資料323 吉田東洋「時事五箇条」




 

       時事五箇条               吉 田 東 洋

 世の勢は変遷不
(つねならざる)義にて、乍(それながら)御上(おかみ)誠に御国政に御心を御用被(あそばされ)候時は勢かならず治に赴き、しからざれば姿必ず危に赴く理にて、実に外輪(とがわ)にても此勢を以て御政事の得失を相窺申義に付、甚以肝要の義と奉存候。然に御初入(おはついり)遊候より少の御弛(おゆるみ)も不(あらせられず)、御奮発被遊段々御思召をも被仰出、日夜御政務に御心労被遊候義付、流弊の廉(かど)も次第に相改り、驕奢逸游(きょうしゃいつゆう)の風俗もぜんじに相変じ候姿に相赴き可申理に御座候処、方今の形勢却て御初入(おはついり)遊候節よりは相弛(あいゆるみ)申候様奉存候。の義元来不調法に御座候て、かようの義奉申上候は誠に恐多奉存候得共、昔より君明なれば芻蕘(すうじょう)にも詢(はか)ると申事の有之義につき、時事五ヶ条左に相認(あいしたため)申候。何分御人選無之内には何事も御仕出(おしだし)に不相成候様被遊度義と奉存候。
一、御治国の本は人才の能否に相係
(あいかかわ)る義につき、御人選第一の御急務に可之候間、幾重にも御考慮被遊度奉存候。さなくては如何程厳敷被仰付候義有之候ても難相行存候。総(そうじ)て人の才否は御使ひ被遊候ても相分りがたき事、和漢古今ともにためし多く候を、増(ま)して外輪の者の才否を尽く御甄別(ごけんべつ)遊候義は難出来義にて、如何なる明敏の人に為御選遊候ても、御進挙被仰付候人々尽く其任に相当り申義は無之訳に付、肝要の御場所は申迄も無之、其余とても一度に御進被仰付候より、能々其人の才否御試被遊候時は大要は相分り可申、其上にて器量に随ひ進退被仰付候様に被遊度義と奉存候。何分人の才と申は各長処(ちょうしょ)の御座候ものにて、法令の取扱ひ長じ候ても財用の操廻(くりまわ)しに拙(つた)なく、或は大体に昧(くら)く候者にても役下の者を能相牢(あいまとむ)など一様ならざる義につき、何卒其人の長処について御使被遊度事と奉存候。其上何事にも才能なく旧習に因循仕り候者は却て老成人の様に相見へ申訳(もうすわけ)に付、能々御甄別被遊度、左様の者をも其儘に御差置被仰付のみならず、年格を以御進被遊候様に相成候ては、いつとなく綱紀は相弛み流弊の廉も相改り不申、人才は次第に消亡(しょうもう)仕候訳に付、乍恐御上に如何程御奮発被遊候ても、御趣意は相行れ申難く奉存候。其上只今の風俗流弊を相改め、積習を洗ひ事々明白に取扱申義は相好み不申人情につき、能々御考慮不遊候ては旧習は相改り申間敷奉存候。総て人選に心をつくし候得ども、当時人才は無之と申義、古今小人の恒言に御座候間、能々御考慮被遊、家柄・身代に不拘、可然人柄は御進被遊候様に被仰付、御上にいつまでも御たゆみ不遊候はゞ、御趣意奉輔翼候人次第に相進可申奉存候。
一、御法令は国家の大綱に御座候処、昇平久敷
(ひさしく)相成り候より世の勢奢侈逸游に相赴候を以、御法度の義も次第に相増申候故、難相行義も出来(いできた)り候様奉存候。何分御法令繁多に相成候得ば賞罰明白に難相施訳にて、自然に綱紀の弛と相成候義に付、何卒賞罰を厳重に被仰付度事と奉存候。昔より如何なる明君にても恩賞にて人を進め黜罰(ちゅつばつ)にて人を懲(こら)しめ不申して世を治候義相調(あいととのい)申間敷、さなき時は所謂君子の不幸にて小人の幸と相成り、下より上窺(うかがい)申訳にて御威光薄く相成可申奉存候。右の筋、去十月於御郡方(おんこおりかた)1詮義仕り、紙面を以申出候義につき、略(あらまし)申候。然れども法は取扱仕候人に寄り候義にて、如何程御法令を御吟味被仰付候ても其任に相叶ひ申候人ならでは難参き義と奉存候。
一、昔より昇平の世に英明の聞
(きこえ)之君はかならず冗官を除き冗費を汰(た)するを先(せん)と仕候義、いかにとなれば、いづれの世にても守成(しゅせい)久しければ流弊の廉而已(のみ)にて、無益の費用、無益の役場多く相成り居申候訳に付、先(まず)其旧習を洗ひ不申ては事の本不相建1(あいたたざる)故の義と奉存候。然に近年御政事御中興の御思召を以第一御省略の義数度被仰出候得共、今以さしたる御験(おしるし)も無之様に奉存候。是偏(ひとえ)に御省略の御仕法不相建候故にて可之哉。子細は実に御秋納にて御仕伏(おしぶせ)遊候御思召に被(あらせられ)候はゞ、一ヶ年分御入目(おんいりめ)に相成候廉(すじめ)々を取縮(とりちぢめ)仰付、御秋納高へ引合候て、是程の御不足と申員数御見付の上、御入目限米の内、夫々事の本まで御詮義被仰付、此御入目はかようの訳につき御差置に相成り候義当然に候間、割減(わりべらし)を以其儘に被仰付、此の御費用は無之て不差支訳に付、一切御差省(おさしはぶき)仰付、と申様に相成り、其余諸役場御人減(おひとべらし)も有之候得共、尚又御詮義被仰付候時は、冗官に相当り候処柄(ところがら)も可之、御用人已下の場所尚以(なおもって)の義と奉存候。勿論右の通に相成候はゞ、時宜に寄御人増(おひとまし)に相成らでは難参場所、或は新に御差備の場所等も可之、御入目も爾来より御入増(おいりまし)の廉も出来可申候得共、押平等申候ては屹度御費用の御省(おはぶ)けに相成可申奉存候。是等の義能々其任に相当り申候人ならでは参り申間敷、何分御旧例に相成候義は一事も御差除(おさしのけ)之様に被遊候ては、如何程割減し被仰付候ても差(さし)たる御験は相見ゑがたき事と奉存候。扨又御士(おさむらい)幷郷士(ごうし)どもの義は緩急の御用に御備被遊候義とて格別に御座候得ども、御用人(の)類に至り申候ては算勘にて被召遣候者どもの義につき、決て数百人は御入用無之義と奉存候。然に年々に相増申候て只今は千人計も御座候様承り申候。是等其儘に被遊候ては向来幾千人に相成候程も難計、実に御無益の御費用と奉存候。此義は不一通候得共、屹度人柄御撰を以御詮義有之候はゞ、如何様とも御仕法は相建可申奉存候。何分御用人類は廉恥(れんち)の無之習にて、役義と申せば御銀米に預り申候間、能々(よくよく)規矩相立居不申てはかならず私曲の取扱も出来可申、既に近年は右等の御見付を以賞罰被仰付候者も御座候得共、尚其余にも可之哉と奉存候。是等は実に弊蠧(へいと)の莫大なる事にて、能々御人選被仰付、綱紀を振立(ふるいたて)遊、御政事御中興の御趣意いづくまでも貫通仕候様被仰付度事と奉存候。
一、荒政
(こうせい)は人民を御憐愍被遊候御急務に付、何卒無事の日に御備置(おそなえおき)遊度義と奉存候。此の筋去春已来於御郡方詮義仕候て、仕法書一冊出来(しゅったい)仕り申出候義に付略仕申候。勿論此義御郡方に限り申義にても有之間敷不而已1(のみならず)、右の仕法計(ばかり)にては二十年に及候ても石数少(すこし)の義につき、有まじき事ながら御国中の饑饉と申に相成り候ては決して行足(ゆきた)り申間敷に付、御勝手の御省略屹度(きっと)相建、御余力も出来申候節、御表方(おもてかた)よりも右本末へ御差加へ御座候様に相成候はゞ、年数に拘らず石数も相増、屹度非常の御手当と相成り可申。されども御余力無之内に御差加へ被仰付候時は、所謂得失と申様に相成べくと奉存候。尤右取扱の義は屹度御人選被仰付年数を経候ても、弊の出来(しゅったい)仕り不申様、役賦(やくくばり)を始め振済取扱の義まで御定被仰付度事と奉存候。且囲籾(かこいもみ)の義も御城下へ而已御貯に相成候て、時に臨み其(その)処々へ御差廻(おさしまわし)と申様に相成り候時はかならず海運にて可之。左候時は天気の順逆に寄り日数も相懸り可申、山分(やまぶん)等は海運も不相整義に付、急速の間(ま)に逢がたく奉存候間、何分御国中便利の土地御詮義被仰付、御差備被仰付度義と奉存候。
一、外国の海賊ども時宜を見合
(みあわせ)、海辺を摽掠(ひょうりゃく)仕候義は何時(いつとも)計訳に付、兼て年番(ねんばん)御定も被仰付置候得ども、是而已にては万一の義有之候節、何の御為にも相成がたき義と奉存候。子細は御国の南北二十里に不(みたず)候得共、東西は百里にも及申程にて湾月の如く南海を受居(うけおり)申候義に付、才覚有之海賊ども津呂(つろ)・室津(むろつ)の辺へ二三艘を以漕来(こぎきた)り、大礮(たいほう)等を打懸、時宜を見合摽掠仕候形勢に候時は、かならず御定の年番二組は御差向(おさしむけ)に相成可申。其節海賊ども御人数出候を相窺ひ直様(すぐさま)(へさき)をかゑ申候ては、高岡・幡多(はた)等の海辺え同断漕寄候時は、又々御備一両組も御差向無之ては如何とも相成り申間敷、海上は御人数出候を見計ひ、時々舳を替、御備の無之処を窺(うかがい)、寄来(よせきたり)候時は、二三艘の海賊どもの為に御国中奔走に労(つか)れ、御費用は不申、実に百姓ども精力相尽可申、且始の年番被仰付置候二組は直様(すぐさま)御差向(おさしむけ)相調可申候得ども、其余は昇平久敷き世のならわしにて決て急速に御差向は相調申間敷、世宜を見合、二三百人の海賊ども浦々を摽掠仕候ては実に御国辱と奉存候。ことに西洋の賊船どもは甚海上に熟練仕候様承候義に付、決て無之義とは難申切候間、只今の御備は名目而已と相成り、何の御用にも相立がたく奉存候。かようの海賊どもは向来百年二百年も参り不申事も可之、又明日明後日の内押懸(おしかけ)候義も難計訳にて、甚以御急務と奉存候。何卒能々御詮義被仰付、兼て御手賦(おてくばり)仰付置度義と奉存候。愚案には、外に御手段も有之間敷、何分屹度人柄御選(おえらみ)にて東西の海辺の形勢を見分被仰付、浦戸より西にて幾処、東にて何か処と相定、近辺に有之寺を右の場所へ相遷し、万一の節は一と防ぎ出来候様に御普請(ごふしん)仰付候て、或は某の郷より東某の村までの郷士・地下浪人(じげろうにん)どもは某の場所、何の浦より西何の村までの郷士・地下浪人は某の処と、右定置(さだめおか)れ候寺へ緩急かけつけ候様兼て被仰付、右の大将分として御士壱両人充(ずつ)御選を以、遠方の場所は爾来(じらい)相詰候様被仰付、其余とても兼て相心得居候て、万一の節早速御差向被仰付、其場々々へかけ集候者どもを下知仕り、浜の手へ備を出し打払申か、或は賊の勢に寄り右の寺へ引取相拒(あいふせぎ)申など、機に臨(のぞみ)如何様とも相成可申。尤右郷士・地下浪人ども兼て人高(ひとだか)相縮候て、場所に寄り人数少に候時は百姓どもの内にても壮健の者を差加へ何百人と相定られ、一ヶ年に一度充にても大将分に御定の御士、其持場々々へ罷越、右の人数相集、緩急のならし等仕候時は兼て賦方(くばりかた)も相整居可申。勿論海賊ども右の寺へ押かけ申程に至り不申内は、年番の御備も御差向無之様に被仰付候はゞ、屹度実用の御手当と相成、已後々々は二三艘の海賊は不申、たとへ如何様の志有之者寄来り候とも御手相付(おてあいつき)申と奉存候。既に只今も異国船参り申候節、郷士・地下浪人かけつけ候様被仰付居候得ども、海浜へ参り申候而已にて何の御用にも相立申間敷、御郡奉行へ異国船打払被仰付居候得ども、是又船の参り候方計りへかけ付可申候。所詮只今のなりにては摽掠に志有之海賊を防留(ふせぎとめ)申義は相調がたき義と奉存候。
 右は大略の義にて何の御為にも相成申間敷奉
存候得共、愚案の儘奉差上候。  以上。
   八月廿三日                    吉 田 元 吉
 

 

    (注) 1. 吉田東洋の「時事五箇条」は、日本思想大系38『近世政道論』(奈良本辰也・
         校注、岩波書店・1976年5月28日第1刷発行)によりました。
         2. 底本は、日本史籍協会叢書第186巻「吉田東洋遺稿」(1929年刊、1974年東
         京大学出版会覆刻)の「吉田東洋手録三」中のものの由です。
         3. 日本思想大系38『近世政道論』の解題によれば、「時事五箇条」は吉田東洋
         が弘化2年(1845)8月に提出した、藩政に関する上書で、この上書提出の前月、
         東洋は病気を理由に郡奉行を辞して閑職にあった、とあります。
         4. 吉田東洋(よしだ・とうよう)=幕末の高知藩士。名は正秋。1853年(嘉永6)
              藩主山内豊信(容堂)に登用されて藩政改革を推進。一時蟄居。藩政復
              帰後は中堅家臣層から成る「新おこぜ組」を基盤に上士層の守旧派、下
              士層の勤王党と対立。城からの帰途、勤王党員に暗殺される。(1816~
              1862)                    (『広辞苑』第6版による。)   
           山内容堂(やまのうち・ようどう)=幕末の土佐藩主。名は豊信
とよしげ。分家の
              出。藩政を改革。公武合体に尽力、後藤象二郎の建策を容れて将軍徳
              川慶喜に大政奉還を建白。維新後、議定ぎじょう。酒を好み、鯨海酔侯
              と自称。(1827-1872)          (『広辞苑』第6版による。)   
           山内豊信(やまのうち・とよしげ)=1827-72(文政10-明治5) 幕末の
                  土佐藩主。支藩山内豊著の子。号は容堂。1848(嘉永1)本藩主。吉
              田東洋らを登用して藩政改革を断行。58(安政5)将軍継嗣問題にあた
              り一橋慶喜の擁立に尽力したが、安政の大獄により、’59蟄居。60(万
              延1)許され公武合体運動を進め武市瑞山らの尊攘派を弾圧した。67
              (慶応3)15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白し、公議政体論による
              幕府権力の温存をはかった。明治政府の議定・内国事務総督などを歴
              任。                 (『角川日本史辞典』第2版による。)
           公武合体(こうぶがったい)=幕末、従来の幕府独裁政治を修正し、天皇と
              幕府とを一体化させることで幕藩体制を再編強化しようとした政治路線。
              尊皇攘夷運動と対立。桜田門外の変後、幕府内では安藤信正ら、雄藩
              では薩摩藩など様々な勢力が主張した。
           公議政体論(こうぎせいたいろん)=幕末の政治構想論の一つ。雄藩大名
              など有力者を集めた会議を設置し、それにより政治を行おうとするもの
              で、幕府独裁論や倒幕論と対抗。横井小南・坂本竜馬・後藤象二郎ら
              がその論者。             (以上、『広辞苑』第6版による。)
         5. 本文中の「
大礮(たいほう)」 の「」が、うまく表示されないかもしれませんの
         で、<
=石+馬+交>と示しておきます。「漢音ホウ、呉音ヒョウ。いしゆみ。
         石をはじきとばす武器。のち、大砲をもいう」と、漢和辞典にあります。
         6. フリー百科事典『ウィキペディア』に、「吉田東洋」「山内容堂」「公武合体」
         「公議政体論」の項があります。




                   トップページ(目次)   前の資料へ  次の資料へ