資料305 説経節『小栗判官』




          小栗判官 

                       
        第一
 そもそも、この物語の由来を、くはしく尋ぬるに、国を申さば、美濃の国、安八(あんぱち)の郡(こおり)、墨俣(すのまた)、垂井、おなことの神体は、正八幡なり。荒人神(あらひとがみ)の御本地(ほんぢ)を、くはしく説きたてひろめ申すに、これも一とせは、人間にてや、わたらせたまふ。
 凡夫(ぼんぷ)にての御本地を、くはしく、説きたてひろめ申すに、それ都に、一の大臣、二の大臣、三に相模の左大臣、四位(しい)に少将、五位の蔵人(くらんど)、七なん滝口、八条殿、一条殿や、二条殿、近衛関白、花山(かさん)の院、三十六人の公家、殿上人(てんじょうびと)のおはします。公家殿上人の、その中に、二条の大納言とは、それがしなり。仮名(けみょう)は兼家の仮名、母は常陸の源氏の流れ、氏(うじ)と位は高けれど、男子(なんし)にても、女子(にょし)にても、末の世継が、御ざなうて、鞍馬の毘沙門(びしゃもん)にお詣りあつて、申子(もうしご)をなされける。満ずる夜(よ)の御夢想に、三つなりのありの実を、給はるなり。あらめでたの御ことやと、山海の珍物(ちんぶつ)に、国土の菓子を調(ととの)へて、御喜びかぎりなし。
 御台所(みだいどころ)は、をしへけむちくあらたかに、七(なな)月のわづらひ、九(ここの)月の苦しみ、当たる十月と申すには、御産の紐を、お解きある。女房たちは参り、介錯申し、抱(いだ)き取り、男子(なんし)か、女子(にょし)かと、お問ひある。玉を磨き、瑠璃をのべたるごとくなる、御若君にておはします。あらめでたの御ことや、須達(しゅだつ)、福分(ふくぶん)におなり候へと、産湯を取りて参らする。肩の上の鳳凰に、手の中(うち)のあいしの玉、桑の木の弓に、蓬(えもぎ)の矢、天地和合と、射払ひ申す。屋形(やかた)に、齢(よわい)久しき翁(おきな)の太夫(たゆう)は、参りて、この若君に、御名をつけてまゐらせん、げにまこと、毘沙門の御夢想に、三つなりのありの実を、給はるなれば、ありの実にことよせて、すなはち御名をば、有若(ありわか)殿と、奉る。この有若殿には、御乳(おち)が六人、乳母(めのと)が六人、十二人の御乳や乳母が、預かり申し、抱(いだ)き取り、いつきかしづき奉る。年日(としひ)のたつは、ほどもなし。二三歳、はや過ぎて、七歳におなりある。七歳の御とき、父の兼家殿は、有若に、しのおんをつけてとらせんと、東山へ、学問に、お上(のぼ)せあるが、 

        第二
なにか、鞍馬の申子のことなれば、智恵の賢さ、かくばかり、一字は二字、二字は四字、百字は千字と、悟らせたまへば、御山(おやま)一番の、学匠とぞ、聞こえたまふ。昨日今日とは思へども、御年積もりて、十八歳におなりある。
 父兼家殿は、有若を、東山より申し下ろし、位を授けて、とらせたうは候へども、氏も位も、高ければ、烏帽子親には、頼むべき人がなきぞとて、ここに、八幡(やわた)正八幡の御前(おんまえ)にて、瓶子(へいじ)一具、取り出だし、蝶花形(ちょうはながた)に、口つつみ、すなはち御名をば、常陸小栗殿と、参らする。御台(みだい)、なのめに思(おぼ)しめし、さあらば、小栗に、御台を迎へてとらせんと、御台所をお迎へあるが、小栗、不調(ふじょう)な人なれば、いろいろ妻嫌ひをなされける。せいの高いを、迎ゆれば、深山木(みやまぎ)の相とて、送らるる。せいの低いを迎ゆれば、人尺(にんじゃく)に足らぬとて、送らるる。髪の長いを迎ゆれば、蛇身の相とて、送らるる。面(おもて)の赤いを迎ゆれば、鬼神(きじん)の相とて、送らるる。色の白いを迎ゆれば、雪女、見れば見醒めもするとて、送らるる。色の黒いを迎ゆれば、げす女、卑しき相とて、送らるる。送りてはまた迎へ、迎へてはまた送り、小栗十八歳の如月(きさらぎ)より、二十一の秋までに、以上御台の数は、七十二人とこそは聞こえたまふ。
 小栗殿には、つひに定まる、御台所の御ざなければ、ある日の雨中のつれづれに、「さてそれがしは、鞍馬の申子と承る。鞍馬へ詣り、定まる妻を、申さばや」と思ひ、二条の御所を立ち出(い)でて、市原野辺(いちはらのべ)の、あたりにて、漢竹(かんちく)の、横笛(ようじょう)を、取り出だし、八つの歌口、露しめし、翁(おきな)が、ぢやうを恋ふる楽、とうひらでんに、まいひらでん、獅子ひらでん、といふ楽を、半時(はんじ)がほどぞ、あそばしける。深泥(みぞろ)が池の大蛇は、この笛の音(ね)を聞き申し、「あらおもしろの笛の音や、この笛の男(おのこ)を、一目拝まばや」と思ひつつ、十六丈の大蛇は、二十丈に伸び上がり、小栗殿を拝み申し、「あらいつくしの男(おのこ)や。あの男と、一夜(いちや)の契りを、こめばや」と、思ひつつ、

        第三
年の齢(よわい)、数ふれば、十六七の美人の姫と、身を変じ、鞍馬の、一の階(きざはし)に、よしあり顔にて、立ちゐたる。小栗、このよし御覧じて、これこそ、鞍馬の利生(りしょう)とて、玉の輿(こし)に、とつて乗せ、二条の屋形に、御下向(おげこう)なされ、山海の珍物に、国土の菓子を、調(ととの)へて、御喜びは、かぎりなし。
 しかれども、好事(こうじ)、門を出でず、悪事、千里を走る。錐(きり)は、袋を通すとて、都童(みやこわらんべ)、もれ聞いて、二条の屋形(やかた)の小栗と、深泥(みぞろ)が池の大蛇と、夜な夜な通ひ、契りをこむるとの、風聞なり。父兼家殿は、聞こしめし、「いかにわが子の小栗なればとて、心不調(ふじょう)な者は、都の安堵にかなふまじ。壱岐、対馬へも、流さう」との、御諚(ごじょう)なり。御台(みだい)、このよし聞こしめし、「壱岐、対馬へお流しあるものならば、また会ふことは難(かた)いこと。みづからが、知行は、常陸なり。常陸の国へ、お流しあつてたまはれの」。兼家、げにもと思しめし、母の知行に、あひ添へて、常陸東条、玉造(たまつくり)の御所の流人(るにん)と、ならせたまふなり。
 常陸三かの庄の、諸侍(しょさぶらい)、とりどりに評定(ひょうじょう)、あの小栗と申すは、天よりも降(ふ)り人の子孫なれば、上(かみ)の都に、あひ変らず、奥の都とかしづき申し、やがて御司(つかさ)を参らする。小栗の判官(はんがん)ありとせはんと、大将ならせ奉る。夜番(やばん)、当番、きびしうて、毎日の御番は、八十三騎とぞ、聞こえたまふ。めでたかりける折ふし、いづくとも知らぬ、商人(あきびと)一人参り、「なに紙か板の御用、紅(べに)や、白粉(うしろい)、畳紙(たとうがみ)、御匂(におい)の道具にとりては、沈(じん)、麝香(じゃこう)、三種(みくさ)、蝋茶(らつちや)と、沈香(じんこう)の、御用」なんどと、売つたりけり。小栗、このよし聞こしめし、「商人が、負うたは、なんぞ」とお問ひある。後藤左衛門、承り、「さん候(ぞうろう)、唐(とう)の薬が千八品(しな)、日本の薬が千八品、二千十六品とは申せども、まづ中へは、千色(いろ)ほど入れて、負うて歩くにより、総名(そうみやう)は、千駄櫃(せんだびつ)と申すなり」。小栗このよし聞こしめし、「かほどの薬の品々を、売るならば、国を巡らで、よもあらじ。国をば、なんぼう巡つた」と、お問ひある。後藤左衛門は、承り、「さん候。きらひ高麗(こうらい)、唐(とう)へは二度渡る。日本は、旅三度巡つた」と申すなり。小栗、このよし聞こしめし、まづ実名(じつみょう)をお問ひある。「高麗では、かめがへの後藤、都では、三条室町の後藤、相模の後藤とは、それがしなり。後藤名字(みょうじ)の、ついたる者、三人ならでは、御ざない」と、ありのままにぞ申すなり。小栗、このよし聞こしめし、「姿かたちは、卑しけれども、心は、春の花ぞかし。小殿原(ことのばら)、酒一つ」との、御諚(ごじょう)なり。御酌(おしゃく)に立つたる、小殿原、小声立つて申すやう、「なう、いかに、後藤左衛門、これなる君には、いまだ定まる御台所(みだいどころ)の御ざなければ、いづくにも、みめよき、稀人(まれびと)のあるならば、仲人(なこうど)申せ。よき御引(おひ)き」との、御諚なり。

        第四
 後藤左衛門、「存ぜぬと申せば、国を巡つたかひもなし。ここに、武蔵、相模、両国の郡代(ぐんだい)に、横山殿と申すは、男子(なんし)の子は、五人まで御ざあるが、乙(おと)の姫君御ざなうて、下野(しもつけ)の国、日光山に詣り、照る日月に、申子をなされたる、なにか六番目の、乙の姫のことなれば、御名をば、照手(てるて)の姫と申すなり。この照手の姫の、さて姿かたち、尋常さよ。姿を申さば春の花、かたちを見れば秋の月、じつぱら十(とう)の指までも、瑠璃をのべたるごとくなり。丹果(たんか)のくちびる、あざやかに、笑(え)める歯茎の尋常さよ。翡翠の髪(かん)ざし、黒うして、長ければ、青黛(せいたい)の立板(たていた)に、香炉木(こうろぎ)の墨を磨(す)り、さつと書けたるごとくなり。太液(たいえき)に比ぶれば、なほも、柳は強(こは)かりけり。池の蓮(はちす)の朝露に、露うち傾(かたぶ)くも、及ぶも及ばざりけりや。あつぱれ、この姫こそ、この御所中の定まるお御台(みだい)ぞ」と、言葉に花を咲かせつつ、弁説たつしてぞ申すなり。
 小栗こそ小栗こそ、はや見ぬ恋にあこがれて、「仲人申せや、商人(あきびと)」と、黄金(こがね)十両取り出だし、「これは当座のお引きなり。このこと、叶うてめでたくば、勲功は、望みにより、御ほうび」とこそは、仰せける。後藤左衛門は、承り、「位の高き御人の、仲人、申さうなんどとは、心多いとは、存ずれど、へんへん申すくらゐにて、言の葉召され候へ」と、料紙、硯を参らする。小栗、なのめに思しめし、紅梅檀紙(こうばいだんし)の、雪の薄様(うすよう)、一重(ひとかさね)、ひき和らげ、逢坂(おうさか)山の、鹿の蒔絵の筆なるに、紺瑠璃(こんるい)の墨、たぶたぶと含ませ、書観(しょかん)の窓の明かりを受け、思ふ言(こと)の葉を、さも尋常(じんじょう)やかに、あそばいて、山形様(やまがたよう)ではなけれども、まだ待つ恋のことなれば、まつかはに、ひき結び、「やあいかに、後藤左衛門、玉章(たまずさ)頼む」との御諚なり。後藤左衛門、「承つて御ざある」と、つづらの懸子(かけご)に、とつくと入れ、連尺(れんじゃく)、つかんで、肩に掛け、天や走る、地やくぐると、おいそぎあれば、ほどもなく、横山の館(たち)に駈け着くる。その身は、下(しも)落ちに腰を掛け、つづらの懸子に、薬の品々、すつぱと積み、乾(いぬい)の局(つぼね)に、さしかかり、「なに紙か板の御用、紅(べに)や、白粉(うしろい)、畳紙(たとうがみ)、御匂(におい)の、道具にとりては、沈(じん)、麝香(じゃこう)、三種(みくさ)、蝋茶(らつちや)と、沈香(じんこう)の御用」なんどと、売つたりける。
 冷泉(れいぜん)殿に、侍従殿、丹後の局(つぼね)に、あかうの前(まい)、七八人御ざありて、「あらめづらしの商人(あきびと)や。いづかたから、渡らせたまふぞ。なにもめづらしき、商ひ物はないか」と、お問ひある。後藤左衛門、承り、「なにもめづらしき、商ひ物も御ざあるが、これよりも、常陸の国、小栗殿の、裏辻にて、さも尋常やかにしたためたる、落とし文(ぶみ)、一通拾ひ持つて、御ざあるが、いくらの文(ふみ)を、見まゐらせて候へども、かやうな、上書(うわがき)の、尋常やかな文(ふみ)は、いまだ初めなり。承れば、上臈(じょうろう)様、古今(こきん)、万葉、朗詠の、歌の心でばし御ざあるか。よくば御手本にもなされ、悪しくば引き破り、御庭の笑ひ草にも、なされよ」と、謀(たばか)り、文を参らする。女房たちは、謀(たばか)る文とは御存じなうて、さつと広げて、拝見ある。「あらおもしろと、書かれたり。上(かみ)なるは月か、星か、中は花、下には雨、霰と書かれたは、これはただ、心、狂気、狂乱の者か。筋道に、ないことを、書いたよ」と、一度にどつと、お笑ひある。七重八重、九(ここの)のま(へカ)の、幔(まん)の内に御ざある、照手の姫は、聞こしめし、中(なか)の間(ま)まで、忍び出でさせたまひ、「なういかに、によはう(にようばうカ)たち、なにを、笑はせたまふぞや。をかしいことのあるならば、みづからにも、知らせい」との御諚なり。女房たちは聞こしめし、「なにも、をかしいことはなけれども、これなる商人が、常陸の国、小栗殿の、裏辻にて、さも尋常やかにしたためたる、落とし文一通、拾ひ持つたと申すほどに、拾ひ所、心にくさに、広げて、拝見申せども、なにとも、読みが、下(くだ)らず。これこれ御覧候へ」と、もとのごとくに、おし畳み、御扇(みおうぎ)に据ゑ申し、照手の姫にと、奉る。

        第五
 照手このよし、御覧じて、まづ上書きを、お褒めある。「天竺にては、大聖文殊(だいしょうもんじゅ)、唐土(とうど)にては、善導和尚、わが朝(ちょう)にては、弘法大師の御手ばし、習はせたまふたか。筆の立て所(ど)の、尋常さよ。墨つきなんどの、いつくしや。にほひ、心ことばの、及ぶも、及ばざりけりや。文主(ふみぬし)、たれと知らねども、文にて人を、死なすよ」と、まづ上書きを、お褒めある。「なういかに、女房たち、百様(ひゃくよう)を知りたりとも、一様を知らずばの、知つて知らざれよ。争ふことのありそとよ。知らずば、そこで聴聞(ちょうもん)せよ。さてこの文(ふみ)の、訓の読みして聞かすべし」。文の紐をお解きあり、さつと広げて、拝見ある。「まづ一番の筆立てには、細谷川(ほそたにがわ)の、丸木橋とも書かれたは、この文、中(ちゅう)にて、止めなさで、奥へ通(とお)いてに、返事申せと、読まうかの。軒の忍(しのぶ)と、書かれたは、たうちうのくれほどに、つゆ待ちかぬると、読まうかの。野中の清水と、書かれたは、このこと、人に知らするな、心の中(うち)で、ひとりすませと、読まうかの。沖漕ぐ舟とも、書かれたは、恋ひ焦がるるぞ、いそいで着けいと、読まうかの。岸うつ波とも、書かれたは、くづれて、ものや思ふらん。塩屋の煙(けぶり)と、書かれたは、さて浦か(かぜカ)吹くならば、一夜(いちや)はなびけと、読まうかの。尺ない帯と、書かれたは、いつか、この恋成就して、結び合はうと、読まうかの。根笹に霰と、書かれたは、触(さわ)らば、落ちよと、読まうかの。二本(ふたもと)すすきと、書かれたは、いつかこの恋、穂に出でて、乱れ合はうと、読まうかの。三(み)つの御山と、書かれたは、申さば、叶へと、読まうかの。羽ない鳥に、弦(つる)ない弓と、書かれたは、さてこの恋を、思ひそめ、立つも立たれず、射るも射られぬと、読まうかの。さて奥までも、読むまいの、ここに一首の、奥書あり。恋ゆる人は、常陸の国の、小栗なり。恋ひられ者は、照手なりけり。あら、見たからずの、この文や」と、二つ三つに引き破り、御簾(みす)より外(そと)へ、ふはと捨て、簾中(れんちゅう)深く、お忍びある。
 女房たちは、御覧じて、「さてこそ申さぬか、これなる商人が、大事の人に、頼まれて、文の使ひを申すは。番衆(ばんしゅ)はないか。あれはからへ」との、御諚なり。後藤左衛門は、承り、すはしだいたとは、思へども、夫(おっと)の心と、内裏の柱は、大きても太かれと、申す譬への御ざあるに、ならぬまでも、威(おど)いてみばやと、思ひつつ、連尺つかんで、白州に投げ、その身は、広縁に踊り上がり、板踏み鳴らし、観経(かんぎょ)を引いて威されたり。「なうなういかに、照手の姫、今の文をば、なにとお破りあつて御ざあるぞ。天竺にては、大聖(だいしょう)文珠、唐土(とうど)にては、善導和尚(かしょう)、わが朝(ちょう)にては、弘法大師の御筆(ふで)は、しめの筆の手なれば、一字破れば、仏一体、二字破れば、仏二体、今の文をば、お破りなうて、弘法大師の二十(はたち)の指を、食ひさき、引き破つたにさも似たり。あら恐ろしの、照手の姫の、後(のち)の業(ごう)は、なにとなるべき」と、板踏み鳴らし、観経(かんぎょ)を引いて、威(おど)いたは、これやこの、檀特山(だんどくせん)の、釈迦仏(ほとけ)の御説法とは申すとも、これには、いかでまさるべし。
 照手、このよし聞こしめし、はやしをしをと、おなりあり、「武蔵、相模、両国の、殿原たちの方(かた)からの、いくらの玉章(たまずさ)の、通(かよ)ひたも、これも食ひさき、引き破りたが、照手の姫が、後(のち)の業(ごう)となろか、悲しやな。ちはやぶるちはやぶる神も、鏡で御覧ぜよ。知らぬ間(あいだ)をば、お許しあつて、たまはれの。さてこのことが、明日(あす)は、父横山殿、兄殿原たちにもれ聞こえ、罪科に、行はるると申しても、力及ばぬ次第なり。今の文の、返事申さうよの、侍従殿」。侍従、このよし承り、「その儀にて御ざあらば、玉章召され候へ」と、料紙、硯を参らする。照手、なのめに思しめし、紅梅檀紙、雪の薄様、一重(ひとかさね)、ひき和らげ、逢坂山の鹿の蒔絵の筆なるに、紺瑠璃(こんるい)の墨、たぶたぶと含ませて、書観の窓の明かりを受け、わが思ふ言の葉を、さも尋常やかに、あそばいて、山形様(よう)ではなけれども、まだ待つ恋のことなれば、まつかは様(よう)に引き結び、侍従殿にとお渡しある。侍従、この文受け取つて、「やあ、いかに後藤左衛門、これは先の玉章の御返事よ」と、後藤左衛門に給はるなり。後藤左衛門は、「承つて御ざある」と、つづらの懸子に、とつくと入れ、連尺つかんで、肩に掛け、天や走る、地やくぐると、いそがれければ、ほどもなく、常陸小栗殿にと、駈け着くる。
 小栗、このよし御覧じて、「やあ、いかに後藤左衛門、玉章の御返事は」との、御諚なり。後藤左衛門は、「承つて御ざある」と、御扇(みおうぎ)に据ゑ申し、小栗殿にと、奉る。小栗、このよし御覧じて、さつと広げて、拝見ある。「あらおもしろと書かれたり。細谷川に、丸木(まろき)橋の、その下で、ふみ、落ち合ふべきと、書かれたは、これはただ、一家一門は知らずして、姫一人の領承(りょうじょう)と見えてあり。一家一門は、知らうと知るまいと、姫の領承こそ、肝要なれ。はや、聟入りせん」との、詮議なり。御一門は、聞こしめし、「なう、いかに小栗殿、上方(かみがた)に変り、奥方には、一門知らぬ、その中へ、聟には取らぬと申するに、今一度、一門の御中(おんなか)へ、使者をお立て候へや」。小栗、このよし聞こしめし、「なに大剛の者が、使者まであるべき」と、究竟の、侍を、千人すぐり、千人のその中を、五百人すぐり、五百人のその中を、百人すぐり、百人のその中を、十人すぐり、われに劣らぬ、異国の魔王のやうなる、殿原たちを、十人召し連れて、「やあいかに、後藤左衛門、とてものことに、路次(ろし)の案内」と、仰せける。後藤左衛門は、「承つて御ざある」と、つづらをば、わが宿に預け置き、編笠、目深(まぶか)に、ひつ被(こ)うで、路次の案内をつかまつる。
 小高いところへ、さし上がり、「御覧候へ、小栗殿。あれなる、棟門(むねかど)の高い御屋形は、父横山殿の御屋形、これに見えたる、棟門の低いは、五人の公達の御屋形、乾(いぬい)の方(ほう)の、主殿造(しゅでんづく)りこそ、照手の姫の局(つぼね)なり。門内にお入りあらう、そのときに、番衆(ばんしゅう)、誰(た)そと、咎むるものならば、いつも参る、御客来(きゃくらい)を、存ぜぬかと、お申しあるものならば、さして咎むる人は御ざあるまじ。はや、これにて御暇(いとま)申す」とありければ、小栗このよし聞こしめし、かねての御用意のことなれば、砂金(しゃきん)百両に、巻絹(まきぎぬ)百疋(ひゃっぴき)、奥駒(おくごま)をあひ添へて、後藤左衛門に、引き出物(いでもの)給はるなり。後藤左衛門は、引き出物(でもの)を給はりて、喜ぶことはかぎりなし。
 十一人の殿原たちは、門内にお入(い)りある。番衆(ばんしゅ)、「誰(た)そ」と咎むるなり。小栗、このよし聞こしめし、大の眼(まなこ)に、角(かど)を立て、「いつも参る、御客来を、存ぜぬか」と、お申しあれば、咎むる人はなし。十一人の殿原たちは、乾の局に、移らせたまふ。小栗殿と姫君を、ものによくよく譬ふれば、神ならば、結ぶの神、仏ならば、愛染明王、釈迦大悲、天にあらば、比翼の鳥、偕老同穴(かいろうどうけつ)の語らひも、縁浅からじ。鞠(まり)、ひようとう、笛太鼓、七日七夜の吹き囃(はや)し、心、ことばも及ばれず。

        第六
 このこと、父横山殿にもれ聞こえ、五人の公達(きんだち)を、御前(まえ)に召され、「やあ、いかに、嫡子のいへつぐ、乾の方(かた)の主殿造りへは、初めての御客来のよしを申するが、なんぢは存ぜぬか」との御諚(ごじょう)なり。いへつぐ、このよし承り、「父御さへ、御存じなきことを、それがし、存ぜぬ」とぞ申すなり。横山、大きに、腹を立て、「一門知らぬ、その中へ、おし入りて、聟入りしたる、大剛(ごう)の者を、武蔵、相模、七千余騎を催して、小栗討たん」との詮議なり。いへつぐ、このよし承り、烏帽子の招(まねき)を、地につけて、涙をこぼいて申さるる。「なういかに、父の横山殿、これは譬へで御ざないが、鴨は寒(かん)じて、水に入(い)る、鶏、寒うて、木へ上(のぼ)る、人は滅びようとて、まへなひ心が、猛(たけ)うなる、油火(あぶらび)は、消えんとて、なほも光が増すとかの。あの小栗と申するは、天よりも降(ふ)り人の、子孫なれば、力は八十五人の力、荒馬乗つて、名人なれば、それに劣らぬ十人の殿原たちは、さて異国の魔王のごとくなり。武蔵、相模、七千余騎を催して、小栗討たうとなさるると、たやすう討つべきやうもなし。あはれ、父横山殿様は、御存じないよしで、婿にもお取りあれがなの。それをいかにと申するに、父横山殿様の、いづくへなりとも、御陣立ちとあらん、その折は、よき弓矢の方人(かたうど)で御ざないか。父横山殿」との教訓ある。横山、このよし聞こしめし、「今までは、いへつぐが、存ぜぬよしを申したが、悉皆許容(しっかいきょよう)と見えてある。見れば、なかなか腹も立つ。御前(おまえ)を立て」との、御諚なん(なりカ)。三男の三郎は、父御の、目の色を見申し、「道理かなや、父御様。それがしが、たくみ出だしたことの候。まづ、明日(あす)になるならば、婿と、しゆと(しうとカ)の、見参(げんぞう)とて、乾の局へ、使者をお立て候へや。大剛の者ならば、怖(お)めず、臆せず、憚らず、御出仕申さう、その折に、一献(いっこん)過ぎ、二献過ぎ、五献通りて、その後に、横山殿の、御諚には、『なにか、都の御客来、芸一つ』と、お申しあるものならば、それ、小栗が申さうやうは、『なにがしが芸には、弓か、鞠(まり)か、包丁か、力業(ちからわざ)か、早業か、盤の上の遊びか、とつくお好みあれ』と、申さう。そのときに、横山殿のお申しあらうは、『いやそれがしは、さやうのものには好かずして、奥よりも乗りにもいらぬ、牧出(まきい)での駒を、一匹持つて候(ぞう)。ただ一馬場(ひとばば)』と、御所望あるものならば、常の馬よと心得て、引き寄せ乗らう、その折に、かの鬼鹿毛(おにかげ)が、いつもの人秣(ひとまぐさ)を入るると心得、人秣、さ(衍カ)に食(は)むものならば、太刀も刀もいるまいの。父の横山殿」と申すなり。横山、このよし聞こしめし、「いしう、たくんだ、三男かな」と、乾の局へ、使者が立つ。
 小栗、このよし聞こしめし、上(かみ)よりお使ひを承らずとも、御出仕申さうと思うたに、お使ひを給はりて、めでたやと、膚には、青地の錦をなされ、かうまき(からまきカ)の直垂に、刈安様(かりやすよう)の水干に、玉の冠(かぶり)をなされ、十人の殿原たちも、都様(みやこよう)に、さも尋常やかに、出で立ちて、幕つかんで投げ上げ、座敷の体(てい)を、見てあれば、小栗、賞翫(しょうかん)と見えてあり。一段高う、左座敷にお直りある。横山八十三騎の人々も、千鳥掛けにぞ、並ばれたり。一献過ぎ、二献過ぎ、五献通りて、その後に、横山殿の御諚には、「なにか、都の御客来、芸を一つ」との、御所望なり。小栗、このよし聞こしめし、「なにがしが芸には、弓か、鞠か、包丁か、力業か、早業か、盤の上の遊びか、とつく、お好みあれ」との御諚なり。横山、このよし聞こしめし、「いやそれがしは、さやうのものには、好かずして、奥よりも、乗りにもいらぬ、牧出での駒、一匹持つて候。ただ一馬場』と、所望ある。小栗、このよし聞こしめし、ゐたる座敷を、ずんと立ち、厩(むまや)にこそは、お移りある。このたびは、異国の魔王、蛇(じゃ)に綱をつけたりとも、馬とだにいふならば、一馬場は、乗らうものをと思しめし、厩の別当、左近の尉(じょう)を、御前(まえ)に召され、四十二間(けん)の名馬の、その中(うち)を、あれかこれかと、お問ひある。「いやあれでもなし、これでもなし」。さはなくして、堰(いせき)(へだ)つて、八町の、萱野(かやの)を期して御供ある。
 左手(ゆんで)と右手(めて)の、萱原を、見てあれば、かの鬼鹿毛が、いつも食(は)み置いたる、死骨白骨、黒髪は、ただ算の乱(みだ)いたごとくなり。十人の殿原たちは御覧じて、「なういかに、小栗殿、これは、厩でなうて、人を送る野辺か」とぞ申さるる。小栗、このよし聞こしめし、「いやこれは、人を送る野辺にてもなし。上方(かみがた)に変り、奥方には、鬼鹿毛が、あると聞く。それがしが、おし入りて、聟入りしたが、科(とが)ぞとて、馬の秣(まぐさ)に、飼はうとする、やさしや」と、沖を、きつと御覧ある。かの鬼鹿毛が、いつもの人秣を、入るると心得、前掻きし、鼻嵐など、吹いたるは、鳴る雷(いかずち)のごとくなり。小栗、このよし聞こしめし、厩の体(てい)を、御覧ある。四町かひこめ、堀掘らせ、山出(だ)し、八十五人ばかりして、持ちさうなる、楠柱(くすのきばしら)を、左右(そう)に八本、たうたうと、より込ませ、真柱と見えしには、三抱(みかい)ばかりありさうなる、栗の木柱を、たうたうと、より込ませ、根引きにさせて、かなはじと、千貫(ちぬき)、枷(かせ)を、入れられたり。鉄(くろがね)の格子を張つて、貫(ぬ)きをさし、四方八つの鎖で、駒繋いだは、これやこの、冥土の道に聞こえたる、無間地獄の、構へとやらんも、これにはいかでまさるべし。
 小栗、このよし、御覧じて、愚人(ぐにん)、夏の虫、飛んで火に入る。笛に寄る、秋の鹿は、妻ゆゑに、さてその身を、果たすとは、今こそ、思ひは知られたれ。小栗こそ、奥方へ、妻ゆゑ、馬の秣にの、飼はれたなんどと、あるならば、都の聞(き)けいも、恥づかしや。是非をも、さらにわきまへず。十人の殿原たちは御覧じて、「なういかに、小栗殿。あの馬に召され候へや。あの馬が、御主(おしゅう)の小栗殿を、少しも服(ぶく)すると見るならば、畜生とは申すまい。鬼鹿毛が、平首(ひらくび)のあたりを、一刀(ひとかたな)づつ、恨み申し、さてその後は、横山の遠侍(とおさぶらい)へ駈け入りて、目釘を境に、防ぎ戦ひして、三途(さんず)の大河を、敵も味方も、ざんざめいて、手と手と組んで、御供申すものならば、なんの子細の、あるべきぞ」。われ引き出ださん、人引き出ださんと、ただ一筋に、思ひきつたる矢先には、いかなる天魔鬼神も、たまるべきやうは、さらになし。小栗、このよし聞こしめし、「あのやうな、大剛な馬は、ただ力業では、乗られぬ」と、十人の殿原たちを、厩の外へおし出だし、馬に宣命(せみょう)を、含めたまふ。「やあいかに、鬼鹿毛よ。なんぢも、生(しょう)ある、ものならば、耳を振り立て、よきに聞け。余(よ)なる馬と申するは、常の厩に、繋がれて、人の食(は)まする餌を食(は)うで、さて人に従へば、尊(たっと)い思案してらよ、さて門外に繋がれて、経念仏を、聴聞し、後生大事とたしなむに、さてもなんぞや、鬼鹿毛は、人秣を食むと、聞くからは、それは畜生の中での、鬼ぞかし。人も、生(しょう)あるものなれば、なんぢも、生あるものぞかし、生あるものが、生あるものを、服しては、さて後の世を、なにと思ふぞ、鬼鹿毛よ。それはともあれ、かくもあれ、よしこのたびは、一面目(ひとめんぼく)に、一馬場乗せてくれよかし。一馬場、乗するものならば、鬼鹿毛、死してのその後に、黄金御堂(こがねみどう)と、寺を立て、さて鬼鹿毛が、姿をば、真の漆で固めてに、馬をば、馬頭観音と、斎(いお)ふべし。牛は、大日如来の化身(けしん)なり。鬼鹿毛、いかに」と、お問ひある。人間は、見知り申さねど、鬼鹿毛は、小栗殿の額に、よねといふ字が、三行(みくだり)坐り、両眼に、瞳の四体御ざあるを、たしかに拝み申し、前膝をかつぱと折り、両眼より、黄なる涙をこぼいたは、人間ならば、乗れと言はぬばかりなり。小栗、このよし御覧じて、さては乗れとの志、乗らうものをと思しめし、厩の別当、左近の尉を御前に召され、「鍵くれい」との御諚なり。左近はこのよし承り、「なういかに小栗殿、この馬と申するは、昔繋いで、その後に、出づることがなければ、鍵とては、預からぬ」とこそは申しけれ。小栗、このよし聞こしめし、さあらば、馬に力のほどを、見せばやと思しめし、鉄(くろがね)の格子に、すがりつき、「えいやつ」とお引きあれば、錠、肘金(ひじがね)はもげにけり。閂(かんぬき)取つて、かしこに置き、文(もん)をばお唱へあれば、馬に、癖はなかりけり。左近の尉を御前に召され、「鞍、鐙(あぶみ)」と、お乞ひある。左近の尉は、「承つて、御ざある」と、余なる馬の金覆輪(きんぶくりん)に、手綱(たづな)二筋縒り合はせ、たうりやうの鞭を、相添へて、参らする。小栗、このよし御覧じて、「かやうなる、大剛の馬には、金覆輪は合はぬ」とて、当座の曲乗りに、肌背(はだせ)に乗りて、みせばやと、思しめし、たうりやうの鞭ばかり、お取りあつて、四方八つの鎖をも、一所(ひとところ)へおし寄せて、「えつやつ」と、お引きあれば、鎖も、はらりと、もげにけり。

        第七
 これを、手綱に縒り合はせ、まん中、駒にかんしと噛ませ、駒引つ立てて、褒められたり。「脾腹(ひばら)三寸に肉(しし)余つて、左右(そう)の面顔(おもか)に、肉(しし)もなく、耳小(ちい)さう分け入つて、八軸の御経を、二巻取つて、きりきりと、巻き据ゑたがごとくなり。両眼は、照る日月の燈明の、輝くがごとくなり。吹嵐(ふきあらし)は、千年経たる法螺の貝を、二つ合はせたごとくなり。須弥(しめ)の髪のみごとさよ、日本一の山菅(すげ)を、もとを揃へて、一鎌(ひとかま)刈つて、谷嵐に一揉(ひとも)み揉ませ、ふはとなびいたごとくなり。胴の骨の様態(ようだい)は、筑紫弓(つくしゆみ)のじやうはりが弦(つる)を恨み、ひと反(そ)り、反つたがごとくなり。尾は、山上の滝の水が、たぎりにたぎつて、たうたうと落つるがごとくなり。後ろの別足(べっそく)は、たうのしんとほんとはらりと落とし、盤の上に、二面並べたごとくなり。前脚の様態は、日本一の鉄(くろがね)に、有所(ありど)に、節(ふし)をすらせつつ、作りつけたるごとくなり。この馬と申すは、昔繋ぎて、その後に、出づることのなければ、爪は厚うて、筒高し。余なる馬が、千里を駈くるとも、この馬においては、つくべきやうはさらになし」。かやうに、お褒めあつて、厩の出(だ)し鞭(ぶち)、しつとと打ち、堀の船橋、とくりとくりと、乗り渡し、この馬が、進みに進みて、出づるやうを、ものによくよく譬ふるに、竜(りょう)が、雲を引き連れ、猿猴(えんこう)が、梢を伝ひ、荒鷲が、鳥屋(とや)を破つて、雉(きじ)に会ふがごとくなり。八町の、萱原(かやはら)を、さつくと出(だ)いては、しつとと止め、しつとと出(だ)いては、さつくと止め、馬の性(しょう)はよかりけり。十人の殿原たちは、あまりのことのうれしさに、五人づつ立ち分かれ、や声(ごえ)をあげてぞ、褒められたり。横山八十三騎の人々は、今こそ、小栗が、最期を見んと、われ先せんとは、進めども、「これはこれは」とばかりにて、もの言ふ人も、さらになし。
 三男の三郎は、あまりのことの、おもしろさに、十二格(こ)の、登梯(のぼりばし)を取り出だし、主殿の屋端(やはな)へさし掛けて、腰の御扇にて、これへこれへと、賞翫(しょうかん)ある。小栗、このよし御覧じて、とても乗る上、乗つてみせばやと、思しめし、四足を揃へ、十二格(こ)の登梯を、とつくりとつくりと、乗り上げて、主殿の屋端を、駈けつ、かへひつ(かへしつカ)、お乗りあつて、真逆様に、乗り降ろす。岩石(がんせき)降ろしの、鞭(ぶち)の秘所。いへつぐ、このよし見るよりも、四本がかりと、好まれたり。四本がかりの松の木へ、とつくりとくりと、乗り上げて、真逆様に、乗り降ろす。岨(そば)づたひの、鞭の秘所。障子の上に、乗り上げて、骨をも折らさず、紙をも破らぬは、沼渡しの、鞭の秘所。碁盤の上の、四つ立(だ)てなんども、とつくりとくりと、お乗りあつて、鞭の秘所、と申するは、立鼓(りゅうご)そうかう、蹴上げの鞭、あくりう、こくりう、せんたん、ちくるい、めのふの鞭。手綱の秘所と申するは、さしあひ、浮舟、浦の波、とんぼう返り、水車、鴫(しぎ)の羽(は)返し、衣被(きぬかずき)、ここと思ひし、鞭の秘所、手綱の秘所を、お尽くしあれば、名は、鬼鹿毛とは、申せども、勝(まさ)る、判官殿に、胴の骨をはさまれて、白泡(しらあわ)、噛(こ)うでぞ、立つたりけり。
 小栗殿はなけれど、裾の塵、うち払ひ、三抱(みかい)ばかりありさうなる、桜の古木(こぼく)に、馬引き繋ぎ、もとの座敷に、お直りある。「なう、いかに、横山殿。あのやうな、乗り下のよき馬が、あるならば、五匹も、十匹も、婿引出物に、給はれや。朝夕、口乗り和らげて、まゐらせう」と、お申しあれば、横山八十三騎の人々、なにもをかしいことはなけれども、苦(にが)り笑□といふものに、一度にどつと、お笑ひある。馬の法命(ほうみょう)や起るらん、小栗殿の御威勢やらん、三抱(みかい)ばかり、ありう(ママ)さうなる、桜の古木を根引きに、ぐつと引き抜いて、堀三丈を跳び越え、武蔵野に駈け出づれば、小山の動くがごとくなり。横山、このよし御覧じて、今は、都の御客来に、手擦(す)らいでは、かなはぬところと思しめし、「なういかに、都の御客来、あの馬、止めてたまはれや。あの馬が、武蔵、相模、両国に、駈け入るものならば、人種(ひとだね)とては、御ざあるまい」と、御諚なり。小栗、このよし聞こしめし、そのやうな、手に余つた馬をば、飼はぬが法とは申したうは候へども、それを申せば、なにがしの、恥辱なりと思しめし、小高い所へさし上がり、芝繋ぎといふ文(もん)を、お唱へあれば、雲を霞に、駈くるこの馬が、小栗殿の御前(まえ)に参り、諸膝(もろひざ)折つてぞ、敬うたり。小栗、このよし御覧じて、「なんぢは、豪儀(ごうぎ)をいたすよ」と、もとの御厩(みまや)へ、乗り入れて、錠肘金(じょうひじがね)を、とつくと下ろいてに、さてその後、照手の姫を、御供なされてに、常陸の国へ、お戻りあるものならば、末はめでたからうもの、また、乾の局に、移らせたまうたは、小栗、運命尽きたる、次第なり。
 横山八十三騎の人々は、一つ所へ、さし集まらせたまうてに、あの小栗と申するを、馬で殺さうとすれど、殺されず、とやせん、かくやせんと、思しなさるるが、三男の三郎は、後の功罪は、知らずして、「なういかに、父の横山殿。それがしが、今一つたくみ出だしたことの候。まづ明日になるならば、昨日の馬の、御辛労分(ごしんろうぶん)と、思しめし、蓬莱の山を、からくみ、いろいろの毒を集め、毒の酒を造り立て、横山八十三騎の、飲む酒は、初めの酒の酔ひが醒め、不老不死の薬の酒、小栗十一人に盛る酒は、なにか七ふつの、毒の酒を、お盛りあるものならば、いかに大剛の、小栗なればとて、毒の酒には、よも勝つまいの、父の横山殿」と、教訓ある。

        第八
 横山、このよし聞こしめし、「いしう、たくんだ、三男かな」と、乾の局に、使者が立つ。小栗殿は、一度の御使ひに、領承(りょうじょう)なし。二度の使ひに、御返事なし。以上御使ひは、六度立つ。七度の使ひには、三男の三郎殿の御使ひなり。小栗、このよし御覧じて、「御出仕申すまいとは、思へども、三郎殿の御使ひ、なによりもつて、祝着(しゅうちゃく)なり。御出仕申さう」と、お申しあつたは、小栗、運命尽きたる、次第なり。人は、運命、尽(つ)けうとて、智恵の鏡も、かき曇り、才覚の花も、散り失せて、昔が今に至るまで、親より、子より、兄弟より、妹背夫婦の、その中に、諸事のあはれをとどめたり。
 あらいたはしやな、照手の姫は、夫(つま)の小栗へ御ざありて、「なういかに、小栗殿。今当代(いまとうだい)の、世の中は、親が子を、謀(たばか)れば、子はまた親に、たてをつく。さても、昨日(きのう)の鬼鹿毛(おにかげ)に、お乗りあれとあるからは、御覚悟ないかの、小栗殿。さて明日の、蓬莱の山の、御見物、お止まりあつて、たまはれの。さて、みづからが、お止まりあれと、申するに、それに、御承引の、なきならば、夢物語を申すべし。さて、みづからどもに、さて、七代伝はつたる、唐(から)の鏡が御ざあるが、さてみづからが、身の上に、めでたきことのある折は、表が、正体(しょうだい)に、拝まれて、裏にはの、鶴と亀とが、舞ひ遊ぶ。中で、千鳥が、酌を取る。また、みづからが、身の上に、悪(あ)しいことのある折は、表も裏も、かき曇り、裏にて、汗をおかきある。かやうな、鏡で御ざあるが、さて過ぎし夜の、その夢に、天より鷲が舞ひ下がり、宙(ちゅう)にて、三(み)つに蹴割りてに、半分は、奈落をさして、沈み行く。中(なか)は微塵と、砕け行く。さて、半分の、残りたを、天に、鷲が掴(つか)うであると、夢に見た。第二度の、その夢に、小栗殿様の、常陸の国よりも、常に御重宝なされたる、九寸五分(ふん)の鎧通(よろいどおし)がの、はばきもとより、ずんと折れ、御用に立たぬと、夢に見た。第三度のその夢に、小栗殿様の、常に御重宝なされたる、村重藤(むらしげどう)の御弓も、これも、鷲が、舞ひ下がり、宙(ちゅう)にて、三つに蹴折りてに、本弭(もとはず)は、奈落をさして、沈み行く。中(なか)は微塵と、折れて行く。さて末弭(うらはず)の残りたを、小栗殿の、御ためにと、上野(うわの)が原に、卒塔婆に立つと、夢に見た。さて過ぎし夜(よ)の、その夢に、小栗十一人の殿原たちは、常の衣裳を召し替へて、白き浄衣(じょうえ)に様を変へ、小栗殿様は、葦毛(あしげ)の駒に、逆鞍(さかぐら)置かせ、逆鐙(さかあぶみ)を掛けさせ、後(あと)と先(さき)とには、御僧たちを、千人ばかり、供養して、小栗殿の、しるしには、幡(はた)、天蓋を、なびかせて、北へ北へと御ざあるを、照手あまりの悲しさに、跡を慕うてまゐるとて、横障(おうしょう)の、雲に隔てられ、見失うたと、夢に見た。さて、夢にだに、夢にさよ、心乱れて、悲しいに、自然この夢合ふならば、照手はなにとならうぞの。さて明日の、蓬莱の山の門出でに、悪しき夢では、御ざなきか。お止まりあつてたまはれの」。
 小栗、このよし聞こしめし、女が夢を見たるとて、なにがしの、出で申せとある所へ参らでは、かなはぬところと思しめし、されども気にはかかると、直垂の裾を結び上げ、夢違(ゆめちが)への文(もん)に、かくばかり、
  唐国(からくに)や、園(その)の矢先に、鳴く鹿も、ちが夢あれば、許されぞする
かやうに詠じ、小栗殿は、膚には青地の錦をなされ、かうまき(からまきカ)の直垂に、刈安色の水干(すいかん)に、わざと冠(かぶり)は召さずして、十人の殿原たちも、都様(みやこよう)に尋常やかに、出で立ちて、幕つかんで投げ上げ、もとの座敷にお直りある。横山八十三騎の人々も、千鳥掛けにぞ、並ばれたり。
 一献(こん)過ぎ、二献過ぎ、五献通れど、小栗殿は、「さて、それがしは、今日は来(き)の宮信仰、酒断酒(さかだんじゅ)」と申してに、盃のきようたいは、さらになし。横山、このよし御覧じて、ゐたる座敷を、ずんと立ち、あの小栗と申するは、馬で殺さうとすれど、殺されず、また酒で、殺さうとすれば、酒を飲まねば、詮もなし。とやせん、かくやせんと、思しなさるるが、「ここに、思ひ出だしたることの候」と、実(み)もない、法螺の貝を一対、取り出だし、碁盤の上に、だうと置き、「御覧候へ、小栗殿。武蔵と、相模は、両輪(りょうわ)のごとく、武蔵なりとも、相模なりとも、この貝飲(かいの)みに入れて、半分、おし分けて、参らすべし。これを肴となされ、ひとつ、聞こしめされ候へや。今日の来の宮信仰、酒断酒は、なにがしが、負ひ申す」と、立つて、舞をぞ舞はれける。小栗、このよし御覧じて、なにがしがなにがしに、所領を添へて、給はる上、なんの子細のあるべきと、ひとつたんぶと、控へたまへば、下(しも)も次第に通るなり。横山、このよし御覧じて、よき隙間よと、心得てに、二口、銚子ぞ、出でたりけり。中に隔ての酒を入れ、横山八十三騎の飲む酒は、初めの酒の、酔(え)ひが醒め、不老不死の薬の酒、小栗十一人に盛る酒は、なにか七ぶすの、毒の酒のことなれば、「さて、この酒飲むよりも、身にしみじみと沁むよさて、九万九千の毛筋穴、四十二双(そう)の折骨(おりぼね)や、八十双の番(つがい)の骨までも、離れて行けと、沁むよさて、はや、天井も、大床(おおゆか)も、ひらりくるりと、舞ふよさて、これは毒ではあるまいか、御覚悟あれや、小栗殿。君の奉公は、これまで」と、これを最期の言葉にし、後ろの屏風を、便りとし、後ろへどうと、転ぶもあり、前へかつぱと伏すもあり。小栗殿、左手(ゆんで)と、右手(めて)とは、ただ将棋を、倒いたごとくなり。まだも小栗殿様は、さて大将と見えてある。刀の柄に手を掛けて、「なういかに、横山殿。それ憎い弓取りを、太刀や刀は、いらずして、寄せ詰め、腹を切らせいで、毒で殺すか、横山よ。女業(おんなわざ)な、な召されそ。出でさせたまへ。刺し違へて、果たさん」と、抜かん、斬らん、立たん、組まん、とは、なさるれど、心ばかりは、高砂の松の緑と、勇めども、次第に毒が、身に沁めば、五輪五体が、離れ果て、さて今生(こんじょう)へと行く息は、屋棟(やむね)を伝ふささぐもの、糸引き棄つるがごとくなり。さて冥途へと、引く息は、三つ羽(ば)の征矢(そや)を射るよりも、なほも速うぞ覚えたり。冥途の息が、強ければ、惜しむべきは、年のほど、惜しまるべきは、身の盛り、御年積もり、小栗、明け二十一を、一期(いちご)となされ、朝(あした)の露とおなりある。横山、このよし、御覧じて、今こそ、気は散じたれ。これも名ある、弓取りなれば、博士(はかせ)をもつて、お問ひある。博士、参り、占ふやうは、「十人の殿原たちは、御主(おしゅう)にかかり、非法の死にの、ことなれば、これをば体を、火葬に召され候へや。小栗一人は、名大将のことなれば、これをば体を、土葬に召され候へ」と、占うたは、また小栗殿の、末繁盛とぞ、占うたり。横山、このよし聞こしめし、「それこそ、易(やす)き間(あいだ)ぞ」とて、土葬と火葬と、野辺の送りを早めてに、鬼王、鬼次、兄弟、御前(まえ)に召されて、「やあいかに、兄弟よ。人の子を殺いてに、わが子を殺さねば、都の聞(きけ)いもあるほどに、不便(ふびん)には思へども、あの照手の姫が、命をも、相模川や、おりからが淵に、石の沈めにかけてまゐれ、兄弟」との、御諚なり。
 あらいたはしや、兄弟は、なにとも、ものは言はずして、申すまいよの宮仕ひ、われ兄弟は、義理の前、身かき分けたる親だにも、背きなさるる世の中に、さあらば、沈めにかけばやと、思ひつつ、やすく諒承(りょうじょう)なされてに、照手の局へ御ざありて、「なういかに、照手様。さて夫(つま)の小栗殿、十人の殿原たちは、蓬莱の山の御座敷で、御生害(しょうがい)で御ざあるぞ。御覚悟あれや、照手様」。照手、このよし聞こしめし、「なにと申すぞ、兄弟は。時も時、折も折、間近う寄つて、もの申せ。さて夫(つま)の小栗殿、十人の殿原たちは、蓬莱の山の御座敷で、御生害と申すかよ。さても悲しの次第やな。さてみづからが、いくせのことを申したに、つひに御承引、御ざなうて、今の憂き目の悲しやな。みづから夢ほど、知るならば、蓬莱の山の、座敷へ参りてに、夫(つま)の小栗殿様の、最期に、お抜きありたる刀をば、心(こころ)もとへつき立てて、死出三途(しでさんず)の大川を、手と手と組んで、御供申すものならば、今の憂い目の、よもあらじ」。泣いつ、くどいつ、なさるるが、嘆くに、かひがあらばこそ。ちきり村濃(むらご)の御小袖、さて一重(ひとかさ)ね取り出だし、「やあいかに、兄弟よ。これは兄弟に、取らするぞ。おんないしうの、形見と見、思ひ出(だ)したる折々は、念仏申してたまはれの。唐(から)の鏡やの、十二の手具足(てぐそく)をば、うへの寺へ上げ申し、姫が亡き跡、問うてたまはれの。憂き世にあれば、思ひ増す。姫が末期を、早めん」と、

         第九
 手づから、牢輿(ろうごし)にな(めカ)さるれば、御乳(おち)や、乳母(めのと)やの、下(しも)の水仕(みずし)に至るまで、われも御供申すべし、われも御供申さんと、輿(こし)の轅(ながえ)に、すがりつき、みなさめざめとお泣きある。照手、このよし、聞こしめし、「道理かなや、女房たち。隣国他国の者にまで、馴るれば、名残(なごり)の惜しいもの。ましてや、御乳や乳母のことなれば、名残の惜しいも、道理かな。千万の命を、くれうより、沖がかつぱと、鳴るならば、今こそ、照手が最期よと、鉦鼓(しょうご)音づれ、念仏申してたまはれの。憂き世にあれば思ひ増す。姫が末期を、早めい」と、おいそぎあれば、ほどもなく、相模川にと、お着きある。
 相模川にも、着きしかば、小船一艘、おし下ろし、この牢輿を乗せ申し、押すや舟、漕ぐや舟、唐櫓(からろ)の音に驚いて、沖の鴎は、はつと立つ。渚(なぎさ)の千鳥は、友を呼ぶ。照手、このよし聞こしめし、「さて千鳥さへ、千鳥さよ、恋しき友をば、呼ぶものを、さてみづからは、たれを便りにと、をりからが淵へ、いそぐよ」と、泣いつくどいつなさるるが、おいそぎあれば、ほどもなく、おりからが淵にと、お着きある。をりからが淵にも、着きしかば、あらいたはしや、兄弟は、ここにや、沈めにかけん、かしこにてや、沈めにかけんと、沈めかねたるありさまかな。兄の鬼王が、弟の、鬼次を近づけて、「やあいかに、鬼次よ。あの牢輿の中(うち)なる、照手の姫の姿を、見まらひ(ひらカ)すれば、出づる日に、蕾(つぼ)む花のごとくなり。またわれら、両人が、姿を見てあれば、入る日に散る花の、ごとくなり。いざや、命を助けまゐらせん。命を助けたる、科(とが)ぞとて、罪科に行はるると申しても、力及ばぬ次第なり」。「その儀にて御ざあらば、命を助けてまゐらせん」と、後(あと)と先との、沈めの石を、切つて放し、牢輿ばかり、突き流す。陸(くが)にまします人々は、今こそ照手の最期よと、鉦鼓音づれ、念仏申し、一度に、わつと叫ぶ声、六月半ばのことなるに、蚊の鳴く声も、これにはいかでまさるべし。
 あらいたはしやな、照手の姫は、さて牢輿の中(うち)よりも、西に向かつて、手を合はせ、観音の要文(ようもん)に、かくばかり、「五逆生滅、しゆしゆしやうさい、一切衆生、即身成仏、よき島にお上げあつて、たまはれ」と、この文(もん)を、お唱へあれば、観音も、これをあはれと思しめし、風にまかせて、吹くほどに、ゆきとせが浦にぞ、吹き着くる。ゆきとせが浦の、漁師たちは、御覧じて、「いづかたよりも、祭りものして、流いたわ。見て、まゐれ」とぞ、申すなり。若き船頭たちは、「承つて御ざある」と、見まゐらすれば、「牢輿に、口がない」とぞ申すなり。太夫たちは、聞こしめし、「口がなくば、打ち破つて、見よ」とぞ申しける。「承つて御ざある」と、櫓櫂(ろかい)をもつて、打ち破つて見てあれば、中(なか)には、楊柳(ようりゅう)の、風にふけたるやうな、姫の一人、涙ぐみておはします。太夫たちは、これを見て、「さてこそ申さぬか、このほど、この浦に、漁のなかつたは、その女ゆゑよ。魔縁(まえん)、化生(けしょう)の者か、または竜神の者か、申せ申せ」と、櫓櫂をもつて打ちける。
 中(なか)にも、村君(むらぎみ)の太夫殿と申すは、慈悲第一の人なれば、あの姫、泣く声を、つくづくと聞き申し、「なういかに、船頭たち、あの姫の泣く声を、つくづくと聞くに、魔縁、化生の者でもなし、または竜神の者でもなし。いづくよりも、継母の仲の讒(ざん)により、流され姫と見えてあり。御存じのごとく、それがしは、子もない者のことなれば、末の養子と頼むべし。それがしに、給はれ」と、太夫は、姫を、わが宿に、御供をなされ、内の姥(うば)を近づけて、「やあいかに、姥。浜路(はまじ)よりも、養子の子を、求めてあるほどに、よく育(はごく)んでたまはれ」とぞ申しける。姥、このよしを聞くよりも、「なういかに、太夫殿。それ、養子子(ようしご)なんどと申するは、山へ行きては、木を樵(こ)り、浜へ行きては、太夫殿の、相櫓(あいろ)も押すやうなる、十七八な、童(わっぱ)こそ、よき末の養子なれと申せ。あのやうな、楊柳の、さて風にふけたるやうな姫をば、六浦(もつら)が浦の商人(あきびと)に、料足(りょうそく)、一貫文か、二貫文、やすやすとうち売るものならば、銭(せん)をば儲け、よき末の、養子にてあるまいか。太夫、いかに」と申すなり。太夫このよし承り、あの姥と申するは、子があればあると申し、なければないと申す。「御身のやうな、邪慳な姥と連れ合ひをなし、ともに魔道へ、堕(お)ちやうより、家、財宝は、姥の暇(いとま)に参らする」と、太夫と姫は、諸国修業と、志す。姥、このよしを聞くよりも、太夫を取り放いては、大事と思ひ、「なういかに、太夫殿。今のは、座興(じゃきょう)言葉で御ざある。御身も子もなし、みづからも子もない者の、ことなれば、末の養子と、頼むまいか。お戻りあれや、太夫殿」。太夫、正直人(しょうじきびと)なれば、お戻りあつて、わが身の能作(のうさ)とて、沖へ釣りにお出でありたる、後(あと)の間(ま)に、姥がたくむ謀叛ぞ、恐ろしや。「それ夫(おっと)と申すは、色の黒いに飽くと聞く。あの姫の色黒うして、太夫に、飽かせう」と思しめし、浜路へ御供申しつつ、塩焼く蜑(あま)へ追ひ上げて、生松葉(なままつば)を、取り寄せて、その日は一日、ふすべたまふ。あらいたはしやな、照手様、煙(けぶり)の目口へ入るやうは、なにに譬へんかたもなし。なにか、照る日月の申子のことなれば、千手観音の、影身(かげみ)に添うて、お立ちあれば、そつとも、煙うはなかりけり。日も暮方になりぬれば、姥は、「姫降りよ」と見てあれば、色の白き花に、薄墨(うすずみ)さいたるやうな、なほも美人の姫と、おなりある。姥、このよしを見るよりも、「さてみづからは、今日は、実なしぼね折つたることの、腹立ちや。ただ売らばや」と思ひつつ、六浦(もつら)が浦の商人(あきびと)に、料足二貫文に、やすやすとうち売つて、「銭(ぜに)をば儲け、胸の炎(ほむら)は止(よ)うであるが、太夫の前の言葉に、はつたと、ことを欠いたよ。げにまこと、昔を伝へて聞くからに、七尋(なないろ)の島に、八尋(やいろ)の舟を繋ぐも、これも女人の智恵、賢い物語申さばや」と、待ちゐたり。太夫は、釣りからお戻りあつて、「姫は姫は」とお問ひある。姥、このよしを聞くよりも、「なういかに、太夫殿、今朝、姫は御身の跡を慕うて、参りたが、若き者のことなれば、海上へ、身を入れたやら、六浦(もつら)が浦の商人が、舟にも乗せて行きたやら、思ひも恋もせぬ姥に、思ひをかくる、太夫や」と、まづ姥は、そら泣きこそは、始めける。太夫、このよし承り、「なういかに、姥。心(しん)から悲しうて、こぼるる涙は、九万九千の、身の毛の穴が、潤ひわたりてこぼるる。御身の涙のこぼれやうは、六浦が浦の商人に、料足、一貫文か、二貫文に、やすやすとうち売つて、銭をば、儲け、首より空(そら)の、憂ひの涙と見てあるが、やはか、太夫が目が、眇(すがめ)か。御身のやうな、邪慳な人と、連れ合ひをなし、ともに、魔道へ、堕ちようより、家、財宝は、姥の暇(いとま)に、参らする」と、太夫は、元結(もとい)切り、西へ投げ、濃き墨染に様(さま)を変え、鉦鼓(しょうご)を取りて、首に掛け、山里へ閉ぢこもり、後生大事と、お願ひあるが、みな人これを御覧じて、村君の太夫殿を、褒めぬ人とて、さらになし。
 これは太夫殿御物語。さておき申し、ことにあはれをとどめたは、六浦が浦に御ざある、照手の姫にて、諸事のあはれを、とどめけり。あらいたはしやな、照手の姫を、六浦が浦にも買ひ止めず、釣竿の島にと、買うて行く。釣竿の島の商人が、価(あたい)が増さば、売れやとて、鬼が塩谷(しおや)に、買うて行く。鬼の塩谷の商人が、価が増さば売れやとて、岩瀬、水橋(みずはせ)、六渡寺(ろくどうじ)、氷見(ひび)の町家(まちや)へ、買うて行く。氷見の町家の商人が、能がない、職がないとてに、能登の国とかや、珠洲(すず)の岬へ、買うて行く。

         第十
 あらおもしろの、里の名や、よしはら、さまたけ、りんかうし、宮の腰にも、買うて行く。宮の腰の商人(あきびと)が、価が増さば、売れよとて、加賀の国とかや、もとをりこまつへ、買うて行く。もとをりこまつの商人が、価が増さば、売れやとて、越前の国とかや、三国(みくに)の湊(みなと)へ、買うて行く。三国湊の商人が、価が増さば売れやとて、敦賀の津へも、買うて行く。敦賀の津の商人が、能がない、職がないとてに、海津(かいづ)の浦へ、買うて行く。海津の浦の商人が、価が増さば売れやとて、上り大津へ、買うて行く。上り大津の商人が、価が増すとて、売るほどに、商ひ物の、おもしろや、後(あと)よ、先よ、と売るほどに、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋(よろずや)の君の長(ちょう)殿の、代(しろ)を積もつて十三貫に、買ひ取つたはの、諸事のあはれと、聞こえたまふ。君の長は御覧じて、あらうれしの御(おん)ことや、百人の流れの姫を、持たずとも、あの姫一人、持つならば、君の長夫婦は、楽々と、過ぎやうことのうれしやと、一日二日(ひとひふつか)は、よきに、寵愛をなさるるが、ある日の、雨中のことなるに、姫を、御前(おまえ)に召され、「なういかに、姫、これの内には、国名(くにな)を呼うで、使ふほどに、御身の国を申せ」とぞ申すなり。照手、このよし聞こしめし、常陸の者とも申したや、相模の者とも申したや。ただ夫(つま)の古里(ふるさと)なりとも、名につけて、朝夕さ、呼ばれてに、夫(つま)に添ふ、心をせうと、思しめし、こぼるる涙のひまよりも、常陸の者との御諚(ごじょう)なり。君の長は聞こしめし、「その儀にてあるならば、今日より御身の名をば、常陸小萩とつくるほどに、明日にもなるならば、これよりも、鎌倉関東の、下(お)り上(のぼ)りの商人(あきびと)の、袖をも控へ、御茶の代はりをもお取りありて、君の長夫婦も、よきに育(はごく)んでたまはれ」と、十二単(ひとえ)を参らする。照手、このよし聞こしめし、「さては、流れを立ていとよ。今、流れを立つるものならば、草葉の陰に御ざあるの、夫(つま)の小栗殿様の、さぞや無念に思すらん。なにとなりとも申してに、流れをば立てまい」と思しめし、「なういかに、長殿様。さてみづからは、幼少で、二親(にしん)の親に過ぎ後れ、善光寺詣りを申すとて、路次(ろし)にて人が、かどはかし、あなたこなたと、売らるるも、内に悪い病(やもう)が御ざあれば、夫(おっと)の膚を触るればの、かならず、病が起こりて、悲しやな。病の重るものならば、値の下がらうは、一定(いちじょう)なり。値の下がらぬその先に、いづくへなりとも、お売りあつてたまはれの」。君の長は、聞こしめし、「二親の親に後れいで、一人の夫(おっと)に後れ、けいしん(けんしんカ)立つる女と見えてある。なにと、賢人立つるとも、手痛いことを、あてがふものならば、流れを立てさせう」と、思しめし、「なういかに常陸小萩殿、さて明日になるならば、これよりも、蝦夷(えぞ)、佐渡、松前(まつまい)に売られてに、足の筋を断ち切られ、日にて、一合の食を服(ぶく)し、昼は、粟の鳥を追ひ、夜は、魚・鮫(うおざめ)の餌(え)にならうか、十二単を、身に飾り、流れを立てうか、あけすけ好め、常陸小萩殿」との御諚なり。照手、このよし聞こしめし、「おろかなる長殿の御諚(ごじょう)やな。たとはば明日は、蝦夷、佐渡、松前に売られてに、足の筋を断ち切られ、日にて、一合の食を服し、昼は粟の鳥を追ひ、夜は魚・鮫の、餌になるともの、流れにおいては、え立てまいよの、長殿様」。君の長は聞こしめし、「憎いことを申すやな。やあいかに、常陸小萩よ、さてこれの内にはの、さて百人の流れの姫がありけるが、その下(しも)の水仕(みずし)はの、十六人して仕(つかまつ)る。十六人の下の水仕をば、御身一人して申さうか、十二単で、身を飾り、流れを立てうかの、あけすけ好まい、小萩殿」。照手、このよし聞こしめし、「おろかな長殿の御諚やな。たとはば、それがしに、千手観音の御手ほどあればとて、その十六人の下の水仕がの、みづから一人してなるものか。承れば、それも女人の諸職と、承る。たとはば、十六人の下の水仕は申すとも、流れにおいてはの、え立てまいよの、長殿様」。君の長は聞こしめし、「憎いことを申すやの。その儀にてもあるならば、下の水仕をさせい」とて、十六人の下の水仕をば、一度に、はらりと追ひ上げて、照手の姫に渡るなり。「下(くだ)る雑駄(ぞうだ)が五十匹、上る雑駄が五十匹、百匹の、馬が着いたは。糠(ぬか)を飼へ」。「百人の馬子どもの、足の湯、手水(ちょうず)、飯(はん)の用意、仕れ」。「十八町の野中なる、御茶の清水を上げさいの」。「百人の流れの姫の、足の湯、手水、御鬢(おびん)に参らい、小萩殿」。こなたへは、常陸小萩、あなたへは、常陸小萩と、召し使へども、なにか、照る日月の申子のことなれば、千手観音の、影身に添うてお立ちあれば、いにしへの十六人の、下の水仕より、仕舞(しまい)は、早う置いてある。あらいたはしや、照手の姫は、それをも、辛苦に思しなされいで、立ち居に、念仏を、お申しあれば、流れの姫は、聞こしめし、「年にも足らぬ女房の、後生大事と、たしなむに、いざや、醜名(しこな)をつけて、呼ばん」とて、常陸小萩を、ひきかへて、念仏小萩と、おつけある。あなたへは、常陸小萩よ、こなたへは、念仏小萩と、召し使ふほどに、賤(しず)が仕業(しわざ)の縄襷(なわだすき)、人に、その身をまかすれば、襷のゆるまる暇(ひま)もなし。御髪(おぐし)の黒髪に、櫛の歯の入(い)るべきやうも、さらになし。かかるもの憂き奉公を、三年(みとせ)が間、なさるるは、諸事のあはれと聞こえたまふ。
 これは、照手の姫の、御物語。さておき申し、ことに、あはれをとどめたは、冥途黄泉(めいどこうせん)に、おはします、小栗十一人の、殿原たちにて、諸事のあはれをとどめたり。閻魔大王様は御覧じて、「さてこそ申さぬか。悪人が参りたは。あの小栗と申するは、娑婆(しゃば)にありしそのときは、善と申せば遠うなり、悪と申せば近うなる、大悪人の者なれば、あれをば、悪修羅道(あくしゅらどう)へ、堕(おと)すべし。十人の殿原たちは、御主(おしゅう)にかかり、非法の死にの、ことなれば、あれをば、いま一度、娑婆へ戻いてとらせう」との御諚なり。十人の殿原たちは、承り、閻魔大王様へ御ざありて、「なういかに、大王様。われら十人の者どもが、娑婆へ戻りて、本望、遂(と)げうことは、難(かた)いこと。あの御主の、小栗殿を、一人、お戻しあつて、たまはるものならば、われらが本望まで、お遂げあらうは、一定(いちじょう)なり。われら十人の者どもは、浄土へならば、浄土へ、悪修羅道へならば、修羅道へ、科(とが)にまかせて、遣(や)りてたまはれの。大王様」とぞ申すなり。大王、このよし聞こしめし、「さてもなんぢらは、主(しゅう)に孝あるともがらや。その儀にてあるならば、さても末代の後記(こうき)に、十一人ながら、戻いてとらせう」と、思しめし、視る目とうせん、御前に召され、「日本(にっぽん)に体があるか、見てまゐれ」との御諚なり。承つて御ざあると、八葉(はちよう)の峯に上がり、にんは杖(じょう)といふ杖(つえ)で、虚空(こくう)を、はつたと打てば、日本は、一目に見ゆる。閻魔大王様へ参りつつ、「なういかに、大王様。十人の殿原たちは、御主にかかり、非法の死にのことなれば、これをば、体を火葬に仕り、体が御ざなし。小栗一人は、名大将のことなれば、これをば、体を土葬に仕り、体が御ざある。大王様」とぞ申すなり。大王、このよし聞こしめし、「さても、末代の後記に、十一人ながら、戻いてとらせうとは思へども、体がなければ、詮(せん)もなし。なにしに、十人の殿原たち、悪修羅道へは、堕すべし。われらが脇立ちに、頼まん」と、五体づつ、両の脇に、十王、十体と、お斎(いわ)ひあつて、今で、末世の衆生を、お守りあつておはします。

         第十一
 さあらば、小栗、一人を戻せと、閻魔大王様の自筆の御判(ごはん)を、お据ゑある。「この者を、藤沢の御上人の、明堂聖(めいどうひじり)の、一の御弟子(みでし)に渡し申す。熊野本宮、湯の峯に、お入れあつて、たまはれや。熊野本宮、湯の峯に、お入れあつて、たまはるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」と、大王様の、自筆の御判を、お据ゑある。にんは杖(じょう)といふ杖で、虚空を、はつたと、お打ちあれば、あらありがたの御ことや、築(つ)いて、三年(ねん)になる、小栗塚が、四方へ、割れてのき、卒塔婆は前へ、かつぱと転び、群烏(むらがらす)、笑ひける。藤沢の御上人(おしょうにん)は、なんとかたへ御ざあるが、上野(うわの)が原に、無縁の者があるやらん、鳶(とび)(からす)が笑ふやと、立ち寄り御覧あれば、あらいたはしや、小栗殿、髪は、ははとして、足手は、糸より細うして、腹は、ただ鞠を、括(くく)たやうなもの、あなたこなたを、這ひ回る。両の手を、おし上げて、もの書くまねぞしたりける。かせにやよひと書かれたは、六根かたは、など読むべきか。さてはいにしへの小栗なり。このことを、横山一門に、知らせては、大事と思しめし、おさへて、髪を剃り、形(なり)が、餓鬼に似たぞとて、餓鬼阿弥陀仏(がきあみだぶ)とおつけある。上人、胸札(むなふだ)を御覧ずれば、閻魔大王様の、自筆の御判をお据ゑある。「この者を、藤沢の御上人の、明堂聖の、一の御(み)弟子に渡し申す。熊野本宮、湯の峯にお入れありてたまはれや。熊野本宮湯の峯に、お入れありてたまはるものならば、浄土よりも、薬の湯を上げべき」と、閻魔大王様の、自筆の御判据わりたまふ。あらありがたやの御ことやと、御上人も、胸札に、書き添へこそはなされける。「この者を、一引(ひとひ)き引いたは、千僧供養、二(ふた)引き引いたは、万僧供養」と、書き添へをなされ、土車(つちぐるま)を作り、この餓鬼阿弥を乗せ申し、女綱男綱(めづなおづな)を打つてつけ、御上人も、車の手縄にすがりつき、えいさらえいと、お引きある。上野が原を、引き出だす。相模畷(なわて)を、引く折は、横山家中の、殿原は、敵(かたき)小栗を、え知らいで、照手のために、引けやとて、因果の車に、すがりつき、五町ぎりこそ、引かれける。末をいづくと問ひければ、九日峠は、これかとよ。坂はなけれど、酒匂(さかわ)の宿(しゅく)よ、をひその森を、えいさらえいと、引き過ぎて、はや、小田原に、入りぬれば、狭(せば)い小路に、けはの橋、湯本の地蔵と、伏し拝み、足柄、箱根は、これかとよ。山中(やまなか)三里、四つの辻、伊豆の三島や、浦島や、三枚橋を、えいさらえいと、引き渡し、流れもやらぬ、浮島が原、小鳥囀(さえず)る、吉原の、富士の裾野を、まんのぼり、はや富士川で、垢離(こり)を取り、大宮浅間(せんげん)、富士浅間(せんげん)、心しづかに、伏し拝み、ものをも言はぬ、餓鬼阿弥に、「さらばさらば」と、暇乞ひ、藤沢さいて、下らるる。檀那がついて、引くほどに、吹上(ふきあげ)六本松は、これとかよ。清見が関に、上がりては、南を、はるかに眺むれば、三保の松原、田子の入海(いりうみ)

         第十二
 袖師(しでし)が浦の、一つ松、あれも、名所か、おもしろや。音にも聞いた、清見寺(せいけんじ)、江尻の細道、引き過ぎて、駿河の府内(ふない)に、入りぬれば、昔はないが、今浅間(せんげん)、君の御出でに、冥加(みようが)なや。蹴上げて通る、鞠子(まりこ)の宿(しゅく)。雉(きじ)がほろろを、撃つのやの、宇津の谷(や)峠を、引き過ぎて、岡部畷(なわて)を、まんのぼり、松にからまる、藤枝の、四方に海はなけれども、島田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、七瀬(ななせ)、流れて、八瀬(やせ)落ちて、夜(よ)の間(ま)に、変る、大井川。鐘を、麓に、菊川の、月さしのぼす、小夜の中山、日坂(にっさか)峠を、引き過ぎて、雨降り流せば、路次悪(ろしわる)や、車に情けを、掛川の、今日はかけずの、掛川を、えいさらえいと、引き過ぎて、袋井畷(なわて)を、引き過ぎて、花は、見付(みつけ)の郷(ごう)に着く。あの餓鬼阿弥が、明日の命は知らねども、今日は池田の宿に着く。昔はないが、今切(いまきれ)の、両浦(りょううら)眺むる、潮見坂、吉田の今橋、引き過ぎて、五井(ごい)のこた橋、これとかや。夜(よ)はほのぼのと、赤坂の、糸繰りかけて、矢作(やはぎ)の宿(しゅく)。三河に掛けし、八橋の、蜘蛛手(くもで)にものや、思ふらん。沢辺に匂ふ、杜若(かきつばた)。花は咲かぬが、実は鳴海(なるみ)。頭護(とうご)の地蔵と、伏し拝み、一夜(いちや)の宿(やど)を、とりかねて、まだ夜は深き、星が崎、熱田の宮に、車着く。車の檀那御覧じて、かほど涼しき宮を、たれか、熱田とつけたよな。熱田大明神を、引き過ぎて、坂はなけれど、うたう坂、新しけれど、古渡(ふるわたり)、緑の苗を、引き植ゑて、黒田と聞けば、いつも頼もしの、この宿(しゅく)や。杭瀬川(くんぜがわ)の川風が、身に冷ややかに、沁むよさて、小熊(おおくま)河原を、引き過ぎて、おいそぎあれば、ほどもなく、土の車を、たれもただ、引くとは思はねど、施行(せんぎょう)車のことなれば、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋(よろずや)の、君の長(ちょう)殿の、門(かど)となり、なにたる因果の御縁やら、車が三日すたるなり。
 あらいたはしや、照手の姫は、御茶の清水を上げに御ざあるが、この餓鬼阿弥を御覧じて、くどきごとこそ、あはれなれ。「夫(つま)の小栗殿様の、あのやうな姿をなされてなりともよ、うき世に御ざあるものならば、かほどみづからが、辛苦を申すとも、辛苦とは思ふまいものを」と、立ち寄り、胸札を御覧ある。「『この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養』と、書いてある。さて、一日(ひとい)の車道(くるまみち)、夫(つま)の小栗の御ためにも、引きたやな。さて一日(ひとい)の車道、十人の殿原たちの御ためにも、引きたやな。二日引いたる車道、かならず、一日(ひとい)に戻らうに、三日の暇(ひま)の欲しさよな。よき御機嫌を、まもりてに、暇(ひま)、乞はばや」と、思しめし、君の長(ちょう)へ、御ざあるが、「げにや、まことに、みづからは、いにしへ、御奉公申ししときに、夫(つま)ないよしを申してに、今、夫(つま)の御ためと、申すものならば、暇(ひま)を給はるまい」と思しめし、「うき世に御ざの二親(にしん)の親に、もてないて、暇(ひま)乞はばや」と思しめし、また、長殿へ御ざありて、「なういかに、長殿様。門(かど)に御ざある、餓鬼阿弥が、さて胸札を見てあれば、『この者を、一引き引いたは、千僧供養、二引き引いたは、万僧供養』と、書いてある。さて、一日(ひとい)の、車道、父の御ために、引きたやな。さて、一日の、車道、母の御ために、引きたやな。二日引いたる車道、かならず、一日に戻らうに、情けに三日の暇を給はれの」。君の長は、聞こしめし、「さても、なんぢは、憎いことを申すよな。いにしへ、流れを立ていと申す、その折に、流れを、立つるものならば、三日のことは、さておいて、十日なりとも、暇取らせんが、烏(からす)の、頭が、白くなつて、駒に、角が、生(は)ゆるとも、暇においては、取らすまいぞ、常陸小萩」とぞ申すなり。照手、このよし聞こしめし、「なういかに、長(ちょう)殿様。これは譬へで、御ざないが、費長房(ひちょうぼう)、丁令威(ていれい)は、鵜の羽交(はがい)に宿を召す、達磨尊者のいにしへは、芦(あし)の葉に宿を召す、張博望(ちょうはくぼう)のいにしへは、浮木(うきぎ)に宿を召すとかや。旅は心、世は情け、さて、回船は、浦がかり、捨子は、村の育(はごく)みよ。木があれば、鳥も棲む、港があれば、舟も入(い)る。一時雨(ひとしぐれ)、一村雨の、雨宿り、これも百生(ひゃくしょう)の、縁とかや。三日の暇を給はるものならば、自然後の世に、君の長夫婦、御身の上に、大事のあらんその折は、ひき替り、みづからが、身替りになりとも、立ち申さうに、情けに、三日の暇を給はれの」。君の長は聞こしめし、「さてもなんぢは、やさしいことを申すやな。暇取らすまいとは思へども、自然後の世に、君の長夫婦が、身の上に、大事のあらん、その折は、ひき替り、身替りに立たうと申したる、一言(いちごん)の言葉により、慈悲に情けを、あひ添へて、五日の暇を取らするぞ。五日が、六日に、なるものならば、二親(にしん)の親をも、阿鼻無間劫(あびむげんごう)に、堕(おと)すべし。車を引け」とぞ申されける。
 照手、このよし、聞こしめし、あまりのことのうれしさに、徒歩(かち)や跣(はだし)で、走り出で、車の手縄に、すがりつき、一引き引いては、千僧供養、夫(つま)の小栗の御ためなり、二引き引いては、万僧供養、これは、十人の殿原たちの、おためとて、よきに回向(えこう)をなされてに、「承れば、みづからは、なりとかたちが、よいと聞くほどに、町や、宿(しゅく)や、関々で、徒名(あだな)取られて、かなはじと、また、長殿(ちょうどの)に、駈け戻り、古き烏帽子を、申し請け、さんての髪に、結びつけ、丈(たけ)と等(ひと)せの黒髪を、さつと乱いて、面(おもて)には、油煙(ゆえん)のすみを、お塗りあり、さて召したる小袖をば、裾を肩へと、召しないて、笹の葉に、幤(しで)をつけ、心は、ものに狂はねど、姿を、狂気にもてないて、引けよ、引けよ、子どもども、ものに、狂うてみせうぞと、姫が涙は、垂井(たるい)の宿(しゅく)。美濃と近江の、境なる、長競(たけくらべ)、二本杉、寝物語を、引き過ぎて、高宮(たかみや)川原に、鳴く雲雀、姫を問ふかよ、やさしやな。

         第十三
 御代(みよ)は、治まる、武佐(むさ)の宿(しゅく)、鏡の宿に、車着く。照手、このよし聞こしめし、人は鏡と言はば言へ、姫が心は、このほどは、あれと申し、これと言ひ、あの餓鬼阿弥(がきあみ)に、心の闇がかき曇り、鏡の宿(しゅく)をも、見も分かず。姫が裾に、露は浮かねど、草津の宿、野路、篠原を、引き過ぎて、三国一の、瀬田の唐橋を、えいさらえいと、引き渡し、石山寺の、夜の鐘、耳に聳えて、殊勝なり。馬場、松本を、引き過ぎて、おいそぎあれば、ほどもなく、西近江に隠れなき、上り大津や、関寺や、玉屋の門(かど)に、車着く。
 照手、このよし御覧じて、あの餓鬼阿弥に、添ひ馴れ申さうも、今夜ばかりと思しめし、別屋(べちや)に宿(やど)をも取るまいの、この餓鬼阿弥が車のわだてを、枕となされ、八声(やこえ)の鳥(とり)はなけれども、夜すがら泣いて、夜を明かす。五更(ごこう)の天も開(ひら)くれば、玉屋殿へ御ざありて、料紙、硯をお借りあり、この餓鬼阿弥が、胸札に、書き添へこそはなされけり。「海道(かいどう)七か国に、車引いたる人は多くとも、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋(よろずや)の君の長(ちょう)殿の、下水仕(しもみずし)、常陸小萩と言ひし姫、さて青墓の宿からの、上り大津や、関寺まで、車を引いて、まゐらする。熊野本宮、湯の峯に、お入(い)りあり、病本復(やまいほんぶく)するならば、かならず、下向には、一夜(いちや)の宿を参らすべし。かへすがへす」とお書きある。なにたる因果の御縁やら、蓬莱の山の御座敷で、夫(つま)の小栗に離れたも、この餓鬼阿弥と別るるも、いづれ思ひは、同じもの、あはれ、身がな、二つやれ。さて一つのその身は、君の長殿に、戻したや。さて一つのその身はの、この餓鬼阿弥が車も引いて、とらせたや。心は二つ、身は一つ。見送り、たたずんで御ざあるが、おいそぎあれば、ほどもなく、君の長殿に、お戻りあるは、諸事のあはれと聞こえける。
 車の檀那、出で来ければ、上り大津を引き出だす。関、山科(せきやましな)に、車着く。もの憂き旅に、粟田口、都の城(じょう)に、車着く。東寺、さんしや、四つの塚、鳥羽に、恋塚、秋の山、月の宿りは、なさねども、桂の川を、えいさらえいと、引き渡し、山崎、千軒、引き過ぎて、これほど狭(せば)き、この宿(しゅく)を、たれか、広瀬と、つけたよな。塵(ちり)かき流す、芥川、太田の宿を、えいさらえいと、引き過ぎて、中島や、三宝寺(さんぽうじ)の渡りを、引き渡し、おいそぎあれば、ほどもなく、天王寺に車着く。七不思議のありさまを、拝ませたうは候へども、耳も聞こえず、目も見えず、ましてや、ものをも申さねば、下向に、静かに拝めよと、阿倍野(あべの)五十町、引き過ぎて、住吉四社の大明神、堺の浜に、車着く。松は、植ゑねど、小松原、わたなべ、南部(みなべ)、引き過ぎて、四十八坂、長井坂、糸我(いとが)峠や、蕪(かぶら)坂、鹿瀬(ししがせ)を、引き過ぎて、心を尽くすは、仏坂、こんか坂にて、車着く。こんか坂にも、着きしかば、これから湯の峯へは、車道(くるまみち)の、嶮(けわ)しきにより、これにて、餓鬼阿弥を、お捨てある。大峯入りの、山伏たちは、百人ばかりざんざめいて、お通りある。この餓鬼阿弥を御覧じて、「いざ、この者を、熊野本宮湯の峯に入れて、とらせん」と、車を捨てて、籠を組み、この餓鬼阿弥を入れ申し、若先達(わかせんだつ)の背中に、むんずと、負ひたまひ、上野(うわがの・ママ)原を、うつ立ちて、日にち積もりて、見てあれば、四百四十四か日と申すには、熊野本宮湯の峯に、お入(い)りある。なにか愛洲(あいす)の湯のことなれば、一七(いちしち)日、お入(い)りあれば、両眼が明き、二七(にしち)日、お入(い)りあれば、耳が聞こえ、三七(さんしち)日、お入(い)りあれば、はやものをお申しあるが、以上、七七(なななな)日と申すには、六尺二分(ぶん)、豊かなる、もとの小栗殿とおなりある。
 小栗殿は、夢の覚めたる心をなされ、熊野三山、三(み)つの御山(おやま)を御にうたうなさるるが、権現、このよし御覧じて、「あのやうな大剛の者に、金剛杖を買はせずば、末世の衆生(しゅじょう)に、買ふ者はあるまい」と、山人(やまびと)と身を変化(へんげ)、金剛杖を二本お持ちあり、「なういかに、修行者、熊野へ詣つたるしるしには、なにをせうぞの。この金剛杖をお買ひあれ」との御諚(ごじょう)なり。小栗殿は、いにしへの威光が、失せずして、「さて、それがしは、海道七か国を、さて餓鬼阿弥と呼ばれてに、車に乗つて、引かれただに、世に無念なと思ふに、金剛杖を買へとは、それがしを、調伏(ちょうぶく)するか」との御諚なり。権現、このよし聞こしめし、「いやさやうでは、御ざない。この金剛杖と申するは、天下にありし、その折に、弓とも、楯(たて)ともなつて、天下の、運、開く、杖なれば、料足なければ、ただとらする」と、のたまひて、権現は、二本の杖をかしこに捨て、かき消すやうにぞ、お見えない。小栗、このよし御覧じて、「今のは、権現様を、手に取り拝み申したることのありがたさよ」と、三度の礼拝(らいはい)をなされ、一本はついて、都に御下向なさるる。よそながら、父兼家殿の、屋形を、見て通らうと、思しめし、御門(ごもん)の内に、お入(い)りあり、「斎料(ときりょう)」とお乞ひある。時の番は、左近の尉(じょう)が仕(つかまつ)る。左近はこのよし見るよりも、「なういかに、修行者、御身のやうな修行者は、この御門の内へは、禁制(きんぜい)なり。とうお出であれ。とうお出でないものならば、この左近の尉が、出だすべし」と、持つたる、箒(ほうき)で、打ち出だす。小栗、このよし御覧じて、「憎(にく)の左近が打つよな。打つも道理、知らぬも道理」と、思しめし、八町の原をさして、お出である。
 折しも東山の伯父御坊は、花縁行道(はなえんぎょうどう)をなされて御ざあるが、今の修行者を御覧じて、

         第十四
兼家殿の御台所(みだいどころ)を近づけて、「いかに、御台所。われら一門にばかり、額(ひたい)には、よねといふ字が、三行(みくだり)坐り、両眼に、瞳の四体(したい)御ざあるかと思へば、今の修行者にも御ざありたる。ことに今日は、小栗が命日では御ざないか。呼び戻し、斎料、参らせ候へや。左近の尉」との御諚なり。左近は、このよし、「うけたはつて(うけたまはつてカ)御ざある」と、ちりちりと走り出で、「なういかに、修行者、お戻りあれ。斎料参らせう」とぞ申されける。小栗殿は、いにしへの威光が、失せずして、「さてそれがしは、一度追ひ出(だ)いた所へは、参らぬが、法」との御諚なり。左近はこのよし、承り、「なういかに、修行者。御身の、さうして、諸国修行をなさるるも、一つは人をも助けう、または御身も助かりたいと、お申しあることにては御ざないか。今御身のお戻りなければ、この左近は、生害(しょうがい)に及ぶなり。お戻りあつて、斎料もお取りあり、この左近が命も、助けてたまはれの、修行者」とぞ申すなり。小栗、このよし聞こしめし、名のらばやと思しめし、大広庭に、さしかかり、間(あい)の障子を、さらと明け、八分(ぶん)の頭(こうべ)を、地につけて、「なういかに、母上様、いにしへの小栗にて御ざあるよ。三年(みとせ)が間の勘当を、許いてたまはれの」。御台(みだい)、なのめに思しめし、このこと、兼家殿に、かくとお語りある。
 兼家、このよし聞こしめし、「卒爾(そつじ)なことをお申しある御台かな。わが子の小栗と申すは、これよりも、相模の国横山の館(たち)にて、毒の酒にて、責め殺されたと申するが、さりながら、修行者、わが子の小栗と申するは、幼い折よりも、教へ来たる調法(ちょうほう)あり。御聊爾(りょうじ)ながら、受けて御覧候へ」と、五人張りに十三束(そく)、まちを拳(こぶし)に、間(あい)の障子のあなたから、よつ引(ぴ)きひようと、放す矢を、一(いち)の矢をば、右で取り、二の矢をば、左で取り、三の矢が、あまり間近く来るぞとて、向(む)か歯で、がちと噛みとめて、三筋の矢を、おし握り、間(あい)の障子を、さつと明け、八分(ぶん)の頭(こうべ)を、地につけて、「なういかに、父の兼家殿。いにしへの、小栗にて御ざあるぞ。三年(みとせ)が間の勘当、許いてたまはれ」。兼家殿も、母上も、一度(いちど)、死したる、わが子にの、会ふなんどとは、優曇華(うどんげ)の花や、たまさかや、例(ため)し少なき、次第ぞと、喜びの中(なか)にもの、花の車を、五輌飾りたて、親子連れに、御門(みかど)の御番にお参りある。
 御門、叡覧ましまして、「たれと申すとも、小栗ほどな、大剛の者は、よもあらじ。さあらば、所知を与へてとらせん」と、五畿内五か国の、永代(えいだい)の薄墨の御綸旨(りんじ)、御判を給はるなり。小栗、このよし御覧じて、「五畿内五か国に、欲しうも御ざない。美濃の国に、あひ替へてたまはれ」とぞ、申されける。御門、叡覧ましまして、「大国に小国を替へての、望み、思ふ子細のあるらん。その儀にてあるならば、美濃の国を、馬の飼料(かいりょう)に取らする」と、重ねての御判を給はるなり。小栗、このよし御覧じて、あらありがたの御ことやと、山海の珍物、国土の菓子を調へて、御喜びはかぎりなし。高札(たかふだ)書いて、お立てある。「いにしへの小栗に、奉公申す者あらば、所知に所領を取らすべし」と、高札書いて、お立てあれば、われも、いにしへの小栗殿の、奉公を申さん、判官殿(はんがんどの)に手の者と、なか三日がその間(あいだ)に、三千余騎と聞こえたる。三千余騎を、催して、美濃の国へ、所知入りとぞ、触れがなる。三日先の、宿札(やどふだ)は、君の長(ちょう)殿に、お打ちある。
 君の長は御覧じて、百人の流れの姫を、ひとつ所へ押し寄せ申し、「いかに流れの姫に申すべし。この所へ、都からして、所知入りとあるほどに、参り、うきなぐさみを申してに、いかなる、所知をも給はつて、君の長夫婦も、よきに育(はごく)んで、たまはれ」。十二単で、身を飾り、今よ、いらよ(いまよカ)と、お待ちある。三日と申すには、犬の鈴、鷹の鈴、轡(くつわ)の音が、ざざめいて、上下花やかに、悠々と出で立ちて、君の長殿にお着きある。百人の流れの姫は、われ一(いち)、われ一と参り、うきなぐさみを申せども、小栗殿は、少しもお勇みなし。君の長夫婦を御前に召され、「や(やあカ)いかに、夫婦の者どもよ、これの内の、下(しも)の水仕(みずし)に、常陸小萩と、言ふ者があるか。御酌に立てい」との、御諚なり。君の長は、「承つて御ざある」と、常陸小萩殿へ、お参りあつて、「なういかに、常陸小萩殿。御身のみめかたちいつくしいが、都の国司様へ漏れ聞こえ、御酌に立ていと、あるほどに、御酌に参らい」との御諚なり。照手、このよし、聞こしめし、「おろかな、長殿の御諚やな。いま御酌に、参るほどならば、いにしへの、流れをこそは、立てうずれ。御酌にとては、参るまい」とて申しける。君の長は聞こしめし、「なういかに、常陸小萩殿。さても御身は、うれしいことと、悲しいことは、早う忘るるよな。いにしへ、餓鬼阿弥と申して、車を引くその折に、暇取らすまいと、申してあれば、自然後の世に、君の長夫婦が、身の上に、大事のあらん、その折は、ひき替り、身替りに、立たんと申したる、一言(いちごん)の言葉により、慈悲に情けをあひ添へ、五日の暇を取らしてあるが、いま御身が御酌に参らねば、君の長夫婦の者どもは、生害に及ぶなり。なにとなりとも、はからひ申せ。常陸小萩」とぞ申しける。照手、このよし聞こしめし、一句の道理に詰められて、なにともものはのたまはで、「げにや、まことにみづからは、いにしへ、車を引いたるも、夫(つま)の小栗のおためなり。また今御酌に参るもの(のもカ)、夫の小栗の御ためなり。深き恨みな、な召されそ。変る心の、あるにこそ、変る心は、ないほどに」と、心の中(うち)に思しめし、「なういかに、長殿様。その儀にて御ざあらば、御酌に参らう」との御諚なり。君の長は、聞こしめし、「さても、うれしの次第やな。その儀にて、あるならば、十二単で、身を飾れ」とぞ申すなり。照手、このよし聞こしめし、「おろかな、長殿の御諚やな。流れの姫とあるにこそ、十二単もいらうずれ、下の水仕とあるからは、あるそのままで参らん」と、襷(たすき)がけの風情(ふぜい)にて、前垂れしながら、銚子を持つて、御酌にこそはお立ちある。
 小栗、このよし御覧じて、「常陸小萩とは、御身のことで御ざあるか。常陸の国にては、たれの御子ぞよ。お名のりあれの、小萩殿」。照手、このよし聞こしめし、「さてみづからは、主命(しゅうめい)にて、御酌にこそは、参りたれ。初めて御所(ごしょ)様と、懺悔(さんげ)物語には、参らぬよ。酌が、いやなら、待たうか」と、銚子を捨てて、御酌をこそは、お退(の)きある。小栗、このよし御覧じて、「げにも道理や、小萩殿。人の先祖を聞く折は、わが先祖を語るとよ。さて、かう申すそれがしを、いかなる者とや、思(おぼ)し候らん。さて、かう申すそれがしは、常陸の国の、小栗と申す者なるが、相模の国の、横山殿の、一人姫(ひとりひめ)、照手の姫を、恋にして、押し入つて、聟入りしたが、科(とが)ぞとて、毒の酒にて、責め殺されては御ざあるが、十人の殿原たちの、情けにより、黄泉(よみつ・よみじカ)帰りをつかまつり、さて餓鬼阿弥と呼ばれてに、海道七か国を、車に乗りて、引かるる、その折に、『海七か国に、車引いたる、人は多くとも、美濃の国、青墓(おうはか)の宿(しゅく)、万屋の君の長(ちょう)殿の、下水仕(しもみずし)、常陸小萩と、言ひし姫、さて、青墓の、宿からの、上り大津や、関寺までの、車を、引いてまゐらする。熊野本宮、湯の峯に、お入(い)りあり、病本復(やまいほんぶく)するならば、下向には、一夜の御宿を、参らすべしの。かへすがへす』と、お書きあつたるよ。胸の木札は、これなりと、照手の姫に、参らせて、この御恩賞の御ために、これまで、お礼に参りて、御ざあるぞ。常陸の国にては、たれの御子ぞよ。お名のりあれや、小萩殿」。照手、このよし聞こしめし、なにともものは、のたまはで、涙にむせておはします。「いつまでものを包むべし。さてかう申す、みづからも、常陸の者とは申したが、常陸の者では御ざないよ。相模の国の、横山殿の一人姫、照手の姫にて御ざあるが、人の子を殺いてに、わが子を殺さねば、都の聞けいもあるほどにと、思しめし、鬼王、鬼次、さて兄弟の者どもに、沈めにかけいと、お申しあつては御ざあるが、さて、兄弟の、情けによりて、かなたこなたと売られてに、あまりのことの、悲しさに、静かに、数へてみれば、四十五てんに、売られてに、この長殿に、買ひ取られ、いにしへ、流れを立てぬ、その科に、十六人して、仕る、下(しも)の水仕(みずし)を、みづから一人して、仕る。御身に会うて、うれしやな」。かき集めたる藻塩草(もしおぐさ)、したひ(しんたい(進退)カ)、ここにてに、是非をもさらにわきまへず。小栗、このよし聞こしめし、君の長夫婦を御前(まえ)に召され、「やあいかに、夫婦の者どもよ、人を使ふも、由(よし)によるぞや。十六人の下の水仕が、一人してなるものか。なんぢらがやうな、邪慳な者は、生害」との御諚なり。

         第十五
 照手、このよし聞こしめし、「なう、いかに小栗殿、あのやうな、慈悲第一の長(ちょう)殿に、いかなる所知をも、与へてたまはれの。それをいかにと申するに、御身のいにしへ、餓鬼阿弥と申してに、車を引いた、その折に、三日の暇を、乞ふたれば、慈悲に情けを、あひ添へて、五日の暇を給はつたる、慈悲第一の、長殿に、いかなる、所知をも、与へてたまはれの。夫(つま)の小栗殿」との御諚なり。小栗、このよし聞こしめし、「その儀にてあるならば、御恩の妻に、免ずる」と、美濃の国、十八郡(こおり)を、一色(いっしき)進退(しんたい)、総政所(そうまんどころ)を、君の長殿に、給はるなり。君の長は、承り、あらありがたの御ことやと、山海の珍物(ちんぶつ)に、国土の菓子を、調へて、喜ぶことはかぎりなし。君の長は、百人の流れの姫の、その中(なか)を、三十二人よりすぐり、玉の輿(こし)にとつて乗せ、これは、照手の姫の女房たちと、参らする。それ、女人と申するは、氏(うじ)無うて、玉の輿に乗るとは、ここの譬へを申すなり。
 常陸の国へ、所知入りをなされ、七千余騎を催して、横山攻めと、触れがなる。横山、あつとに、肝をつぶし、「いにしへの小栗が、蘇りを、つかまつり、横山攻めとあるほどに、さあらば、城廓を、構へよ」と、空堀(からぼり)に、水を入れ、逆虎落(さかもがり)、引かせてに、用心、きびしう、待ちゐたり。照手、このよし聞こしめし、夫(つま)の小栗へ、御ざありて、「なういかに、小栗殿。昔を伝へて、聞くからに、父の御恩は、七逆罪、母の御恩は、五逆罪、十二逆おん(ママ)を、得ただにも、それ悲しいと、存ずるに、今みづからが、世に出でたとて、父に弓をばの、え引くまいの、小栗殿。さて明日(みょうにち)の、横山攻めをば、お止まりあつてたまはれの。それが、さなうて、いやならば、横山攻めの、門出(かどい)でに、さてみづからを、害(がい)めされ、さてその後に、横山攻めはなされいの」。小栗、このよし聞こしめし、「その儀にてあるならば、御恩の妻に、免ずる」との御諚なり。照手、なのめに思しめし、その儀にてあるならば、夫婦の御仲ながら、御腹いせを申さんと、内証(ないしょう)を書きて、横山殿に、お送りある。横山、このよし御覧じて、さつと広げて、拝見ある。「昔が今に至るまで、七珍万宝(しっちんまんぽう)の数(かず)の宝より、わが子にましたる、宝はないと、今こそ思ひは知られたり。今はなにをか、惜しむべし」と、十駄の、黄金(こがね)に、鬼鹿毛の馬を、あひ添へて、参らする。これもなにゆゑなれば、三男の三郎がわざぞとて、三郎には七筋の縄をつけ、小栗殿にお引かせある。小栗、このよし御覧じて、恩な恩、仇(あたん)は仇(あたん)で、報ずべし。十駄の黄金をば、欲にしても、いらぬとて、黄金御堂(こがねみどう)と、寺を建て、さて、鬼鹿毛が姿をば、真の漆で、固めてに、馬をば、馬頭観音とお斎(いわ)ひある。牛は、大日如来、化身とお斎ひある。これもなにゆゑなれば、三男の三郎がわざぞとて、三郎をば、荒簀(あらす)に巻いて、西の海に、ひ(ふカ)し漬(づ)(柴漬ふしづけカ)にこそなされける。舌三寸のあやつりで、五尺のいの(いのちカ)を、失ふこと、悟らざりける、はかなさよ。それから、ゆきとせに、お渡りあり、売りそめたる、姥をば、肩から下(しも)を、掘り埋み、竹鋸で、首をこそは、お引かせある。太夫殿には、所知を与へたまふなり。
 それよりも、小栗殿、常陸の国へお戻りあり、棟(みね)に棟(みね)、門(かど)に門(かど)を建て、富貴万福(ふっきばんぷく)、二代の長者と、栄えたまふ。その後、生者(しょうじゃ)、必滅(ひつめつ)の習ひとて、八十三の御ときに、大往生を、とげたまへる。神や仏、一所(いっしょ)に集まらせたまひてに、かほどまで、真実に、大剛の弓取りを、いざや、神に斎(いわ)ひ籠め、末世の衆生に、拝ませんが、そのために、小栗殿をば、美濃の国、安八(あんぱち)の郡(こおり)、墨股(すのまた)、垂井おなことの、神体は、正八幡、荒人神と、お斎ひある。同じく、照手の姫をも、十八町(ちょう)(しも)に、契り結ぶの神と、お斎ひある。契り結ぶの神の御本地も、語り納むる、所も、繁盛、御代(みよ)もめでたう、国も豊かに、めでたかりけり。


  (注) 1.  上記の本文は、東洋文庫243『説経節 山椒太夫・小栗判官他』(1973年11月10日初版第1刷発行、1988年4月1日初版第15刷発行)によりました。編注者は、荒木繁・山本吉左右の両氏です。
 ただし、引用者が新潮日本古典集成『説経集』(室木弥太郎・校注、新潮社発行)、新日本古典文学大系90『古浄瑠璃 説経集』(信多純一、阪口弘之・校注、岩波書店発行)によって、東洋文庫本の本文を一部改めた箇所があります。
   
    2.  ここに掲げた『小栗判官』の底本については、御物絵巻『をくり』を底本にしたことについて、東洋文庫巻頭の凡例に、横山重氏が『説経正本集』に翻刻された本文をそのまま利用させていただいた、とあり、巻末の荒木繁氏の解説・解題に次のようにあります。
 「(小栗判官の)正本としては、太夫未詳『おぐり判官』(延宝年4月刊、正本屋五兵衛板)、佐渡七太夫豊孝正本『をくりの判官』(惣兵衛板)、その他の諸本があるが、このほかに注目すべきものとして、御物絵巻『をくり』と奈良絵本『おくり』がある。これらは、いずれも説経の正本から詞章を得ていると推定されるもので、とくに絵巻の詞書は小栗の説経の中でもっともくわしく、かつ古型を残している。また、その冒頭のへんは、ごく初期の人形操りの演出形態をあらわしている。(中略)このように考えて来ると、絵巻『をくり』の詞書は、操りにかけられた説経正本の正確な写しであることが、いよいよ確かめられて来る。本書ではこの絵巻の詞書を底本に採用することにした。」
   
    3.   上記の「小栗判官」は、古くは五説経の一つに数えられたものです。五説経については、東洋文庫巻末の荒木繁氏の解説・解題に次のようにあります。
 「説経節の中で、古来五説経として重んじられたものがある。『芸能辞典』(東京堂)によれば、古くは『苅萱』『俊徳丸』『小栗判官』『山椒太夫』『梵天国』を称したが、享保期になると、『苅萱』『山椒太夫』『愛護若』『信田妻』『梅若』を言うようになったとある。(中略)日暮小太夫の『おぐりてるてゆめ物かたり』という抜本があり、その柱記に「五せつきやう」とあるので、寛文の当時五説経という呼び名がすでに成立していたことが知られるのである。」(同書317頁) 
   
    4.   東洋文庫に収められている本文は、現代かなづかいに統一してあるのですが、ここでは引用者が、歴史的かなづかいに改めました。ただし、漢字の振り仮名は、現代かなづかいのままにしてあります。(歴史的仮名遣いに改めたのですが、一部正しい歴史的仮名遣いが想定できない箇所があり、正確な歴史的仮名遣いになっていないところがあります。この点、ご容赦ください。)
 また、東洋文庫の本文中、( )に入れてある訳語は、これを省略しました。東洋文庫本には、詳しい後注がついていますので、ご参照ください。
 また、東洋文庫本には、底本の311図の挿絵の中から24図が選んで挿入してありますが、ここではこれも全部省略しました。
 また、文中に施してある振り仮名も、引用者が不要と判断したものは省略してあります。
   
    5.   東洋文庫『説経節 山椒太夫・小栗判官他』の「小栗判官」にある、本文冒頭の「安八の郡、墨俣、垂井、おなこと」の注を、引用させていただきます。

 〇安八の郡、墨俣、垂井、おなこと……今の岐阜県南部。墨俣は安八郡に属しているが、垂井は不破郡に属している。「おなこと」は不詳。末尾にも同文があるが、その後に「同じく、照手の姫をも、十八町下に、契り結ぶの神と、お斎いある」とある。この契り結ぶの神は、『和漢三才図会』にも記されているように、安八郡結村(現、安八町内)の結神社(照天社ともいう)をさす。延宝3年板『おぐり判官』の冒頭には「ひたちの国とつはた村といふ所に、正八まんむすぶの神といわゝれておはします」とあって、これなら茨城県東茨城郡茨城町、鳥羽田(とっぱた)の竜含寺小栗堂をさす。茨城県には小栗照手ゆかりの寺社が多い。同県真壁郡協和町(引用者注:現築西市)の太陽寺、一向寺など。福田晃氏「小栗照手譚の生成(『国学院雑誌』昭40・11)参照。その他小栗照手伝説を伝える場所、寺社は多いが今は略す。(同書、257頁)
   
    6.   『をぐり』の諸本についての、新日本古典大系の解説(信多純一氏による)を引かせていただきます。
  諸本=底本は絵巻「をぐり」(15巻)、宮内庁三の丸尚蔵館蔵のもと御物。本文は説経正本によっていると思われ、現存本中もっとも完備し古形を有するが、それでも省略がある。すなわち、照天が青墓の長のところで七文で七色の買物を命じられる難題のくだりがない。清水を汲みに行くところにも省略が見られる。また土車で熊野までの道行も奈良絵本に比し省略が多い。さらに、熊野で神から二本の杖を授かるが、一本について記述が欠ける等がそれである。奈良絵本「おぐり」はそれに次ぐが、その結末部は都北野に愛染明王結ぶの神と二人は斎われる。他に、古活字丹緑本、寛永頃「せつきやうおぐり」と古本が残るが、前者は下巻のみ、後者は中巻零葉で完全でない。寛文6年・延宝3年整版正本、草子「おぐり物語」(中・下巻)鶴屋版もある。さらに正徳・享保頃刊の佐渡七太夫豊孝本「をぐりの判官」があり、常陸国鳥羽田村正八幡結ぶの神の本地と所を大きく変えて現われる。(159頁)
   
    7.   参考にした書物を、挙げておきます。
 〇東洋文庫243『説経節 山椒太夫・小栗判官他』(荒木繁・山本吉左右 編注。平凡社1973年11月10日初版第1刷発行、1988年4月1日初版第15刷発行) 
 〇新潮日本古典集成『説経集』(室木弥太郎・校注。新潮社昭和52年1月10日発行、平成元年9月5日6刷) 
 〇新日本古典文学大系90『古浄瑠璃 説経集』(信多純一、阪口弘之・校注、岩波書店1999年12月15日第1刷発行)        
   
    8.   全国をぐり連合(フォーラム)公式サイト『をぐり 関連資料ファイルindex』というサイトがあり、「小栗判官物語について」というページや、小栗判官関係の書籍が多数出ている「三木ファイル目録」などがあって、参考になります。  残念ながら現在は見られないようです。    
    9.   『Webup』というサイトに『小栗判官一代記』というページがあり、そこに「小栗判官と照手姫」のあらすじ(全34段)があります。ここには、主人公2人(小栗判官と照手姫)のプロフィールについての、法政大学の田中優子教授の解説もあります。
 お断り: 残念ながら現在は見られないようですので、リンクを外しました。 (2016年9月30日)       
   
    10.  東海大学の志水義夫先生による『六條院』というサイトに『スノークの図書館』「桜壺文庫」があり、そこに「説経をぐりの世界」というページがあります。ここには「小栗判官を読むために─参考文献─」があって参考になります。    
    11.  築西市のホームページの中に、「小栗判官伝説」という紹介記事があります。
  筑西市
   → 観光・イベント
   → 観光施設
   → 築西の伝説
   → 小栗判官伝説 
 「小栗判官まつり」は、毎年12月の第一日曜日に、筑西市で開催されているそうです。
 
 なお、『広報筑西people 』№214(2020年1月号)に「特集小栗判官伝説」が出ていますのでご覧ください。
  →『広報筑西people 』№214「特集小栗判官伝説」
   
    12.  水上勉訳・横山光子脚色『五説経』(若州一滴文庫版・2002年刊)という本があります。ここには、水上勉氏が東洋文庫の『説経節』によって訳されたものを、横山光子氏が脚色された五つの話、「さんせう太夫」「かるかや」「しんとく丸」「信太妻」「をぐり」が収められています。
 また、水上勉氏の『説経節を読む』が、岩波現代文庫に入りました(2007年6月15日発行)。「さんせう太夫」「かるかや」「信徳丸」「信太妻」「をぐり」の5編をとりあげています。
   
    13.   小栗判官(おぐり・はんがん)=伝説上の人物。常陸の人。父満重が鎌倉公方足利持氏に攻められたとき、照姫(照手姫)のために死を免れ、遊行上人の藤沢の道場に投じた。説経節や浄瑠璃に脚色。(『広辞苑』第6版による)    
    14.   説経節(せっきょうぶし)=中世末から近世に行われた語り物。仏教の説経(説教)から発し、簓(ささら)や鉦などを伴奏に物語る。大道芸・門付芸として発達。門説経(かどせっきょう)・歌説経などの形態もあった。江戸期に入り胡弓・三味線をも採り入れ、操り人形芝居とも提携して興行化。全盛期は万治・寛文頃。祭文と説教が結びついた説経祭文の末流が現在に伝わる。説経浄瑠璃。説経。(『広辞苑』第6版による)
 〇五説経(ご・せっきょう)=説経節の代表的な五つの曲目。「山椒太夫」「苅萱(かるかや)」「信田妻(しのだづま)」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」。また、「山椒太夫」「苅萱」「俊徳(信徳)丸」「小栗判官」「梵天国」の五つなど。(『広辞苑』第6版による)
 〇五説経(ご・せっきょう)=説経節の代表的な五つの曲目。古くは「苅萱(かるかや)」「俊徳丸」「小栗判官」「三荘(さんしょう)太夫」「梵天(ぼんてん)国」をさしたが、のちには「苅萱」「三荘太夫」「信田(しのだ)妻」「梅若」「愛護若(あいごのわか)」をいう。(『大辞林』第2版による)     
   
    15.  『国立国会図書館デジタルコレクション』で、『小栗判官一代記』(明治19年8月31日、岡田松之助・刊)や、『小栗判官一代記 全』(明治20年2月14日、村山銀次郎・刊)、『実説 小栗判官』(松林東玉(若林義行)講演・浪上義三郎・速記、明治35年11月30日、春江堂発行)、『絵本 小栗判官一代記』(明治14年9月30日、宮田伊助出版)その他を、画像で見ることができます。    
    16.  『国文学研究資料館』というサイトの「電子資料館」で、『小栗一代記』(鈍亭主人(仮名垣魯文)作・一盛斎芳直(歌川芳直)画)を、画像で見ることができます。    
    17.  『壺齋閑話』というサイトに、『説経「をぐり」(小栗判官と照手姫)』というページがあります。
 『壺齋閑話』
     →  「日本語と日本文化」
     →  「日本の民衆芸能─説経の世界」 
     →    説経「をぐり」(小栗判官)
     →  説経「をぐり」(小栗判官と照手姫)のページ
   
    18.  フリー百科事典『ウィキペディア』に、「小栗判官」の項があります。    
    19.  ミュージカル『オグリ! ~小栗判官物語より~ 』(脚本・演出:木村信司)が、宝塚花組によって公演されました。(2009年5月8日~19日 於:宝塚バウホール。東京・日本青年館大ホール公演は5月26日~6月1日)    








           トップページへ