資料333 ぺリリュー島最後の電報「サクラ、サクラ、サクラ……」





      ぺリリュー島最後の電報「サクラ、サクラ、サクラ……」


  (前置き)
 太平洋戦争末期の昭和19年11月、フィリピンの東方にあるパラオ諸島の中の一小島、南北9キロ・東西3キロのペリリュー島で、圧倒的に優勢な米軍の攻撃にさらされながら果敢に戦って玉砕し、敵将をしてあっぱれと感嘆せしめた日本の將兵たちがいた。
 パラオ諸島は、当時の日本軍にとってグアムやサイパンの後方支援基地として重要な位置を占めており、また米軍にとっても、フィリピン奪還の拠点として重要視していた島であった。
 水戸歩兵第二連隊を中核とする、中川州男(くにお)大佐率いるペリリュー島守備隊は、補給を絶たれた中での苦しい戦闘を続けておよそ2か月半、昭和19年11月24日午後、かねて打ち合わせてあった最後の電報「サクラ、サクラ、サクラ……」をパラオ地区集団司令部あてに発信した。その夜、中川地区隊長は従容として自決を遂げたという。
   
       

歩二電第一七七號(昭和一九・一一・二二・〇七四〇發信) 

 ツウシンダンゼツノコリヨダイトナルヲモツテサイゴノデンポウハサキノゴトクイタシタクシヨウチアイナリタシ
    サキ
一 グンキヲカンゼンニシヨチシタテマツレリ
二 キヒミツシヨルイハイジヨウナクシヨリセリ 
 ミギノバアイ「サクラ」ヲレンソウスルニツキホウコクアイナリタシ             

 ※ 上記の電報を漢字仮名交じり文に書き改めた文

 通信斷絶ノ顧慮大トナルヲ以テ最後ノ電報ハ左記ノ如ク致シ度承知相成度
       左記
一 軍旗ヲ完全ニ處置シ奉レリ
二 機秘密書類ハ異狀ナク處理セリ
 右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度


      *   *   *   *   * 


 歩二電第一八一號 
 一 敵ハ二十二日來我主陣地中樞ニ侵入 昨二十三日各陣地ニ於テ戰鬪シツツアリ 本二十四日以降特ニ狀況切迫 陣地保持ハ困難ニ至ル
 二 地區隊現有兵力 健在者約五〇名 重傷者七〇名總計一二〇名 兵器小銃ノミ 同彈藥約二〇發 手榴彈殘數糧秣概ネ二十日ヲ以テ缺乏シアリ
 三 地區隊ハ本二十四日以降統一アル戰鬪ヲ打切リ殘ル健在者約五〇名ヲ以テ遊撃戰鬪ニ移行 飽ク迄持久ニ徹シ米奴撃滅ニ邁進セシム 重輕傷者中戰鬪行動不能ナルモノハ自決セシム 戰鬪行動不能者 (注、歩行できない重傷者)約四〇名ハ目下戰鬪中ニシテ依然主陣地ノ一部ヲ死守セシム
 四 將兵一同聖壽ノ萬歳ヲ三唱皇運ノ彌榮ヲ祈念シ奉ル 集團ノ益々ノ發展ヲ祈ル
 五 歩二電第一七一號中御嘉尚ヲ十一回ト訂正サレ度


 上記の電報発信後、同日(昭和19年11月24日)16時、ぺリリュー守備隊は「サクラ、サクラ」を連送し、村井權治郎少将・中川州男地区隊長は、夜に入るとともに従容として自決を遂げたという。

      *   *   *   *   *   

 生存者は、歩兵第二聯隊副官根本甲子郎大尉の指揮下に遊撃隊を編成(56名─17組)、最後の電報を次のように打電し、18時以降、遊撃戦闘に移った。


歩二電第一八四號
 二十四日一七○○遊撃隊一七組ノ編成ヲ完了セリ 自今主トシテ敵幹部及兵員ヲ隨所ニ奇襲シ以テ守備隊長ノ遺志ヲ繼承シ持久ニ徹セヨトノ集團司令官閣下ノ御意圖ニ副ハン 遊撃隊員ハ一同士氣旺盛鬪魂ニ燃ヘ 神出鬼沒敵ノ心膽ヲ寒カラシメン 必ス夜鬼トナリテモ之カ粉碎ヲ期ス
 通信斷絶ノ爲本日以降連絡期シ難ク御諒承ヲ乞フ 


 米海兵隊戦史「ペリリュー襲撃」によれば、米第81歩兵師団は11月25日から包囲圏の圧縮を図った。根本遊撃隊は米軍の包囲網を突破することができず、24日夜から27日11時ごろまで米軍と戦闘を交えたが、ほとんど戦死したようである。また、遊撃隊に参加できなかった重軽傷者も、27日11時ごろまでに大山周辺の残存拠点を固守して遂に玉砕した。
 米軍は27日7時から全地区の掃蕩攻撃を開始し、同日11時、第323歩兵連隊長ワトソン大佐は第81歩兵師団長ミューラー少将にペリリュー作戦の終結を報告した。
 なお、ペリリュー島の作戦について、米太平洋方面艦隊司令長官C・W・ニミッツ提督は、その著書『太平洋海戦史』第6章に、要旨次のとおり述べている。

 ペリリューの複雑きわまる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の戦闘損害比率(約40パーセント)を出した。米軍はペリリューの掃蕩作戦中(フィリピン攻略のため)既にパラオ諸島北端のコスソル泊地を艦船の泊地に使用し、あるいはペリリュー、アンガウルの両飛行場の使用を開始したが、これらの利便が、果たして死傷者1万名に及ぶ米軍人の犠牲と相殺したかどうかについては疑問の余地がある、と。

 引用者注:舩坂弘著『血風ペリリュー島』(叢文社、昭和56年7月10日発行)の「まえがきにかえて」の中で、著者の舩坂氏は、この部分に関して次のように書いておられます。

 ニミッツはその戦史の中で数多い戦場の要点を回想しているが、彼が難攻不落の激戦場と最初に断定しているのは、ペリリュー島の攻防戦だけである。この戦闘が米軍にとって、いかに不利であり悲惨であったか知ることができる。それだけに日本軍守備隊の必死の抗戦が予想できる。それらを時の太平洋方面最高指揮官としての立場と責任において、ニミッツは次のような戦闘経過を記録している。「ペリリューの複雑極まる防備に打ち勝つには、米国の歴史における他のどんな上陸海戦にも見られない最高の損害比率(約40パーセントの損害=米海兵師団の第一連隊を全滅させた)を出した。すでに制空制海権をとっていた米軍が、死傷者あわせて1万人を超える犠牲者を出して、この島を占領したことは、今もって疑問である」と。

 ここで、著者の舩坂氏は、ニミッツの文章を一部要約して書いておられるようですが、その分、意味が取りやすくなっていると思われます。

 『水戸歩兵第二聯隊史』(水戸歩兵第二聯隊史刊行会・編、昭和63年11月30日発行)に、第14師団通信隊の無線分隊長として、司令部においてペリリュー島・アンガウル島との無線連絡にあたっておられた、伊藤敬人氏の「『サクラ・サクラ』を受電して」という文章が載っています。
 氏はその中で、次のように書いておられます。

  「十一月二十四日十六時ペリリュー無線は、生文で最後の連絡を送ってきた。
 サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ ワレクノゴチヨウ
 サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ ワレクノゴチヨウ ・・・─・─

  (注)クノゴチヨウは久野伍長(水戸市出身)の意。・・・─・─は通信終了のモールス信号。

 その日のパラオの空は珍しく空電一つなく、受信機には電波の流れる「サーッ」という音だけだった。すべてが終わった。私たち七名の通信兵は、ただ抱き合って泣くのみであった。」(同書、475頁)



       * * * * * 


○ 参考

 『水戸歩兵第二聯隊史』には、次のような記事も載せてあります。

 敵将ニミッツ提督も、戦後ペリリュー島の戦場に建立した記念碑に銘して、次のようにたたえている。
「旅人よ、日本の国を訪れることあらば伝えよかし、ペリリュー島の守備隊は祖国のために全員忠実に戦死せり」
と、その勇戦に感嘆の辞を惜しまなかった。(同書、488頁)

 この碑のことを調べてみると、島に建てられているペリリュー神社に、次のような英文と日本文の二つの碑があることが分かりました。

   〔英文の碑文〕

         TOURISTS FROM EVERY COUNTRY
          WHO VISIT THIS ISLAND SHOULD
           BE TOLD HOW COURAGEOUS AND
          PATRIOTIC WERE THE JAPANESE
           SOLDIERS  WHO  ALL  DIED
            DEFENDING  THIS ISLAND

             PACIFIC FLEET COMMANDER IN
              CHIEF (USA)  C.W.NIMITZ
                 (BUILT NOV.24.1994)


   〔日本文の碑文〕

     諸国から訪れる旅人たちよ
    この島を守るために日本軍人が
    いかに勇敢な愛国心をもって戦い
    そして玉砕したかを伝えられよ※

      米太平洋艦隊司令長官 
          C.W. ニミッツ


 ※ 引用者注:この日本文の「伝えられよ」は、英文では“should be told”となっていますから、「られ」は受け身の助動詞で、「諸国から訪れる旅人たちは、……を伝えられるべきである」となるところで、意訳すれば、「諸国から(この島を)訪れる旅人たちは、……を知らなければならない」となるところだと思われます。
 したがって、『水戸歩兵第二聯隊史』に「旅人よ、日本の国を訪れることあらば伝えよかし、ペリリュー島の守備隊は祖国のために全員忠実に戦死せり(と)」とあるのは、もしこれがここに掲げた英文によるものだとするならば、意味が違っているのではないかと思われます。あるいは、別系統の本文によるニミッツ長官の言葉なのかも知れませんが。

 ※このニミッツ司令長官の言葉については、出典が明らかでなく、種々の意見が出されているようです。詳しくは、フリー百科事典『ウィキペディア』「ペリリューの戦い」をご覧ください。

  (注) 1.  上記の ぺリリュー島最後の電報は、主として『水戸歩兵第二聯隊史』(水戸歩兵第二聯隊史刊行会・編、昭和63年11月30日発行)により、『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦<2>─ぺリリュー・アンガウル・硫黄島─』(防衛庁防衛研修所戦史室・著、朝雲新聞社・昭和43年2月29日発行)を参照して記述しました。
 ほとんどが引用によって記述してありますので、お気づきの点をぜひお知らせいただければと思います。また、記述の誤り等もご教示いただければ幸いです。
   
    2.   平成21年1月号の『文藝春秋』は、「完全保存版 昭和の遺書〔53通〕─東條英機、太宰治から夏目雅子、昭和天皇まで」(筆者・梯(かけはし)久美子)を掲載していますが、その中の「部下将兵とともに─前線の指揮官たち」の中に「サクラサクラの玉砕」として、この電文のことが取り上げてあります。
 その中で筆者・梯氏は、
「(ペリリュー島総指揮官・中川州男(くにお)陸軍大佐は)部下将兵には過早の出撃をいましめ、どんなことがあっても生きて戦えと厳しく指示した。将兵にとっては、死ぬよりも苦しい戦いである。/持久よりも出撃を望む部下たちを、中川はこう諭したという。/「軍人は最後まで戦うのが務めだ。百姓がクワを持つのも、兵が銃を握るのも、それが務めであり、最後まで務めははたさんならんのは、同じだ。務めをはたすときは、誰でも鬼になる。まして戦じゃけん、鬼にならんでできるものじゃなか」「口数少なく、外見もぱっとせず、ねばり強く実直なのが取り柄の指揮官が、別れの暗号に選んだのは、これ以上ないほどシンプルで美しい日本語だった。それは、桜のように潔く散ることを禁じた部下への、せめてものはなむけだったのかもしれない」(同誌、273~274頁)
と書いておられます。
   
    3.  私が見た参考書をまとめておきます。 
 〇『水戸歩兵第二聯隊史』(水戸歩兵第二聯隊史刊行会・編、昭和63年11月30日発行)
 〇『戦史叢書 中部太平洋陸軍作戦<2>─ぺリリュー・アンガウル・硫黄島─』(防衛庁防衛研修所戦史室・著、朝雲新聞社・昭和43年2月29日発行)
 〇舩坂弘著『血風ペリリュー島』(叢文社、昭和56年7月10日発行)
 〇平成21年1月号『文藝春秋』「完全保存版 昭和の遺書〔53通〕─東條英機、太宰治から夏目雅子、昭和天皇まで」筆者・梯(かけはし)久美子     
   
    4.   『水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会』のホームページがあり、ここに「水戸歩兵第二連隊史」「ぺリリュー島の戦闘」「顕彰碑・慰霊碑」その他のページがあります。
 →『水戸二連隊・ペリリュー島慰霊会』
   
    5.  フリー百科事典『ウィキペディア』の「ペリリューの戦い」に詳しい解説が出ていますので、ご覧ください。
 → フリー百科事典『ウィキペディア』
 →「ペリリューの戦い」
   
    6.   『朝日新聞』1995年(平成7年)8月3日の茨城版に、「あの日の残照・茨城の戦後50年<3>」として、「パラオの水戸歩兵第2連隊」玉砕の地 ダイバーに人気・県出身の2000人犠牲 という記事が出ています。
 守備隊の「玉砕」を知らず、また8月15日の敗戦も知らずに鍾乳洞に立てこもって援軍を待ち続け、1947年4月、奇跡の生還をとげた江戸崎町(現・稲敷市)の山口さんの苦難の体験が紹介されています。
 記事の末尾に「水戸歩兵第二連隊 1874年に創設され、誘致運動で1909年に水戸に移った。連隊跡地は現在の茨城大。日中戦争で満州に移駐し、ぺリリュー島では三千数百人が死亡した。しかし同島では他の部隊も含め34人の日本兵が奇跡的に生き残り、敗戦の2年後に復員。その約半数が同連隊の兵士だった」とあります。
 引用者注:ここに「ぺリリュー島では三千数百人が死亡した」とあるのは、水戸歩兵第二連隊所属の兵士についての記述です。蛇足ながら補っておきます。
 守備隊全体としては、戦死者10021名と、『水戸歩兵第二聯隊史』にあります。(同書、486頁)

 なお、『水戸歩兵第二聯隊史』の終わり近くに、「山口永少尉手記=歩二第六中隊小隊長=」の一部が掲載されています。(同書、479~485頁)      
   
    7.  ネットで「ペリリュー」と検索すると、ペリリュー島に関する多くの記事が出てきます。    
    8.   『NHK 戦争証言 アーカイブ』の中に、「〔証言記録 兵士たちの戦争〕ペリリュー島終りなき持久戦~茨城県・水戸歩兵第2連隊~」2008年5月26日放送)があって、番組を視聴することができます。(2010年9月2日現在。2012年6月28日確認)
 「番組紹介」より引用:
 太平洋に浮かぶ、パラオ共和国ペリリュー島。太平洋戦争中の昭和19年秋。攻勢に出た米軍が上陸、日本軍は、米軍の圧倒的な火力を前に洞くつ陣地に閉じこめられ、絶望的な戦 いを強いられる。
 茨城県水戸市で編成された陸軍歩兵第2連隊。総員3600人のうち、9割の人がペリリュー島で命を落とした。
 米軍に包囲され、狭い洞窟に何か月もの間、じっと身を潜め続けた兵士達。武器や食料の補給は一切絶たれ、病や飢えで息絶えていった。
 徹底的な掃討作戦を展開する米軍。日本兵達は、どうせ死ぬなら米軍に突撃し、せめて一矢報いて命を散らしたいと願うようになる。しかし大本営は、それまで賞賛してきた玉砕を禁じ、来るべき米軍との対決を前に、時間を稼ぐよう、将兵に持久戦を命じた。
 息も詰まるような洞くつに閉じこめられ、玉砕することさえも禁じられた兵士達。過酷な戦場を体験した元兵士の証言から、ペリリュー島での持久戦の実態に迫る。
   
    9.  2014年8月13日(水)のNHKスペシャルで、「狂気の島ぺリリュー ~“忘れられた島”の記録~」が放映されました。
 NHKのホームページから、番組の紹介文を引用させていただきます。
 今年、アメリカで日米の熾烈な戦いを記録した113本のフィルムの存在が明らかになった。撮影地はフィリピンの東800キロに位置するパラオ諸島の小島・ペリリュー。「地球最後の楽園」と呼ばれるサンゴ礁の美しい島だ。70年前、日米両軍はここで死闘を繰り広げた。米海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため、「忘れられた戦場」と呼ばれている。
 ペリリュー島は、太平洋戦争の中でも特異な戦場だった。日本軍はアッツ島以降続けてきた組織的な“玉砕”を初めて禁じ、持久戦を命令。米軍が当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は2カ月半に及んだ。今回発掘したフィルムには、日米双方が日増しに追い詰められていく様が克明に記録されている。NHKはフィルムを撮影した元海兵隊のカメラマン(91歳)や、生き残っている日米元兵士の証言を記録。フィルムと証言から、ひとたび戦争が始まるとそれを終結することがいかに難しいか、戦場とはどんなものなのか、その厳しい現実を伝える。(2014年8月14日記す)
   
    10. 平成27年(2015年)4月8、9日の両日 、天皇皇后両陛下は、戦後70年にあたって慰霊のため太平洋戦争の激戦地パラオを訪問され、9日にはペリリュー島を訪れて日本から持参された白菊の花を慰霊碑に供えられて戦没者の霊を慰められました。(2015年4月10日記す。)
 次の歌は平成28年の歌会始の御製で、ペリリュー島で西太平洋戦没者の碑に御供花になり、引き続いて、そのそばから見えるアンガウル島に向かって拝礼された時のことをお詠みになったものだそうです。
  戦ひにあまたの人の失せしとふ島緑にて海に横たふ
 ペリリュー島で美智子皇后が詠まれた歌は次の歌です。(御霊は「みたま」と読みます。)
  逝きし人の御霊かと見つむパラオなる海上を飛ぶ白きアジサシ
                 (2019年6月29日付記)
       
   
    11.  茨城県ひたちなか市勝倉にある陸上自衛隊勝田駐屯地・施設学校の「防衛館」に、ペリリュー島の模型や関係の資料が展示してあります。 
 →   依代之譜:陸上自衛隊勝田駐屯地・施設学校「防衛館」(2020年1月18日)
 → 陸上自衛隊勝田駐屯地・施設学校「防衛館(2023年7月27日)

   
    12.  『読売新聞』2024年(令和6年)12月3日の社会面に、「ぺリリュー1000人埋葬地」という記事が大きく掲載されています。
 そこに「厚労省確認 8日から収集」とあり、初めに「太平洋戦争の激戦地・パラオのぺリリュー島で、米軍が日本兵の遺体を埋めた集団埋葬地が確認され、厚生労働省は8日から現地で本格的な遺骨収集に乗り出す。米側の資料に1086人を埋葬したとの記録があり、1000人規模の埋葬地からの遺骨収集は極めて異例だ。元兵士の遺族らは、遺骨の帰還に期待を寄せる。(波多野一郎、水戸支局 大井雅之)」という記事が出ています。
 また、「太平洋戦争激戦の島」として、ぺリリュー島の紹介が出ています。
 「ぺリリュー島 西太平洋にある南北約10キロ、東西約3キロの島。1920年から日本の委任統治下に置かれ、軍事拠点となった。44年9月15日以降、米軍が4万人以上の兵力で上陸し、1万人の日本軍は洞窟を拠点に抵抗した。組織的な戦闘は同11月24日まで続き、日本軍の生存者はわずか450人。2015年、在位中の上皇ご夫妻が慰霊のため訪問された。現在はパラオ共和国に属する。」
 内容が内容なので記事本文を引用させていただくと、
 「同島の集団埋葬地を巡っては、駐留していた水戸歩兵第二連隊の戦友や遺族でつくる慰霊会が2013年、米カリフォルニア州にある「米海軍設営隊博物館」に保管されていた地図を入手し、同省に提供。その後の同省の調査で、1086人を埋葬したとする米軍資料などが見つかった。
 これらの情報に基づき、同省から事業者として指定された「日本戦没者遺骨収集推進協会」(東京)が調査を始め、昨年7月から現地で10か所以上を試掘。同10月、島中央部の密林で、30㍍四方を等間隔で囲うように鉄くいが打たれている一帯を見つけた。
 木々を伐採して地面を60㌢掘り返したところ、今年5月に2柱、9月に5柱の遺骨が見つかった。うち3柱はそれぞれ担架に乗せられた状態で、全身の骨が残っていた。
 同協会の担当者は「周囲は自動車の残骸などが投棄されていたが、鉄くいの内側にはなかった。特別な空間で埋葬地だと確信した」と語る。同省は、遺骨がきちんと並べられていたことなどから、資料上の集団埋葬地にあたると判断した。
 日本兵約1万人が戦死した同島では、いまだ約2400柱が眠る。同省などは現地に24人の調査団を送り込み、今月8日から本格的な収集を行う。
 同省は来年度、パラオでの遺骨収集に関する予算を9300万円に倍増させる方針で、担当者は「戦後80年を前に遺骨収集の体制を強化していく」と話す。
 同島に日本兵の集団埋葬地があることを示す資料の存在は、読売新聞が15年2月に報道していた。」
 その他に、地図や写真、「「遺骨ふるさとに」遺族願う」という記事と、「収容数減少 112万柱未帰還」という記事が出ているのですが、余り長すぎるので、残念ですが引用を遠慮します。(2024年12月3日付記)
   





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