洛陽城東桃李花 飛來飛去落誰家 洛陽女兒惜顔色 行逢落花長歎息 今年花落顔色改 明年花開復誰在 已見松柏摧爲薪 更聞桑田變成海 古人無復洛城東 今人還對落花風 年年歳歳花相似 歳歳年年人不同 寄言全盛紅顔子 應憐半死白頭翁 此翁白頭眞可憐 伊昔紅顔美少年 公子王孫芳樹下 淸歌妙舞落花前 光祿池臺開錦繡 將軍樓閣畫神仙 一朝臥病無相識 三春行樂在誰邊 宛轉蛾眉能幾時 須臾鶴髪亂如絲 但看古來歌舞地 惟有黄昏鳥雀悲 |
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(注) | 1. |
本文は、新釈漢文大系19『唐詩選』(目加田誠著・明治書院、昭和39年3月10日初版発行・昭和47年3月1日12版発行)によりました。 ただし、訓読は諸種の読みを参考にして読んであります。(伝統的な読み<訓み>には、必ずしもこだわりませんでした。) |
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2. | 訓読の( )の読みは、現代仮名遣いで示してあります。 | ||||
3. |
三好達治氏は、岩波新書『新唐詩選』(吉川幸次郎・三好達治著、昭和27年8月10日第1刷発行、昭和27年12月25日第8刷発行)の中で、少年の頃暗唱していた唐詩が二篇あり、その一つが劉廷芝の「代悲白頭翁」、他が韓昌黎の「左遷至藍關示姪孫湘」であったということです。 そして「代悲白頭翁」の詩について、「今日読んでいささか胸にもたれるような感のある綺靡な甘い作であるが、当時は辞句の美にうたれてただ懜然としたのを忘れない。辞句の美というより、むしろ殆んど字々みな落花のように眼前に入り乱れて品繽然として見えた、その幻覚がなつかしい」と言っておられます。(「懜然」(ぼうぜん)の「懜」(ぼう・りっしんべんに「夢」)は原文には、「りっしんべん」に「瞢」<夢の「タ」が「目」>が用いてあります。) ここには、氏の後年の名作「甃のうへ」に通うものがあるでしょう。 |
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4. |
『古文真宝』前集、巻之六の七言古風長篇に、「有所思 宋之問」として、劉廷芝のこの詩と殆んど同文の詩が出ています。違いは、 3句目「洛陽女兒」→「幽閨兒女」 4句目「行逢」→「坐見」 14句目「應憐」→「須憐」 19句目「開錦繡」→「文錦繡」 最後の句(26句目)「鳥雀悲」→「鳥雀飛」 の5か所です。 これについては、新釈漢文大系9『古文真宝 前集上』(星川清孝著・明治書院、昭和42年2月25日初版発行、昭和47年3月1日11版発行)の「有所思 宋之問」の「余説」に、著者の星川氏が次のように書いておられます。 『才子伝』劉希夷の伝に「希夷嘗て白頭吟を作る。一聯に云ふ、今年花落ちて顔色改まり、明年花落ちて復(また)誰か有る、と。既にして歎じて曰く、此れ語讖(運命の予言)なり。石崇(西晋の人)の謂ふ、白首同じく帰する所と、復何を以て異ならん、と。又吟じて曰く、年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず、と。復歎じて曰く、死生命有り、豈此の虚言に由らんや、と。遂に併せて之を存す。舅(しゅうと)宋之問苦(はなは)だ後の一聯を愛す。其の未だ人に伝へざるを知りて、懇に之を求む。許して竟(つい)に与へず。之問其の己を誑(あざむ)きしを怒りて、奴をして土嚢を以て別舎に圧殺せしむ。時に未だ三十に及ばず。人悉く之を憐む。」とあるが、宋之問程の詩人が、詩句を奪うために女婿を殺したとは信じ難い話である。とにかくこの篇は宋之問の作ではないであろう。『全唐詩』にも、この詩を劉廷芝の集の中に収めてあるから、それに従って改むべきであろう。(同書362頁) |
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5. | 〇劉廷芝 → 劉希夷 〇劉希夷(りゅうきい)(651?~678?)……唐代の詩人。名は庭芝(ていし)、また、廷芝(ていし)、希夷は字(あざな)。人生の哀楽をうたい、重んぜられたが、志行おさまらず、殺された。(改訂新版『漢字源』2002年による。) 〇劉廷芝(651-?)……字は希夷、汝州(河南省)の人。上元2年の進士。従軍・閨情の詩をよくしたが、その調子があまりにも哀苦にすぎて、当時の人には喜ばれなかった。姿容美しく、琵琶をよく弾いた。のちに姦人のために殺された。あるいはその舅の宋之問のために暗殺されたとも言い伝える。伝は旧唐書百九十一。(新釈漢文大系19『唐詩選』(目加田誠著・明治書院)による。なお、この本の巻頭の「唐詩概説(初唐の四傑)」に「(附)劉希夷」として1頁にわたって作者についての解説があります。) |
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