資料297 土井晩翠・作詞「荒城の月」





                   
荒城の月 
   
                                  
土 井 晩 翠

 


 一 春高楼の花の宴
   めぐる盃かげさして
   千代の松が枝わけいでし
   むかしの光いまいづこ

 二 秋陣営の霜の色
   鳴きゆく雁の数見せて
   植うるつるぎに照りそひし
   むかしの光いまいづこ

 三 いま荒城のよはの月
   替らぬ光たがためぞ
   垣に残るはただかづら
   松に歌ふはただあらし

 四 天上影は替らねど
   栄枯は移る世の姿
   写さんとてか今もなほ
   嗚呼荒城のよはの月

 

 

  (注) 1.  上記の「土井晩翠・作詞「荒城の月」の歌詞は、ワイド版岩波文庫『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編、岩波書店・1991年6月26日第1刷発行、2001年4月5日第10刷発行)によりました。
 ただし、引用者が現代仮名遣いを歴史的仮名遣いに改めてあります。        
   
    2.  「荒城の月」の出典は、上掲の『日本唱歌集』によれば、東京音楽学校(蔵板)『中学唱歌』(明治34年3月・共益商社楽器店発行)の由です。同文庫巻末の解説には、「多くは当時、東京音楽学校の教官、学生であったものの新作であるが、中でも、「寄宿舎の釣瓶」(小山作之助作曲)、「箱根八里」(滝廉太郎作曲)、「荒城の月」(滝廉太郎作曲)などは全国の小・中学校で歌われ、また民間でも愛唱された」とあります。
 『広辞苑』(第6版)には、「荒城の月」は「土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲の歌曲。1901年(明治34)刊の「中学唱歌」の作曲募集に当選したもの」とあります。
 なお、『日本唱歌集』によれば、初発表のときの表題は「荒城月」であったそうです。 
   
    3.  この「荒城の月」は、滝廉太郎作曲の歌として、「箱根八里」(鳥居忱まこと・作詞)、「花」(武島羽衣・作詞)などとともに、よく知られています。      
    4.  「荒城の月」の「荒城」のモデルについては、講談社文庫「日本の唱歌[上]』明治篇(金田一春彦・安西愛子編、講談社・昭和52年10月15日第1刷発行・昭和57年7月30日第3刷発行)に、「土井晩翠は、仙台の青葉城、あるいは会津若松の鶴ヶ城だったと言い、滝廉太郎は郷里の大分県竹田の岡城だったといい、それで今では、仙台と会津若松と竹田の3か所に記念碑が立っている」とあります。
 ついでに触れておくと、「荒城の月」の碑は、上の3か所のほかに、富山市の富山城址公園と、岩手県二戸市
(にのへ・し)の九戸城跡(ここのへじょう・あと)にもあるそうです。
 
富山城址公園にあるわけは、「荒城の月」を作曲した滝廉太郎が、小学校1年生の途中から3年生の途中まで約3年間、旧富山城内にあった小学校(富山県尋常師範学校附属小学校)に通ったという縁によるもの、また、二戸市の九戸城跡(くのへじょう・あと)にあるわけは、昭和19年に林檎狩りに訪れた晩翠が、九戸城の悲劇を聞いてみずから筆を執って「荒城の月」を書き残して帰った、ということがあったので、その筆跡をそのまま碑に刻んだということだそうです。
 参考:  (
『松川を美しくする会』 → 「読み物」 →) 「富山で感性を育んだ滝廉太郎」
       
(お断り:現在は見られないようです。) 
 
『日本中世の終焉の場 国指定史跡 九戸城跡』というサイトの
「風渡る、眠れる古城。九戸城跡散策ガイド」のページに、二戸市の九戸城跡にある「荒城の月」の1番の歌詞刻んだ詩碑の写真が出ています。
 なお、東京都千代田区一番町6番地に、東京都指定旧跡「瀧廉太郎居住地跡」があり、そこに「荒城の月」の曲碑が建っているそうです。参考までに千代田区教育委員会の解説を引用しておきます。
 
滝廉太郎居住地跡 滝廉太郎は、この交差点から西に100メートル程の所(一番町六番地ライオンズマンション一番町第二)に、明治27(1894)年ごろから34(1901)年4月まで居住していました。今日でも愛唱されています名曲「花」・「荒城の月」・「箱根八里」・「お正月」・「鳩ぽっぽ」など、彼の作品の多くはそこで作られました。滝廉太郎は明治12(1879)年東京に生まれ、幼少期より音楽に対する才能を示し、同27年東京高等師範学校付属音楽学校専修科(後の東京音楽学校)に入学しました。優秀な成績で卒業した後は、母校の助教授として後進の指導にあたりました。明治34年、文部省の留学生としてドイツのライプチヒ国立音楽学校に学びました。しかし、病を得て帰国し、大分の父母のもとに帰り療養しましたが、家族の手厚い看護もむなしく、同36(1903)年6月29日死去しました。日本の芸術歌曲の創始者ともいわれています。滝廉太郎が、一番町に暮らしていたことを偲び、毎年9月下旬には地元町会の主催で「滝廉太郎を偲ぶ会」がこの場所で開催されています。 平成17年8月 千代田区教育委員会
   
    5.  滝廉太郎作曲のこの「荒城の月」のメロディーについて、ぜひ触れておかなくてはならないのは、滝は、「はなのえん」の「え」に♯(シャープ)をつけているのを、今は、このを取って歌っている、ということです。
 このことについて、上掲の
日本の唱歌[上]』明治篇に、「福井直秋氏は、「荒城の月」は、二部リード形式の典型的なもので、短調にして第二小節に嬰ホの音が用いられているところがゆかしいと言って激賞した。今このを削った楽譜もあるが、それは山田耕筰が編曲したときの改訂である。山田はその時、原曲の一小節を二小節に分け、八分音符を四分音符に置きかえた四分の四拍子の曲とした」とあります。
 確かに、山田耕筰が編曲した形のほうが歌いやすいのかも知れませんが、滝廉太郎が作曲した原曲を大切にしたいという思いもありますが、いかがなものでしょうか。
 ただ、山田耕筰氏の名誉のために蛇足ながら付け加えておくならば、上掲書の解説に、「大正の二大作曲家、本居長世と山田耕筰がこの曲を愛したことは、滝にとって幸せで、二人による別々の変奏曲が出来ている」と、金田一春彦氏が書いておられるように、山田耕筰氏がこの曲の編曲を行ったのはこの曲を愛するがゆえだ、ということも忘れてはならないでしょう。
 なお、『音楽ゆかりの地をゆく』というサイトに、「不朽の名曲「荒城の月」」というページがあり、このに触れてあって参考になります。
   
    6.  語句の注をつけておきます。
 
高楼……たかどの。ここは、城の天守閣などをさしたものであろう。  
 〇花の宴……花見の酒宴。

 〇めぐる盃……次々に手渡される盃。一座の人々の間を回されている盃のこと。  
 〇かげさして……「かげ」は、月の光。  
 〇千代の松……千年を経たような老松。   
 〇わけいでし……分け出でし。分けるように射した。  
 〇むかしの光今いづこ……その酒宴を照らしていた昔の月の光は、どこに行ってしまったのだろうか。  
 〇陣営……敵と対峙している城方の陣屋。  
 〇霜の色……月の光にきらめいている霜をいう。   
 〇数見せて……主語は、月の光。(月の光が)空を鳴いて渡っていく雁の数を見せて。擬人法。  
 〇植うるつるぎ……防備のために城壁や陣の周囲などに逆さに植えてある剣(つるぎ)。こうしたつるぎの防備は、昔、中国で行われた。中国風のイメージである。

 よはの月……「よは」は、夜半。真夜中。
   
 
替らぬ光たがためぞ……人は去り、世は変わり、城の様相は一変したのに、昔と変わらぬ月の光は、いったい誰のためにあるのか。  
 〇垣に残るはただかづら……「垣」は、城の石垣。「かづら」は、葛・蔓で、つる草の総称。原文は「かつら」となっている。   
 〇松に歌ふは……松の梢にそうそうと鳴るのは。擬人法。  
 〇天上影は替らねど……空の月の姿は変わらないが。「影」は、この場合、月を指すと見る。   
 〇写さんとてか……その人の世の姿を写し出して、これが真の人の世の姿であると示そうとしてであろうか。月を鏡にたとえている。擬人法。この「写す」は「映す」がよいと思うが、いかが。
 (以上の注は、次項の参考書のうち、主として『
近代文学注釈大系 近代詩』・『鑑賞現代詩 I  明治』を参照して記述しました。)
   
7.  参考書
 〇関良一・校訂・注釈・解説『
近代文学注釈大系 近代詩』(有精堂、昭和38年9月10日発行・昭和39年12月20日再版発行)
 〇吉田精一著『鑑賞現代詩 I  明治』(筑摩書房・1966年10月20日新版第1刷発行、1968年2月10日第2刷発行)
 〇講談社文庫
日本の唱歌[上]』明治篇(金田一春彦・安西愛子編、講談社・昭和52年10月15日第1刷発行・昭和57年7月30日第3刷発行)
 〇ワイド版岩波文庫『日本唱歌集』(堀内敬三・井上武士編、岩波書店・1991年6月26日第1刷発行、2001年4月5日第10刷発行)
    8.  〇土井晩翠(つちい・ばんすい)=(1871ー1952)詩人・英文学者。仙台市生まれ。本名、林吉。のち「どい」と改称。東大卒。漢語調の雄渾かつ男性的な調べの「天地有情」により、藤村・晩翠時代を形成した。詩集「暁鐘」「東海遊子吟」のほか、ホメロスの翻訳者として知られる。(『大辞林』第2版による)        
 〇土居晩翠(どい・ばんすい)=詩人・英文学者。本名、林吉。仙台生れ。東大卒。二高教授。詩集「天地有情
うじょう」「暁鐘」のほか「イリアス」「オデュッセイア」の邦訳などがある。つちいばんすい。文化勲章。(1871~1952) 
 〇
滝廉太郎(たき・れんたろう)=ピアノ奏者・作曲家。東京生れ。父の任地大分県竹田などに住む。東京音楽学校卒。1901年(明治34)「中学唱歌」の作曲募集に「荒城の月」「箱根八里」などが当選。同年ライプチヒ音楽院に留学、病を得て帰国。歌曲集「四季」(「花」を収める)など。(1879~1903)(以上、『広辞苑』第6版による)

 
 「土井」の読みが、「つちい」か「どい」かについては、いろいろな記述が見られますが、本来は「つちい」、のち「どい」と改称した、というのが正しいと思われます。
 このことについては、電子図書館『青空文庫』の土井晩翠の「作家データ」に、
  「土井」の読み方については、「「雨の降る日は天気が悪い」序」にある以下の附言に従い、「どい」としている。(門田裕志)   附言(一)私の姓を在來つちゐ
[#「つちゐ」に傍点]と發音來したが選擧人名簿には「ド」の部にある。いろ/\の理由でこれからどゐ[#「どゐ」に傍点]に改音[#「改音」に白丸傍点]することにした。特に知己諸君に之を言上する。            
とあるのが、参考になります。『雨の降る日は天気が悪い』は、1934年(昭和9年)9月23日発行となっています。『エンカルタ百科事典』に、「姓の本来の読みは「つちい」だが、1934年(昭和9)、「どい」にあらためることを表明した」とあるのも、この『雨の降る日は天気が悪い』の序によったものと思われます。
(『エンカルタ百科事典』は、現在は見られないようです。2010年2月17日付記)
 ところで、フリー百科事典『ウィキペディア』に、「本来姓は「つちい」だが、1932年(昭和7年)に改称」とあるのは、どういうことでしょうか。姓の呼称を改めたことについて、別の資料があるのでしょうか。
 なお、『大辞林』第2版には、「のち「どい」と改称」とあり、仙台市の公式ホームページの
「名誉市民」のページには、「土井林吉(晩翠)(どいりんきち・ばんすい)」として出ています。(2009年2月13日記)
   
    9.  『日本ペンクラブ電子文藝館』に「土井晩翠」のページがあり、滝廉太郎没後45年祭(昭和22年)が岡城址で挙行された折に会場から放送したものをもとにして書かかれた「荒城の月」という一文が掲載されていて、たいへん参考になります。     
    10.  『Yahoo! 百科事典』に、土井晩翠(どいばんすい)の項があって、参考になります。        
    11.  2014年(平成26年)11月16日の読売新聞日曜版(よみほっと)の「名言巡礼」に、土居晩翠の「荒城の月」が取り上げられました。(筆者は、高畑基宏記者。) 
 記事の中に、「04年に留学 (引用者注:晩翠は1901年(明治34年)から1904年(明治37年)まで、イギリス・フランス・ドイツに留学、ロンドン大学・ソルボンヌ大学・ライプツィヒ大学で英文学・仏文学・独文学を研究した)から戻った晩翠は、34年に63歳で退官するまで仙台の旧制二高で英文学の教べんをとった。いたずら好きの学生から「先生の荒城の月は滝廉太郎の曲がすばらしかったから世に広まったのではないですか」と質問されると、「名曲は名詩にしかつかないものだ」と応じたと言われ、学生たちが慕う名物教授だったと伝えられる」と紹介されています。(2014年11月16日付記)  
   

    
      

      
      

        
 
     

 
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