資料323 吉田東洋「時事五箇条」
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時事五箇条 吉 田 東 洋 |
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(注) | 1. | 吉田東洋の「時事五箇条」は、日本思想大系38『近世政道論』(奈良本辰也・校注、岩波書店・1976年5月28日第1刷発行)によりました。 | ||
2. | 底本は、日本史籍協会叢書第186巻「吉田東洋遺稿」(1929年刊、1974年東京大学出版会覆刻)の「吉田東洋手録三」中のものの由です。 | |||
3. | 日本思想大系38『近世政道論』の解題によれば、「時事五箇条」は吉田東洋が弘化2年(1845)8月に提出した、藩政に関する上書で、この上書提出の前月、東洋は病気を理由に郡奉行を辞して閑職にあった、とあります。 | |||
4. | 〇吉田東洋(よしだ・とうよう)=幕末の高知藩士。名は正秋。1853年(嘉永6)藩主山内豊信(容堂)に登用されて藩政改革を推進。一時蟄居。藩政復帰後は中堅家臣層から成る「新おこぜ組」を基盤に上士層の守旧派、下士層の勤王党と対立。城からの帰途、勤王党員に暗殺される。(1816~1862)(『広辞苑』第6版による。) 〇山内容堂(やまのうち・ようどう)=幕末の土佐藩主。名は豊信とよしげ。分家の出。藩政を改革。公武合体に尽力、後藤象二郎の建策を容れて将軍徳川慶喜に大政奉還を建白。維新後、議定ぎじょう。酒を好み、鯨海酔侯と自称。(1827-1872)(『広辞苑』第6版による。) 〇山内豊信(やまのうち・とよしげ)=1827-72(文政10-明治5)幕末の土佐藩主。支藩山内豊著の子。号は容堂。1848(嘉永1)本藩主。吉田東洋らを登用して藩政改革を断行。’58(安政5)将軍継嗣問題にあたり一橋慶喜の擁立に尽力したが、安政の大獄により、’59蟄居。’60(万延1)許され公武合体運動を進め武市瑞山らの尊攘派を弾圧した。’67(慶応3)15代将軍徳川慶喜に大政奉還を建白し、公議政体論による幕府権力の温存をはかった。明治政府の議定・内国事務総督などを歴任。(『角川日本史辞典』第2版による。) 〇公武合体(こうぶがったい)=幕末、従来の幕府独裁政治を修正し、天皇と幕府とを一体化させることで幕藩体制を再編強化しようとした政治路線。尊皇攘夷運動と対立。桜田門外の変後、幕府内では安藤信正ら、雄藩では薩摩藩など様々な勢力が主張した。 〇公議政体論(こうぎせいたいろん)=幕末の政治構想論の一つ。雄藩大名など有力者を集めた会議を設置し、それにより政治を行おうとするもので、幕府独裁論や倒幕論と対抗。横井小南・坂本竜馬・後藤象二郎らがその論者。 (以上、『広辞苑』第6版による。) |
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5. | 本文中の「大礮(たいほう)」 の「礮」が、うまく表示されないかもしれませんので、<礮=石+馬+交>と示しておきます。「漢音ホウ、呉音ヒョウ。いしゆみ。石をはじきとばす武器。のち、大砲をもいう」と、漢和辞典にあります。 | |||
6. | フリー百科事典『ウィキペディア』に、「吉田東洋」・「山内容堂」・「公武合体」・「公議政体論」の項があります。 |