーフである「懐旧」、『夜半楽』巻尾の「門人宰鳥校」という関東時代の旧号の使用、『新花つみ』における関東時代の回想など、安永6年頃、蕪村の懐旧的な心情は異常ともいえるほど昂揚していた。仮にこの「北寿老仙をいたむ」が安永6年頃の作であるとすると、この作にもまた蕪村の「懐旧(ノスタルジー)」の影が射していることになるのである。(同書、108~109頁)    
   
   
    13.  荘司賢太郎氏の「せんすのある話39─『京都 金福寺』」に、この「北壽老仙をいたむ」についての記述があり、参考になります。 残念ながら今は見られないようです。(2023年7月2日)    
    14.  次に、蕪村の『新花つみ』から、晋我のことに触れた文章を引いておきます。

 又晋我介我門人といへる翁有けり。一夜風篁(ふうくわう)がもとにやどりて、書院にいねたり。長月十八日の夜なりけり。月きよく露ひやゝかにて、前載の千ぐさにむしのすだくなど、ことにやるかたなくて、雨戸はうちひらきつ、さうじのみ引たてふしたり。四更ばかりに、はしなくまくらもたげて見やりたるに、月朗明にして宛(あたか)も白昼のごとくなるに、あまたの狐ふさふさとしたる尾をふりたてゝ、廣椽のうへにならびゐたり。其影ありありとさうじにうつりて、おそろしなんどいふばかりなし。晋我も今はえぞたゆべき、くりやのかたへ、たゞはしりにはしりいでつ、あるじのふしたる居間ならんとおぼしき妻戸をうちたゝきて、くわくわおき出給へと、声のかぎりとよみければ、しもべ等めさまして、すは賊(ゾク)のいりたるはと、のゝしりさはぐ。そのものおとに晋我もこゝろさだまり、まなこうちひらき見れば、厠の戸をうち起(タ)ゝきて、あるじとくおきてたすけたばせと、とよみゐたるにてぞありけり。我ながらいとあさましかりけりと、のちものがたりしけり。 (日本古典文学大系58『蕪村集 一茶集』による。同書、284~285頁)

〇引用者注:
 (1) 「晋我介我門人といへる翁」の「介我門人」は、原文では、縦書き2行の割注です。
 (2) 平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。ふさふさ、ありあり、くわくわ
 (3) 「うち起(タ)ゝきて」とあるのは、次の「おきて」と混乱した誤記であろう、と日本古典文学大系本の頭注にあります。 つまり、ここは「うちたゝきて」とあるべきところであろう、ということでしょう。
   
    15.   金田晉氏の「美的価値について」という論文から、「二、蕪村の和詩「北寿老仙を悼む」をもとにして」の一部を引用させていただきます。  
 → 金田晉「美的価値について」  

 なお、暉峻康隆氏の校注(日本古典文学大系58『蕪村集 一茶集』岩波書店刊)によれば「去ぬ」は「さりぬ」と読むが、リズムの関係で、私は清水孝之氏や安東次男氏の「いぬ」という読みを採る。(引用者注:日本古典文学大系『蕪村集 一茶集』では、頭注に「○去ぬ─「去りぬ」と「いぬ」の二つの読み方がある。清水孝之氏は句例によって「いぬ」とよむ」とあって、どちらに読むとも、決めておられないと思いますが……。)また、暉峻氏は「ゆふべ」を今朝に時間的に続く「今宵」という意味に解しているが、私は「あした」と「ゆふべ」との対照性を重視し、むしろ「ゆふべ」は訃報に接するまでの「昨夜」をさすと考えたい。「今宵」と解すれば、詩の時間推移と現実的時間推移とが平行してしまい、説明的、散文的になる。逝去という冷厳な事実が過去を追憶の現在としてよび起している。現実の時間推移が逆転して、詩的虚構の時間が構成されていると見るべきだろう。暉峻氏は「ゆふべ」を、本和詩の最終詩節「我庵のあみだ仏ともし火もものせず/花もまゐらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は/ことにたうとき」の中の「今宵」と同一視してしまっている。(5頁)(2012年9月2日記)
   
    16.  ぺりかん社の『江戸人物読本 与謝蕪村』(谷地快一編、1990年10月26日初版第1刷発行)に、「村松友次氏の「北寿老仙をいたむ」の解釈ほか」があります。    
   
           






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