資料306 源氏物語「桐壺」





 

   いづれの御時にか       源氏物語「桐壺」

いづれの御時(おほんとき)にか。女御(にようご)、更衣(かうい)あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際(きは)にはあらぬがすぐれて時めき給ふありけり。はじめより、我はと思ひあがり給へる御かたがた、めざましきものに貶(おと)しめ妬(そね)み給ふ。同じ程、それより下臈(げらふ)の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、人の心をうごかし、恨みを負ふ積りにやありけむ、いとあつしくなりゆき、物心細げに里がちなるを、いよいよ飽かずあはれなるものにおぼほして、人の譏(そし)りをもえ憚らせ給はず、世の例(ためし)にもなりぬべき御もてなしなり。上達部(かんだちめ)、上人(うえびと)なども、あいなく目をそばめつつ、いとまばゆき、人の御覺えなり。もろこしにも、斯かる事の起りにこそ世も亂れあしかりけれと、やうやう天(あめ)の下(した)にもあぢきなう人のもてなやみぐさになりて、楊貴妃の例(ためし)も引き出でつべうなりゆくに、いとはしたなきこと多かれど、かたじけなき御心ばへの類なきをたのみにて交らひ給ふ。父の大納言は亡くなりて、母北の方なむいにしへの人のよしあるにて、親打具(うちぐ)しさしあたりて世の覺え花やかなる御かたがたにも劣らず何事の儀式をももてなし給ひけれど、取立ててはかばかしき御後見しなければ、事とある時は、なほよりどころなく心細げなり。
(さき)の世にも、御契りや深かりけむ、世になく淸らなる、玉の男御子(をのこみこ)さへ生れ給ひぬ。いつしかと心もとながらせ給ひて、急ぎ參らせて御覽ずるに、珍らかなる、兒(ちご)の御かたちなり。一の御子は右大臣の女御の御腹にて、よせおもく、疑ひなき儲君(まうけのきみ)と世にもてかしづき聞ゆれど、この御匂ひには、並び給ふべくもあらざりければ、大方のやんごとなき御思ひにて、この君をば、私物(わたくしもの)におぼほしかしづき給ふ事限りなし。はじめより、おしなべての上宮仕(うへみやづかへ)し給ふべき際にはあらざりき。覺えいとやんごとなく、上衆(じやうず)めかしけれど、わりなくまつはさせ給ふあまりに、さるべき御(み)あそびのをりをり、何事にも、故ある事のふしぶしには、まづまうのぼらせ給ふ。ある時には大殿籠(おほとのごも)りすぐして、やがてさぶらはせ給ひなど、あながちにお前去らずもてなさせ給ひし程に、おのづから輕(かろ)きかたにも見えしを、この御子(みこ)うまれ給ひてのちは、いと心ことにおもほしおきてたれば、坊にも、ようせずば、この御子の居給ふべきなめりと一のみこの女御はおぼし疑へり。人よりさきに參り給ひて、やんごとなき御思ひなべてならず、御子たちなどもおはしませば、此の御方(おんかた)の御いさめをのみぞ、なほ煩はしく心苦しう思ひ聞えさせ給ひける。かしこき御蔭(みかげ)をば頼み聞えながら、おとしめ疵(きず)を求め給ふ人は多く、わが身はかよわく、ものはかなき有樣にて、なかなかなる物思ひをぞし給ふ。
御局は桐壺なり。あまたの御かたがたを過ぎさせ給ひつつ、ひまなき御前渡
(おんまへわたり)に、人の御心をつくし給ふも、げにことわりと見えたり。まうのぼり給ふにも、あまりうちしきる折々は、打橋(うちはし)、渡殿(わたどの)、ここかしこの道に、あやしきわざをしつつ、御送迎(おんおくりむかへ)の人の衣(きぬ)の裾堪へがたう、まさなき事どもあり。又ある時は、えさらぬ馬道(めだう)の戸をさしこめ、こなたかなた心をあはせて、はしたなめ煩はせ給ふ時も多かり。事に觸れて、數知らず苦しき事のみまされば、いといたう思ひわびたるを、いとどあはれと御覽じて、後涼殿(こうらうでん)にもとよりさぶらひ給ふ更衣の曹司(ざうし)を、ほかに移させ給ひて、上局(うへつぼね)に賜はす。その恨み、ましてやらむかたなし。
この御子三つになり給ふ年、御袴着のこと、一の宮の奉りしに劣らず、内藏寮
(くらづかさ)、納殿(をさめどの)の物をつくして、いみじうせさせ給ふ。それにつけても世の譏りのみ多かれど、この御子の、およすげもておはする御かたち心ばへ、ありがたく珍らしきまで見え給ふを、えそねみあへ給はず、物の心知り給ふ人は、「かかる人も世にいでおはするものなりけり」と、あさましきまで目をおどろかし給ふ。
その年の夏、みやすんどころ、はかなき心地に煩ひて、まか
でなむとし給ふを、暇(いとま)さらに許させ給はず、年頃常のあつしさになり給へれば、御目なれて、「なほ暫し試みよ」とのみ宣はするに、日々におもり給ひて、ただ五六日(いつかむゆか)のほどに、いと弱うなれば、母君泣く泣く奏して、まかでさせ奉り給ふ。かかる折にも、あるまじき恥もこそと心づかひして、御子をばとどめ奉りて、忍びてぞ出で給ふ。限りあれば、さのみもえとどめさせ給はず、御覧じだに送らぬ覺束なさを、いふ方なくおぼさる。いと匂ひやかに美しげなる人の、いたう面痩せて、いとあはれと物を思ひしみながら、言(こと)にいでても聞えやらず、あるかなきかに消え入りつつ物し給ふを御覧ずるに、來(き)しかた行末思召されず、よろづの事を泣く泣く契り宣はすれど、御いらへもえ聞え給はず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよと、我かの氣色にて臥したれば、いかさまにかとおぼしめし惑はる。輦車(てぐるま)の宣旨など宣はせても、又入らせたまひては、更に許させ給はず。「限りあらむ道にも、おくれ先立たじと契らせ給ひけるを、さりとも、打捨ててはえ行きやらじ」と宣はするを、女もいといみじと見奉りて、
 「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり
いと斯く思う給へましかば」と、息も絶えつつ、聞えまほしげなる事はありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、斯くながら、ともかくもならむを御覧じ果てむと思召すに、「今日始むべき祈りども、さるべき人々承れる、今宵より」と聞え急がせば、わりなくおもほしながら、まかでさせ給ひつ。御胸のみつとふたがりて、つゆまどろまれず明かしかねさせ給ふ。御使のゆきかふ程もなきに、なほいぶせさを限りなく宣はせつるを、「夜中打過ぐる程になむ絶え果て給ひぬる」とて泣きさわげば、御使も、いとあへなくて歸り參りぬ。聞召す御心惑ひ、何事も思召しわかれず、籠りおはします。御子は斯くてもいと御覧ぜまほしけれど、かかる程にさぶらひ給ふ例
(れい)なきことなれば、まかで給ひなむとす。何事かあらむともおもほしたらず、さぶらふ人々の泣きまどひ、うへも御涙のひまなく流れおはしますを、あやしと見奉り給へるを、よろしき事だに、斯かる別れの悲しからぬはなきわざなるを、ましてあはれにいふかひなし。
限りあれば、例の作法にをさめ奉るを、母北の方、「おなじ煙
(けぶり)にものぼりなむ」と泣きこがれ給ひて、御送りの女房の車に慕ひ乘り給ひて、愛宕(をたぎ)といふ所に、いといかめしうその作法したるに、おはしつきたる心地、いかばかりかはありけむ。「むなしき御骸(おんから)を見る見る、なほおはするものと思ふがいとかひなければ、灰になり給はむを見奉りて、今は亡き人とひたぶるに思ひなりなむ」と、さかしう宣ひつれど、車より落ちぬべうまどひ給へば、「さは思ひつかし」と、人々もてわづらひ聞ゆ、うちより御使あり。三位(みつ)の位贈り給ふよし勅使來てその宣命讀むなむ悲しきことなりける。女御とだにいはせずなりぬるが飽かず口惜しうおぼさるれば、いまひときざみの位をだにと、贈らせ給ふなりけり。これにつけても、憎み給ふ人々多かり。もの思ひ知り給ふは、さまかたちなどのめでたかりしこと、心ばせのなだらかに目やすく、憎みがたかりし事など、今ぞおぼしいづる。さまあしき御もてなし故こそ、すげなうそねみ給ひしか、人がらのあはれに、なさけありし御心(みこゝろ)を、うへの女房なども、戀ひしのびあへり。「なくてぞ」とは、斯かる折にやと見えたり。はかなく日頃すぎて、のちのわざなどにも、こまかにとぶらはせ給ふ。程ふるままに、せむかたなう悲しうおぼさるるに、御かたがたの御宿直(とのゐ)なども絶えてし給はず、ただ涙にひぢて明し暮させ給へば、見奉る人さへ露けき秋なり。「亡きあとまで人の胸あくまじかりける人の御覺えかな」とぞ弘徽殿(こきでん)などにはなほゆるしなう宣ひける。一の宮を見奉らせ給ふにも、若宮の御戀しさのみおもほしいでつつ、親しき女房、御乳母(めのと)などを遣はしつつ、有樣を聞召す。
野分
(のわき)だちて俄(にはか)に膚寒き夕暮のほど、常よりもおぼしいづること多くて、靱負(ゆげひ)の命婦(みやうぶ)といふを遣はす。夕月夜(ゆふづくよ)のをかしき程にいだし立てさせ給うて、やがて眺めおはします。かうやうの折は、御遊びなどせさせ給ひしに、心ことなる物の音(ね)をかき鳴らし、はかなく聞えいづる言の葉も、人よりは殊なりしけはひかたちの、面影につと添ひておぼさるるも、闇の現(うつつ)にはなほ劣りけり。命婦かしこにまかでつきて、門(かど)引き入るるより、けはひあはれなり。やもめずみなれど、人一人の御かしづきに、とかくつくろひ立てて、目やすき程にて過ぐし給へるを、闇にくれて臥し沈み給へる程に、草も高くなり、野分にいとど荒れたる心地して、月影ばかりぞ八重葎(やへむぐら)にもさはらずさし入りたる。みんなみおもてにおろして。母君もとみにえ物も宣はず。「今までとまり侍るがいと憂きを、かかる御使の、蓬生(よもぎふ)の露分け入り給ふにつけても、恥かしうなむ」とて、げにえ堪ふまじく泣い給ふ。「『參りては、いとど心苦しう心肝(こゝろぎも)も盡くるやうになむ』と内侍(ないし)のすけの奏し給ひしを、もの思ひ給へ知らぬ心地にも、げにこそいと忍びがたう侍りけれ」とて、ややためらひて、仰言(おほせごと)傳へ聞ゆ。「『暫しは夢かとのみたどられしを、やうやう思ひしづまるにしも、さむべき方なく堪へがたきは、いかにすべきわざにかとも問ひ合すべき人だになきを、忍びては參り給ひなむや。若宮の、いと覺束なく露けきなかに過ぐし給ふも心苦しうおぼさるるを、疾く參り給へ』など、はかばかしうも宣はせやらず、むせ返らせ給ひつつ、かつは人も心弱く見奉るらむと、おぼしつつまぬにしもあらぬ御氣色の心苦しさに、承りも果てぬやうにてなむまかで侍りぬる」とて、御文(おんふみ)たてまつる。「目も見え侍らぬに、かくかしこき仰言を光にてなむ」とて見給ふ。「程經ば、すこしうち紛るる事もやと、待ち過ぐす月日に添へて、いと忍びがたきは、わりなきわざになむ。いはけなき人もいかにと思ひやりつつ、諸共にはぐくまぬ覺束なさを、今はなほ昔の形見になずらへて物し給へ」など、こまやかに書かせ給へり。
 宮城野の露吹き結ぶ風の音
(おと)に小萩がもとを思ひこそやれ
とあれど、え見給ひ果てず。「命ながさの、いとつらう思う給へ知らるるに、松の思はむ事だに恥かしう思ひ給へ侍れば、百敷
(もゝしき)にゆきかひ侍らむ事は、ましていと憚り多くなむ。かしこき仰言をたびたび承りながら、みづからは、えなむ思ひ給へ立つまじき。若宮はいかにおもほし知るにか、參り給はむ事をのみなむおぼし急ぐめれば、ことわりに悲しう見奉り侍るなど、うちうちに思ひ給へるさまを奏し給へ。ゆゆしき身に侍れば、斯くておはしますも、いまいましうかたじけなく」など宣ふ。宮は大殿籠りにけり。「見奉りて、くはしく御有樣も奏し侍らまほしきを、待ちおはしますらむを、夜ふけ侍りぬべし」とて、急ぐ。「くれまどふ心の闇も堪へがたき片端をだに、はるくばかりに聞えまほしう侍るを、わたくしにも、心のどかにまかで給へ。年頃、嬉しくおもだたしきついでにのみ立寄り給ひしものを、かかる御せうそこにて見奉る、かへすがへすつれなき命にも侍るかな。生れし時より、思ふ心ありし人にて、故大納言、今はとなるまで、ただ、『この人の宮仕の本意(ほい)、必ず遂げさせ奉れ。われ亡くなりぬとて、口惜しう思ひくづほるな』と、かへすがへすいさめおかれ侍りしかば、はかばかしう後見(うしろみ)思ふ人なきまじらひは、なかなかなるべき事と思う給へながら、ただかの遺言をたがへじとばかりに、いだし立て侍りしを、身にあまるまでの御志(みこゝろざし)のよろづに忝(かたじけな)きに、人げなき恥を隱しつつまじらひ給ふめりつるを、人のそねみ深くつもり、安からぬこと多くなり添ひ侍るに、横さまなるやうにて、遂にかくなり侍りぬれば、却りてはつらくなむ畏き御心ざしを思う給へられ侍る。これもわりなき心の闇に」などいひもやらず、むせかへり給ふほどに夜も更けぬ。「うへもしかなむ。『わが御心(みこゝろ)ながら、あながちに人目驚くばかりおぼされしも、長かるまじきなりけりと、今はつらかりける人の契りになむ。世にいささかも人の心を曲げたることはあらじと思ふを、たゞこの人ゆゑにて、あまたさるまじき人の恨みを負ひしはてはては、かう打捨てられて、心をさめむ方なきに、いとど人わろう、かたくなになりはつるも、前(さき)の世ゆかしうなむ』と、うちかへしつつ、御しほたれがちにのみおはします」と、語りて盡きせず。泣く泣く、「夜いたう更けぬれば、今宵過ぐさず御返り奏せむ」と急ぎ參る。月は入方(いりがた)の空淸う澄みわたれるに、風いと涼しく吹きて、草叢の蟲の声々催しがほなるも、いと立ち離れにくき草のもとなり。
 鈴蟲の聲のかぎりをつくしても長き夜飽かずふる涙かな
えも乘りやらず。
「いとどしく蟲のね繁きあさぢふに露おき添ふる雲の上人
かごとも聞えつべくなむ」といはせ給ふ。をかしき御贈物などあるべき折にもあらねば、ただかの御形見にとて、斯かる用もやと殘し給へりける御装束
(おんさうぞく)一領(ひとくだり)、御髮上(みぐしあげ)の調度(でうど)めくもの添へ給ふ。若き人々、悲しき事は更にもいはず、うちわたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、うへの御有樣など思ひいで聞ゆれば、疾くまゐり給はむ事をそそのかし聞ゆれど、かくいまいましき身の添ひ奉らむも、いと人聞き憂かるべし、また見奉らで暫しもあらむは、いとうしろめたう思ひ聞え給ひて、すがすがともえ參らせ奉り給はぬなりけり。
  注:湖月抄本のこの本文の母君の言葉に「うちうちに思ひ給へるさまを奏 し給へ。」とあるのは、 「思ひ」が母君自身の動作なので、作者は下二段活用の謙譲の補助動詞「給ふ」を用いて「うちうちに思ひ給ふるさまを奏し給へ。」と表現したはずです。河内本には「給ふる」となっています。 (「思ひ給へる」の「給へる」は、四段活用の尊敬の補助動詞 「給ふ」の已然形に、完了の助動詞「り」の連体形<ここでの意味は「存続」 >がついたもの。)    
命婦は、まだ大殿籠らせ給はざりけるを、あはれに見奉る。お前の壺前栽
(つぼせんざい)の、いと面白きさかりなるを御覽ずるやうにて、忍びやかに、心にくきかぎりの女房四五人(よたりいつたり)さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。このごろ明暮(あけくれ)御覽ずる長恨歌の、御繪亭子(ていじ)の院のかかせ給ひて、伊勢、貫之によませ給へる。大和言の葉をも唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞまくらごとにせさせ給ふ。いとこまやかに有樣を問はせ給ふ。あはれなりつる事忍びやかに奏す。御返り御覽ずれば、「いともかしこきは、おきどころも侍らず。かかる仰言につけても、かきくらす亂り心地になむ。
 荒き風防ぎし蔭の枯れしより小萩がうへぞ靜心なき」
などやうに亂りがはしきを、心をさめざりける程と、御覽じゆるすべし。いとかうしも見えじとおぼししづむれど、更にえ忍びあへさせ給はず、御覽じ始めし年月の事さへかき集め、よろづにおぼしつづけられて、時のまも覺束なかりしを、かくても月日は經にけりと、あさましうおぼしめさる。「故大納言の遺言あやまたず、宮仕の本意
(ほい)深く物したりしよろこびは、かひあるさまにとこそおもひわたりつれ。いふかひなしや」とうち宣はせて、いとあはれにおぼしやる。「かくても、おのづから、若宮など生ひいで給はば、さるべきついでもありなむ。命ながくとこそ思ひ念ぜめ」など宣はす。かの贈物御覽ぜさす。亡き人のすみか尋ねいでたりけむ證(しるし)の釵(かんざし)ならましかばとおもほすも、いとかひなし。
 尋ねゆく幻
(まぼろし)もがなつてにても魂(たま)の在處(ありか)をそこと知るべく
繪にかける楊貴妃のかたちは、いみじき繪師といへども、筆限りありければ、いと匂ひなし。太液の芙蓉、未央の柳も、げに通ひたりしかたちを、からめいたるよそひは麗はしうこそありけめ、なつかしうらうたげなりしをおぼしいづるに、花鳥
(はなとり)の色にも音(ね)にもよそふべき方ぞなき。朝夕のことぐさに、羽をならべ、枝をかはさむと契らせ給ひしに、かなはざりける命の程ぞ、盡きせず恨めしき。風の音(おと)、蟲の音(ね)につけて、物のみ悲しうおぼさるるに、弘徽殿(こきでん)には、久しう上の御局(みつぼね)にもまうのぼり給はず、月の面白きに、夜更くるまで遊びをぞし給ふなる。いとすさまじう、ものしと聞召(きこしめ)す。このごろの御氣色(けしき)を見奉る上人(うへびと)、女房などは、傍痛(かたはらいた)しと聞きけり。いとおし立ち、かどかどしき所ものし給ふ御かたにて、事にもあらずおぼし消(け)ちてもてなし給ふなるべし。月も入りぬ。
 雲の上も涙にくるる秋の月いかですむらむ淺茅生
(あさぢふ)の宿
おぼしやりつつ、燈火
(ともしび)をかかげつくして起きおはします。右近(うこん)の司(つかさ)の宿直奏(とのゐまうし)の聲聞ゆるは、丑(うし)になりぬるなるべし。人目をおぼして、夜の御殿(おとど)に入らせ給ひても、まどろませ給ふ事難(かた)し。朝(あした)に起きさせ給ふとても、明くるも知らでとおぼしいづるにも、なほ朝政(あさまつりごと)は怠らせ給ひぬべかめり。物なども聞召(きこしめ)さず、朝餉(あさがれひ)の氣色(けしき)ばかり觸れさせ給ひて、大床子(だいしやうじ)の御膳(おもの)などは、いと遙かにおぼしめしたれば、陪膳(はいぜん)にさぶらふかぎりは、心苦しき御氣色を、見奉りなげく。すべて近うさぶらふかぎりは、男女(をとこをんな)、「いとわりなきわざかな」と、いひあはせつつ歎く。「さるべき契りこそはおはしましけめ、そこらの人の譏り恨みをも憚らせ給はず、この御事に觸れたる事をば、道理をもうしなはせ給ひ、今はた斯く世のなかの事をもおぼし捨てたるやうになりゆくは、いとたいだいしきわざなり」と、人の朝廷(みかど)のためしまで引きいで、ささめき歎きけり。
月日經て、若宮まゐり給ひぬ。いとど、この世の物ならず、淸らにおよすげ給へれば、いとどゆゆしうおぼしたり。明くる年の春、坊さだまり給ふにも、いと引き越さまほしうおぼせど、御後見すべき人もなく、また世の承
(う)け引くまじき事なれば、なかなか危くおぼし憚りて、色にもいださせ給はずなりぬるを、「さばかりおぼしたれど、限りこそありけれ」と世の人も聞え、女御も御心落ちゐ給ひぬ。かの御おば北の方、慰む方なく思し沈みて、おはすらむ所にだに尋ねゆかむ」と願ひ給ひししるしにや、遂に亡せ給ひぬれば、又これをかなしびおぼす事かぎりなし。御子六つになり給ふ年なれば、この度はおぼし知りて、戀ひ泣き給ふ。年頃馴れむつび聞え給へるを、見奉りおくかなしびをなむ、かへすがへす宣ひける。
今はうちにのみさぶらひ給ふ。七つになり給へば、ふみはじめなどせさせ給ひて、世に知らずさとう賢くおはすれば、あまりに怖ろしきまで御覧ず。「今は誰も誰もえ憎み給はじ。母君なくてだにらうたうし給へ」とて、弘徽殿などにも渡らせ給ふ御供には、やがて御簾
(みす)のうちに入れ奉り給ふ。いみじき武士(もものふ)、仇敵(あたかたき)なりとも、見てはうちゑまれぬべきさまのし給へれば、えさし放ち給はず。女御子たちふたところ此の御腹におはしませど、なずらひ給ふべきだにぞなかりける。御かたがたも隱れ給はず、今よりなまめかしう恥かしげにおはすれば、いとをかしう打解けぬ遊びぐさに誰も誰も思ひ聞え給へり。わざとの御(おん)學問はさるものにて、こと笛のねにも雲居をひびかし、すべていひつづけば事事しう、うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。
その頃高麗人
(こまうど)のまゐれるがなかに、かしこき相人(さうにん)ありけるを聞召して、宮のうちに召さむことは宇多の御門の御誡めあれば、いみじう忍びて、この御子を鴻臚舘につかはしたり。御(み)後見だちて仕うまつる右大辨の子のやうに思はせてゐて奉る。相人驚きて、あまたたびかたぶきあやしぶ。「國の親となりて、帝王の上(かみ)なき位にのぼるべき相おはします人の、そなたにて見れば、亂れ憂ふることやあらむ。朝廷(おほやけ)の固(かため)となりて、天の下を輔(たす)くるかたにて見れば、またその相たがふべし」といふ。辨もいと才(ざえ)かしこき博士(はかせ)にて、いひかはしたる事どもなむいと興ありける。詩(ふみ)など作りかはして、今日明日歸り去りなむとするに、かくありがたき人にたいめんしたるよろこび、却りては悲しかるべき心ばへを、面白く作りたるに、御子もいとあはれなる句を作り給へるを、限りなうめで奉りて、いみじき贈物どもを捧げ奉る。朝廷(おほやけ)よりも多く物賜はす。おのづから事ひろごりて、漏らさせ給はねど、春宮のおほぢおとどなど、いかなる事にかとおぼし疑ひてなむありける。御門かしこき御(み)心に、倭相(やまとさう)をおほせて、おぼし寄りにける筋なれば、今までこの君を親王(みこ)にもなさせ給はざりけるを、相人は誠にかしこかりけりとおぼし合せて、無品親王(むぼんしんわう)のぐわいせきのよせなきにてはただよはさじ、わが御世もいと定めなきを、ただ人(うど)にて朝廷(おほやけ)の御後見をするなむ行先も頼もしげなる事とおぼし定めて、いよいよ道々の才(ざえ)をならはさせ給ふ。きはことに賢くて、ただ人にはいとあたらしけれど、親王(みこ)となり給ひなば、世の疑ひ負ひぬべくものし給へば、宿曜(すくえう)のかしこき道の人にかんがへさせ給ふにも、同じさまに申せば、源氏になし奉るべくおぼしおきてたり。
年月に添へて、御息所の御事をおぼし忘るる折なし。慰むやと、さるべき人々を參らせ給へど、なずらひにおぼさるるだにいと難き世かなと、うとましうのみよろづにおぼしなりぬるに、先帝
(せんだい)の四(し)の宮の、御かたちすぐれ給へる聞え高くおはします、母后(はゝぎさき)世になくかしづき聞え給ふを、うへにさぶらふ内侍のすけは、先帝の御時の人にて、かの宮にも親しうまゐり馴れたりければ、いはけなくおはしましし時より見奉り、今もほの見奉りて、「亡せ給ひにし御息所の御かたちに似給へる人を、三代(みよ)の宮仕につたはりぬるに、え見奉りつけぬに、后(きさい)の宮の姫君こそ、いとよう覺えて生ひいでさせ給へりけれ。ありがたきかたちびとになむ」と奏しけるに、誠にやと御心とまりて、懇に聞えさせ給ひけり。母后、「あな怖ろしや。春宮の女御のいとさがなくて、桐壺の更衣の、あらはにはかなくもてなされし例(ためし)もゆゆしう」とおぼしつつみて、すがすがしうもおぼし立たざりける程に、后も亡せ給ひぬ。心細きさまにておはしますに、「ただわが女御子たちと同じつらに思聞えむ」と、いと懇に聞えさせ給ふ。さぶらふ人々、御後見たち、御兄(せうと)の兵部卿にみこなど、かく心細くておはしまさむよりは、うちずみせさせ給ひて御心も慰むべくおぼしなりて、まゐらせ奉り給へり。藤壺と聞ゆ。げに御かたち有樣、あやしきまでぞ覺え給へる。これは人の御際(おんきは)まさりて、思ひなしめでたく、人もえおとしめ聞え給はねば、うけばりて飽かぬ事なし。かれは人も許し聞えざりしに、御志あやにくなりしぞかし。おぼし紛るるとはなけれど、おのづから御(み)心うつろひて、こよなくおぼし慰むやうなるも、あはれなるわざなりけり。源氏の君は、御あたり去り給はぬを、ましてしげく渡らせ給ふ御かたは、え恥ぢあへ給はず。いづれの御かたも、われ人に劣らむとおぼいたるやはある、とりどりにいとめでたけれど、うち大人び給へるに、いと若う愛(うつく)しげにて、せちに隱れ給へど、おのづから漏り見奉る。母御息所は、影だに覺え給はぬを、「いとよう似給へり」と内侍のすけの聞えけるを、若き御心地に、いとあはれと思ひ聞え給ひて、常に參らまほしう、なづさひ見奉らばやと覺え給ふ。うへも限りなき御思ひどちにて、「な疎み給ひそ。あやしくよそへ聞えつべき心地なむする。なめしとおぼさでらうたうし給へ。つらつきまみなどは、いとよう似たりしゆゑ、通ひて見え給ふも似げなからずなむ」など聞えつけ給へれば、をさな心地にも、はかなき花紅葉につけても、志を見え奉り、こよなう心寄せ聞え給へれば、弘徽殿の女御また此の宮とも御なかそばそばしきゆゑ、打添へて、もとよりの憎さも立ちいでて、ものしとおぼしたり。世にたぐひなしと見奉り給ひ名高うおはする宮の御かたちにも、なほ匂はしさは譬へむかたなく愛しげなるを、世の人光君(ひかるぎみ)と聞ゆ。藤壺ならび給ひて、御覺えもとりどりなれば、輝く日の宮と聞ゆ。
この君の御童姿
(わらはすがた)、いと變へまうくおぼせど、十二にて御元服し給ふ。居立ちおぼしいとなみて、限りある事に事を添へさせ給ふ。一年(ひととせ)の春宮の御元服、南殿(なんでん)にてありし儀式のよそほしかりし御響きにおとさせ給はず、所々の饗(きやう)など、内藏寮(くらづかさ)、ごくさうゐんなど、おほやけごとに仕うまつれる、疎そかなる事もぞと、取分き仰言ありて、淸らを盡して仕うまつれり。おはします殿(でん)のひんがしの廂(ひさし)、ひんがしむきに倚子(いし)立てて、くわんざの御座(ござ)、引入(ひきいれ)のおとどの御座御前(ごぜん)にあり。申の時にぞ源氏まゐり給ふ。みづらゆひ給へるつらつき顔の匂ひ、さま變へ給はむこと惜しげなり。大藏卿藏人(おほくらきやうくらうど)仕うまつる。いと淸らなる御髮(おんぐし)をそぐ程、心苦しげなるを、うへは、御息所の見ましかばとおぼしいづるに、堪へがたきを、心張く念じかへさせ給ふ。かうぶりし給ひて、御休みどころにまかで給ひて、御衣(おんぞ)奉りかへて、おりて拜し奉り給ふさまに、皆人涙おとし給ふ。御門はたましてえ忍びあへ給はず。おぼしまぎるる折もありつるを、昔の事、取りかへし悲しくおぼさる。いとかうきびはなる程は、あげおとりやと疑はしくおぼされつるを、あさましう愛しげさ添ひ給へり。引入の大臣の皇女腹(みこばら)に、ただ一人かしづき給ふ御むすめ、春宮よりも御氣色あるを、おぼし煩ふことありけるは、この君に奉らむの御心なりけり。うちにも御氣色賜はらせ給ひければ、「さらばこの折の御後見なかめるを、添臥(そひぶし)にも」と催させ給ひければ、さおぼしたり。さぶらひにまかで給ひて、人々大みきなどまゐる程、親王(みこ)たちの御座(ざ)の末に源氏つき給へり。おとど氣色ばみ給ふことあれど、物のつつましき程にて、ともかくもあへしらひ聞え給はず。お前より、内侍(ないし)、宣旨うけたまはり傳へて、おとど參り給ふべき召(めし)あれば、まゐり給ふ。御祿の物、うへの命婦取りて賜ふ。白き大袿(おほうちぎ)に御衣(おんぞ)一領(ひとくだり)、例の事なり。御盃のついでに、
 いときなき初元結に長き世をちぎる心はむすびこめつや
御心ばへありておどろかさせ給ふ。
 結びつる心も深き元結に濃きむらさきの色しあせずば
と奏して、長階
(ながはし)よりおりて舞踏し給ふ。左馬寮(ひだりのつかさ)の御馬、藏人所の鷹すゑて賜はり給ふ。御階(みはし)のもとに、親王達(みこたち)、上達部つらねて、祿ども品々に賜はり給ふ。その日のお前の折櫃物(をりびつもの)、籠物(こもの)など、右大辨なむ承りて仕うまつらせける。どんじき、祿の唐櫃(からびつ)どもなど、所せきまで、春宮の御元服の折にもかずまされり。なかなか限りもなくいかめしうなむ。
その夜、おとどの御里に源氏の君まかでさせ給ふ。作法世にめづらしきまでもてかしづき聞え給へり。いときびはにておはしたるを、ゆゆしううつくしと思ひ聞え給へり。女君はすこし過ぐし給へるほどに、いと若うおはすれば、似げなく恥かしとおぼいたり。このおとどの御覺えいとやんごとなきに、母宮、うちの一つ后腹
(きさいばら)になむおはしければ、いづかたにつけても物あざやかなるに、この君さへかくおはし添ひぬれば、春宮の御おほぢにて遂に世の中を知り給ふべき右のおとどの御いきほひは、物にもあらず壓(お)され給へり。御子どもあまた腹々にものし給ふ。宮の御腹は、藏人の少將にていと若うをかしきを、右のおとどの、御なかはいとよからねど、え見過ぐし給はで、かしづき給ふ四の君にあはせ奉り、劣らずもてかしづきたるは、あらまほしき御あはひどもになむ。
源氏の君は、うへの常に召しまつはせば、心やすく里住
(さとずみ)もえし給はず。心のうちには、ただ藤壺の御有樣を、たぐひなしと思ひ聞えて、さやうならむ人をこそ見め、似るものなくもおはしけるかな、大殿(おほいどの)の君、いとをかしげに、かしづかれたる人とは見ゆれど、心にもつかず覺え給ひて、をさなき程の御ひとへごころにかかりて、いと苦しきまでぞおはしける。大人になり給ひてのちは、ありしやうに御簾の内にも入れ給はず。御(み)遊びの折々、こと笛のねに聞きかよひ、ほのかなる御聲を慰めにて、内裏住(うちずみ)のみ好ましうおぼえ給ふ。五六日(いつかむゆか)さぶらひ給ひて、大殿(おほいどの)に二三日(ふつかみか)など、絶え絶えにまかで給へど、只今はをさなき御程に、罪なくおぼして、いとなみかしづき聞え給ふ。御かたがたの人々、世のなかにおしなべたらぬをえりととのへすぐりて、さぶらはせ給ふ。御心につくべき御遊びをし、あふなあふなおぼしいたづく。うちには、もとの淑景舎(しげいさ)を御曹司にて、母みやすどころの御かたがたの人々、まかで散らずさぶらはせ給ふ。里の殿は、すりしき内匠寮(たくみづかさ)に宣旨くだりて、二なう改め作らせ給ふ。もとの木立、山のたたずまひ面白き所なるを、池の心廣くしなして、めでたく作りののしる。かかる所に、思ふやうならむ人をすゑて住まばやとのみ、歎かしうおぼしわたる。「光君といふ名は、高麗人(こまうど)のめで聞えて、附け奉りける」とぞいひ傳へたるとなむ。

 

 

                 

 

  (注) 1.  上記の源氏物語「桐壺」の本文は、吉澤義則著『對校 源氏物語新釋』巻一(平凡社、昭和27年4月25日発行)によりました。
 ただし、会話の発言者や歌の作者を示す表記は、これを省略しました。また、平仮名の「く」を縦に伸ばした形の繰り返し符号は、もとの仮名や漢字に直してあります。(例、かたがた、いよいよ、やうやう、ふしぶし、泣く泣く、など)
   
    2.  漢字の読みは、一部、引用者が補ったものがあります。
   
    3.  ここに採った本文は、『對校 源氏物語新釋』巻一の凡例に「本書は湖月抄本を底本とし、尾張徳川家所蔵の河内本を以て厳密に対校して本文を立てた」とあるうちの、湖月抄本を採用してあります。
 また、凡例には、「繙読の便宜上、原本の仮名書の部分に適宜漢字を充て、宛字を正して、仮名遣を統一し、詞と地とを区別し、濁点・句読点を施し、かつ適当に分節してある」とあります。
  
   
    4.  〇湖月抄(こげつしょう)=(紫式部が石山寺で琵琶湖上の月を見、興を催し、まず須磨の巻に筆を染めたとの伝説による)源氏物語の注釈書。60巻。北村季吟著。1673年(延宝1)成立。本註4巻、古注を集成。
  〇河内本(かわちぼん)=鎌倉初期、河内守源光行・親行父子が校勘した源氏物語。
(以上、『広辞苑』第6版による)  
      
   
    5.  吉沢義則 (よしざわ・よしのり) = 国語・国文学者。名古屋生れ。京大教授。平安文学を専攻。かな書道をよくし、短歌では「帚木ははきぎ」を主宰。著「対校源氏物語新釈」「国語史概説」など。(1876~1954) (同じく『広辞苑』第6版による)
   
    6.  「野分だちて」の読みについて。
 岩波書店の日本古典文学大系14『源氏物語一』(山岸德平校注、昭和33年1月6日第1刷発行)では、「野分たちて」と読んで、頭注に「野分の風が吹いたので。「野分」は「野分の風」の略。九月頃吹く暴風。」とあり、巻末の「補注」で、次のように言っています。


 「野分だちて」は、花鳥余情の読みである。伊行釈も野分の風と解し、伝阿仏尼筆本には、「野分して、俄に膚さむく涼しき夕暮に云々」とある。後の文には、「野分に、処々、荒れたる云々」ともある。「野分たちて」は、「野分の風が吹いたので」で野分が既に過ぎ去った後である。故に、空も澄んで月も一入面白い。因って花鳥余情の読みには従わない。

 注: 〇花鳥余情(かちょうよじょう。カチョウヨセイとも)=源氏物語の注釈書。一条兼良著。30巻。1472年(文明4)成る。「河海抄」を補正したもので、事実の考証よりも文意の解釈に力を注ぐ。本文は河内本を用いる。       
 〇河海抄(かかいしょう)=源氏物語の注釈書。20巻。四辻
よつつじ善成著。1367年(貞治6)稿本を将軍足利義詮に撰進。祖師義行・先師忠守の説をうけ、 旧説を渉猟して集大成。語句解釈の面を著しく開拓し、河内本と青表紙本とを対等の位置においた。 
 〇河内本(かわちぼん)=下の注5をご覧下さい。 
 〇青表紙本(あおびょうしぼん)=[青い表紙を用いたからいう](河内本に対して)定本の源氏物語。
    (以上、『広辞苑』第6版による)         

 
なお、フリー百科事典『ウィキペディア』に、「源氏物語」「青表紙本」「河内本」の項目があって参考になります。

 手元にある小西甚一著『基本古語辞典』三訂版(大修館書店、昭和51年3月1日三訂第2版発行)の「野分き(のわき)」の項に、次のようにあります。

 のわき(野分き)(「野の草を分ける風」の意で)秋のはじめごろ吹く強風。台風。「─たちて(=暴風ガ吹イタノデ)、にはかにはだ寒き夕暮れのほど」[源氏・桐壺]「─せし小野
(をの)の草臥(ぶ)し(=草ノ上ノ寝所)荒れはててみ山に深きさ牡鹿の声」[新古今・秋下] 《桐壺の例は「野分きだちて」とよみ、「野分きだつ」という自動詞に取るのが室町時代中期からふつうおこなわれている説だが、情景から考えると「野分きがたつ」と解するのが適切のようである》

──ということで、最近は「野分たちて」と読む本が多いようですが、「野分だちて」という古来の読みも捨てがたい思いがするのは、なぜでしょうか。

     * * * * *

 『源氏物語を正しく読むために』というサイトに、「野分立ちて 01050:清音か濁音か」の項があって、そこに次のようにあります。

 「野分たつ」と「野分だつ」の二説がある。清音なら野分が吹いての意味。過去の助動詞が使われていないからといって、現在吹いている必要はない。夕暮れになる前に吹けば、今朝でもよく数日前でもかまわない。現在形がおおう範囲は広い。これに対して、濁音なら、野分のような風が吹いて、吹き始めたのが「にはかに肌寒き」の直前になる。「たつ」は今目の前で立ったという変化と、すでに立って終わったあとの状態の両方を意味するが、「だつ」は今目の前で起こった変化の感覚が強い。もうひとつは、清音は野分そのもの、濁音は野分に似たものとの違いがある。ここのみで、野分だったのか、野分風であったのか論じても意味がない。しかし、後に「野分にいとど荒れたる心地」とあって、いつとは判明しないが、最近野分が吹いたことは明白に述べられている。それとは別に、今また野分ふうの風を想定する理由はないと思う。

 かなり説得力のある解説だと思いますが、「野分立ちてにはかに肌寒き夕暮のほど」という言い方からすると、「野分立つ」ことが「肌寒き」の原因となっているように思われるのですが、つまり、「野分のような風が吹いて、吹き始めたのが「にはかに肌寒き」の直前」ということになるように思われるのですが、どうでしょうか。それでは「野分にいとど荒れたる心地」とあるのと合わないではないかと言われると、確かにそうではあるのですが。
 
「野分が吹きにわかに肌寒さを感じる夕暮れ時」という現代語訳を読んでも、「野分が吹いたことが「肌寒さを感じ」た原因になっているのではないでしょうか。
  →
『源氏物語を正しく読むために』
         
(この項:2024年1月9日記す)
   
    7.  奈良女子大学附属図書館のホームページに『阪本龍門文庫善本電子画像集』があって、ここで、『河海抄』の本文が見られます。 
      
   
    8.  「桐壺源氏」という言葉があって、広辞苑によれば、これは「源氏物語を読み始めたが冒頭の「桐壺」でやめてしまうように、あきやすくて読書や勉強が長続きしないこと」を言った言葉だそうです。
 しかし、源氏物語の桐壺の巻を読んだだけでも、作者紫式部がいかにすぐれた作家であるかが分かるでしょう。桐壺の帝と桐壺の更衣のあわれ深い別れと更衣のはかない最期、そして更衣亡き後の帝の悲嘆の場面は、読む人の心を深く打たずにはおかないものがあります。
   
    9.  『源氏物語のすべて=写本・本文・訳・音=美しい文章と文字(紫式部)』というサイトがあり、参考になります。    
    10.  資料671に「谷崎潤一郎訳源氏物語(桐壺の巻)」があります。
 → 資料671  谷崎潤一郎訳源氏物語(桐壺の巻)
   



    
      

         
        
                
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