慶 安 御 觸 書
慶安二丑年二月廿六日
諸國郷村
江被仰出
一 公儀御法度を怠り地頭代官之事をおろかに不存扨又名主組頭を
ハ眞の親とおもふへき事
一 名主組頭を仕者地頭代官之事を大切に存年貢を能濟公儀御法度を不背小百姓身持能仕樣に可申渡扨又手前之身上不成萬不作法に候得
ハ小百姓に公儀御用之事申付候
而もあなとり不用物に候間身持を能致し不便不仕樣に常々心掛可申事
一 名主心持我と中惡者成共無理成儀を申かけす又中能者成共依怙贔屓なく小百姓を懇にいたし年貢割役等之割少も無高下ろくに可申渡扨又小百姓
ハ名主組頭之申付候事無違背念を入可申事
一 耕作に情を入田畑之植樣同拵に念を入草はへさる樣に可仕草を能取切々作之間
江鍬入仕候得
ハ作も能出來取實も多有之付田畑之堺
ニ大豆
ニ豆なと植少もとりとも可仕事
大豆以下恐有誤脱
一 朝おきを致し朝草を苅晝
ハ田畑耕作にかゝり晩に
ハ繩をないたわらをあみ何にてもそれそれの仕事無油斷可仕事
一 酒茶を買のみ申間敷候妻子同前之事
一 里方
ハ居屋敷之廻りに竹木を植下葉共取薪を買候
ハぬ樣に可仕事
一 萬種物秋初
ニ念を入ゑり候て能種を置可申候惡種を蒔候得
ハ作毛惡敷候事
一 正月十一日前
ニ毎年鍬のさきをかけかまを打直し能きれ候樣
ニ可仕惡きくわにて
ハ田畑おこし候にはかゆき候
ハすかまもきれかね候得
ハ同前之事
一 百姓
ハこへはい調置き候儀專一
ニ候間せ
つちんをひろく作り雨降り候時分水不入樣に仕へしそれ
ニ付夫婦かけむかいのもの
ニ而馬をも持事ならすこへため申候もならさるもの
ハ庭之内
ニ三尺に二間程にほり候
而其中へはきため又
ハ道之芝草をけつり入水をなかし入作りこゑを致し耕作へ入可申事
一 百姓
ハ分別もなく末の考もなきもの
ニ候故秋
ニ成候得
ハ米雜穀をむさと妻子
ニもく
ハせ候いつも正月二月三月時分の心をもち食物を大切
ニ可仕候
ニ付雜穀專一
ニ候間麥粟稗菜大根其外何に
而も雜穀を作り米を多く喰つふし候
ハぬ樣に可仕候飢饉之時を存出し候得
ハ大豆の葉あつきの葉さゝけの葉いもの落葉なとむさとすて候儀
ハもつたいなき事に候
一 家主子共下人等迄ふたんは成程踈飯をくふへし但田畑をおこし田をうへいねを苅又ほねをり申時分
ハふたんより少喰物を能仕たくさんにく
ハせつかひ可申候其心付あれは情を出すものに候事
一 何とそいたし牛馬之能を持候樣
ニ可仕能牛馬ほとこへをたくふむものに候身上不成もの
ハ是非不及先如此心かけ可申候
幷春中牛馬に飼候ものを秋さき支度可仕候又田畑
江かりしき成共其外何こへ成とも能入候得
ハ作にとりみ有之候事
一 男
ハ作をかせき女房
ハおはたをかせき夕なへを仕夫婦ともにかせき可申然
ハみめかたちよき女房成共夫の事をおろかに存大茶をのみ物まいり遊山すきする女房を離別すへし乍去子供多く有之て前廉恩をも得たる女房なら
ハ格別なり又みめさま惡候共夫の所帶を大切
ニいたす女房を
ハいかにも懇可仕事
一 公儀御法度何に
而も不相背中
ニも行衛不知牢人郷中
ニ不可抱置夜盗同類又
ハ公儀御法度に背候徒者なと郷中
江隱居訴人有之
而公儀
江召連參御詮議中久々相詰候得
ハ殊外郷中の草臥候又
ハ名主組頭長百姓
幷一郷之惣百姓ににくまれ候
ハぬ樣に物毎正直に徒成る心持申間敷候事
一 百姓
ハ衣類之儀布木綿より外
ハ帶衣裏
ニも仕間敷事
一 少
ハ商心も有之
而身上持上
ケ候樣に可仕候其子細
ハ年貢之爲に雜穀を賣候事も又
ハ買候にも商心なく候得
ハ人にぬかるゝものに候事
一 身上成候者の
ハ格別田畑をも多く持不申身上なりかね候もの
ハ子共多く候
ハゝ人にもくれ又奉公をもいたさせ年中之口すきのつもりを能々考可申事
一 屋敷之前の庭を奇麗
ニ致し南日向を受へし是
ハ稻麥をこき大豆をうち雜穀を拵候時庭惡候得
ハ土砂ましり候
而賣候事も直段安く事の外しつゝいに成候事
一 作の功者成人に聞其田畑の相應したるたねをまき候樣に毎年心かけ可申事付りしつきみ
ニ作り候て能き物有之しつきみを嫌候作も有作
ニ念入候得
ハ下田も上田の作毛
ニ成候事
一 所に
ハよるへく候得共麥田
ニ可成所を
ハ少成共見立可申候以來
ハれんれん麥田に成候得
ハ百姓之ため大き成德分に候一郷麥田を仕立候得
ハ隣郷も其心付有之物に候事
一 春秋灸をいたし煩候
ハぬ樣
ニ常
ニ心掛へし何程作
ニ情を入度と存候
而も煩候得
ハ其年之作をはつし身上つふし申もの
ニ候間其心得專一なり女房子共も同前之事
一 たは粉のみ申間敷候是
ハ食にも不成結句以來煩
ニ成もの
ニ候其上隙もかけ代物も入火の用心も惡候万事
ニ損成もの
ニ候事
一 年貢出し候儀反別
ニかけて
ハ一反
ニ付何ほと高にかけて
ハ一石に何程割付差紙地頭代官よりも出し候左候得
ハかうさくに入情を能作り取實多く在之
ハ其身の德に候惡候得
ハ入不知身上のひけに候事
一 御年貢皆濟之砌米五升六升壹升
ニつまり何共可仕樣無之時郷中をかりあるき候得共皆濟時分互
ニ米無之由かさゝる
ニよつて米五升壹斗
ニ子共又
ハ牛馬もうられす農道具着物なとうらむとおもへ
ハ金子壹分ニ
而仕立候を五六升にうるもにかにか敷事に候又賣物抔不申ものは高利にて米を借り候
ハ彌しつゝい成る事に候地頭代官より割付出候
而其積りを仕不足に付て
ハまへかとかり候て可濟前廉
ハ借物の利足もやすくうる物もおもふまゝ成へし尤可納米をもはやく納へし手前に置候ほと鼠も喰盗人火事其外万事
ニ付大き成損
ニて候籾を
ハ能干候て米にするへしなまひなれはくたけ候て米立候能々心得可有事
一 身持を惡敷いたし其外之年貢不足
ニ付たとへ
ハ米を二俵ほとかり年貢
ニ出し其利分年々積り候得
ハ五年
ニ本利之米拾五俵
ニ成
ル其時
ハ身躰をつふし妻子をうり我身をもうり子孫共に永くくるしむ事に候此儀を能々かんかへ身持を可仕候まいかと米二俵之時分
ハ少之樣
ニ存候得共年々之利分積り候得
ハ如斯候扨又何とそいたし米を二俵ほともとめ出し候得
ハ右之利分く
ハへ拾年目
ニ米百十七俵持候て百姓之ため
ニ其うとく成事無之哉
一 山方
ハ山のかせき浦方
ハ浦々のかせきそれそれに心を付毎日無油斷身をおしますかせき可申候雨風又
ハ煩隙入候事も可有之間かせきにてもうけ候物をむさと遣候
ハぬ樣に可仕事
一 山方浦方に
ハ人居も多不慮成かせきも在之山方に
而ハ薪材木を出しからるいを賣出し浦方に
而ハ鹽を燒魚を取商賣仕
ニ付いつもかせき
ハ可有之と存以來之分別もなく儲候物をも當座にむさとつかひ候故きゝんの事なと
ハ里方之百姓より一入迷惑仕餓死するものも多く有之と相聞候間飢饉之年之苦勞常々不可忘事
一 獨身之百姓隙入候而又煩田畑仕付兼候時
ハ五人組惣百姓助合作あらし候
ハぬ樣に可仕候次に獨身之百姓田をかき苗を取明日
ハ田を可植と存候處を地頭代官所又
ハ公儀之御役にさゝれ五日も三日も過候得
ハ取置候苗も惡敷成其外之苗も節立植時過候故其年之作毛惡敷故實もすくなく百姓たをれ候田植時はかり
ニ不限畑作
ニもそれそれの植時蒔時の のひ候得
ハ作も惡敷候名主組頭此考を仕獨身百姓右申すことく役にさゝれ候時
ハ下人共抔よき百姓
ニさしかへ獨身の百姓を介抱可申事
一 夫婦かけむかいの百姓にて身上も不成郷中友百姓に日ころいやしめられ候ても身上を持上米金をたくさんに持候得
ハ名主おとな百姓をはしめ言葉
ニても能あいしらい末座に居候者をも上座へなをし馳走仕るもの
ニ候又前かと身上能百姓もふへん仕す親子親類名主組頭迄も言葉を不掛いやしむる者に候間成程身持を能可仕事
一 一村之内にて耕作
ニ入情を身持よく致し身上好もの一人あれ
ハ其まねを仕郷中之ものみなよくかせくものに候一郡之内
ニ左樣なる在所一村有之
ハ一郡皆身持をかせき候左候得
ハ一國之民皆豐に成其後
ハ隣國迄も其ひゝきあり地頭
ハ替もの百姓
ハ末代其所之名田を便とするものに候間能く身持を致し身上能成候者百姓之多きなる德分にては無之哉扨又一郷
ニ徒なる無法もの一人あれは郷中皆其氣にうつり百姓中
ケ間の言事不絶公儀之御法度なと背き候得
ハ其者を奉行所へ召連參上下之造作番等以下之苦勞一郷之費大き成事物毎出来候はぬ樣
ニみなみなよく入念此趣
ハ名主たるもの心に有之能々小百姓
ニおしへ申へし
附隣郷之者共中能他領之者公事抔仕間敷事
一 親に能々孝行之心深くあるへしおや
ニ孝行之第一
ハ其身無病
ニて煩候
ハぬ樣
ニ扨又大酒を買のみ喧嘩すき不仕樣に身持を能いたし兄弟中よく兄
ハ弟をあわれみ弟
ハ兄に隨ひたかいにむつましけれ
ハ親殊之外悦もの
ニ候此趣を守り候得
ハ佛神之御惠もありて道
ニも叶作も能出來とりみも多く有之もの
ニ候何程親に孝行の心有之も手前ふへん
ニ而ハ成かたく候間なる程身持を能可仕候身上不成候得
ハひんくの煩も出來心もひかみ又
ハ盗をも仕公儀御法度をも背しはりからめられ籠
ニ入又
ハ死罪はり付なと
ニかゝり候時
ハ親之身
ニ成て
ハ何程悲しく可有之候其上妻子兄弟一門之もの
ニもなけきをかけ恥をさらし候間能々身持を致しふへん不仕樣
ニ毎日毎夜心掛申へき事右之如く
ニ物毎入念身持をかせき申へく候身持好成米金雜穀をも持候
ハゝ家をもよく作り衣類食物以下
ニ付心之儘なるへし米金雜穀を澤山
ニ持候とて無理
ニ地頭代官よりも取事なく天下泰平之御代なれは脇よりおさへとる者も無之然
ハ子孫迄うとくに暮し無間きゝん之時も妻子下人等をも心安くはこくみ候年貢さへすまし候得
ハ百姓程心易きもの
ハ無之よくよく此趣を心かけ子々孫々迄申傳へ能々身持をかせき可申もの也
慶安二年
丑二月廿六日
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(注) |
1. |
上記の「慶安御觸書」は、『国立国会図書館デジタルコレクション』所収の『徳川禁令考』によりました。
『徳川禁令考』 訂2版、[東京] 司法省、明治28年7月31日発行。
『徳川禁令考』[第5冊]
第5帙 の「巻之四十三」(125~128
/ 383) |
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2. |
本文中の平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、普通の仮名に直してあります。(「それそれ」「れんれん」「にかにか敷」「みなみな」「よくよく」)
初めのほうにある「一 耕作に情を入」の文の最後にある注記「大豆以下恐有誤脱」は、小字・二行分かち書きになっています。
また、「一 獨身之百姓隙入候而」のところに、1字不明の文字があります(それそれの植時蒔時の のひ候得ハ)。
※ ここは他の資料によれば、「旬」の文字が入るもののようです。
(注6に引いた、文政13年3月に美濃国岩村藩で出版されたものといわれている「慶安御触書」の本文に、「田うへ時ばかりに限ず、畑作にもそれぞれの植時蒔どきの旬のび候へバつくりもあしく候」とあります。) (2013年6月21日付記) |
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3. |
本文の最後に「引書○敎令類纂 /
條令拾遺」と、2行に分かち書きがしてあります。 |
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4. |
慶安御触書(けいあんのおふれがき)=慶安2年(1649)、幕府が農民に対して出したと伝える御触書。32条と奥書とより成り、年貢を納めるために守るべき心構えを説き、幕府の農民観を示す。同年には出ていないとする説が有力。
※ 引用者注 : 「慶安」の読みに、「キョウアンとも」とあります。(『広辞苑』第6版による。)
なお、「慶安御触書」は、「けいあんのおふれがき」のほか、「けいあんおふれがき」とも
読まれています。(また、「きょうあんのおふれがき」「きょうあんおふれがき」とも。) |
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5. |
フリー百科事典『ウィキペディア』に「慶安御触書」の項があり、参考になります。
『ウィキペディア』から、「慶安御触書」についての記述を一部引用させていただきます。
江戸時代の『徳川実紀』や明治期に司法局が編纂した幕府法令集『徳川禁令考』に収録され幕法であるとする見解が広く流布し、明治期から疑問視する説や偽書説が存在していたが、昭和戦後期には民衆史への関心の高まりからも幕府の農民統制を示す史料として注目され続け、歴史教科書においても紹介されていた。近年は自治体史の刊行などを通じて史料調査が進み、古写本の検討から甲信地域に広く残されている農民教諭書「百姓身持之事」が元禄10年(1697年)に甲府藩において「百姓身持之覚書」として成文化され、木版印刷により諸国へ広まったものであると考えられている。
この文書は徳川政権の対農民政策を象徴する文書として扱われていたが、長年全国的に適用された法なのか、それとも幕府直轄領・旗本領に対する限定的な法なのかで議論されてきた。だが、近年になって慶安2年当時の原本が見つからない事や、甲斐国や信濃国など一部の地域でしかこれを記した文書が見つからない事などから偽書・僞文書とみなす説や、幕府や諸藩が出した農民統制の法令を慶安年間に仮託して集成したものとする説も現れた。その一説として、100年以上も後の宝暦-天明期(1751-1789年)の農民教諭書が修正・補筆されて「慶安御触書」として流布されたというものもある。近年では「慶安御触書」を記載しない歴史教科書も多くなっている。
だが、江戸時代後期にはこれを真正の幕府法と信じて、自領の統治に応用していた藩も少なからずあるとも言われており、当時における社会的な影響力は決して小さくはなかったようである。 |
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6. |
「(研究ノート)所謂「慶安御触書」の教材化に関する一考察ー史料的信憑性に対する疑義をふまえてー」兼子明(日本社会科教育学会『社会科教育研究』No.73(1995.6))という論文があります。 |
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7. |
『古文書を楽しむ会』というホームページに、文政13年3月に美濃国岩村藩で出版されたものといわれている「慶安御触書」が出ていて参考になります。
『古文書を楽しむ会』→「慶安御触書」
(2013年6月21日付記) |
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